Fastnacht 36

第6章 神の帰還

36.廻る世界

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 堕ちていく。真っ逆様に。
 物理法則が支配する現実空間ではないというのに、脳が覚えた重力に従って自然と体が落下していく。
 人間は空を飛べないのだ。当たり前に当たり前すぎる話だ。
 その当たり前を神威だの奇跡だのという言葉で覆い、視覚的に翼に「見える」力を放出して空を飛ぶのであれば、やはりその力が潰えれば堕ちるしかない。
 当たり前のことだ。
 わかっていたことだ。
 いくら闘神の性質を多少なりとも含むとはいえ、規律神では戦闘に特化した破壊神に勝てるわけがない。わかっている。それでも挑まずにはいられなかった。
 あまりにも非合理的だ。
 負けるとわかっている勝負を仕掛けるなんて愚か者のすることだ。
 そこで勝てたら“奇跡”と呼ばれるのかもしれないが、予想通りに負けてしまえば尚更己の愚かさが目立つばかりだ。
 それなのに挑まずにはいられなかった。
「くっ……」
 僅かな苦鳴が漏れては風の音にかき消されていく。
 自ら斬り落とした腕の傷よりも破壊神に攻撃をぶつけられた箇所の方が痛む。その痛みの差がそのまま実力の差。戦闘技術で劣っているわけではなく、純粋にただの力の差。
 天から与えられた力の差。
 人のように努力や技術でどうなることもない、絶対的な、絶望的な。
 眼下の森に吸い込まれるように頭から落下していく。天地が逆転し、もう頭上に空はない。黒雲が道のように裂けた隙間から光の道が破壊神に降り注ぐ。だが自分はあの道には辿り着けない。
 わかっていた。
 何をしようと、完全に無駄なのだと。
 破壊神は必ず蘇る。創造の女神は眠り続ける。自分は……自分が何を足掻こうと、この世界の熱量の均衡を調整する重大な役割は、只人でしかないはずの辰砂が完璧にこなすだろうと。
 ならば、自分がここにいる意味は一体何なのか。
 力こそが全てで、力さえあれば何をやっても許される? そうではない。ないはずだ。そのための規律だ。人がよりよく生きるためには、法を守り相互扶助の精神を持って秩序ある生活をすることが……
 だが、その世界を作るのに規律の神も、秩序の神も本来は必要ないとしたら?
 彼らが生まれる前からすでに世界も人間も存在していたというのに。最後の神である破壊神。彼は人間である辰砂より年下だ。
 辰砂と破壊神が相討ちになった。創造の女神は辰砂に名を奪われた。破壊神が目覚める時世界が滅びる。
 すべて嘘だ。神々に、人々に、後世にとって都合が良いだけの偽りの神話。
 いくつかの真実を含みながらいくつもの事実を、釦を掛け違えるように捻じ曲げて。
 地面に激突する寸前、落下の速度が突如として弱まった。ふわりとやわらかな浮遊感に身を包まれ、ゆっくりとその場を漂う。
「無茶をしたわね」
 一番上の姉は言う。
「月神セーファ……何をしに」
「もちろん、あなたを迎えに」
 月女神の優しい光に包まれて、規律神の傷は癒えていく。
 だが仮初の肉の器についた傷をいくら塞いだところで、胸に蟠る重苦しさは少しも減らない。
「何故……何故今更!」
 月神は運命を見る神託の女神。
 破壊神の復活もその際に起きる天変地異を辰砂たちが防ぐのも、何もかもを最初から知っていた。
 世界の均衡を崩したその隙に常闇の牢獄から妹神である秩序神を取り戻したいと願う規律神の目論見が、無駄に終わることも。
 けれど彼女は常に何も言わない。
 誰よりも誰よりも先のことを知っていながら、何も。
「あなたにはわかっているのでしょう! 姉上、私を嘲笑いにでも来たのですか!」
 今日のことも明日のことも。十年先も百年先も。
 ――あなたは知っている。
 この世界の終わりまで……?
「私には今日や明日という時間の概念はないの。ナージュスト」
 主神である太陽神フィドランの妻。女神としては最高位の地位にありながら、表だって讃えられることの少ない暗躍の神。それが運命の女神セーファ。
「でも一つだけ言えることがある。――この“今日”もこれからの“明日”も、誰かが運命を受け入れたり、あるいは反発したり、立ち向かうことを決めて動かなければ決して来ないのよ」
 時は人を置き去りにただ過ぎるけれど、過ぎるだけ。
 時計の針が幾度回ろうとも、それに合わせて動く人間がいなければ世界は前へも後ろへも進まない。
 規律神が、破壊神が、辰砂が。
 ゲラーシムが、ダーフィトが、クラカディルが。
 様々な人々が動くことによって、この世界は廻る。
「あなたの意志も行動も……何一つ無駄なんかじゃない。あなたがダーフィト公子に言ったのでしょう?」
 彼の決意と覚悟は、自分にも必要だと。
「それとこれとは……別ですよ」
 斬り落とした腕を繋がれながら規律神は反論する。
「全ての未来が見えていたのなら、変えられない運命と知っていたのなら、私は……!」
 なおも言い募ろうとする規律神の唇を、月神は指で押さえて止めた。
「もう、いいのよ。あなたは出来る限りのことをした。それでいいじゃない」
 静かな声が染みわたる。規律神は、自然と目を閉じた。
 睫毛の端から透明な滴が零れていく。
「眠りなさい。いずれ闇が世界を包む。規律も秩序も失われた、混沌の時代が来る。そこから抜け出す時には……あなたの存在が必要よ」