Fastnacht 34

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 飛翔の術のためだろうが、薄らと淡い青に輝くその光を纏う姿は、目にする人々に神秘的な印象を与える効果十分だった。
 城の一角にある小さな尖塔の頂上に鳥のようにふわりと舞い降りる。
「辰砂!」
 リューシャは彼の名を叫んだ。
 魔術師嫌いのアレスヴァルド。この地上で最も信仰深いとされる古王国は、創造の魔術師との敵対も激しい。
 辰砂は通常この国に自ら足を踏み入れることは少ない。アレスヴァルドは些細なお伽噺でさえ辰砂という存在に馴染みがない。
 だからこそ、多くの者たちが今、初めて目にするその姿に圧倒された。
 白に近いような銀の髪。紅と青の色違いの瞳をした異相の少年。古き時代の僧侶を思わせるような簡素な長衣に僅かな装身具を身につけ、長い杖を手に持っている。
 如何にもな格好から覗く手足は頼りなく、十代半ばと見える顔立ちにはあどけなさすら残っていた。
 しかし、それらすべての要素が彼という人間の上で相まって、その姿をまるで神以上にこの世の者ではない存在に見せている。
「よぉ。ダーフィト坊や。結構無茶をしたようだね。しかし水臭いじゃないか。神殺しをする時はぜひこの僕を呼んでほしいね」
「辰砂……」
 リューシャの血に濡れたダーフィトの姿を見下ろして、創造の魔術師はにやりと笑った。ダーフィトの行動もリューシャの決意も全てをわかっていてこの台詞だ。
 創造の女神が眠り続ける今、彼女の力を手にして世界の均衡を左右する一角を担う人物。
「さぁて、そろそろこの狂騒に決着をつけようじゃないか。ファストナハトのパレードもクライマックスだ」
「ファストナハト……?」
「謝肉祭ってこと。断食前夜のお祭り騒ぎさ」
 片目を瞑った辰砂が長い杖を持つ手を掲げ合図する。
「やれやれ、やっと出番か」
「結構かかりましたね」
「うわ! リューシャ?! お前、そんな血まみれで」
「でも案外元気そうですね……」
 ラウルフィカが、銀月たちが、シェイやルゥ、ラウズフィールやティーグが、更には彼らと共に行動していたウルリークが、次々とこの場に現れる。
「何者だ! 貴様ら!」
「主神フィドランの妻たる月女神セーファの眷属とその他だ。女神の命を伝えに来た」
「ええ?!」
 ゲラーシムの誰何に対し堂々と名乗りを上げたラウルフィカに、何故か背後のシェイが驚きの声を上げた。心なしかルゥやラウズフィールも唖然としているように見える。
 ラウルフィカの視線は、規律神に向けられた。
「規律神ナージュスト。セーファ神の言葉をそのまま伝える。“そのくらいにして、そろそろ帰ってきなさい”」
「本当にそのまま伝えましたね!」
 緊張感を一気に吹き飛ばす一言に、ウルリークが爆笑した。
「……ベラルーダのラウルフィカ王か。いつの間に眷属に……」
 規律神は直接顔を合わせたことのないラウルフィカを知っていた。しかしセーファの眷属になったことは知らなかったらしく、訝しげな顔をしている。
「私はもう王ではない。それよりも、女神の命だ。従った方が身のためだぞ、規律神」
「人間風情が、セーファの威を借りた分際で偉そうに――!」
 神相手にもまったく畏まる様子のないラウルフィカの態度に、ナージュストの面に罅が入ったかのようだった。白い頬が引き攣れる。
「偉そうにもなるさ。何せ元国王だからな。神だろうがなんだろうが敵対者に対して真正面から喧嘩を売れずして、国王など務まるものか!」
 神を望まぬ王の態度は、実際に神に出会う前も後も変わらない。アレスヴァルド国民からしてみれば泡を吹きそうな程傲岸な態度で、ラウルフィカは規律神を睨み付ける。
 その隣に進み出てきた銀髪の男――銀月が主と師に代わって口を開く。
「規律神ナージュスト、あなたの目的はすでにわかっています。我々だけならまだしも、よもやこの世の総てを見通す月女神の目を欺けるとは思っていませんね?」
 何故地上で無茶ばかりを行う規律神を放置するのかと主神夫妻に尋ねに行った。その時の返答がこれだった。
『だって、あなたたちでなんとかできるから』
 神はまだ人を信じ、人は神を信じている。
 世界は続いていく。
 他でもない自分たちの手で――人間の力で続けさせることができる。
「だからだ」
 仮面のような無表情で、最も人間に厳しい規律の神は憎々しげに言い放った。
「例え破壊神が復活しようと、我らが母神が目覚めることはない。忌々しい創造の魔術師が存在する限り、そして」
 規律神の視線はリューシャではなく、辰砂ではなく、何故かラウルフィカたちの方を向いた。
「どれほどの破壊を、破滅を知ろうともまた一から築き上げる、貴様ら人類が存在する限り!」
「……そうか――」
 リューシャはようやく、兄神のその真意を理解した。
 何故回りくどい真似をしてリューシャをわざわざ破壊神として覚醒させたのか。
 リューシャが世界を滅ぼすと知りながら、その覚醒を止めずにわざわざ祖国への帰還を許したのか。
 それらは全て。

「貴様が滅ぼしたいのは、我でも辰砂でもない、“人類”そのものか!」
「全ての人間を、などと言うつもりはありませんよ。だがそこの背徳神の使徒のような、安穏とした日々を引き裂く有害な連中をまとめて葬りたい。そうすればこの世界はもっと良くなるのに」
「そんなことは貴様の勝手な言い分だ!」

 リューシャは憤慨する。ナージュストの言い分に、それが仮にも神の名を持つ者の考えかと。
 彼の言葉は、遥か昔海辺の村を滅ぼした秩序神の身勝手と同じもの。それも秩序神の行動より更に性質が悪い。
「破壊神が目覚めても、世界など滅びない。辰砂を今更殺したところで、母神が還ってくるわけでもない。けれどそれだけのことを行えば、世界は歪んだ熱量によって崩れた均衡を戻そうとする力が働く。自浄作用によって、大地は崩れ海は沸き立つ」
「そんなことはさせません!」
 叫んだのはルゥだった。かつての豊穣の巫覡、今は大地神シャニディオールの眷属となった人間だ。
「規律の神よ、あなたの野心を阻むため、大地神様は兼ねてより心を砕いておりました! 例えあなたがどう足掻こうと、この大地は揺らぎません!」
 もはや規律神がリューシャの力を抑え込まずとも、先程の一瞬引き起こされた地震は鎮まっている。ここに姿こそ見せないが、ルゥがやってきたのと時を同じくして大地神も動き出していたのだ。
「大地は憑代を得て確たる力を振るうことが可能となった大地神シャニディオールが支える。海は海神アドーラが創世より温存し続けた力を放出して安定を図る」
 規律神の反論を先読みして、辰砂が告げた。
「お前の望む世界は永遠に来ない」
「ふ、ふふ」
 それでもまだナージュストは笑う。
「それはどうでしょうね」
 その視線がリューシャに――神剣の奪取によって力の大部分を取り戻した破壊神へと向かう。
「世界の安定を図るために、あなた方は様々な手札を用意してきた――。けれど、一度それを使いきってしまえばどうなります? 例えば」
 すっと白魚の指先が持ち上がる。纏う雰囲気とは裏腹にその表情ばかりがどこまでも穏やかだ。
「破壊神が己の生命維持に精一杯になる程の重傷を負うとか……ね」
「辰砂!」
 炎が舞った。
 人間の魔術師のような道具や予備動作はいらない。例えるなら鎌鼬のような規律神の一撃を辛くも防ぎながら、リューシャはこの状況を打開する唯一の人の名を呼ぶ。
 結果がどうなるかわかりきったこととはいえ、規律神は破壊神と戦う気だ。ならばこのままではまずい。
 いくら破壊神が天界最強と謳われようとも、それは力と記憶に欠落のない万全の状態でのことだ。
 最後の一欠けらは辰砂が持っている。
「我の名を返してくれ!」
 それはもはや世界から忘れ去られてしまったもの。永い永い年月の中、眠り続ける神の名は人々に伝えられず、ただ時の狭間に消えて行った。
 けれど辰砂は覚えている。
 あの日、あの時、海辺の村で共に過ごした存在のことを。
 総てに裏切られた日、最も激しく自分を傷つけた憎い相手のその名。だからこそ――何度生まれ変わり新しい記憶を積み重ねようと、これまでずっと忘れなかった。それを今。
「今こそ還そう。この地上の人間で僕だけが知るその秘密。時の彼方に忘れられた記憶。破壊神――その真の名を」
 辰砂はひとつ息を吐く。

「――“イリューシア”」

 リューシャは夢の中、彼の笑顔を思い出した。
 ――おいで。イリューシア。
 青い青い海辺の村で。差し伸べられた手と共に、愛しい声で呼ばれたその名を自分はもう失わない。

「神々の末子、流転を司る破壊の神、その名は“イリューシア”」

 この瞬間、破壊の神は己の総てを取り戻したのだ。