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「ここで皆を巻き込むわけには行かない。場所を移すぞ」
「ああ」
リューシャと規律神は天へと昇って行く。地上で使うには大きすぎる力を発揮するために、この世ではない空間を通り抜ける。
これが最後の戦いになると、お互いにわかっていた。かつて秩序神の掲げる正義が暴走し、全てを巻き込んで破滅させたその時から、いつかはつけねばならない決着だった。
道ならぬ道を渡っていく。第七感を超えた第八感の世界に向かい、昇りながら潜っていく。
言葉の上では天上と呼ばれるその場所は、しかし本当に空の上にある場所とは違う。魂から繋がる世界の奥深くへ潜ることによって辿り着ける場所。
その途中で。
「……迷った、のか?」
先行する規律神についていったはずのリューシャは、いつしかどことも知れぬ空間に辿り着いていた。
やはり破壊神の能力全てを取り戻したばかりで慣れないことをするのは無理があったのか。
思わず脱力しそうになる体を叱咤し、黄金の霧の中を歩いていく。
――誰かが呼んでいる。
そんな気がした。
ここはすでに地上でも現世でもない。時間の進みも曖昧なのだから、少しばかり寄り道したところで決闘に遅れることもないだろう。時の環を手繰り寄せて丁度良い時に規律神の前に姿を現せばいいだけだ。
すでに常人の感覚ではないそんな考えでリューシャは雲の上を歩いていく。
――どこだ? ここは……。
何故か酷く懐かしい。
「リューシャ」
誰かが名を呼んだ。
今のリューシャは破壊神が闘神として振る舞う際の装備をしているため、いつものアレスヴァルドの王子としての格好とは少し違う。けれどその人は、過たずリューシャをリューシャと見分けた。
「あ、ああ……どうして……!」
「待っていたよ。リューシャ」
それもそのはずだ。
似たような髪の色に同じ色の瞳。
「父上……!」
エレアザル=アレスヴァルド。
半年前、ゲラーシムの手によって殺されたはずの父親がそこにいた。
「父上、父上……」
リューシャは反射的に、幼子のように父に向かって駆け寄った。
「父上……どうして……」
自分で口にしながら愚かしい言葉だと思った。
ここは現世ではない。第七感から第八感へ通ずる、生と死の向こうの世界。
すでに亡くなった父と会うには、そんな場所でもなければ不可能だということだろう。
涙がこみ上げてきた。
ゲラーシムを殺さず、生きて罪を償ってもらう。その采配は次の王であるダーフィトに任せる。
リューシャ自身がそう決意したことに間違いはない。
けれど、それでも。優しかったこの父を殺したのはゲラーシムで、そうさせたのはリューシャが破壊神の生まれ変わりであるという事実のためだった。
何の責任もないことで、ただリューシャの父親であったというだけで、エレアザルは殺された。
「おお、殿下」
「お久しぶりでございますなぁ」
「大神殿の神官たち」
エレアザルは一人ではなかった。彼の背後には白い神官服を纏う老人たちがいる。
彼らはあの日、エレアザルと共に殺された神官たちだ。どの顔も見覚えがある。リューシャが生まれてからも毎年毎年、神の声を聞きその託宣を届け続けた神の使徒たち。
「待っていたよ、リューシャ。あちらへ行く前に、一目お前の顔を見ておこうと思ってね」
「父上」
エレアザルがリューシャを抱きしめる。
「リューシャ殿下としてだけでなく、破壊神様の御顔を拝見できるのはここだけですからねぇ」
「陛下の御望みが叶ってよろしゅうございました」
「皆、全てを知って……!」
当然のようにリューシャの抱える事情を口にした神官たちに、リューシャは唖然とする。
「伊達に長く神の膝元にお仕えしていたわけではありませんよ」
「セーファ神より、それらのことを我らはいち早く聞いておりました」
「リューシャ殿下の運命が動き出すこと」
「そしてその真の意味を知るのは、全てが終わる今日この日ということを」
「我らはここに来てセーファ神よりあの御託宣の真意を聞かされたのです」
五人の神官たちが代わる代わる口を開く。
リューシャは耐え切れずに叫んだ。
「だったら……どうしてその運命に抗わなかったんだ!」
神託によって未来を知るということは、己の能力次第でその未来を変えることができるということだ。
王位継承問題に巻き込まれて殺されるとすれば、まず間違いなく動くのはゲラーシムしかいない。それを予測できないような彼らではない。
「リューシャ」
父の腕がリューシャを抱きしめる。
何度もその手に抱きしめられたとはいえ、それは幼い時の話だ。今こうして、十六歳にもなって父親の腕の中にいるなどという状況は酷く不自然で……けれど何より懐かしくて安心できる。
リューシャが殺したのだ。彼らを死なせたのだ。自らの宿命に巻き込んで。
シャルカントのスワドやレネシャ、タルティアンのクラカディルなどとは事情が違う。エレアザルと五人の神官の死の理由を作ったのは本人たちではなくリューシャだ。
「殿下。御自分を責めるのはおやめください」
「そうですよ」
「我々は、自ら納得してこの道を選んだのです」
「あの時を何度やり直す機会を与えられようと、結局はたった一つのこの道を選ぶのです」
「それが――運命と言うものでしょう」
父親までがリューシャの頭を撫でながら告げた。
「お前が悲しむと知っていて、それでも私はどうしても会いたかったんだよ。本当の息子に」
王として相応しい決断を下すのであれば、リューシャに対しての態度はもっと別なものになっていただろう。
エレアザルはそうしなかった。
王であることより、神の転生体として生まれてきた息子の運命を見守ることを選んだ。
エレアザル王よりゲラーシムの方が王に相応しいという周囲の意見は間違いではない。
神の意志に従って命まで投げ出す。これは王というよりも、むしろ神官や巫覡の考えだ。
エレアザルは誰よりも王らしくなかった。だが、だからこそ神の血を伝えるアレスヴァルドにおいて、生まれ来る神の父親として存在していた。
「最期に会えて良かった。神託の神に感謝せねばな」
「そうそう」
「まさか地上より喪われたと伝えられていた破壊神様をこの目で拝むことができるとは」
悲惨な死を遂げたはずの彼らの表情は、そんなことをまるで感じさせぬほど明るい。
その暖かさにリューシャはただ泣きそうになる。
憎んでくれても良かったのだ。お前のせいだと、罵ってくれて良かった。
まるで夢のような再会ではあるが夢ではない。今のリューシャならわかる。わかってしまう。それが神になるということだった。
「……父上」
今言わなければもう二度と伝えられない言葉を口にする。
「我は……我を無力で無能な王子として育て上げた父上を、恨んでおりました。そんな中途半端なことをするくらいならば、どうして生まれたその瞬間に命を絶ってくれなかったのかと」
本心だった。命を狙われたり物陰に引きずり込まれて暴行されたりと、神託のせいで理不尽な目に遭ってきた時何度も何度も考えたことだ。
それと同時に、思っていたこともある。
「それでも……それでも我は、父上の子に生まれてきた良かった」
エレアザルは空色の瞳を見開いた。リューシャの瞳も、この父親譲りの色彩だ。
彼の子として生まれて来たから、今のリューシャが在る。無力で無能な王子として育てられ、やがて破壊神として覚醒した自分が。
父は微笑んで告げる。餞の寿ぎを。
「いつまでも、お前の幸せを祈っている。リューシャ=アレスヴァルド。そして破壊神よ、この世界は、あなたの望みのままに」
お互いを抱きしめた腕がするりと溶けていく。
このまま天へ向かう彼らと違い、リューシャにはまだやることがあるから。
――さぁ、行こう。
「ああ」
自分の中の自分が語りかけてくる。
いつから“私”は自分のことを“我”と呼ぶようになったのだろう。
もう考える必要のないことだ。リューシャもイリューシアも自分自身なのだから。
「行っておいで、リューシャ」
「行ってきます、父上」
リューシャは夢幻の霧の中を駆け出した。