Fastnacht 34

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 真っ赤な滴が弾け、飛び散る。あどけなさすら残すリューシャの顔が、一瞬で苦痛に歪む。
 しかし。
「どうして」
 白い頬を更に蒼白にして苦痛を堪えるリューシャは、自らの胸に埋め込まれた刃を解放しなかった。
 血に濡れた細い指を必死で伸ばし、柄の部分を掴んでいる。刃を引き抜こうとしたダーフィトの動きを押しとどめた。
 ダーフィトは水色の目を見開いて驚愕した。リューシャの判断は、刃を抜けば失血死するからと言った理性による動きではない。彼の行動はただ神剣をダーフィトに手放させるためのものだ。
 リューシャとダーフィトの力など、比べるのも愚かしい程に明らかだ。腕力も握力もリューシャは人並以下。並の騎士以上の実力を持つダーフィトが負けるはずはないのに。
 現にリューシャのほっそりとした、少女のような白い指が剣を掴んで離さない。僅かに引き抜かれたせいでますます引き裂かれた場所から血を落としても。
 この手だけは、離さない。
 むしろダーフィトの方が、動揺のあまり剣を手放してしまうくらいだ。
「リューシャ」
「我はお前に殺されてやるわけにはいかない」
 大振りの神剣に砕かれる勢いで胸を穿たれ瀕死、むしろ致命傷かつ即死級の傷を負ったにしてははっきりとした声でリューシャは言った。
「お前を死なせるわけにはいかない……!」
 ぐっ、と痛みに呻きながら、リューシャは己の内部と外部に繋がる力の制御へと意識を集中する。
 ――あなたは神なのです、破壊神様。
 全知にして全能。望めば不可能など何もない。
「言っただろう……! 貴様の全てを必要としてやると……! 人としての我を殺して、自らは死ぬつもりなど許さない!」
 リューシャの傷口から血ではなく、青い光が湧きだした。
 シャルカントの宮殿を包み込んだのと同じ、リューシャの瞳の色と同じ青い炎だ。
 炎は神剣を包み込み、その形状を崩していく。炎が鋼を溶かすというよりはまるで光に分解されるかのように、神剣が消えていく。
「はっ……」
 苦しげに息を吐くリューシャの中に、その光は吸い込まれていった。全ての光が、青い炎が消えた時リューシャは叫ぶ。
「とくと見よ、これぞ我が正体、この国に伝えられた血の顕現、アレスヴァルドが擁する神」
 望めば傷は塞がる。そして新たに背が裂ける。そこからほぼ白に近い薄青い光が広がりやがて鳥のような翼の形を成す。
 地上に物質として存在していた時は大剣の形をしていた神剣も、本来の持ち主である破壊神の中に還れば形状は問わない。
「我は神々の末子、総てを滅ぼす者、破壊の神なり!」

 凍りついたように全ての刻が止まった。

 ◆◆◆◆◆

 無音の緊張が解けると共に、それは始まった。
「うわっ!」
「地震?!」
 アレスヴァルド全土の大地が揺れ始める。断続的なそれに人々は平衡を失い、支えのない場所に立つ者たちはどんどん倒れていく。
 近くに倒壊するような建物はなく、まだそれほど大きな揺れではない。
 だがこの刻、この場面で揺れる大地はまさしく神の怒りと世界の崩壊を連想させた。
 人々は驚き惑い、悲鳴を上げて何かを畏れる。
 それはリューシャか、他の神々か、形のない全ての神格か。ただ自分より大きなもの、大いなる存在を魂で感じて自然と畏怖するようになる。
「いけませんね……」
 しかしナージュ――否、規律神ナージュストの声と共に、アレスヴァルドは再び無音の静寂に包まれた。
「ナージュ!」
 時が止まったようなその静寂を打ち破るのは、妻の名を呼ぶゲラーシムの声だった。彼だけはナージュストの術にかからず自由に動けるのだ。
 他の者たち、式典に参加した貴族や大臣、警備兵、眼下の民衆までもが皆、ぴたりと、まるで石になったかのように動きを止めているというのに。
「なんだ……なんだこの事態は?! リューシャ、貴様……!」
 何か大きな力が場を支配している。それだけはわかった。それだけしかわからない。ゲラーシムは一人、異常な事態の元凶と目する相手を糾弾する。
「ゲラーシム」
 リューシャは背に広がった翼を隠しもしないまま、彼に歩み寄ろうとした。
 だが、数十歩を残した距離で足を止める。立ち尽くすゲラーシムを庇うように、ナージュがその前に立ち片腕を上げていた。
 リューシャは眉を顰める。血に濡れたままのダーフィトは戸惑いながらも睨み合う三者を見つめていた。
「――我に与えられた神託は」
 ナージュストに阻まれてゲラーシムに近づけないリューシャは、その位置から彼に届くよう声を張り上げた。
 今のリューシャは誰がどう見ても、ただの人間ではない。背に生えた光の翼からは天使という存在が想起されるが、それよりもっと彼に相応しい言葉がある。
「我が、破壊神の生まれ変わりであることを示していた」
「――」
 破壊神。それは創造の女神と同じく、封じられた神。
 眠り続け、その姿もその名前も地上から忘れ去られた古き伝説。
 創造の魔術師・辰砂を殺した者。
 彼が目覚める時、世界が終わる――。
「この国は、神の血を伝える国と呼ばれていた。それがどのような意味を持つのかすでに忘れ去られたこの時代に、ようやくその役目を果たす運命が巡ってきたのだ。その言葉も神託も何のことはない、内容そのものを指していたのだ」
 いまだ動揺冷めやらぬゲラーシムが、唸るように低く問いかける。
「……この国の王家に伝わるのが破壊の神の血であり、貴様がその生まれ変わりだと?」
「ああ」
「そのような話、信じられるものか!」
「事実だ」
 言葉で説明されるだけでなく目の前で非人間的な現象を見せられても、あまりに壮大過ぎる話に心が納得しない。
 リューシャ自身似たような性格なので、ゲラーシムの立場ではそう言うしかないことはわかる。
 だが伝えねばと思った。彼も自分と同じように、この国とその神を巡る運命に翻弄された者なのだから。
「ナージュスト、そこを退け」
「いいえ。退きません」
 ゲラーシムではなくその前に立つ規律神に声をかける。ゲラーシムがその呼びかけに不審を現した。
「ナージュスト……?」
「父上! そいつはこの国の……俺たちの敵なんだよ! あんたをいいように利用し続けただけなんだ!」
 ダーフィトが叫ぶ。彼は初めからナージュを信用していなかった。
「ナージュ……?」
 ゲラーシムは目前の妻の背中に呼びかける。
 ナージュストは振り返らない。ダーフィトの言葉を否定しもしない。
「破壊神……人間などに誑かされ自らを見失った、愚かな末弟よ」
 ゲラーシムの妻ナージュではなく、規律の神ナージュストとして彼は弟神に語りかける。
「お前の覚醒は母神の覚醒と連動し、世界を滅ぼす。今はまだ私の力が影響を抑え込んでいるけれど、永遠にこのままとはいかない」
「……ああ」
 総てを滅ぼす者。
 破壊神はその名の通り破壊を司る存在だ。彼の役目は壊すこと。ただ破壊すること。
 流転の神という性質もあるが、それは破壊を終えてからの話。
「だがナージュスト。貴様は我の目覚めを止めるどころか、むしろ我をアレスヴァルド国外に出し、様々な試練によって促すようにしていた」
「ええ」
 規律神はうっそりと笑う。
「私の目的は、人間の血の中に潜んだお前を再びこの地上に引きずり出すこと」
「何故」
 リューシャは問う。
 自分が、誰もが、知りたかったそれを。
「何故お前は……そこまでして我を目覚めさせた。この力が暴走すれば、世界が滅びると知っていて」
「決まっています」
 ナージュストは笑う。
「穢れを滅ぼし、浄化したいからですよ。この醜く歪んだ世界を」
 皆が言葉を失い息を呑む。その時だった。

「やっぱりね。そんなこったろうと思ったよ」

 新たな人影が、翼もなく天空から地上へと舞い降りた。