034.騎士と魔王

 黄昏から宵闇へと空の色が移り変わる。
 昼と夜の狭間の安寧を、白銀の巨大な獣の咆哮が引き裂いた。
 領主館の壁と屋根を破壊しながら、狼にも似た魔獣は堂々姿を現す。
「ハインリヒ……?」
「ハインリヒ!? あれが!?」
 ドロミットの呆然とした声がなければ、セルセラたちはその正体に気づくのが遅れたことだろう。
 だが確かに、獣の胴を覆う銀の鉄帯は人型の時に着ていた鎧と同じ装飾だ。
 たった一日で彼に一体何があったのか?
「セルセラ、先に付近の住民の避難を進めないと」
「ああ!」
 タルテの冷静な指摘に頷く。
 轟音に驚いて自宅から飛び出してきた人々は、巨大な魔獣の姿に怯え逃げ惑っていた。
 白銀の獣は自ら屋敷を破壊しながら外に出たものの、どこかへ行こうとはせずその場でのたうち回る。
「苦しんでいる……? でも、何に……」
 セルセラたちは、地面が揺れた衝撃で倒れたり物の下敷きになった人々を助け出し結界の中に入れて応急処置をする。
 ハインリヒは人々を襲う様子こそ見せないが、長い毛に覆われた手足がかするだけで、樹々はなぎ倒され屋敷の屋根が崩れ落ちた。
 領主館からは使用人たちが大慌てで逃げ出し、付近の農家の母屋からは人々が驚いて顔を出す。
「何!? あれ!!」
「まさか……魔王様なのか!?」
 もがく獣の姿に村人たちの混乱は増すばかりだ。
 最悪の事態を考え、セルセラは住人たちを避難させる。
「こっちだ!」
 結界や防御の術に長けているセルセラが人々を誘導し避難場所への結界を張っている間、レイルたち三人は白銀の獣と相対する。
「ドロミットのように、あれがハインリヒの本体なのでしょうか?」
「そんな感じじゃなかったけど……」
 魔族であるドロミットは、人型と鳥型、二つの姿をとることができる。
 だが彼女はハインリヒも同じような存在だと告げることはなかった。
 それは彼女が意図的に隠したのか? それとも彼女にとってもこの変貌は予想外だったのか?
「どっちにしろ、急に暴れだすなんておかしくないか?」
 自身も人間ではないファラーシャが真っ先に違和感を訴える。
 今のハインリヒの格好も行動も、不自然なのだ。
「何かに操られ……いえ、“暴走”している?」
「それだ……!」
 タルテの口にした言葉にレイルは頷いた。
 今のハインリヒはおかしい。正気を失い、文字通り暴れ狂う獣となっている。
 しかしその原因や事情までを探る時間は与えてもらえなかった。
 地面を転がるように悶えていたハインリヒが三人に気づき、熾火のように赤く燃える瞳で敵意を向けてきたのだ。
「私たちと戦う気があるのは、間違いないようですよ!」
「ガァアアアアアア!!」
 唸りながら振り上げられた前脚は、まっすぐ彼らを狙って振り下ろされる。
 単調な攻撃を躱す動きで左右と上空に散開した三人は、それぞれの辰骸環(アスラハ)を発動させた。
「応えよ! 流花弓!」
「目覚めなさい! 千夜槍!」
「雪の剣よ、我に力を!」
 金の、赤の、青の光が一瞬彼らの身を包み、次の瞬間その手元に魔獣へと対抗するための武器が出現している。
「ハインリヒ!」
 剣を手にしたものの、レイルは一縷の望みをかけてハインリヒに声をかける。
「ハインリヒ! 教えてくれ! 君に一体何があった! 俺たちは君と戦いたくない! 君の力になりたいんだ!」
「グルゥァアアアアアア!!」
 レイルの叫びは獣の耳には届いていない。
 獣の唸りも、彼らの耳にはもはや人の言葉としては聞こえなかった。
「どうやら説得は不可能のようですよ」
「……しかし暴走の原因もわからないのにいきなり殺すわけにはいかないだろう」
「魔王を殺すと後で困ったことになるんだっけ?」
 七人目の魔王は、六人全ての魔王を倒した時出現する。
 今ここでハインリヒを倒してしまっては、今後の星狩人協会の計画にどんな支障が出るかもわからなかった。
「……仕方ありません。セルセラが戻ってくるまでは時間稼ぎに徹しましょう」
「おう!」
 タルテが嘆息と共に妥協案を出し、レイルとファラーシャもそれに頷いた。
 何もしないよりは、明確な意志を持って時間稼ぎに徹する方がやりやすい。
 まずはファラーシャが矢を放ち、獣の動きを止める。
 辰骸環の弓はファラーシャ自身の髪を魔力の矢へと変換し、下手な魔導の一撃よりも高い攻撃力を与える。
 獣は素早くそれを察して後退したが、その隙を狙ってタルテが槍の一撃を繰り出す。
「ふっ!」
 その細身からは想像できない剛腕で槍斧(ハルバード)を振るうタルテは、獣の胴体を容赦の欠片もない勢いで薙いだ。
 しかしその滑らかな攻勢が、分厚い毛皮に阻まれる。
「浅い……!」
 狙いよりも表層しか傷つけることができなかったタルテは、ハインリヒの追撃を受ける前に自ら後方に飛び退いた。
「ガアウッ!」
 地を這うかの如く首を低くしてタルテを狙ったハインリヒは、槍斧ごとその身を噛み砕こうとしたらしい。空ぶった牙がガチン! と派手な音を立てる。
「この硬さ、竜並みですよ!」
 夜目にも鮮やかな白い毛皮に、鮮血はほとんど滴っていなかった。辰骸環の切れ味をもってしても、この程度の一撃ではさしたる傷を与えられなかったらしい。
「ま、薙ぐのがダメならやり方を変えるだけですが」
 あっさり言って、タルテは辰骸環を自らの望む形に変化させる。
 同じ長物でも槍斧ではなく、刺突に適した普通の槍だ。
 ちなみに辰骸環は普通一度決めた形から変えるのは容易ではない。
 タルテが己の武器を作り変えている間、レイルもハインリヒに斬りかかっていた。
 星狩人試験の際に竜を一刀両断したレイルなら、同じような硬さのハインリヒも斬れるはず。しかし殺すことが目的ではないので、先に獣の胸部を覆う鉄帯の鎧を狙った。
「何っ!?」
 鎧には何らかの魔導が働いているのか、レイルの剣が触れる前に弾かれる。
 横合いから繰り出される鋭い爪の一撃を避けながら、レイルは次の行動に迷った。
 自分の剣技と辰骸環なら、ハインリヒに深手を与えることはできる。その自信はある。
 だが、それでは彼が死んでしまう。
「一体どうすればいい……!」
 ファラーシャの牽制の矢だけが宵闇に鮮やかに光り輝いていた。

 ◆◆◆◆◆

「リッヒ! ハインリヒ! 私の声が聞こえないの!?」
 小さな白鳩は白銀の獣の周囲を飛び回って呼び掛ける。
 しかし本来の黒に熾火のような赤い狂気を宿した瞳が、同じ魔王の魂を持つかつての同胞に向けられることはない。
「あんた、ここを守るのは自分だって、ずっと言ってたじゃない。こんなことって……」
 ――砂漠? 砂漠に行けって言うんですか? 無理です。僕はお館様の家と民を守るんです。
 ――あのねぇ、六の魔王の呼び出しを無視する気? そりゃ確かに顔を合わせて嬉しい相手って訳でもないけれど。
 ――とにかく、僕はここを動きません。
 ――強情な子ねぇ。
 総ての生き物が恐れるという六の魔王の命令にすら逆らって、この地を守り続けた二の魔王ハインリヒ。
 その彼が、何の理由もなく急に暴走して自らの守る地を襲うわけがない。
「エレオドどころじゃないわね。この事態の後ろにいるのは誰?」
 ドロミットは一度高く跳び上がり、上空から周囲の様子を見まわした。
 少し遠くに軍人然とした多くの人間が集っていてまずい気がするが、探し物はそれではない。
 もっと近く、もっと傍に何かがいるはずだ。
 彼女の視界に入り込んだのは、馬でこの地を離れる一人の黒髪の人間。
 どこかで見たようなその姿も気になるが、更にその先を見て事態を把握した。

「六の!」
「おっと、見つかってしまったな」

 人間形態で上空から一気に急降下しての一撃を、六の魔王はあっさりと躱す。
 こんなところにこの男がいる訳はないので、これは恐らく“影”――魔導力を込めた媒体に本人の力をいくつか乗せて作った現身だろう。
「リヒのあれはあんたのせいね!?」
「私以外に誰がいると言うんだ? そんなこともわからぬ程愚かになったのかい? 灰かぶり」
 六の魔王の現身はドロミットに合わせて剣を抜く。
 彼の二つ名をドロミットは知らないが、剣士の魔王と呼ばれた自分より、この男の方が剣の腕に優れていることは嫌と言うほどわかっている。
「あの子に何をしたの?」
「同じ魔王として、力を得る手助けをしてやっただけさ。直接“星”を渡したのは“黒星将”とやらだがね」
「わざわざ星狩り随一の使い手たちがこの地を訪れた途端に随分ご親切なこと。その能力があっても、私が殺された時にはなんにもしてくれなかったのにね」
「お前は拒んだのだろう? せっかくの背徳神の施しを」
「自分が自分でなくなってまで強くなりたくなんかないわよ。そんなくだらない最強ごっこに熱中するのは男共だけでしょ」
 ドロミットは油断なく剣を向けるが、六の魔王は泰然としたままだ。
「そうだな。そしてどうやら、あいつもまた力を欲するくだらない男の一人だったらしいぞ」
 いまだレイルたちと戦うハインリヒに目を向ける。
「魔王は魔王らしく、全てを壊せばいい。お前も鉄帯も、役目を果たそうとしない魔王など不要」
 今はレイルたちが抑えてくれているが、やはり六の魔王の狙いはハインリヒに自らの守る土地を壊させることにあったらしい。
 最悪よ。ドロミットは心の中で吐き捨てる。
「……言ってくれるわね。お生憎様。誰もかれもがあんたのように、殺しと破壊を楽しむだけの野蛮な化け物じゃないのよ」
「それこそ馬鹿な話だ。私は最初から、私の役目を果たし続けている。私は敵を倒し、人を殺し、勝利するために生まれた存在」
 ドロミットは知らず眉根を寄せていた。
 謎めいた六の魔王の正体。
 この男の今の台詞は、その正体を追うならば無視してはいけないものの気がする。
 しかし緊迫した今この場で、それ以上考える暇は与えられない。
「鉄帯はこのまま自滅か、あの星狩り共に殺されるだろう。貴様ももう用済みだ、灰かぶり」
 六の魔王が不気味に優しく微笑む。その微笑みの名を人は殺意と言う。
「どうせ茨の魔女に負け死したその身だ。私が今、魂を縛る呪から解放してやろう」
「それって要するに、自分の力を増すために私を喰らうってことでしょ! 絶対にごめんだわ!」
 セルセラの使い魔勧誘より余程質の悪い宣言に、ドロミットは全力で抵抗する。
 ――そうだ、この男はいつだって、そうやって自分たち力の弱い魔王を喰らう機会を狙っていた。
 この魂と同化した“黒い星”を手に入れ力を増すために!

 ギィン!

 なんの種族かすらわからぬ男の剣技は、魔族の剣士であるドロミットをあっさり追い詰める。
「くっ……!」
 誘い込まれた森の中では上手く翼を広げることもできない。逃亡のために白鳩に変化しようにも六の魔王はその一瞬の隙をついてくるだろう。
 もはやこれまでかと覚悟したその時だった。

「風の刃よ! 我らが敵を切り裂け!」

 朗々と響く声が短い呪文を唱え、六の魔王を襲う。
 一瞬の隙。だがそれでドロミットが六の魔王の攻撃範囲から逃れるのには十分だった。
 白鳩に変化して飛び上がった彼女を、魔女の結界が迎え入れる。
「茨の魔女、“天上の巫女”か」
「お前が六の魔王か。その節は師匠共々随分と世話になったな」
 セルセラは先程六の魔王がドロミットに見せた笑みに負けず劣らず凶悪に微笑むと、その白い指先に師匠譲りの炎の術を灯す。
「“影”を燃やせ! 炎蛇の顎(あぎと)!」
 セルセラの生み出した炎は六の魔王を包み込み、一気に燃やし尽くした。
「乱暴な女だ。今日はこれまでにしておこう」
 炎の中で人影が溶けるように崩れると、二匹の竜がからみついた意匠の剣が描かれた一枚の紙が燃えていく。
「あれが六の魔王の現身の媒体か。だから師匠は奴が火に弱いって言ってたんだな」
 現身の術の媒体は、紙や布がよく使われる。
 軽く薄く持ち運びがしやすいうえに、表面に絵や文字を書くことで複雑な魔法陣を構成し、様々な性質を発揮させることができるからだ。
 魔王本人がこの大陸を訪れなくとも、そうやって作った現身を部下の魔獣か何かに持たせれば別の大陸で暴れることができる。
「細かい話は後だ。レイルたちのところに戻るぞ、ドロミット」
「……ええ」

 ◆◆◆◆◆

 刻一刻と夜の帳が降りて暗くなっていく空の中、暴走の原因がわからないハインリヒを、星狩人三人は必死で抑え込む。
 万全のドロミット相手にだとて彼らは勝った。ハインリヒは彼女と大きく実力が違う訳ではない。勝つだけなら簡単にできるという確信があった。
 しかし、この状況が、単純な暴力で片付けることを許さない。
 その一方、この事態を力でねじ伏せることを目的としていた者たちが動き出す。
「こうなっては仕方がないな。当初の目的は達成できそうだが」
 レイルたちに加勢するでもなく事態の進展を傍観していたディムナは、自らの騎士に短く命じる。
「――やれ、クラン」
「御意」
 キン、と高く澄んだ音が一度鳴る。
 その次の瞬間には、ハインリヒの白い毛皮に真っ赤な筋が刻まれ血が噴き出していた!
「ガアァアアア!」
「一体何を!」
 レイルは非難の目で、実際に斬ったクランよりも彼に命を下したディムナを見る。
 皇帝はあくまで冷静に、レイルたちにとっては訳のわからないことを告げた。
「俺たちはもともとこうするつもりだった。クランが魔王を倒し、その栄誉を戴く。預言による周囲からのクランの評価をひっくり返すためにも」
「預言って……」
「一体何の話だよ!」
 何故殺す。それが預言のためだから?
 ハインリヒが暴れたからとか、帝国民である村人たちに危害を加えたとか、そういう理由ではなく?
「魔王の存在を利用する気ですか?」
 タルテがディムナを睨みつける。
「申し訳ないが、彼には俺の筋書き通り、魔王として倒されてもらう」
 彼らの理解など必要ないと言わんばかりに、ディムナが指示を出し、クランが剣を振る。
「ッ……! やめろ!」
 レイルは咄嗟に、クランの攻撃を邪魔するように動いた。
 少年の細身には不似合いなほど厳つい剣を全力で抑え込む。
 しかし。
(……強い!)
 刀身から伝わる重い手ごたえに思わず息を呑む。
 これまで強い強いと言われてきたレイルにとっても、出会ったことのない強者だ。
「どいてください、レイル様」
 まだ瞳に理性を残したクランが暗い表情で宣言する。
「主の命令です。俺は魔王を倒さねばなりません」
「駄目だ! まだハインリヒが何故あんなことになっているのかもわかっていないのに!」
 村人たちの避難の後、ドロミットを探しに行ったセルセラが戻ってこない。せめて彼女が戻るまでは、ハインリヒの去就を決めてしまいたくはなかった。
「レイル卿! 邪魔をしないでくれ! 俺たちも君たちまで傷つけたくないんだ!」
「じゃあそっちが剣を収めればいいだろ! ってレイル! ハインリヒが――」
 ファラーシャの警告にハッとした時には一瞬遅かった。
 クランを抑え込むのに全力だったレイルを、獣の右腕が横合いから派手に殴り飛ばす。
「レイル!?」
「だ……大丈夫だ!」
 レイルは見た目こそ派手に吹き飛ばされたが、反射的に受け身を取って自分から横に跳び、上手く衝撃を殺している。
 クランは巻き添えを拒んで大きく後退していた。
 獣は吹き飛んだレイルに狙いを定め、姿勢を低くする。レイルは体勢を直し剣を構える。
 そこへ、一際大きな音が響いた。

 ドォン!

「ガァアアアアアア!!」
 白銀の獣がこれまでの唸りとは異なる悲鳴を上げる。
「あれは……」
「エレオド軍!?」
 大きな筒を抱えた軍服の一団が、彼らから離れた丘の上で不気味に群れ成している。

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