Fastnacht 35

第6章 神の帰還

35.総てを滅ぼす者

137

 一度自らの内側に封じ込んだ神剣の力を、剣のみならず籠手や鎧として装着しなおす。 あの剣は破壊神の封じられた力そのものだった。地上においてはその役割に望まれる通り王の剣として相応しい形をしていたが、真の持ち主のその手に戻った今では別だ。
 リューシャが持つには大きすぎた剣ではなく、もっと華奢な細剣と身を包む防具へと姿を変える。その背の薄青い翼と相まって、ようやく破壊の神がその真の――天界最強の闘神としての姿を現した。
 そして規律神も人間としての仮面を脱ぎ捨てる。
 神官風の装束はそのままに、自らの身を鎧で包む。“ナージュ”の面差しを残したまま性別が変化する。
 彼は規律神ナージュストだ。
「ナージュ!」
 妻のすぐ傍にいたゲラーシムは、その変化に驚愕しながらも妻の肩を掴んで振り向かせた。
「さようなら、ゲラーシム」
「ナージュ、お前は――」
 だが帰ってきたものは、別れを告げる言葉と、どこか寂しそうなその笑顔だけだった。
 かつてディアヌハーデ公爵夫妻と呼ばれた者たちが別離のやりとりを交わす中、リューシャはこの場の総てに向けて声を張り上げた。
「聞いての通りだ! 我は破壊の神イリューシア! 人として、リューシャ=アレスヴァルドとして生きた仮初の生を捨て、天に還る!」
 リューシャは他の者たちと共に驚いているダーフィトに告げた。
「ダーフィト=ディアヌハーデ=アレスヴァルド」
 国の名を主姓とした並びで名を呼ばれ、ダーフィトが目を瞠る。
「エレアザル王は死に、ディアヌハーデ公爵ゲラーシムは罪人となった。そして我は天に還る。だから次の王はお前だ」
「リューシャ……」
 わかっていたはずのことでも、いざこうしてその場面になると心が受け入れられない。ダーフィトはそんな顔でリューシャの言葉を聞いていた。
「人として最後の責務を果たそう。我、リューシャ=アレスヴァルドは王位継承権を放棄する。ダーフィト=ディアヌハーデ=アレスヴァルド王よ。――後は任せたぞ」
「そんなこと言ったってさ……」
 ダーフィトの水色の瞳に涙が浮かぶ。
 似たような場面をつい数日前隣の国で見ていた。あの時の彼らがどうなったのか、すでに知っている。
「お前はどうせ、この後みんなの記憶を消してしまうんだろう……? タルティアンの誰もがもう、シャニィディル王子を覚えていないように」
 これが最後なのだと、わかっていた。
 神となった人間は、人としての生の総てを地上に置いていくことになる。皆の記憶から忘れ去られる。
 それはリューシャを生まれながらに知るダーフィトでさえ例外はない。
 そしてダーフィトは置いて行かれるのだ。
 運命というものが再従兄弟を連れ去って帰してはくれない。
 だったらこれまで共に過ごした時間は? 交わした言葉や失われてしまう想い出には何の意味があったのかと。
「……今までずっと、ありがとう」
 リューシャは王子としてではなく、ただの再従兄弟としてダーフィトに告げた。
「我はお前がいてくれたから、この国で生きて来れた。国中全てを敵に回しても、たった一人味方がいてくれれば心強いのだと知った」
 それは破壊神がかつて辰砂にしてやれなかったことで、“リューシャ”として生まれ変わった今ようやく知ったことだ。
「王になれダーフィト。我は人としても、神としてもそれを望む。これまでのアレスヴァルド王族として数えられないお前が王になるからこそ、この国はようやく定めから解放される」
 アレスヴァルドはもう神の血を伝える必要はない。
 全ての真実が明らかになったからには信仰を固持して魔術師を排斥しなくてもいい。
 リューシャがこの国から奪い取った存在意義。それはアレスヴァルドがいつか眠りより目覚める破壊神の揺籃として存在するということ。
 失ったそれを、もう一度新しく作り出してほしい。
 いつだって神は壊し、人間は創造をやめないものだから。
 だからリューシャは人類を間引こうとする規律神を止めなければならない。蘇った神の力を手にして。
「ここでお別れだ」
 ダーフィトの腕がリューシャをぎゅっと、幼子にするように抱きしめた。
 九つも年下で不吉な神託を受け生まれながらに苦難を宿命づけられていて、それでも決して心折れることのなかった再従兄弟。父に言われるだけではなくダーフィト自身も彼を守らねばとずっと思っていたのに、もうそんな必要はないと。
「リューシャ……!」
 涙を流すダーフィトの耳に、竪琴の音が聴こえてきた。
 その音は、歌は、風に乗ってどこまでも広がる。一音一音に魔力を込められた歌声だ。耐性の弱い者から次々に眠りに落ちていった。
「セルマ……」
 ぱたりぱたりと、また誰かが倒れていく。即座に昏倒するのではなく、穏やかな眠りに落ちていく。
 もはや式典会場中で意識を保っているのは彼らだけだ。神と創造の魔術師と、神の眷属たち。
 ダーフィトはそうではない。リューシャという破壊神をどれ程見知っていようと、ダーフィト自身は人として生まれ、どこまでも人として生きていく。
 魔術師がいないため魔術に抗う術も知らないアレスヴァルド人たちは、その歌声に負けて眠りにつく。
 竪琴を奏でながら歌っているのはセルマだった。とうとうゲラーシムが膝を折った後、彼女はダーフィトのところまでやってくる。
「お前も眠れ、ダーフィト」
 最後まで抵抗し続けるダーフィトの耳元で、幼子をあやすように優しく囁いた。
「次に目覚めた時には、全部終わっているから……」
 忘れてしまうのだろうか。全部。
 ずっと一緒に生きてきた再従兄弟のことも。その護衛騎士だった彼女のことも。
 この旅で新たに知ったことや考えたこと、出会い、別れ。無力さに歯噛みし、力の限り奔走し、自らの信じる道を追い求めたことを。
「……忘れたくない」
 それでもしんしんと染みる歌声が、無慈悲なまでの眠りにダーフィトを突き落とす。

 ◆◆◆◆◆

「セルマ」
 最後のアレスヴァルド人、ダーフィトが眠りについたのを見届ける。
 そしてリューシャは自らの人生の半分の時間を共に過ごした騎士の顔を改めて見据えた。
「セルマ……いや」
 紫紺の髪に橙の瞳を持つ女に、もう一つ別の面影が重なる。
 いつも夢の中で聞いていた竪琴の音と歌声の主だ。
「アディス。お前は……アディスだったんだな」
 にっこりと彼女は笑う。それはリューシャにとって見慣れたセルマの笑みにも、いつか破壊神に竪琴を聴かせてくれたアディスが浮かべた笑みにも見えた。
「そう……私はかつてあなたに拾われたセルマ=メイフェンであり前世で背徳神の巫覡の片割れであったアディス=アルナグム=アルシャマーリでもあります」
 知らなかった。気づかなかった。
 それでもこの八年の月日を、王子と騎士として共に過ごしてきた。
「お前は……それでいいのか? 過去の記憶を取り戻しているのだろう」
「ええ、まぁ。でも、いいんです」
 リューシャ自身があれだけ前世の記憶に執着したのに比べればやけにあっさりと、セルマは己の転生前の人生を切り捨てる。
「理由はウルリークと同じようなものですよ。今が大切だから、生まれる前の人生を取り戻したいなんて思いません」
 セルマは前世での片割れをちらと一瞥する。そのことすらもう知っていたのかと、リューシャはもはやただ単に感嘆するだけだった。
「ん? 同じって……?」
 辰砂が不思議そうな顔をしているが、説明は後回しだ。
 望めばラウルフィカや銀月たちと同じく神の眷属にもなりうる素質を持っている二人だが、今こういう話をしているからには、少なくともセルマに関しては地上に残るつもりなのだろう。
「リューシャ殿下。私は殿下に会えて、幸せでした。暗殺者として人を殺す術だけを磨き、目的もなくただ生きていただけの私に人としての意味と価値を与えてくださった」
 セルマがリューシャに出会った年齢は、前世で言えばアディスが秩序神に殺された頃だ。
 だから彼女はそれ以前の人生にもともとあまり価値をおいてはいなかった。そしてアディスが生きられなかった十八歳からの年月を、リューシャの騎士セルマとして、この時代で存分に生きた。
 もう過去には還れない。
 人として地上で生きることを選ぶ。それ故にここでリューシャと別れることになったとしても。
 微笑む姿に、リューシャは過日タルティアンで別れたラーラの姿を思い出す。自分は好きな女性とは必ず生き別れるのも定めのうちなのかとぼんやりと思った。
 過去の絆に縋るのではなく、地に足をつけて今を生きることを選んだ人たち。
「もう殿下に騎士は必要ないでしょう。でもどうか忘れないでください。人間だった頃も、あなたを守りたいと望んだ私のような者がいたことを――」
「ああ」
 リューシャは一度だけセルマに抱きついた。姉のように愛していた女騎士に告げる。
「ダーフィトをよろしく頼む。あれは我にとって兄のような存在だから……頼む」
「ええ。必ずや」
 いくつもの絆を得て、いくつかの絆を断ち切って。
 色褪せない笑顔をその瞼に焼き付けて、神は天へと還る。