Fastnacht 36

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「……終わった、のか」
 誰かが呟いた。それは自分なのかも知れなかった。
 規律神と破壊神、二柱の神がこの世ではない空間に消えてから次第に曇り出した空。雨が降るでもなく雷鳴が轟くでもないけれど、この世界の総ての空がまるで暗雲に覆われてしまったかのように薄暗かった。
 辰砂の転移術で世界各地に散った眷属たちは、覚えたばかりの力を使い、大きな結界を張る。そこに自分のものではない、破壊神と規律神の戦いの余波たる神力を行きわたらせて術を発動させる。
 発動と言っても、それは結局力を受け流す方向への発展だ。
 曇り空の下、目に見えぬ力の嵐に翻弄されながら一瞬一瞬の負担を凌ぐ。
 終わりは唐突に訪れた。
 激しい風が止んで世界が晴れていく。雲が消え去った向こうから陽光が差し込んでくる。
 結局人は太陽の――その神の恩恵に与らねば生きていけないと告げるように。
 だがその光は主神の愛情に満ち溢れ、押し付けがましくもなければ疎ましいと感じることもない優しい光だった。
 太陽の慈悲が世界中に行きわたる。それはまるで何かへの赦しか祝福のように。
 彼らが同じようにそれぞれの持ち場で空を見上げた瞬間、遠くから呼ばれるような感覚がした。
 神の眷属たちは役目を終え、再びアレスヴァルドへと集う――。

 ◆◆◆◆◆

「ま、なんとかなったな」
「世界の危機だった割に軽いですねー」
「国家の危機ではなかったからな」
「ラウルフィカ様にとっては国家の危機の方が世界の終わりより重いんですね……」
「国王の鑑だなー」
 時間にして半刻もあっただろうか。神に借りた神力を使っての大役。彼らは皆上手く果たし、リューシャが一度帰って来るだろうアレスヴァルドに戻る。
「この人たちはこのままでいいんですか?」
「あと半刻もすれば目覚めます」
 セルマの歌によって自ら眠りに入る時のように穏やかに倒れていった人々は未だ夢の中。だがその魔法もすぐに解けるという。
「さて、それではあとはリューシャの帰りを待つだけ。事態に一段落ついたと見て良いのだな」
「いいと思いますが……どうしたんですか? ラウルフィカ陛下」
 シェイがきょとんと首を傾げ、ラウルフィカの方を振り返った時にはもはや遅かった。
「ザッハール」
「はい、陛下……って、え?」
 呼びかけに従順に振り向いた男の脇腹にしっかりと短刀が刺さっている。
 後にその衝撃的場面を一から十まで全て目撃していたティーグは語る。
 微塵の躊躇いもない、実に良い刺しっぷりだったと。
「うわー!! 銀月――!!」
「ザッハールさん?!」
「ら、ラウルフィカ様! なんてことを!」
 ふん、と鼻を鳴らしたラウルフィカが手を離し、銀月が顔を引きつらせながらその場に崩れ落ちた。
 言うまでもなく傷口からはどくどくと血が溢れ出ている。
 銀月は自分の怪我を自分で治療できないと言う弱点を持っている。辰砂が慌てて飛んで行き早速治癒術をかけはじめた。
「は、はは……今回は、ど、して」
 こんな場面でも笑みを絶やさぬ男が脂汗の滲んだ顔で問えば、ラウルフィカは冴え凍る月のように冷たい青で返す。
「前と同じだ」
 素っ気ない言葉。大方の事情を知っている面々ですら、そこまで深くは踏み込めない、二人だけの事情。けれど言われた本人である銀月には十二分に通じたようだった。
「ははは、やっぱ、そ……ですか」
「頼みもしないのに勝手に助けて、人の行く末を勝手に決めて……お前はいつだって身勝手だ」
 ラウルフィカが本当に死を選ぶとき、望む時、銀月はいつもそれを止めようと現れた。
「この私が、その身勝手さに何度も流されて、いかにも心地良さ気な美談などに話をまとめさせてやるなどと思うなよ」
「は、ははは! さすが……それでこそ……俺の陛下……っ!」
 笑った拍子に癒えかけの傷から景気よく血が噴き出す。「喋んな!」と辰砂に本気で怒鳴られても銀月は笑うのをやめない。
 ラウルフィカの死を、自棄も本気も二度とも止めたのは確かに銀月だ。ラウルフィカ自身の意志を無視して、自分が彼を死なせたくないからと邪魔をした。
 救ったとは言えない。言わない。そんな大層なものではない。
 いつだって銀月の意志を押し付けた。彼が欲しかったから。汚い取引で彼を縛り付けた。
 銀月自身はよくわかっている。自覚している。だから今またそれを責めたてられても、怒りを身を持って受け止めるしかできない。
 そして、そんなラウルフィカだからこそ銀月は今も昔も焦がれる程に愛し続けているのだ。白黒はっきりつけないで流されるラウルフィカではない。そういう潔癖な部分のあるラウルフィカこそを愛した。
 この二人の関係は本当に理解不能だと、周囲の面々は一様に呆然とする。
 それでも世界最高の魔術師が傍にいたのが功を奏して、下手すれば即死級の傷もすぐに塞がり跡形もなくなった。
 もっとも、銀月は月神セーファの眷属の一人だ。いくら傷を負おうと女神の加護が絶えぬ限り死ぬことはない。とはいえ脇腹を深く短刀で抉られた傷は自然治癒に任せたいものではないが。
 なんとなくラウルフィカの苛立ちもわかるがさすがにこれは一言釘を刺しておかねばならないと辰砂が顔を上げようとしたところで、次なる衝撃が一同を襲った。
「……本当に、腹の立つ奴だな、お前は」
 言っていることとやっていることが違いすぎる。
 心底呆れ果てたという表情のラウルフィカが、銀月の胸ぐらを掴むように引っ張りあげていた服と共に、それまで乱暴に接触していた唇を離した。
「ぴ」
 こんな場面なので先程より更に一同の視線は男二人に集中している。
 最初の方を見損ねた辰砂が後に尋ねた際にルゥは語る。
 まるで世界には二人きりしかいないかのような、実に情熱的な接吻だったと。
「ら、ラウルフィカ……」
「お前はいつもそうだ。一方的に愛を告げて一方的に与えて、そのくせ私には何も望まず一方的に心を奪っていくだけ」

 ――あなたは王、俺はそのしもべ。いつだって命じてくれればいい。あなたのために死ねとでも、あなたと一緒に死ねとでも。

「本当に私を愛していると言うのなら、王としもべの関係ぐらい超えて来い! 自分が永遠に生きねばならぬ理由があるのなら、私にも眷属になって欲しいと拝み倒すぐらいしてみろ!」
「まさか……それが理由で……?」
 銀月が目を丸くする。常に飄々とした男のそんな顔を見るのは珍しかったが、それ以上に珍しいラウルフィカの態度に一同は既に言葉を失っていた。
 誰も何も言わない。言えない。
「話は決まった?」
 だから、次に言葉を発したのはここに元からいる一同ではなかった。突如として登場した月の女神セーファだ。
「規律神を拾いに行ったのではなかったのですか?」
「ええ。あの子は無事に還って来たわ。もうすぐ破壊神もこちらに戻ってくるでしょう。――それで、ラウルフィカ。私の眷属になる覚悟は決まった?」
「ええ」
 周囲が疑問の声を上げる暇もなかった。ラウルフィカとセーファの間ですっきりと話が進む。
「まぁ、私の妻の方が美しいとはいえ、美貌の女神のお供ですからね。永遠に付き合うのも悪くはない」
「あら、聞き捨てならないこと言ってくれるわね、愛妻家さん? でも永遠の時を付き合いたいのは、私ではないのでしょう?」
 今更悪ぶっても内心は全てお見通し。
「ま、いいわ。それでは手を出して。仮契約を本契約にしましょう。これであなたも月神の眷属となる」
 ラウルフィカの手の甲に一瞬だけ銀の光が宿り、そして消えた。解放された手首をぷらぷらと振って、ラウルフィカは月女神について歩き出す。
「……えーと」
 後に残された面々はもはやただただ驚くしかできない。
「今の会話って、つまり……」
「諸々の嘘とか駆け引きとか含めても、要は」
「ラウルフィカ様からザッハールさんへの……盛大な告白ですよね?」
 銀月から一方的に傅かれるばかりだったラウルフィカは、彼の愛情を求めながらも疑っていた。
 それでもやはりラウルフィカ自身が銀月を想っているから……彼が辰砂のために不老不死を生きるのに付き合って、月神の眷属となったのだ。
何事も白黒つけねば気が済まない潔癖で気の強いラウルフィカ。彼が打算や妥協で望みもしない道を選ぶはずがない。
 今までの恨みは脇腹一刺しで水に流し、それ以外の選択肢の全てを捨てて銀月を選んだ。
 それがラウルフィカの答。
 そしてこれからも恐らく永い付き合いになるであろう面々の前でそんな告白をされた当の銀月と言えば。
「俺もう……今すぐ死んでもいい!」
 三十路間近のいい年した男にも関わらず十代の少年のように頬を染め、刺されたことなど一顧だにせず悶え狂っていた。

「もう……勝手にしやがってください」

 誰かがそう呟いた。あるいは自分だったかもしれない。