Fastnacht 36

143

 ――世界は、廻る。

 終わらぬ世界。
 たとえあなたが忘れてしまっても。
 失ったことすら思い出せなくても。
 記憶の水底で過去は過去となって静かに眠り続ける。
 人は明日を望んでいく。
 誰かのためにではなく、ただ自分のために。
 それでも世界は廻っている。
 誰かが願う限り。
 絶え間なく続く――。

 誰かの声に呼ばれた気がしてダーフィトは振り返った。
 慣れ親しんだアレスヴァルド王城の回廊だ。背後から騎士服の女性が自分の名を呼びながら追ってきていた。
「ああ、なんだセルマか」
「忘れ物だぞ、国王陛下」
「うわ、悪い」
 執務室に置き忘れた書類の束を示されて、ダーフィトは己の腕の中にも積み上げた山を示す。溜息をつきながらその上に紙束を積んだセルマに、ダーフィトは礼を言った。
 本日は天気が良く、こうして中庭に面した回廊を通りたくなる。燦々と降り注ぐ陽光に照らされて、目に映る世界も日頃より更に美しく見えるのだ。
 セルマはダーフィトのこういうところを知っていたから、すぐに同じ道筋を辿ることができたのだろう。
 女性にしては長身の彼女は、ダーフィトに遅れることなくすたすたと廊下を歩く。相変わらず男のような身ごなしだ。
 もともとは騎士として生きていたセルマは、ダーフィトの妻となり王妃となった後もその頃の癖が抜けない。歴史ある古王国の王妃として見れば「らしくない」の一言に尽きるが、現在のアレスヴァルドにとっては必要な人物の一人だった。
 今から半年前、このアレスヴァルドにて、大規模な謀反が起きた。
 首謀者はゲラーシム=ディアヌハーデ公爵。――ダーフィトの父親だ。
 ゲラーシムは先王エレアザルを殺害し、その玉座を手に入れ、国を支配しようとした。
 しかし息子であるダーフィトは正当ではない方法で権力を得ようとした父から離反し、半年かけて証拠を集め父の罪を弾劾した。
 直系の王族が途絶えた神聖アレスヴァルド王国はその名をただのアレスヴァルド国と改め、新たな王となったダーフィトの統治下で新体制を築き上げている途中だ。
 ダーフィトは父の追撃を躱すこの半年間、様々な土地を旅して各国の在り方を見て回った。中には、中央大陸の中央都市オリゾンダスのように、王制ではない国家もある。
 ならばアレスヴァルドもこれまでのような絶対王制に拘る必要もないと、大臣たちと日頃議論を交わしている。
 大神殿が言うにはもはやこの国は神話の頃より伝えられた役目をすでに果たしたのだと。だからもう王族の血に拘って血統を維持する必要もなければ、その血を伝えるために王制に拘る必要もない。
 今のところは、謀反を引き起こしたゲラーシムの息子であると同時に彼を弾劾した功労者でもあるダーフィトが暫定的に王と呼ばれている。しかしそもそも、本来のアレスヴァルドの定義的には王族でないダーフィトが王位を継いでいる時点で、王の血統は無意味と化したのが事実だった。
「今思えば、エレアザル王に直系の子どもが生まれなかった時点で、この国がこうして穏便に滅びるのは決まっていたんだろうな。王の血として認められるのは俺のような王族の名ももらえない傍系じゃなく、あくまで直系の血筋のみだったんだから」
 厳しすぎるこの国の王族の認定基準も、神の意志を果たすために必要なことであったならそれを運命として受け入れよう。
 強がるでも悲愴ぶるでもなく、ダーフィトはただ自然とそう思う。
「……」
「セルマ?」
 しかし、隣を歩いていたセルマは顔を曇らせた。彼女がそのような態度をとる理由がわからず、ダーフィトは首を傾げる。
「あ……いや、すまない。少し考え事をしていて」
「そうか。悪いな。結婚以来お前にも無理をさせっぱなしで」
「それが私の役目だ。もっとも、私は政治方面は役に立たないけどな」
「十分だよ。この国でお前に勝る戦闘の才能を持つ人間はいないんだから、武官たちをびしばし鍛えてやってくれ」
「彼らも可哀想にな。軍学校卒業でようやく私の顔を見ずに済むと思っていただろうに」
「ああ、お前が――」
 ふいに言葉が途切れる。
「なぁ……セルマはなんで、卒業後に武官として王宮に配備されなかったんだっけ?」
 軍学校を卒業した者の大半はそのまま王国軍に入るので武官となる。そうでない者はダーフィトのように特殊な例を除けば、元々かなり高位の貴族が軍部の中でも高官を目指すか、下位貴族ならば後継の子弟に箔付のために通わせただけということのどちらかだ。
 セルマは平民なので、そのどちらにも当てはまらない。平民の軍学校卒業者はまず間違いなく王宮配備となるはずなのだが。
「前に言っただろう? 私を拾ってくれた貴族に、恩返しのために騎士として仕えていたんだ」
「その貴族……どうしたんだっけ?」
「もう亡くなった」
「……すまん」
 ダーフィトが少しだけ違和感を覚えたらしい記憶も、話の流れの行き着く先が先だったためか、それ以上追及しようという様子ではなくなった。
 表向きセルマは、その御恩返しが終わったからダーフィトとの結婚を了承したという話になっている。
 もちろん事実は異なるのだが、それをこの国で覚えているのはもう彼女だけだ。
 かつて騎士だった。ダーフィトの中でその印象は強く、セルマを思い出す時にはほぼ確実にそのことを考えていると言ってもいい。だが具体的にいつから誰の騎士だったか深く考えると、その記憶は霞がかるようになっている。
 隣にいる男、かつて彼女がこの国に来るまでは誰よりもリューシャに近かったダーフィトさえも欺いて、与えられた日常を続けていく。
 黙し続けること。それが彼女の役目。――この生が終わるまで。
 廊下の曲がり角で目的地を異にするダーフィトと別れ、一人になったセルマは空を見上げて囁いた。
「今日もアレスヴァルドは平和ですよ、殿下」
 そして名を失った国は、続いていく。

 ◆◆◆◆◆

 謀反を起こしたディアヌハーデ公爵ゲラーシムは、生涯幽閉の刑を下される。
 王としてその判断を下したダーフィトは、王ではなく息子として何度も面会に行った。
 先代の王と大神殿の罪なき神官たちの命を奪った犯罪者に対し、極刑にすべきだという意見はもちろん上がった。
 だがダーフィト王の答は、父に限らず死刑そのものを無くしていくというものだった。
 それが不満で自分こそが王に相応しいと思う者はいくらでも名乗り出ろと。議会が譲位を認めるに相応しい、ダーフィトより王に適した相手であればいつでも玉座を譲ると。
 アレスヴァルドの王は結局ダーフィトから変わらぬままその後も続いていく。
 しかし、それでゲラーシムの罪が消えたわけではなかった。
 謀反より五年後、殺された神官たちの身内の一人が幽閉中のゲラーシムに暗殺者を送り込む。
 廻る因果。
 罪は罪に還っていく。
 息子が見た父の死に顔はそれでも穏やかに微笑んでいたという。
 人の少ない葬式。
 権勢を誇った頃とは違い、わざわざ花を手向ける者も息子とその妻以外にいない。彼らは王と王妃ではなく、あくまでもゲラーシムの身内として参列する。
 丘の上の小さな墓標。
 王族として歴代の王たちが眠る墓所にはもちろん葬ることはできない。
 野晒しにも等しく荒れ果てた罪人用の墓地だ。
 それでも、いずれ訪ねてきた一人の青い髪の女は言うだろう。
「……良い場所ですね。太陽の恵みも慈悲の雨も十分に届く」
 幾百年の時を経て、躯はやがてその身を横たえた棺桶ごと土へと還るだろう。
 そうして、一人の男の物語が静かに終わっていく。

 ◆◆◆◆◆

 世界は続いていく。
 小さな綻びから壊れ、滅びながら、それでも人はまた何かを積み上げていく。
 神聖アレスヴァルド王国は存在しなくなったが、「アレスヴァルド」の名はこの後も永く歴史に残る。
 だがそれは今はまだ誰も知らない話。
 今この時代を生きる者たちが創り上げる、まだ見ぬ明日の話である。