Fastnacht 35

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 黒雲の下、雷鳴が轟く。
「どこかで覚えのあるような景色だな」
「戦いやすいだろう。こういう場所の方が」
 リューシャが規律神を追いかけて辿り着いた世界は、遥か下方に森が見える上空だった。太陽の光も届かぬ曇天の下。ここはあくまでも精神世界であって現実ではないが、そういう状況をどちらかが、あるいはどちらもが望んでここまでやってきたのだ。
 リューシャが破壊神として、かつて神々に反逆した辰砂を討ったのもこのような場所だった。今の格好がその時とほぼ同じということもあり、自然と眉根が寄せられる。
「……止める気はないのか、規律神」
「あると思うか? ここまで来て」
 この男のやっていることは、行き場のない虚しい復讐、すなわちただの八つ当たりだ。
 かつて地上から神々が去る切欠となった辰砂の反逆。あの戦いで愛しい者を失ったのは、仲間を殺された辰砂や己の民を守れなかった背徳神、辰砂を殺す役目につかされた破壊神だけではなかった。
 規律と秩序。二柱で一対の神。規律神は妹神である秩序神ナーファを失った。
 彼女は辰砂を使って神々に謀反を起こした背徳神と共に常闇の牢獄へと引きずり込まれた。彼らが今もどのような気持ちで永遠に明けぬ夜にいるのか、リューシャにはわからない。
 半身を失った規律神は妹神を求め、その切欠となった人間たちを憎んだ。もともと背徳神の民は規律や秩序という彼らの領分の外側に生きる者たち。
 異端者たちに鉄槌を与えた妹神を失い、その後の日々を規律神がどのように過ごしてきたのかもリューシャは知らない。
 あの時、破壊神が人間として生まれ変わることを選んだのは、自分が最後まで理解してやれなかった辰砂の想いを知りたいということの他にもう一つ理由がある。
 彼のいない世界で喪失を抱えてただ生きるのが破壊神には辛かった。だから――自分で自分を封印することを選んだのだ。いつ醒めるとも知れない眠りに。
 破壊神がそうして逃避を選んだのとは違い、規律神はそれでも神としての責務を果たし続けた。
 規律は人間が作り人間のためにあるもの。
 人間なくして存在しえない神。それが規律神。
 十二分に知りながら、規律神は人間を憎む。
 もはや自分でもどうすることのできない感情に流される。神と呼ばれてはいても、所詮自分たちは……。
「さぁ、剣を抜け。裏切り者の末弟よ」
「……」
 リューシャは細剣を手にする。
 剣と言ってもセルマやダーフィトのように本当にこれを振り回して戦うわけではなく、あくまでも神力を扱う補助とするだけだ。
 転生前の破壊神なら剣術もできたろうが、今のリューシャには無理だ。精神で扱う魔術はともかく、人間としての肉体はその頃覚えた能力を超えることはない。
 なんて不便で脆弱な肉体。大地神は憑代を得て安定したが破壊神は人の器に縛られることによって弱くなった。
 けれどリューシャはそれを悔やむことはない。
 このようにしなければ、知ることの出来なかった想いが無数にある。辰砂を想う時の胸の痛みも、彼に触れた感触も、全部人間になったから知ることができた。
 それを今も知らない規律神を憐れだと思ってしまうくらいには、リューシャは満たされている。
 否……本当にそうだろうか。
「ナージュスト」
 兄の名を呼んだ。
「貴様の望みは、本当にこんなことなのか?」
「くどいぞ、破壊神。私には他の目的などない。この世界の規律を脅かす全ての者を排除し、母神にこの世の正しき姿を取り戻してもらうのだ」
「創造の力を奪うために人類を間引くと言うのか」
「そうだ。法も律も守らぬ無秩序な愚か者どもは残らず冥神の下へと送りつけてやる」
「……ゲッセルクから苦情が来るぞ」
 世界は歪んでいると彼は叫ぶ。だがそれは彼の歪んだ目が世界を歪めて映すだけ。
 それでも彼はアレスヴァルドを離れる際、これまで散々利用し続けていた一人の男に別れを告げていたではないか。
「ゲラーシムは」
 その証拠に彼はリューシャが口に出したその名に反応する。ぴくりと柳眉を跳ね上げるのを確かに見た。
「あの男は、少なくともお前に心を許していたのではないか?」
 単に規律の神という目から見れば、ゲラーシムという男がその加護を受けるに値する存在とは思えない。彼はリューシャを排除するために様々な策を巡らし、他者を害して不正に玉座を乗っ取ったのだから。
 けれどナージュストは“ナージュ”に姿を変えてまでゲラーシムの傍にいた。愛息であるダーフィトにさえ離反されたゲラーシムの、最後の共犯者となっていたのではなかったか?
「……ああ、そうだ」
 この半年かそれ以上か。ゲラーシムと過ごした時間を思い返す規律神の瞳に複雑な感情が過ぎる。
「……可哀想なゲラーシム。性根は誰よりも真っ直ぐなのに、あのような立場に生まれてしまったために手を汚さざるを得なかった」
 悲哀から次第に怒りと言う名の熱を帯びた視線が、やがてはリューシャの方へと向けられる。
「それも全ては――破壊神、貴様の責任だろうが。貴様という存在が数多の人間たちの運命を歪めた。違うとは言わせぬぞ」
「……やれやれ。そう解釈するか」
 事態の責任を全てこちらに被せてくる規律神の言葉に、リューシャは鼻を鳴らす。
 どうあっても戦いは避けようがない。
「おしゃべりはここまでだ。――行くぞ」

 ◆◆◆◆◆

 同時に飛び掛かる。
 剣を振るうにも術を放つにも、相手にある程度近づく必要がある。
 互いに背に翼を生やした二人は、自在に空を飛んで近づいては離れ、飛び込んでは押し返されを繰り返す。
 二人の放つ術の余波で、曇天の下にますます雷鳴が轟いた。
 青白い雷光が二人の蒼白な顔色を照らし出す。だが今にも泣き出しそうな空は必死で涙を堪えているようだった。――せめて、この戦いの決着がつくまでは。
 そしてそれはそう遅くはならない。
 リューシャの放つ青い炎は滅びの力。それを真正面から受ければ神だとてひとたまりもない。
 そしてリューシャ自身、他の術はともかくこの力に関してはそう乱発はできない。シャルカントの宮殿を燃やした時と同じく、大きすぎる力はいまだ手に余り制御を外れてしまうのだ。
 十二分に機会を狙って威力を絞って、それでも効果は絶大だ。他の術は受け流す規律神もその青い炎だけは長い髪の一筋にも触れぬよう避けるのだから。
 力の大きさが強さに直結するわけではないが、それでも破壊神の力の大きさは絶対だった。
 針の礫を即席の盾で受け止めながら、リューシャは考える。
 左手に破壊の力を宿す。青い炎はリューシャ自身の手を傷つけることはなく、ただその場所で存在を誇示するように燃え上がった。
 規律神がそれに反応し、射殺すような視線をリューシャに向ける。視線は左手に集中している。
 左手の炎を投げつけると見せかけて、リューシャは規律神の視線がそちらに集中している間に右手に別の力を集めていた。何の変哲もないただの炎――だが、神が集めたそれの熱量は半端なものではない。少なくとも人の似姿をとる神に人で言えば致命傷を与えるには十分な威力だ。
 警戒していた方とは逆の手から攻撃を放たれた規律神は咄嗟の反応が遅れた。
「!」
 威力の幾らかは規律神の生み出した盾で相殺される。しかしそれこそがリューシャの狙いだった。
 盾を構えた規律神の背後に回り込み、先程左手に宿した滅びの力を撃ちこむ。
 急所は狙わない。だがそれで十分だった。当たったのは左腕。規律神は青い炎が燃え上がる前に、自らの腕を斬りおとす。
 そのまま破壊神の滅びの力に焼かれるよりはその方が余程被害が少ない。後々のことを見越せばその判断は正解だ。
 だが今は戦いの最中であり、規律神が腕を落としたその時にはリューシャは準備を終えている。
 先程放った炎と同じくらいの威力をかき集めた攻撃を、片腕を失った規律神にぶつける!
 すでにバランスの取れない体は、その一撃を避けることができなかった。
「ぐぁ……!!」
 短い悲鳴を上げた体が遥か彼方の地面へと落下していく。ここは現実ではないので本当にそれで死んでしまうということはないが、もう彼に自力で這い上がる力はないだろう。
 リューシャは息を吐いた。
 やったのは自分だというのに、まるで実感がない。
「終わった……のか?」
「御苦労さま」
 突如としてかけられた声に振り返れば、銀髪の少女が微笑んでいる。リューシャに一言労いの言葉をかけた月神は、そのまま高度を落として規律神を拾いに行ったようだ。
 黒雲が晴れて、陽光が差し込む。光の道ができていた。
 太陽の光は主神フィドランの恩恵。
 帰り道がそこにあった。