Fastnacht 34

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 いまだかつて、そんな事態はありえなかった。この国で誰よりも、誰よりもリューシャの身を案じていた再従兄弟が、リューシャに剣を向けるなどとは――。
「ダーフィト」
 人々のざわめきが大きくなった。
 ゲラーシムが、大臣たちが、騎士や衛兵が、民衆が、誰もが彼の名を呼んでいる。
 だがその何もどんな言葉も、今のリューシャの耳には入らない。
 目の前の男の悲痛な顔ばかりが網膜に焼きつけられる。
「ダーフィト!」
 一際よく通る声で、ゲラーシムが息子の名を呼んだ。
 ダーフィトに剣を下ろす気配はない。ただ、リューシャを真っ直ぐすぎるほど真っ直ぐに見つめている。
「……何の真似だ」
 ここで彼の真意を問いただすことは他でもない、彼に剣を向けられたリューシャ自身の役目だ。
 ダーフィトの表情が苦しげに歪む。
「――これが、一番良い方法なんだ」
 呼吸や鼓動の音さえも聞こえそうな、刃のような静寂の中で次代の王位継承者候補同士が話し合う。
 二人の対決はずっと彼ら自身も含めた周囲が望んでいたことであり、また、決して望まぬことでもあった。
 リューシャ=アレスヴァルドとダーフィト=ディアヌハーデ。
 次代の王候補である二人を、周囲は常に対立者と見ていた。しかし当の本人たちには、立場上相対することになる再従兄弟が敵だという認識はなかったのだ。
 それは、リューシャがゲラーシムの罠に嵌まり祖国から逃亡した半年前でさえ同じだ。
 あの時、ダーフィトは父親にして簒奪者であるゲラーシムをとるか、罠に嵌められた呪われし神託の王子、再従兄弟であるリューシャをとるかの選択を迫られていた。
 いくら次代の王に最も近いと言われていても、血統の関係でダーフィト自身はぎりぎり王位継承権を持たない。ゲラーシム自身の力のみでゲラーシムとリューシャの対決を避けるのは至難の業だ。
 和解をさせようにも、もともとこの対立構図はリューシャの神託やアレスヴァルド王族の少なさによる環境的な要因が大きい。
 無力さを噛みしめながらいずれ訪れる避けられない悲劇を思う日々。ついにやって来たその瞬間も、やはりダーフィトには何もできなかった。
「俺は」
 正面のリューシャを見る。そして離れた場所でこの相対を見守るゲラーシムを一瞥する。
「……父を死なせたくないんだ」
 その囁きは本当に小さなもので、すぐ傍にいたリューシャにしか聞こえない。
「――そしてお前のことも、裏切りたくはない」
 ハッとしたリューシャが口を開く前に、すでにダーフィトの通り良い声、先程のゲラーシムにも似た王の声が響き渡る。
 彼は剣を持つ腕こそそのままに、首をめぐらして王都中、その声の届く範囲全てに向けて語りかけた。
「全ての民よ、聞け! 十六年前、リューシャ=アレスヴァルドに下された神託、その真の意味を!」
 どよめきは止まない。次から次へとめまぐるしく移り変わる事態に人々の不安は煽られ続ける。
「ダーフィト、お前何を」
 ゲラーシムが驚きこちらへ駆けようとする。その進路をセルマが塞いだ。
 ダーフィトがリューシャに剣を向けた時には彼女は動かなかった。けれど今、ゲラーシムの行動は止めねばならない。
「……やはり裏切るのか」
 父の寂しげな耳朶を打つ。それでもダーフィトは、己の前言を撤回することはない。
 巡らせた視線をまたリューシャへと戻す。
「――タルティアンで、シャニィディル王子が言っていただろう」
「え?」
「“神として生まれ変わるには、人としての生を終える必要がある”」
 かつて銀髪碧眼だった王子は、死せる大地の神の憑代として生まれ変わった。髪の瞳の肌の色に大地を受け継ぎ、記憶はそのままに新たな存在として肉体を作りかえられたのだ。
「人として死ななければ、神として目覚めることはない。……それで間違っていないか?」
「ああ――そうだ」
 リューシャは頷いた。そして問いかける。
「だからお前は、我を殺すつもりなのだろう。人として」
 リューシャとダーフィトの視線、空の青と水の青が交差する。
 人間としての生を終えねば、神として覚醒することはない。
 リューシャはシャルカントで死ぬような思いをした。その時に破壊神としての記憶と力の一部を取戻しはしたが、それが能力の総てではない。
 総てを滅ぼす者。その総ての力。
 世界を揺るがし、創造の女神の覚醒の鍵ともなる呼び声。
 リューシャの覚醒は世界の滅びと同義語だ。それでもすでに動き出してしまった運命の歯車は止まらない。このまま立ち止まっていることはできない。
「父上はナージュに操られている。自覚もないくらいにじわじわと心を浸食されている」
 この式典が始まるまでにダーフィトは何度かゲラーシムとの対話を試みた。だが全て無駄に終わった。昔の父を知るダーフィトには、今のゲラーシムの言葉はナージュに植え付けられた偽物の感情にしか思えない。
 そこにたった一欠けら、本物の父の心が残っているとしても。
「俺は、お前も父上も、どちらも死なせたくないんだよ。だから……っ!」

 ここでゲラーシムがリューシャを殺せば。
 ゲラーシムにはエレアザル王とリューシャ王子、二人の王族を殺した罰が下される。
 到底許されることのない罪だ。
 そしてリューシャがゲラーシムを殺しても、配役が入れ替わるだけで結果は同じ。
 それらはすべてダーフィトのため。

「――ダーフィト。我は今までお前たちに守られてきたが、思い返せばお前も随分と、誰かに守られてきたな」
 それは父であるゲラーシムであり、リューシャを憎みながらダーフィトには手出しをしないナージュであり、息子の最大の敵をそれでも従甥として可愛がり続けたエレアザルであり、ダーフィトを王にと望む全ての人々である。
「ああ。だがなリューシャ、俺には本来それ程までの価値はないよ。俺はお前が神託の王子だからこそ比較されて持ち上げられるだけの存在。お前の存在あって初めて認識される――お前の影」
 リューシャとダーフィトを比べれば、誰もがダーフィトは光でリューシャが影だと言うだろう。
 しかしダーフィト自身はもうずっと前から、自身の存在はリューシャの影のようなものだと思っていた。そんな自分が果たして誰に本当に心から必要とされ、何を行い遺すことができるのだろうかと――。
 ――ならばこれも所詮は“運命”などと言う安っぽい言葉で飾られた、ありふれた茶番でしかなかったのか。
 脳裏を過ぎる緑の瞳が告げる。自分は行くと。そこが例え誰かに与えられた舞台で、自分が道化でしかないと知っていても。
 光を立たせるために、影にできることとはなんだろう。
 ――我が貴様を必要とする。ダーフィト=ディアヌハーデ。
 あの日、リューシャの手をとった瞬間に、彼のために命を使うことを決めていたのだ。
「父上」
 その顔を振り返らないままに、息子は告げる。
 兵士たちを引き連れセルマの盾をなんとか突破しようとしていたゲラーシムが、瞬間、動きを止めて息子の言葉に耳を澄ます。
「昔のあなたはそんな人ではなかった。もっと真っ直ぐにこの国を、そして全ての人々の幸せを想っていた」
「ダーフィト」
「……だって生まれながらに神託のせいで何も学ばず何も鍛えず、ただ無力たれと育てられるリューシャを守れるように、俺に剣を勧めたのは他でもないあなたなのですから」
「ダーフィト……?」
 ゲラーシムが額を抑えた。じっとりと嫌な汗をかく。息子が語る言葉の中、覚えのない記憶がじわじわと彼を内側から苦しめる。
 その苦しみにあえてまた針を刺すかのように、ダーフィトは声を張り上げる。
「括目せよ! 神意はここにある!」
 ダーフィトは剣を構えなおす。リューシャを真っ直ぐに見据えて腕を振るう。
 ふ、とリューシャが静かに吐息した。零す息のか細さで告げる。
「――お前は、馬鹿だ」
 王子殺し。神殺し。どちらも赦されない大罪だ。
 だからあえて行うのだと。
 人としてのリューシャが消え、ダーフィトが死ねば少しでもゲラーシムの罪は軽くなる。
 何故ならここは神の血を伝える国だから。どれだけ先細っても王族の血は遺さねばならない。
「ダーフィト!」
 ゲラーシムが悲鳴のように息子の名を呼ぶ。
 そして神剣の切っ先が、狙い違わずリューシャの胸を貫いた。