天上の巫女セルセラ 063

第3章 恋と復讐と王子様

063.帰れぬ船

 異形化したゼィズは正気を失い、目に映る「生物」を手あたり次第に襲うのだろう。これまでとは違う化け物の形相で、ファラーシャにも襲い掛かってきた。
「伯父様……!」
 地面を穿つ素手の一撃に破壊力はあるが、攻撃そのものは酷く単調だった。並の人間ならば躱すのにも一苦労だろうが、特殊民族であるファラーシャの敵ではない。 
「ファラーシャ!」
「セルセラ、レイル、タルテ、それに……」
 魔獣との戦闘と同じように、ファラーシャの頭が勝手に攻略法を探し始めた時だった。
 星狩人の仲間たちは、自分を追って来たらしい。何も言わずに宿を出てきたけれど、やはりセルセラたちを誤魔化し切ることはできなかったようだ。
 そして、その顔ぶれの中に従兄弟のアルライルが混じっているのも見て取った。
 ゼィズの傍にアルライルがおらず、セルセラたちと一緒にやってきたということは、結局彼らはこの事態までも計算していたのだろう。ゼィズがファラーシャへ過去の真実を説明している間、アルライルがセルセラたちを足止めし、結局丸め込まれて共にここまで駆けつけた。
「話は聞いたぜ。僕たちの手はいらないとは思うが――」
「うん」
 察しの良いセルセラの言葉に、ファラーシャは迷わず頷く。
「私一人でやる」
 これは、自分がやらなければならないことだから。

 ◆◆◆◆◆

 族長であった父が死んだ以上、長を継ぐのはファラーシャしかいなかった。
 自分と伯父と従兄、三人しか残っていない一族の長と言うのも滑稽な話だが。
 そして「三人」は、今から「二人」になる。
 ――ハシャラート最後の族長の、矜持にかけて。
 異形化したゼィズの力はまさに化け物と評して構わない程だったが、もとのゼィズを知っているものからすれば、普段の彼よりも大きく劣っている。
 ハシャラートが人間よりも怪力なのは事実だが、それだけならば辰砂の作った生体兵器として怖れられるようなことはない。その力を使いこなしてこその特殊民族。
 化け物となり果てたゼィズには、以前の彼のように己の全てを理解してどんな状況にも対応するような戦術も機転もなく、ただ力任せに攻撃してくるだけ。
 それでもファラーシャは、村を出ていなければ、実の伯父の変異に驚いて、実力を発揮できず殺されたかもしれない。
 村の外で真実を探していたこの五年は、決して短い時間ではない。
 星狩人になり、仲間と協力して、魔王を倒すに至った。
 一つ一つの道のりが自分に、村の中にいた時には知らなかった世界を教え、それを乗り越えた自信を与えてくれた。
 異形化して元の知性を失ったゼィズなど、すでにファラーシャの敵ではない。

「全部、終わらせるよ」

 唸りを上げて飛び掛かってくるゼィズの攻撃を交わし、分厚い外殻と化した胴体に蹴り込む。
 崩れた体勢を立て直そうとする隙に顎に一発入れ、足元を払う。
 そしてファラーシャはハシャラートの翅で夜空に飛びあがった。
 肉体の頑強さは人間に酷似した外見を持つときより異形化した今の方が強いのか、人体の弱点の一つである顎にきつい一撃を食らった割にはゼィズの回復は早い。
 ファラーシャを追って飛び立とうとしたゼィズを、しかし横合いから放たれた複数の矢がそのまま地に縫い付ける。
「アルライル……!」
「父さんのことだ。俺だけ、何もしないわけにはいかない」
 援護がなくてもファラーシャが勝っただろうが、これによりゼィズの反撃は封じられ、怪我を負う心配はいらなくなった。
 従兄妹同士の、これが最初で最後の共闘だ。
 自分たちに戦闘を教えてくれた師であり、大切な家族を打ち破る。
 ファラーシャは星狩人となって手に入れた辰骸環ではなく、一族が最初から保有していた神器を起動させた。
 天空から地上のゼィズに向けて、矢を放つ。
 神器の矢は髪を媒介に魔力でできた一本の矢が無数に枝分かれし、夜空に尾を引く流れ星の如く降り注ぐ。
 それは審判か、それとも祝福か。
 暗い夜空にその無数の光が浮かび落ちる様子は、その凄惨な背景を一瞬忘れそうになるほど美しい。
 異形化したゼィズはいつの間にか、アルライルの矢に縫い留められているからだけではない理由で動きを止めている。
「……さようなら、伯父様」

 大好きだったよ。私の初恋の人。

 ◆◆◆◆◆

 どうしようもなく変異したように見えて、撃破されたら元の姿に戻るのは残酷ではないのか。
 ハシャラートを変異させた毒の存在に、ファラーシャが五年前気づかなかった原因でもある。
 呪毒に侵された者たちは、それでも最後には本来の姿を取り戻す。
 村に転がっていた死体は総て、ファラーシャの見知った顔立ちにものばかりだった。そこで彼らが毒により異形化して暴走し、一族同士で壮絶な殺し合いを行ったなど想像もできない程に。
「父さん」
 アルライルが血に塗れたゼィズの身を抱き起す。
 瀕死のゼィズは周囲に軽く視線を彷徨わせたが、まずはアルライルに目を止めた。
「随分と……立派になったものだ」
「父さん?」
「まだまだ子供だと思っていたが……お前はもう、一人前の戦士なのだな。私がいなくても、生きていける」
 体の弱い息子を案じ続けた父親は口元に微笑みを浮かべる。
 弱いから守らねばと思い続けていた。けれど、本当は息子を守るという名目で、自分自身が救われたかっただけなのかもしれない。
 そんな心弱さの生み出す夢や幻想は、終わりにしなければ。
 幻想などというものは戯曲の脚本のように、見る者を楽しませるものだけで十分だ。
 親子に近づいてきたのはその姪ではなく、彼女の仲間の一人、天上の巫女だった。

 「一応聞く? 生き残る気はあるか?」
 「セルセラ!?」
 
 死にゆくゼィズに、セルセラはそれでも生き残りたいという気持ちがあるかどうかを尋ねる。
 「噂に聞く天上の巫女か。そうだな……あなたがかつて死んだ我々の一族を全員蘇らせることができるのならば、私も復活を受け入れよう」
 セルセラが一瞬目を瞠り、僅かに唇を噛みしめると首を横に振る。
 「それは……できない」
 「ならば、このままでいい」
 人はみな平等でなければならない。
 現実はそうではないかもしれないが、少なくともゼィズはそう信じているのだから、その信念に従うまで。
 「……あなたも、難儀な人だ。全てを救える者など存在はしない。それでいい」
 ルカニドへの不審が高まって疑心暗鬼になった村の中。姿なき刺客の放った毒にまんまとかかり、全滅の有様。
 その中で皮肉か、奇跡か、毒の影響を完全に免れたのがルカニドの娘であり、僅かに逃れたのがアルライル。

 「私は己の罪を受け入れよう」

 引き延ばした命で、パスハリツァの遺体を見つけることだけはできた。
 リベラはわからない。死体を見た覚えがないので生きている可能性はあるが、生きていたら毒の影響は免れないので希望は薄い。
 「息子の方も、それでいいのか?」
 セルセラはアルライルにも尋ねる。父を見送らねばならない息子は目に涙をためて、それでも頷いた。
「ファラーシャ」
「……セルセラでも、元通りには、できないんだよね」
「無理だな。生かし続けるならさっきの化け物の姿で頑丈な牢にでも閉じ込めたまま、何年も研究を続けることになると思う。……治療法が見つかるまで、肉体は異形化し、精神も正気を失ったまま、何年も。それでも完全に救う方法が見つかるかは五分五分だ。完全に壊れた組織をそうほいほい直せるなら医者も魔導士もいらねえ。」
 魔導は怪我より病気に弱い。
 例えばセルセラでも、一瞬前まで生きていた人間がバラバラに切断された断片を繋ぎ合わせて再構築から蘇生することはできるが、何年もかけて病で弱った細胞の時間を巻き戻すように復元することはできない。
 セルセラがいつも簡単に治しているように見える病気と怪我は原因や治療法が確立しているものなのだ。
 魔導で治癒時間を大幅に短縮できるが治療自体は他の医者にもできるようなことしかできない。
 それでも手の回らない一部を天上の巫女の力で蘇生している。
 魔獣被害の多い昨今、蘇生を望まれるのは殺されたばかりで細胞が新しい新鮮な死体だから成り立つケースばかり。
 治癒も修復も追い付かない病に対しては、時を巻き戻すことができない人類は諦めるしかない。長期間にわたり体を変異させた毒に関しても、同じだった。
「ファラーシャ、天上の巫女殿、一つだけ頼む」
「伯父様?」
「アルライルを助けてやってほしい。私よりも変異が遅い。この子ならばまだ間に合うはずだ」
「父さん……!」
 ゼィズの傍らに膝をつき、セルセラははっきりと言った。
「ああ、約束しよう。“天上の巫女”の名に懸けてちゃんと治療する」
「……私の、最後の身内だから」
 ファラーシャも小さく頷く。
「……ありがとう」
 ふ、と微笑んだゼィズがファラーシャを見つめ、そしてもう瞼を持ち上げる力もない様子で瞳を閉じた。
「ファラーシャ、アルライル」
 姪と息子にかけるその声ばかりが、こんな時までも、しっかりしている。
「お前たち二人が結婚してくれれば、私はルカニドとの間の僅かなすれ違いだと思ったものを、お前たちの代で取り戻せると思ったのだ。結局、私が一番弱くて卑怯だったのだ。だからお前たちに背負わせることなく、自分の力でなんとかしようとしていた弟の努力に気づいてやれなかった」
 それは、弟本人に伝えてやれなかった懺悔。
 本当は兄の方も、弟が思うほど立派な人物ではなかった。
 例え最後は人間に騙されることになったとしても、自分の力で事態を何とかしようとしたルカニドの意地こそ、本当はハシャラートの族長にとって必要なものではなかったのか。
 僅かな環境と立場の違いが、手を差し伸べた他者の存在が生み出すものが、どうしようもない歯車の狂いを生んで、気が付いた時にはすでに誰の手にも負えない事態となっていた。
 その原因が、「兄弟」というこの絆に、血の縁にあると言うのなら、もはやこれも否定しなければならない。
「誰もが少しずつ間違えて、もはや取り戻すことはできない。お前たちはもう、この血に囚われるな。好きなように生きろ」
「父さん」
 父の手が自分を抱き留める息子の頬に触れる。
「愛していたんだ、お前を、お前の母を。私は族長の座を譲っても、メリサのおかげで代わりに愛を知ってしまった。彼女が遺してくれたお前がいつも傍にいた。だから……少しも不幸ではなかった」

 ――伯父様だーいすき! 結婚して!
 ――それは無理だな。
 ――どうして?
 ――私は妻を愛しているんだよ。もう誰とも結婚する気はないんだ。お前はどうか、アルライルと仲良くしてくれ。

 血の近さでも、アルライルのことだけを考えているわけではなく。
 早くに亡くなった妻を愛していたと。

 そういうゼィズが、ファラーシャはずっと好きだった。

 一族の死体を探した時に父だけが取り残されて、母と姉と伯父と従兄だけ見つからなかったときの歓喜と絶望を、どのように言葉にすればいいのかわからないくらいに。

 ゼィズが現状に不満を覚えていればもっと早く村の異変に気付いていたかもしれない。
 けれどたくさんの村人に族長にならなかったことを惜しまれていた彼自身は、自分が幸せだったから水面下で起きている崩壊の足音に気が付かなかった。
 どこまでも皮肉な話。

「ようやく、私もメリサやルカニドたちのところに……」

 力を失った右手が落ちる。
 息子は父の胸に顔を埋めて静かに泣いた。

 誰もアルライルの背に声をかけられないまま、痛い沈黙だけが夜の闇に降りる。生者は何も答えず、死者にはもう応えられない。
 アルライルは泣くしかできず、自ら伯父にトドメを刺したファラーシャは泣く事すらできない。

 しかしどの道一行に、亡くしたものを想って静かに泣く時間は与えられなかった。

『セルセラ様!!』
「エルフィス!? またかよ、どうした!?」
 突如として脳内に届けられた叫びに、咄嗟にセルセラは反応する。

『どうかお力をお貸しください! アムレート殿下が、フェング王に謀反を起こしました!』
「はあっ!?」