天上の巫女セルセラ 059

第3章 恋と復讐と王子様

059.真夜中の邂逅

 澄んだ空気に星も輝く真夜中、とある宿屋の一室で、明かりもつけぬ暗闇の中に紅茶を淹れる音が響く。
「ほらよ」
 明かりもつけぬ暗い一室。その光景に不似合いな紅茶の馥郁とした芳香。
 セルセラは用意した茶器を並べ、茶菓子を皿に乗せて差し出した。
『……いただきます』
 幽霊の少女は最初はおずおずと物体の質感を確かめるように怖れながら触れていたが、やがて意を決して口を開き、半透明の指先でつまんだ菓子を運ぶ。
『……おいしい』
「そりゃ良かった」
 その反応を確かめるとセルセラも微笑み、自分の分のカップに口をつけた。
 人見知りの幽霊少女――その名を、元三の魔王、ゲルトルートと言う。
 レイルに不老不死の呪いをかけ、今もその身にとり憑く呪いの根源たる存在だ。
 深夜のお茶会の目的は、彼女から八十年前の詳細を、彼女の視点で聞き出すことにあった。
「……そうか。ならお前は別に、レイルの仲間たちを殺したくて殺したわけじゃないんだな」
 レイルの視点では、ゲルトルートは彼らの祖国キノスラを脅かす、恐ろしい魔王だった。
 もともとレイルと彼女は顔見知り程度の間柄であったらしいが、レイルは彼女の内面と言えるものをまったく知らない。
 生まれつき病弱で、貴族と言えど存在を持て余されていたゲルトルートは常に心の裡に孤独を抱えていた。そして生き延びるために背徳神の誘惑に乗り、魔王となった。
 レイルは魔王を退治に赴いた氷の城で、討伐すべき魔王が、顔見知りの病弱な少女であったことに気づいた。
 そしてゲルトルートがレイルの仲間の騎士たちを殺したため和解は不可能と判断し、女子供に甘い彼としては珍しく、「魔王ゲルトルート」を討伐するために戦った。
 しかしこの話を、ゲルトルートの視点から見てみれば。
『だって私……魔法以外何も使えない……』
「……あー、あーそうだな……剣しか使えない奴らにとっては魔導は高度なものだと思われがちだが、そういうわけじゃないんだよなー」
 事情を聞きだしたセルセラは頭を抱える。
 八十年前、レイルの仲間をゲルトルートが殺した。それは両者のしこりとなっている。
 レイルは自分のことに関しては驚くほど相手を恨まないので、自分を呪っただけならばゲルトルートをも許すかもしれない。
 しかし、彼女が殺した仲間のこと、レイルとゲルトルートの戦いが間接的な理由となって死んだ聖女エスタの存在がある限り、彼は騎士として魔王を許せるはずもなかった。
 セルセラはレイルの呪いに関して気軽に解いてやる気はまったくないが、一応あれがどういう現象で解くことができるのかできないのかまでは調べて把握しておく必要性を感じていた。そのためにまずは八十年前の当事者両方の情報が欲しいと、幽霊となったゲルトルートに根気強く話しかけて心を開かせた結果がこれだ。
「言われてみれば、それまで剣を握ったこともないだろう少女にできる身を護る手段など限られていますよね」
 呼びもしないのに当然の顔でお茶会に参加していたタルテが頷いた。
 暗闇に魔導の光を灯した角灯だけが光源である一室で、昼間の明るい食卓と同じように迷わぬ手つきで優雅にカップを傾け、遠慮なく焼き菓子を頬張っている。
「僕たち魔導士にとって、魔導は一番手近な手段だ。その結果が目的に沿わずちっとばかし派手になりすぎちまうのも、魔導士であればよくあること。だがこの青の大陸では、そういった魔導士への理解が進んでないからな……」
 セルセラからすれば、悩ましい問題だ。
 ゲルトルートは希代の魔導士としての才能こそあれど、己の能力を十分に制御できているわけではなかった。そのまま魔王になってしまったため、いざ武器を向けられて身の危険を感じた咄嗟の場面で力を制御できなかったのが、八十年前の蟠りの根幹にある。
 宗教勢力は魔導士と対立する。宗教勢力が強い青の大陸では、魔導は永く受け入れられない価値観であった。ゲルトルートが家族に引け目を感じていたのは、病弱であることに加え、その突出した魔導の才能も大きな理由だ。誰も当時彼女を導く人間がいなかった。
 それを魔導士でないレイルに話して、理解を得られるだろうか。
 レイルの性格上、理由や理屈として頭では受け入れても、そこで相手に譲歩して頷いてしまえば、心の納得には遠ざかる。
 ゲルトルートの事情はあくまでもゲルトルートの事情。
 被害者であるレイルにその事情を考慮しろというのは無情で理不尽な判断である。
 セルセラの本音としてはそういうことはしたくないのだが、レイルがゲルトルートに向き合い八十年前の出来事に対する心の整理をつけねば、不老不死の呪いを最も自然な形で解くことはできない。
 口には出さないが、セルセラは内心で厄介だと呟く。
「時間をかけて魔導士というものの実態を教えるしかないのでは? そのためには未熟な魔導士を見せる必要があるのであなたではむしろ役不足になりますが」
「放っとけ」
 レイルが己に不老不死の呪いをかけたゲルトルートの感情を理解するためには、まず魔導士そのものへの理解が必要になるだろう。
 タルテの指摘は尤もだが、現在レイルの最も近くにいる魔導士はセルセラだ。これでは結局自分がどうにかしなければならないことを改めて確認しただけである。
「八十年前か。まだ十四歳の僕としては昔々の話なんだがな」
 それだけの時間が過ぎても消えない痛み、捨てることのできない過去に対し、今の時代を生きる自分が何を言えると言うのか。
 レイルも、そしてゲルトルートも、絡まり合った感情そのものを解かなければ本当の意味で救われることはないだろう。
 だがどうやって?
 人を救う、その心を救うというのは、口で言うほど簡単ではないのだ。
「レイルと話し合ってみたりとかは……」
 ゲルトルートは慌ててぶんぶんと首を横に振って拒絶した。
 もともと彼女は人見知りであり、家族にも誰にも本当の意味で心を開くことはできなかった少女である。さまざまな因縁のあるレイルに気軽に話しかける勇気などあるはずもない。
 溜息を隠さないタルテが言う。
「まあそれができていれば八十年もこのままでいはしませんよね。話したいならセルセラがいくらでも今まさにこの魂を降臨させた! みたいな演出をしてくれるでしょうが、本人にその覚悟がないうちは無理ですね」
「そんな僕がうさんくさい拝み屋みたいな」
 軽口を叩き合う二人に、ようやく少しばかり自分から話しかけることを覚えたゲルトルートが尋ねる。
『覚悟って……どういうもの?』
「……あなたが望む結果を引き寄せるために、自ら行動を起こし、例えそれが計画通りに行かずに失敗しても全てを受け入れる決意でしょうか」
『だったら私……覚悟なんてできない』
 タルテの言葉に、ゲルトルートは俯く。
『また失敗するのは怖い。私は誰からも必要とされなかったのに、いらなかったのに、今度もそうなるのは嫌……』
 セルセラが次の言葉に迷う合間に、タルテは迷わずばっさりと言い切った。
「軟弱ですね」
『……!』
「でもまあ、普通の意見だよな。誰だって失敗は怖いし辛い」
「人間は誰しも軟弱ですから」
 いきなりきついことを言い出したタルテにゲルトルートが涙目になるが、安心してほしい。タルティーブ・アルフという人物はゲルトルートに特別厳しいわけではない。この世の物事全てに対し平等に極悪なまでに厳しいだけである。よく考えたら何も安心できる要素はなかった。
 話を戻すが、失敗ができるのは、それを許してくれる環境があるものだけだ。そうした環境に恵まれないものも現実に存在する。
 絶対に失敗できないというプレッシャーほどつらいものはない。
『あなたたちは』
「ん?」
『失敗なんて、したことがないと思ってた』
 ゲルトルートの本音を聞いて、セルセラとタルテは顔を見合わせた。
「それは買い被りってもんだ」
「失敗なんていくらでもしてきましたよ。私は失敗などしていませんが何か? という顔をするのが得意なだけです」
「そういやタルテって自分はなんでもできるぜって顔してるくせに割とつまんないことで失敗するよな。この前のあれだって」
「セルセラ?」
 タルテが笑顔ですごんでくる。無言の圧力に、セルセラは唇を尖らせながら追撃を断念した。
「はいはいわかったよ。……ん? どうしたカティア」
 そんな暗くも賑やかな一室に、ふいにもう一人の幽霊が現れた。
 淡い緑の光が集まり、胎児のような赤子の霊体の姿をとると、ゲルトルートを慰めるようにその膝に控えめに懐く。
『あうー、だー、うー』
『……赤ちゃん』
 自分より更に幼く過酷な運命に晒された魂には親近感が湧くのか、ゲルトルートの方でもカティアの姿を見るとほっとしたような顔をする。
 ひょんなことからセルセラが預かったこの赤子の霊体は、いつかセルセラが子を生む際に宿る魂として来世を予約している。普段はセルセラに同化してほとんど一日中眠っているのだが、何かあるとこうして姿を現わす。
 その姿を見ながら、タルテはあることを思いついた。
「そうだ……こういうのはどうでしょう?」
「いい案があるのか?」
「今からレイルに恩を売っていけばいいのですよ。だってあなた、今でもいくばくかの魔導が仕えるのでしょう?」
『……恩を、売る?』
 ゲルトルートがきょとんとした顔になる。
「意識的にレイルを助けることによって、誰かの役に立てる自分になる。その末に覚悟が決まったら、その時こそレイルの前に姿を現わせば良いじゃありませんか」
「なるほどな。一人ならただの怪奇現象だが、今なら僕たちが全部見ていてそれを証言してやれるしな」
 ゲルトルートはそんなことができるのかと困惑する。この八十年、レイルにとり憑くと言っても何をした訳でもなく、彼女はただ生者たちのやりとりを見ていることだけしかできなかった。
「己への自信や揺るぎない覚悟を作るものは、あくまでも己自身の努力と実績なのです。そしてそれは今からでも遅くない。何故ならここに、死者の魂にも関わらずセルセラと縁を繋いだカティアがいるのですから」
『きゃっ! きゃっ!』
 タルテに頭を撫でられたカティアが無邪気に笑う。
『今からでも遅くない……? 全部自分自身の努力で……?』
 ゲルトルートはまだ戸惑った顔をしている。
「お前はレイルのために何かできそうか」
『……虫から守るくらいなら』
「虫?」
『この国に入ってから、何度か刺されそうになってるから』
「……そうか」
 ゲルトルートの持つ莫大な魔力に対して細やかすぎる効果のような気もしないでもないが、まあこうしたものは積み重ねだろう。
「そう焦らずとも、じっくり考えりゃいいさ……ん?」
 話に一区切りがついたところで、セルセラは隣の部屋から人が抜け出す気配に気づく。
 アムレートは自身の城を使えと言ってくれたが、セルセラたちは鉱山の病人たちを看病するために、街中にあり大通りに面した宿にあえて宿泊していた。
 この部屋を含む三部屋を借りて、一部屋はこうして夜のお茶会や研究などをするセルセラの部屋、一部屋はファラーシャとタルテの部屋、一部屋はレイルの部屋として使っている。
 隣の部屋は今、ファラーシャが一人で眠っているはずだった。
 タルテが窓から見える大通りに面した玄関から出てきた人影を指さす。
「ファラーシャ? どこ行くんだあいつ」
 昼間のように魔導外装をきちんと着込んだファラーシャが、深夜にも関わらずどこかへ出かけようとしていた。

 ◆◆◆◆◆

 ここ数日ですっかり覚えた道も深夜では大分印象が異なる。
 だがハシャラートの視力と物覚えの前では敵ではない。
 ――今夜、もう一度ここへ来て。父さんが全てを話すから。
 昼間、従兄弟のアルライルと再会したファラーシャは、夜半にその言葉通りに劇場へ足を運ぶことにした。
 人のいない夜の街は当然真っ暗で、ファラーシャは一応自分で用意した角灯を持って歩いた。
 ハシャラートの視力ならば明かりがなくても大丈夫だが、明かりもなく歩くのは完全に危ない人間でしかない。
 病人が多く静かすぎるほど静かな街並みを歩き辿り着いた先の劇場の中も当然真っ暗だった。
 施錠がされていなかったのは、アルライル――そしてゼィズが彼女をこの劇場に呼び寄せたかったからだろう。
 しかし昼とはがらりと雰囲気を変えた夜の劇場で、真っ先にファラーシャを迎えたのはその二人のどちらでもなかった。

「……母様」

 通路は真っ暗だったのに、劇場のホールには舞台の中央を天井から照らすための明かりが灯されていた。
 その舞台の上に、昼間は見かけなかった細長い箱がある。
 人一人横たえるための――それは棺だ。
 白い棺の中、花に埋もれて冷たく横たわる美しいその人は、ファラーシャがこの五年間、ずっと探し求めていた母親だった。

「ついに辿り着いたか、ファラーシャ」
「伯父様」

 懐かしい声にファラーシャは振り返る。
 生きていた。生きていてくれた。
 けれどあなたは私を置いて行った。
 何も言わず、何も知らせず、逃げるかのように。
 だから――追いかけるしかなかった。誰も知らないあの日の真実を。

「うん……会いに来たよ」

 母の死に顔と対面し、あの日から行方知れずだった伯父と再会したファラーシャはその伯父・ゼィズを強く睨みつける。

「どういうことか教えて、伯父様。あの日――私たちの村に、何があったの」

 ◆◆◆◆◆

 セルセラとタルテが叩き起こすまでもなく、眠っていたレイルはファラーシャの抜け出す気配に気づき、身支度をすでに整えていた。
 もともと旅先なので装備のすべては解かずにいつでも出れるようにしていたのだ。
「セルセラ、タルテ。お前たちがいるということは、やはり出て行ったのはファラーシャか」
「ああ。追うぞ」
 三人は合流してファラーシャの気配を追いかけた。
 真夜中の暗い街を明かりも持たずに駆けていく。
 しかし劇場の目前で耳にした風切り音に、咄嗟に足を止めた。
「これは……!」
 セルセラが驚いて声を上げると同時に、劇場を囲むように一斉に明かりが灯された。
 劇場の前に、ダールマークの軍服を着た兵士たちが並んでいる。しかし彼らが掲げるのはあくまでもサーベルであり弓ではない。
 地面に突き刺さった矢が示すものはあくまでも警告と足止め。
 セルセラたちが彼らの気配に気づく前のぎりぎりの距離から矢を射ってきたのは、一人だけ軍人には見えぬ格好をした黒髪の青年だった。
「あんたは誰だ。――僕らの知る誰かさんに、よく似ているようだけど」
「……一族内では従兄妹同士なのによく似ていないと言われたものだが、外から見ればやはり俺たちは似ているのか」
「今はここが外だぜ。ファラーシャのやつ、一族はみんな死んだみたいに言ってたんだけどな」
 一行を足止めした青年は、髪の色により印象が大分違うにも関わらず、ファラーシャとよく似ていた。
「俺はアルライル。アルライル=ハシャラート。……あなたたちと一緒にいたファラーシャの従兄妹だ。俺の父の弟が、ファラーシャの父だ」
「あんたの父親は、ファラーシャの伯父さんってわけか」
「あなたの父親は、あの劇場の脚本家ですか? 金髪で背の高い、仮面の男」
「そうだ」
 セルセラたちの端的な質問に、アルライルは頷く。
「それで、周囲の“お友達”は何の用だい?」
「俺の父がファラーシャと話す時間くらいは、誰にも邪魔されたくないのです。例えこれまでファラーシャを支えてきた仲間たちであっても」
 問われた核心にもあっさりと答えてくれたが、その分ここを素直に通してくれる気配もなさそうだ。
「三人を足止めするのにその数の兵士はさすがに多すぎやしないか?」
「魔王をも倒す星狩人相手にはこのぐらい必要でしょう」
「その程度の兵士で僕たちを足止めできるとは、見くびられたものだな」
「十分でしょう? あなた方は、人間を殺せないのだから」
 アルライルの合図により、劇場前ではなく周辺の路地裏、建物の影からも次々とダールマークの兵士が登場する。
 しかし彼らの軍服の様子や顔ぶれは、この数日で見慣れたアムレートの配下たちとは違う。
「ここはアムレート元殿下の領地のはずだが、その兵士たちはフェング王の差し金か?」
「我らの一族に他にはわからない事情があるように、フェング王にも事情があるようです。俺の父は……彼と意気投合し、協力を約束した」
「そんなことまで喋っていいのですか?」
「かまいません。だって、ほら」

 アルライルが指さす先の空、ファラーシャが伯父と連れ立ってどこかに飛び立っていくのが見えた。

「ファラーシャ!」

 ハシャラートの蝶の羽が、夜闇の中で燐光を放つ。すぐにでも追いかけたいが目の前のアルライルがそれを許してはくれないようだ。
「どうせこれが、俺たちの最後の戦いになりますから」
 アルライルの瞳に浮かぶのは、静かな諦めと悲痛な決意だった。