第1章 魔女に灰の祈りを
001.茨の魔女と氷の吸血鬼
晴れ渡る澄み切った空。常春のやわらかな日差し。窓際のカーテンを揺らすそよ風。
この場所はとても穏やかで、永遠に変わらぬ平穏に守られている。
数多の神々が集い暮らし地上を治めるための神殿が建つ場所――天界。
地上から見て上空に位置するとは言われるものの、実際には特殊な結界で隔絶された空間に存在する小さな土地。
天界には神々だけではなく、神々の代わりに地上で動く手足となる「眷属」として、人間をはじめとしたさまざまな種族が住んでいる。
更に、神ではなく、神の眷属でもないが、特殊な事情で天界に居住している存在も――。
「ししょー? おーい、師匠ー。……ったく、まーだ寝てんのかよ」
神々の御座所である中央神殿から少し離れた場所に、荘厳な天界の風景には似つかわしくない素朴な木と石の家々が立ち並んでいた。
その一角。最も粗末な木造の小屋で、少女が寝台で惰眠を貪る人影に呆れた声を投げかけている。
「おーい、こら。この寝坊助魔導士、今日は可愛い弟子の旅立ちだぞー」
少女はとても美しい。
年の頃は十代の半ば。ペリドットのように透明感のある若葉色の髪を三つ編みで背に垂らし、前髪も額を斜めに横切るよう編み込んでいる。
そのすっきりとした髪型は、少女の際立った容貌をよく見せていた。
大きな瞳は光の加減で紫や深紅にも見える薔薇色で、長い睫毛に縁どられている。
染み一つない白い肌にすっと通った鼻梁、ふっくらとした薔薇色の頬、艶めく珊瑚の唇、と。およそ人が羨む美貌の条件を満たしている。
すらりと伸びた手足。豊かな胸とくびれた腰。折れそうに華奢だが、均整のとれた絶妙な体つき。
この上なく美しいが、同時に少女のあどけなさを残して愛らしい。
まさしく絶世の美少女。
ただし――口を開かなければ。
「おい! さっさと起きやがれって言ってんだろうが!」
寝台の上の毛布に全身くるまった蓑虫相手にいい加減苛立ち、乱暴な言葉と共に軽い足蹴りを食らわす。……まぁ、苛立ち関係なくこれが彼女の平素の態度だが。
「……んー?」
そしてそんな弟子の不機嫌には慣れっこの上に神経図太い蓑虫の中身は、いまだ寝ぼけた声で義娘の名を呼ぶ。
「せるせら……ああ、そうか。もうそろそろだっけ……あすらは試験……」
セルセラ。――セルセラ・ワルド。
それが美しくも口と性格の悪い少女の名前。
彼女をここまで育てたこの寝穢い男、義父兼魔導の師の名は紅焔(こうえん)。
紅焔は今現在という注釈付きで、この世界一の魔導士と呼ばれる男だ。
つまりその弟子であるセルセラは、世界一の魔導士の弟子と言うことになる。
「そうそう。魔王退治に欠かせない武器をラウルフィカからもらってくる」
寝台から起き上がる素振りこそ見せないが、ようやく反応を返した師にセルセラはもう一度出立の旨を告げた。
この子弟の間には世界一の魔導士とその弟子という肩書から想像する厳格さはなく、どちらかと言えば実の親子のような遠慮のなさだ。
「ま、僕の実力からすれば、今更まだるっこしい試験なんか必要ないんだがな。一応会長であるラウルフィカの顔を立てて、面倒な形式手続きを踏んでやるぜ」
むしろ少女の態度は非常に尊大で、生半な相手には決して謙った対応を見せることはない。
「うん、てきとうに行ってきて……。あの試験はお前にとって……」
「僕にとって?」
だんだん明瞭になってきた師匠の声が思わせぶりな言葉を紡ぐのに、セルセラは思わず真剣に聞き入る。
だが、紅焔の次の台詞で真剣さは元通りに霧散した。
「運命の出会いが待ってるかもしれないし」
「いらねぇ」
セルセラがアスラハ取得試験に求めるのは運命の出会いではない。運命を変える武器の方だ。
何はともあれ師匠に出立を告げるという用件は果たした。後のことは紅焔の他の仲間――セルセラにとって家族である人々が見てくれるだろう。
準備を終えたセルセラは、魔女としてのトレードマークである鍔の広い三角帽を被り直す。
「じゃ。行ってきまーす」
そして、少女は地上の魔王を倒し、世界一の魔導士になるための一歩を踏み出すために、天界から地上へと向けて旅立つ。
……まぁ、たびたび地上に降りて活動しているセルセラにとっては、ここまではいつものことなのだが。
◆◆◆◆◆
愛用の箒に横座りの姿勢で空を飛び、いつものように天界と地上を繋ぐ門をくぐりぬけセルセラは地上へとやってきた。
目的地の少し手前の街で高度を下げ、地面へと降りる。途中で同道するかのように彼女の周囲をついてきた鳥たちが、別れを告げるように一度上空を旋回して飛び去って行った。
魔獣が跋扈する現在では飛翔の術も、使いどころを考えなければむざむざ面倒を引き寄せるだけのものである。
何より、セルセラの目的地は周囲に緑以外何もない山の上だ。そこから一番近いこの街で色々と準備を整えた方がいいだろう。
古い文明の名残を遺す石の街は、アルマス広場と呼ばれる大きな広場の周囲に壮麗な石造りのカテドラル(聖堂)を伴っていた。
石の街と言っても家々の壁は白く、屋根は赤い。マーケットに並ぶ果物やこの地の特産品である織物は色とりどりで、鮮やかな色彩と澄み渡る青空のコントラストが美しい。
セルセラの本来の目的地ほどではないが、この街もかなりの高地にある。空が一面青く、建物や人々の影は色濃い。
セルセラが師と共に暮らす天界は高所に存在するとはいえ物理的な高度とはまた別の隔絶された次元に位置し――つまり、高山病対策にはあまり意味がないので、目的地である遺跡へ向かう前に、ここで少し体を慣らさなければならないのだ。
放牧されたアルパカたちがのんびりと足元の草を食む長閑な風景を通り過ぎ、セルセラはまず、箒で飛行した際に上空から見たアルマス広場の方へと向かうことにした。
すでに体がだるく、頭痛がし始めたが高地に体を慣らすためには横になって休むよりも、少し体を動かして血流を良くした方がいい。
せっかく初めて来た街だ。観光がてら周囲を見て回ろうとしたところで、広場の噴水近くから聞こえてきた歌声に意識を引かれた。
竪琴を持った人物が噴水の縁に腰かけ弾き語りを披露している。明らかにこの地域の生まれではない顔つきをしているし、旅の吟遊詩人だろう。
弾き語りの内容は、「灰かぶり」すなわち「シンデレラ」の物語のようだった。
これもフルム神族が出現するずっと以前に存在したという旧世界の文明の一つである童話だ。
性格の悪い継母と義姉たちに虐められいつも暖炉の傍で寝て灰を被っていた少女シンデレラが、舞踏会の夜に魔法使いに魔法をかけられ美しい姫君に変身する。かぼちゃの馬車で舞踏会に向かい、無事に王子と踊ることができたものの、十二時になればかけられた魔法が解けてしまうからと慌てて帰る。その際にシンデレラが落とした硝子の靴を手掛かりとして、王子は国中の娘たちの中から、シンデレラを見つけ出して二人は結婚する――。
虐げられ苦労していた娘の逆転出世物語。一言にまとめてしまえばそんなところだが、少女の夢や憧れを詰めた物語を吟遊詩人は臨場感たっぷりに歌い上げていた。
青みがかった長い銀髪の詩人は、どこか女性的な容姿の青年だ。セルセラほどではないとはいえ、青白い月夜の砂浜を思わせる美しい人物だった。
詩人は紡ぐ。灰かぶりの苦悩を。
詩人は歌う。灰かぶりの悲哀を。
何もなければさっさと広場を通り過ぎるはずだったセルセラの足を思わず止めさせるほどに、それは見事な歌声だった。詩人の周囲には老若男女入り混じった人だかりができて、皆真剣にその歌声に聞き入っている。
「灰かぶりか……ハッピーエンドは嫌いじゃないけどね」
とはいえ、継母に虐げられる娘など他にいくらでもいるだろうに、何故選ばれたのがシンデレラだけだったのか。硝子の靴なんて割れやすそうなもの危なくないのか。そもそも舞踏会でたまたま一目惚れした娘と結婚するなんてその国の王子の妃の選定基準は本当に大丈夫か、などと、突っ込みを入れ始めればキリがない。夢溢れる童話に対して口にするだけ野暮な話だが。
その歌をいつまでも聞いていたい誘惑を浪漫のない理性で無理やり断ち切り、セルセラは再び歩き出そうとした。
結果的に、その必要はなくなる。歌声が止むのと、異変に気付いた人々の口から次々に悲鳴が上がるのは同時だったからだ。
「魔獣だ! 魔獣の襲撃だ!」
人々が指す先、青空に黒い染みのようなものが大量に浮かんでいる。セルセラにまだよく見えないだけで、この地方の人々の視力ではすでに翼を持つ魔獣たちの群れが見えているのだろう。
雄峰が連なる高地では、山腹を根城にした翼を持つ魔獣が多く出現する。この街も例外ではないようだ。
「さて、いっちょお仕事しますか」
セルセラは現れた魔獣が街に入る前に追い払うため、再び箒に乗って移動と攻撃の体勢に入った――。
◆◆◆◆◆
清く、正しく、生きていれば『いつかは必ず報われる』って?
それなら誰だって最初から最後まで清く正しく生きているさ。
だが現実にはいったいどれだけの灰かぶりの前に、優しい魔法使いや妖精が現れて助けてくれるんだろうな?
硝子の靴は、哀れな少女の手に渡る前に砕け散ってしまった。
その音はまるで――運命のように。
◆◆◆◆◆
Fatus――茨の女王――
第1章 魔女に灰の祈りを
◆◆◆◆◆
――運命の出会いが待ってるかもしれないし。
などと師は言っていたが。
「見つけた。聖なる魔女よ」
なんとも幸先の悪いことに、彼女の前に現れた人物は不健康そうな青白い顔をした怪しい男だった。これと運命の出会いなどするのは御免である。今すぐ今朝の街からの出発からやり直させてほしい。
昨日、魔獣を追い払い街で宿をとったセルセラは、今日は朝早くから山頂の遺跡に向かう登山を開始していた。箒に乗ってぷかぷかと浮いているだけだが、山の途中まで開かれた山道はもちろん、その先の獣道を進むのは魔導で枝葉を切り払いながらでも面倒だった。
ようやくもうすぐ目的地につくと気が緩み始めたところでこれである。
「魔女よ、どうか……」
容姿だけ見れば、男は美しい。とても美しい。
絶世の美少女として自分の容姿に自信を持っていたセルセラがその自信を思わず失いそうになるほどに、目の前の怪しい男の造作は整っていた。――整いすぎている。
木漏れ日の淡い金髪に、藤色の瞳。長い睫毛と高く通った鼻筋。色の薄い上品な口元。
顔立ちこそ中性的だが女々しいところはまったくなく、端々に男性的な力強さの漂う物腰。
血の気の引いた頬が白すぎるが、それがより一層彼の、神々の手によって作られた彫像のように芸術的なまでの美貌に人ならざる迫力を与えている。
セルセラがそこまで男の容姿をじろじろと観察できたのは、今の二人の距離のせいだった。
青白い顔に黒いマントと剣を提げた怪しい男は、山頂の遺跡に向かうセルセラと山の中で出くわすなり歩み寄って来た。
「お前は……」
セルセラの姿を認めた瞬間、藤色の目を瞠った男は、目にも留まらぬ素早さで彼女をその腕と背後の大木の間に閉じ込めた。そして告げる。――否、懇願する。
「やっと見つけた。聖なる魔女よ。頼む、お前の力で、この呪われた身を救ってくれ……!」
「は?」
突然の出来事に呆気にとられたセルセラが、間の抜けた声を上げるのも無理はない。
男の表情は真剣そのもので、言葉にできない悲哀と苦痛に満ちている。
彼が救いを欲しているのは事実だろう。
だが。
「どうか、お前の血を分けてくれ……」
切実な声を吐き出す唇が開き、覗いた歯の一部が長く尖っていた。この発達した犬歯と先程のセリフからすると、この男は吸血鬼だ。
微かに震えてはいるが力強い腕はセルセラの体を片手で簡単に押さえつけ、もう片方の手で顎をそっと持ち上げる。
――血だ。血を吸おうとしている。
そこまで察したセルセラの判断は早かった。
◆◆◆◆◆
「なぁ、あれ!」
長身の美女は、山の獣道を抜けた先に見える開けた空間を指さした。
「こんな山奥でナンパ……と言うわけではなさそうですね」
聖職者風の格好をした少年のような人物が、背負っていた槍に手をかける。
山頂の遺跡に向かって揃って歩いていた二人が見た光景は、大木を背に黒いマントの男が美しい少女に迫っている姿だった。
「あの男、人間にしては少し気配がおかしくないか?」
「ええ」
男が少女の顎をそっと持ち上げるのが見える。二人の間に甘い雰囲気は微塵もない。
ただの人間がこんなところにいるとは考えづらいが、万一用事があって山に入り込んだ村娘などが変質者に襲われているのであれば見過ごすわけには行かない。
「待ちなさい!」
二人は、咄嗟に少女を救うため男を止めに入ることにした。だが。
◆◆◆◆◆
「俺が望む安寧を与えられるはお前だけ。あぁ、どうか、お前の血を――」
「ていっ」
「待ちなさい!」
「こらー!」
セルセラが反撃の魔導を男に叩き込むのと、二つの人影が彼女たちのいる場所に飛び出して来るのはほぼ同時だった。
軽い掛け声とは裏腹の派手な音を響かせて、セルセラの魔導は男を数メートルも先へ吹き飛ばし、その頭上に突如として湧いた黒雲から雷を落とす。
「「「あ」」」
吹っ飛んだ先に雷を放たれた男が倒木ごと勢いよく燃え出すさまを、術を放ったセルセラと闖入者二人は呆然と見守るしかなかった。
先程の光景は大の男が可憐な少女を襲っているようにしか見えなかっただろう。だから二人の旅人も助けに入ろうとした。
だがセルセラが男を爆破したこの様を見れば、果たしてどちらが悪者なのかよくわからない。
「あー、とりあえず山火事の心配はないぞ。火はちゃんと消していくから」
「まず気にするところはそこですか」
闖入者であり本来は救援者となるはずだったはずの二人のうち、聖職者らしき格好をした少年とも少女ともつかぬ容姿の人物がセルセラに突っ込む。
年の頃はセルセラと同じか少し上くらいだろう。その手には使い込まれた様子の槍を握っている。
「なんだ、ちゃんと強いじゃないか。助けは必要なかったみたいだな」
もう一人は、この地方の成人男性より頭一つ分は優に背の高い絶世の美女だった。
先程の男や、セルセラの身内の男連中よりも更に高い。人間の女性ならば非常識なまでに長身な部類だが、恐らくそもそもこの女性は人間ではないだろう。
セルセラ自身や先程の男に負けない物凄い美貌の持ち主だが、どこか人工的な計算された配置を感じる美。それがますます、相手が人間ではないという推測を裏付ける。
槍使いらしき連れとは対照的に無手の上、こんな山の中を歩いているというのに、不自然なまでに露出の多いへそ出しの服装をしている。それでも健康的な色の肌には擦り傷もなければ虫刺されの痕すらついていない。
聖職者風の槍を持った人物と、異種族らしき特徴を備えた不自然に軽装の美女。
この時期、こんな格好でこんな場所にいるとすれば。
「あんたたちも星狩人(サイヤード)試験を受けに来たのか?」
「あなたもですか」
それしか考えられまい。いくら危険な山中探索をするとはいえ、地元の人間がこんな格好で山の中には入らないだろう。
「どうやら、お互いに目的は同じのようですね」
「ああ。正確には僕はもうサイヤードの資格は持ってる」
「先輩サイヤードでしたか。それは失礼しました。しかしそれより今は先程の男の-―」
「まだだ!」
美女が二人に警告するのと、先程男を包んだ爆炎が不意の疾風と共に消え去るのは同時だった。
セルセラは魔導を、聖職者は槍を構えて炎が消えた場所にゆらりと立ち上がる人影を睨みつける。
「いくらなんでも、いきなり攻撃することはないだろう……」
先ほど確かに落雷からの爆炎に飲まれたはずの男が復活している。服は酷く煤けているが、その肌には火傷どころか他のどんな傷も見当たらない。
男は片手に先程まで腰に佩いていたはずの剣を握っていた。
まさか、今炎を消したのはあれなのか? 剣で炎をその勢いごと断ち切ったなどと言うつもりか?
セルセラの知り合いにも凄腕の剣士は多いが、そんなふざけたことができる者は数えるほどしかいない。
「不死身の肉体、ね……」
見た目は若いが、その通りの年齢ではなさそうだ。あの剣の技量は一朝一夕で身につくものではあるまい。
「ああ、そうだ。今の俺は吸血鬼。この身は不老不死の呪いをかけられ、血への渇望に蝕まれている」
男は悲しく微笑んで、真摯な眼差しでセルセラを見つめた。彼の眼にはこの事態に乱入してきた二人の存在は入っていないようだった。剣を鞘に戻さず警戒しているが、積極的に斬り伏せようという気もないらしい。
ただ、救いを求める者の眼差しでセルセラだけを見つめている。
強引な頼みもしくは不審者を振り払うだけと言うにはどう見ても過剰な攻撃を受けているのだが、男はほとんど意に介さず、再びセルセラへと懇願した。
「かつて、俺にかけられた呪いを解くためには、今日ここで出会う者が重要な役割を果たすと聞いた。……一目見てわかった。俺を救ってくれるのはお前だと」
「……」
熱烈で真剣な説得に、先程は制止のために飛び込んできた二人も息を詰めて事態を見守っている。武器こそ降ろさず男の攻撃を警戒しているが、この状況は余人にどうにかできるようなものではない。
男は呪われている。それはセルセラにもわかる。
先程彼女の頤を持ち上げる時に触れた、命の気配の薄い冷たい指の感触。
呪いをかけられて吸血鬼になったというのなら、恐らく元々はただの人間だろう。
不老不死の肉体を抱えて他者の生き血を欲しながら永い時を生きていくのは、元が平凡な人間であれば苦痛に違いない。
けれど。
「やっぱりていっ」
「「あ」」
にべもない二度目の爆発が男を包んだ。