第3章 恋と復讐と王子様
056.狂気を演じる者
『ハムレット』と呼ばれる復讐劇は、主人公の王子が復讐を遂げる代わりに何もかも失って死ぬという結末と言える。
見方によっては、そうして喪失を強調するのは良くないかもしれない。
けれど明るい話題を好む若い娘にはどうもそういう話にしか思えない。
しかし、今回オノクロタルスの街で演じられた舞台は主人公が復讐を遂げても死なずに、ヒロインたる婚約者の愛の力で復讐の狂気から自分自身を取り戻し、二人で罪を償いながら幸せになることを決意するハッピーエンドだという。
「うーん、原作者に助走をつけて殴られそうなご都合主義……」
「そこまで気にしなくてもいいんじゃないですか? 何億年前の原作者なんて」
「まぁ、一応ハムレットとオフィーリアではなく別の名前のまったくの別人の物語だから……」
「……そっちはまだいいとして、主人公が“元王子”って大丈夫なのか?」
「……どうだろうな」
考えてみれば叔父に王位を奪われたアムレートの立場はこの物語の主人公とそっくりである。
アムレートは見ていて複雑な気分にならないのだろうか。
セルセラたちが思わずこの国の「元王子」の顔色を伺ってしまう一方、ヘルミントとファラーシャの間では話が弾んでいる。
「この舞台では主人公の王子様も相手のお姫様も生き残るんです」
「大分違うんですね。復讐相手の叔父は?」
「そちらは死んでいます。王子は復讐を果たし、けれどその罪を背負い、玉座を退いてしまうのですが……」
ファラーシャは開演前に、ヘルミントから見どころ、オマージュ元の古典とどう違うのかの解説を聞いていた。
「恋人たちのどちらも、作中で一度狂気に陥るんです。自分の選択は報われない、自分の命に何の意味もないと悲観して、全てを投げ出したくなる」
なかなか重苦しい設定だ。恋人たちの片方が狂気に陥る話はそこそこ聞くが、両方とも発狂するとなると相当過酷な状況なのではないか。
憎しみの深さは、そのまま愛の深さの裏返し。この演目は役者たちがそうして狂気をどう演じるのかも見どころなのだという。
「けれど、そのまま自暴自棄にならず、きちんと自分の足で立ち上がり、それぞれ大切なもののために戦う。そういう話になっているんです」
「へえ……素敵」
「先入観なしで楽しむという意見もありますけど、私はオマージュ元を知って先の展開を予想していても何度でも感動できる名作だと思っています。ファラーシャ様もお詳しい方だから、きっと話を聞いていても楽しめると思いますわ」
「いにしえの恋物語は解説を読むのも楽しいから、そういうお話を聞くの、大好きです」
「元のお話の情感とは確かに別物かもしれません。けれどわたくしは、この希望のある結末が好きなのです。……こんなことを言ったら、自らの当然の権利を奪われて復讐した王子様に怒られてしまうかしら」
ヘルミントはちらりとアムレートの様子を窺う。
彼女は最初からわかっていてやっている。ファラーシャはそう察した。
「……きっと大丈夫」
確かにアムレートは叔父に玉座を奪われた立場だと言える。けれど彼には、まだ婚約者という希望が残されている。
オマージュ元である『ハムレット』のように、何もかも失ってしまったわけではない。
「復讐者も、愛が必要ないわけじゃないんです。……ううん、きっと誰よりも、自分には復讐以外もう何も残っていないと考える復讐者だからこそ……誰かの愛が必要なんです」
「ファラーシャ様……?」
ヘルミントが不思議そうな顔をする。
「ごめんなさい、王子様のお気持ちはきっと誰にもわかりませんよね」
「ええ。でも……」
彼女の方でもファラーシャの事情を知らないなりに何か察したのか、一見何気ない素振りでけれどその瞳は真剣にこう告げた。
「わたくしも、信じたいわ。たとえ復讐の炎に身を焦がすその人でも、いつか、愛によって救われることを」
◆◆◆◆◆
開演のベルが鳴り、重厚な緞帳が上がる。周囲を静けさが包み、大勢の観客が煌びやかな歌劇に魅入られている。
その中で、レイルは一人、尻がもぞもぞとするような落ち着かなさを味わっていた。
舞台上では美麗な役者が甘い恋心を砂糖菓子のように飾りに飾って訴えている。
正直胸焼けがしそうなのだが、もともと楽しみにしていたファラーシャはもとより、開演前にはなんだかんだ言っていても結局真剣に見ているセルセラたちにそんなことを言うわけには行かない。
一人で耐えねばと内心悶えているレイルに、隣に座っていたエルフィスがひそひそと話しかけてくる。
「……ちなみにレイルさんって得意ですか、こういうの」
話しかけられたのをこれ幸いと、レイルは正直な気持ちを打ち明ける。
「実は、落ち着かないのです。古典なら教養として一応内容は理解できるよう子ども時代に教育されましたが、俺は暗闇で他の人々がどう動いたとかそういうものが気になってしまって」
「私もです……人と別のところに神経を尖らせるくらいなら、無心で剣か槍を振っていたい……」
同じ物語でも、自分のペースで小説を読むのならまだマシなのだ。しかし劇場で演劇を鑑賞するという行為になると、途端に自分は向いていないのだとわかる。
「というか、男って自分が好きな女性のことはともかく、他人の色恋話って正直興味ないですよね」
「確かに……」
所謂恋物語というものの良さが、根っからの体育会系二人にはわからなかった。女性はどうして他人の恋愛過程にそのように深い興味を抱けるのだろう。恋をする事情など人それぞれ、上手く行ったなら良かったね、失敗したなら残念だったね、と、結果だけ見て言ってはいけないのだろうか?
こんなところで首を傾げていても仕方がない。しかし、自分たち以外の男もそうではないか。
「アムレート閣下は……」
エルフィスとレイルはちらりとアムレートに目をやる。
そして二人で目を瞠った。
アムレートは舞台から僅かに視線を背けて別の場所を注視している。
――自らの叔父、フェング王の方を。
奇しくも舞台では、父王が亡くなって後継者の資格も失った王子が叔父による暗殺を疑って葛藤しているところだった。
そこへ父親の亡霊が現れて、息子に自分の仇を取ってほしいと唆す。
フェング王はそれを見て――動揺、したようにレイルたちの目には見えた。
舞台を見て動揺する叔父。
その叔父の様子を観察する甥。
二人は、もともとこの国の王位継承権を争っていた。
すべては二年前、アムレートの父、先代国王が亡くなったことから。
「……」
レイルとエルフィスは、こっそりと視線を交わし合った。
◆◆◆◆◆
王位も何もかも捨てて新たな道を進むことを決めた恋人たちの背を、夜明けの光が照らしだす。
原作ではこちらも死ぬはずの恋人の兄が生き残って、王子の友人と共にその背を見送っている。
「……素敵な舞台」
ファラーシャはぽつりと呟いた。誰に聞かせるというでもなく、感想自体が思いがけず零れ落ちる。
やはり人は死んだ。復讐は果たされた。その巻き添えで、王子は恋人の父親まで殺してしまった。
けれど物語はそこで終わらず、親世代の死の罪を背負いながらも、若者たちは自分たちの幸福を掴み取るために歩き出す。
その道筋や心情を、美麗な役者たちが時に激しく、時に切なく歌い上げる。
一見煌びやかな衣装も、ただの夢の時間の象徴ではなく、ひとたび登場人物たちの葛藤と狂気の演出に入るとそれが美しいだけに凄まじい迫力となって見るものの心に訴えかける。
演目が終わると万雷の拍手と共に幕が上がり、劇場が明るくなった。
観客たちの興奮のざわめきが、日常を取り戻す。
「それなりに面白かったな」
「そうですね。期待していたよりは。あらすじを聞いた時よりはご都合主義的な印象が薄れて、オマージュ元を意識しなければ最初からこういう話として納得できそうですよ」
「すごいな。俺は恋物語には疎いが、それでも最後の方は引き込まれて見ていた」
ファラーシャ以外の三人は所詮は付き合いだと斜めに視るつもりだったが、想定したよりも楽しめたことに素直に感謝して舞台上の役者たちと幕の奥でこの演劇を作り上げた関係者たちに拍手を送る。
「皆さま、楽しんでいただけましたでしょうか」
「すっごく面白かったです!」
アムレートの質問にファラーシャが満面の笑みで答えた。
「復讐者の王子様に感情移入して見ていたから、最後に恋人のお姫様の手をとって生きるって決めたところで泣きたくなっちゃいました」
「おや……? ファラーシャ様はそちらなのですね? てっきり女性は姫の方を我が身に重ねて見るものかと」
「え? ああ、そうですね。お姫様も素敵でした」
「……」
ファラーシャの事情を知っている三人は思わず沈黙したが、アムレートはそれほど気にはしなかったようだ。
「かまわないじゃありませんか、アムレート様。どちらにしろ、みんな元王子殿下の幸せを願っているのですわ」
「ああ、そうだね」
「……あの王子は、幸せものだよ」
「アムレート閣下?」
「なんでもありません。やはり良い話を書く脚本家だなと思いまして。ほら、終幕の挨拶に舞台に役者と共に出てきましたよ」
再び幕の上がった明るい舞台に、演者一同の奥に見慣れぬ人影が登場している。
「一番左端の、背の高い金髪の男性……でしょうか」
「てか、仮面?」
「それにしても、随分背が高い人だな。まるで……」
ファラーシャのようだ。仲間の三人は直感的にそう思った。それと同時にファラーシャが椅子を鳴らして立ち上がる。
「ファラーシャ?」
王侯貴族向けのバルコニーは、もともと観劇を口実とした密会などに使われることもある。
会話内容などが一般客に筒抜けにならないよう配慮されているのでこれまでの一行の会話もファラーシャが椅子を倒した音も目立たなかったが、それでも隣り合って見ていたセルセラたちは驚く。
ファラーシャの驚愕の眼差しは、舞台上の仮面の脚本家に注がれている。
「――」
言葉にならない唇の形を、仲間の三人はそれぞれに読み取った。
「おじさま」、と。