第3章 恋と復讐と王子様
067.毒杯の行方
「うう……ダメだ……体が勝手に!」
「エルフィス!」
「陛下!!」
突如として苦しみ始めたエルフィスの姿に、セルセラやエルフィスの臣下たちは必死に声をかける。容体を診ようとしたセルセラを、エルフィスは咄嗟に突き飛ばした。
「エルフィス!」
「ダメです! 今、近づいては……! 僕は……!!」
いつもは国王として「私」という一人称を使うよう気を付けているエルフィスの口調の変化に、限界を思い知る。片腕で片腕を抑え込むような姿勢だが、抑え込んだ腕も強く小刻みに震えている。
嵐の海で、監獄の島で。襲い来たのは狂気に飲まれた魔獣たち。それが禁呪の毒だ。
「あなたを傷つけるくらいなら……!」
近くの人間を攻撃しようとする衝動に耐えるため、エルフィスは咄嗟に腰の短剣を引き抜き自分自身へと向けた。
「やめろ!!」
悲鳴に近いセルセラの叫びを飛び越えて、レイルがエルフィスを抑え込む。
「陛下!」
主君に剣を向けるのを迷ったエルフィスの護衛よりも素早く、レイルはエルフィスの首の裏に手刀を落として気絶させる。
「早くファンドーラー王をどこか安全な場所へ!」
アムレートの指示でフェング王が取り押さえられる中、ファンドーラー側はエルフィスを救うために動き始めた。
◆◆◆◆◆
寝台に簡易な拘束を施して寝かせたエルフィスの傍ら、セルセラは必死で研究書を読み漁る。
早く禁呪の無効化方法を見つけ出さねばならない。
「くっ……」
目を文面に滑らせても、焦りばかりでなかなか内容が頭に入って来なくなった。この国の禁呪に関して、今のセルセラには知識がなさすぎる。
「落ち着け、誰だって無から何かを製造することはできない。この禁呪にも、何か元となった『もの』があるはずだ」
自分に言い聞かせ、禁呪・呪毒関連の性質を少しでも解明しようとこれまでの出来事を振り返る。
「天上の巫女姫様……」
エルフィスの臣下のうち何人かはこの部屋で今も護衛を務めている。レイルやタルテ、ファラーシャもまたエルフィスが暴れ出した時取り押さえるために一緒に室内にいた。
ディフ監獄の一室は決して治療や看護に優れた環境とは言い難いが、突如として暴れ出すこともあるエルフィスの状況を考えれば色々な意味で動かすのも危険だった。
できるならば、ここで毒の組成を解明し、完全な治療法を見つけたい。
「今まで集めた情報は……」
もともとエルフィスは、アムレートの領地であるファリア鉱山の病の解決という依頼でセルセラをこの地に呼んだ。
その病こそが、他でもないダールマーク王家所有の禁呪による毒そのものだったのだ。
知らず王家の争いごとに巻き込まれていた形となる民は不憫だが、そのおかげでこれまで病の治療のために集めた情報は、毒の治療に必ず役に立つはず。そして毒の治療法がわかれば、病と目されていた鉱山街の人々も救えるはずだ。
ここでセルセラが禁呪の解毒法を見付ければ、全てを救うことができるのだ。
「セルセラ、追加の資料だよ」
「助かる、アリオス」
セルセラの養父の一人アリオスは、事情を聞いて即座に天界から毒物関係の資料を運ぶ役目を率先して引き受ける。
「一応ザッハールにも話はしたけれど、あいつが言うには症状から判断して一から解毒薬を作るより、毒を盛った手段を犯人に吐かせて血清を手に入れた方がいいって」
「わかっちゃいるが、フェングが口を割らねえ!」
今もアムレートは別室で叔父を追求し続けている。だがフェング王は決してあの場でエルフィスに毒を盛った手段を白状しようとはしない。
彼はこの結末に、己の全てを賭けると固く決意していた。
「フェングを殺せば話は早いんだが」
「それはダメだよ」
「わかってる」
生きている人間の記憶を読むのは難しいが、死んだ人間の記憶を魔導で読むのはいくらか簡単だ。
だがそれは、人として決して取ってはいけない手段でもあった。
「焦らないで、セルセラ。君はいつだって、こんな場面いくらでも乗り越えてきたはずだ」
「そうだよ。そうだけど」
苛立つセルセラを、養父の一人は優しく嗜める。
毒物の対処は、その正体を一刻も早く見極めることが肝心だ。盛られた毒の種類さえわかればすでにこの世に存在する解毒薬もわかるかもしれない。
今回は禁呪の毒によるものなので自然界に存在する毒物と完全に同じとは言えないが、構造さえわかれば解毒法も再現できる。セルセラの魔導とはそういうものだった。
逆に言えばセルセラの弱点は、正体不明のものに繊細な魔導を通じさせることができないというものでもあった。魔導で物事を解決するには、その現象を彼女自身が深く理解している必要がある。
万能の魔導を使いこなすには、術者が全知全能とならねばならない。酷い矛盾だ。
「くそっ……!」
いつになく焦った様子で吐き捨てるセルセラを、レイルたちはなす術もなく見守るしかない。
「あれだけ焦っている姿を見るのは、珍しい気がする」
「セルセラにもできないことってあるんだね」
「ですが、事態の解決までもう少しのはずですよ。ファリア鉱山の病、王家に伝わる毒の禁呪、情報は揃ってきているんです。あとはやはり、どうやってフェング王がエルフィス王に毒を盛ったのか……」
彼らはエルフィスが暴れ出した時のために待機しているが、今のところその様子はなかった。
エルフィスの容態を診察し、研究書の頁をまくりながらああでもないこうでもないと唸るセルセラを横目に、別の視点で毒にまつわる一連の出来事について考え始める。
ディフ監獄がそびえるこのペレカヌス島、そしてオノクロタルスのファリア鉱山。
二つの土地はどちらも、ダールマーク王家に伝わる禁呪にまつわる遺跡だ。
禁呪である以上解毒薬そのものが存在するとは限らないため、できればその組成が知りたい。
「毒を盛った手段や経路がわかればそこから回収できるんだが」
「ですが、天上の巫女姫様、今もアムレート閣下を中心に取り調べを続けているフェング王の身に着けているものの中には、それらしきものは何もないと」
エルフィスの臣下がすでにセルセラに報告している。一体全体どんな手段を使ったものか、フェング王はそもそも、毒物らしきものを彼の衣服のどこにも所持していなかったのだという。
「僕たちの目の前で行われたって言うのに、一体どんな手を使いやがったんだ?」
青の大陸に魔導士は少ない。フェングももちろん普通の人間だ。そもそもあの場で魔導の力が動けばセルセラには必ずわかる。
では魔導士でもない彼がどうやって、離れた場所にいたエルフィスに触れもせず毒を盛ったのか。
「あの時他に何か、変わったものがあっただろうか」
レイルがその瞬間の状況を思い出そうと瞳を閉じる。ファラーシャも彼に倣ってディフ監獄を訪れてからの出来事を振り返るが、やはり何もわからない。
「フェング王もその部下も、あの時誰もエルフィス王の近くにはいなかったのに」
「エルフィス王がそれまでに何か不審なものに触れたこともありませんよね」
タルテの確認には、エルフィスの部下たちが首を横に振る。
「当然です。もしも陛下が御手を触れねばならないようなものがあれば、先に我々の方で安全を確認します。ですが我々には何の症状も出ておりません」
「そうなるとやはり、フェング王はまさにあの瞬間、何らかの手段でエルフィス王に毒を盛ったと」
「はい、我々にはそうとしか考えられません。お役に立てず……」
「いえ、役に立たないのはこちらも同じですから」
どん詰まりの状況に、室内の空気が一段と重くなる。
「くそ……」
唇を噛みしめるセルセラの袖を、半透明な腕が引いた。
『あ、あの……』
セルセラは無言のまま目を瞠り、タルテも声を聞いてそちらを向いた。
他の者たちは、彼女――幽霊のゲルトルートの存在にそもそも気づいていない。
レイルを呪うかつての魔王であった少女、ゲルトルート。彼女の姿は見える者と見えない者がいるのだ。この場にセルセラとタルテ以外の聖職者、そして霊能力者と言われるものたちはいなかった。
『虫……虫が』
「「虫?」」
ゲルトルートのか細い声に、セルセラとタルテは思わず鸚鵡返しに声を上げる。
周囲の者たちは突然の二人の行動に首を傾げた。
「どうしたの? セルセラ、タルテ」
「すまん。ちょっとだけ静かにしてくれないか。全員」
ゲルトルートは普段、人前に姿を見せない。
セルセラとタルテには共にお茶会をする程度には慣れてきたが、それでも真夜中の他の誰にも関わることのない時間帯だけだ。
死んでからも極度の人見知りである少女は、セルセラとタルテ、元魔王仲間であるドロミットとハインリヒ、そして幽霊仲間のカティアの前にしか姿を現すことはない。
それがこんな人の多い室内であえて今話しかけてきたということは、何か重要なことに気づいたのだろう。
セルセラとタルテの視線を受けて思わずと言ったようにまたおどおどとし始めるゲルトルートを応援するように、その隣にカティアも姿を現す。
『だ!』
『……!』
ゲルトルートは意を決した様子で、再び口を開いた。
『虫……虫がいるの。青の大陸に来てからずっと。でも私、あんな虫知らない。鉱山で何度かみんな刺されそうになってた』
「鉱山の虫……?」
「何か変わった虫など見かけましたっけ?」
セルセラとタルテが眉根を寄せる。その言葉に、ファラーシャとレイルが先にハッと気づいた。
「あの蝶!」
「鉱山街の子どもたちの家にいた、この付近では見かけない蝶か!!」
「そうだ! いた! いたよ確かに――エルフィス王が倒れた時に、蝶が!」
エルフィスが倒れた時、誰も彼に近づいてはいなかった。誰もその存在を気にも留めないような、一匹の蝶以外は。
「蝶が毒の媒介? 毒というよりも、感染症に近い奴だな!」
「同じ蝶を探して捕まえてきましょう。レイル、詳しい特徴はわかりますか!」
「俺が行く! 青の大陸では見かけない種類だからすぐにわかるはずだ!」
「私たちも出ます!!」
タルテとレイルの会話に、エルフィスの部下たちが混ざった。警護の人員は最低限で良さそうなので一人を残して後は蝶を探しに出ると言う。
室内が俄に慌ただしくなる。セルセラは言葉で返せない代わりにゲルトルートの頭を撫でると、すぐにエルフィスの治療を再開し始めた。
これまで手あたり次第に開いていた研究書から、感染症に絞ったものを開き直す。
「じゃあ俺は世界の虫図鑑を持ってくるよ」
「頼むアリオス!」
アリオスは再び天界の書庫で必要な資料を探すために姿を消した。
そんな皆の様子を眺めながら、ファラーシャは自分の中で様々なパズルのピースが嵌まっていく感覚を覚える。
紅い蝶が飛んでいた。今、ようやくそれを思い出した。
見ていなかったわけではないが、意識することがまったくなかったのだ。
ファラーシャ、「蝶」という意味の名を持つ自分にとって、それはあまりにも身近な存在過ぎた。意識しなければ視界に入ったことを忘れるくらいに。
紅い蝶が飛んでいた。赤い赤い炎が燃えていたあの日。
どうしてあの場に「敵」である、村を滅ぼした人間の姿がなかったのかようやくわかった。
ルカニドが自らの血を売り渡した相手が作ったという呪毒。彼らはそれを使いハシャラートの村を滅ぼした。
蝶を使って。
レイルたち青の大陸生まれの人々は見たことがない種類の蝶だと言う。けれどファラーシャたちの村があった黄の大陸では、あの透き通るような紅い翅をもつ蝶は、あまりにも見慣れた種類だった。
本来は毒を持つ種ではない。だからもしかしたら、あの日の故郷の村やこの大陸のところどころで見かけた蝶は違うのかもしれない。
「蝶か……なるほど、このディフ監獄の遺跡に封じられた最も重要な禁呪。『毒を媒介する魔獣の幼体』の正体ってことか」
オノクロタルスの遺跡で毒を、ペレカヌス島の遺跡で毒を媒介する魔獣の幼体を作り、それぞれ封じた。
それが、ダールマークの管理する禁呪の本当の正体。
「呪毒に狂った無数の魔獣たちは、それを隠すための目晦ましだったと言うのですか……!」
「おそらくは」
セルセラの辿り着いた結論に、タルテが歯噛みする。
遺跡から人を襲う大量の狂暴な魔獣が発生している最中、小さな蝶の一匹一匹に気を配るものは確かに滅多にいないだろう。
――病気はいつから?
――二年前だよ。
――この蝶、しばらく前から見かけるようになったんだ。
――そういえば、この蝶をよく見かけるようになったのも二年前だったかなぁ。
ファラーシャたちハシャラートの村が滅びたのが五年前、生き残った伯父ゼィズは息子のアルライルを連れ青の大陸へ。
ディフ監獄に冤罪の者たちが収監され始めたのが四年前。ゼィズと出会ったフェング王がその頃から行動を開始していたとすれば辻褄が合う。
そしてディフ監獄が狂暴化した海の魔獣たちにたびたび襲われるようになった時期と、ファリア鉱山街で紅い蝶が見かけられるようになった時期が二年前と一致する。
坑道に一緒に閉じ込められた縁で仲良くなった子供たちが言っていたではないか。謎の病が流行り始めたのも、この蝶を見かけるようになったのも、同じ二年前だと。
竜骨遺跡に眠れる禁呪。世界各地に竜骨遺跡を創った創造の魔術師・辰砂。
創造の魔術師・辰砂に作られた――特殊民族。
ゼィズはあの日自分たちの故郷を滅ぼした呪毒とダールマークの禁呪は違うものだと言っていた。けれど媒介として同じ蝶の魔獣を使うくらいならば、その性質は似て非なるものの、かなり近しいことは確かではないか。
それならば。
「セルセラ、私の血を使って」
「ファラーシャ?」
「あの日、私の村にもいたの。紅い蝶。きっとこの大陸よりも故郷の黄の大陸の方がいっぱいいる。同じ毒なら父様の血から毒を作ることができたように、私の血からだって、その」
考えたことを一気に口にしようとしてファラーシャの説明が支離滅裂になる。だがセルセラの方が持ち前の察しの良さで意図を汲んでくれた。
「なるほど、同じ創造の魔術師・辰砂に作られた禁呪と生体兵器。お前がそれを近しいものだと感じるなら、きっとそうなんだろう。レイルたちが蝶を捕まえてくるまでに、お前の血を分けてくれ」
「うん!」
セルセラはすぐに特別製の注射器を取り出し、ファラーシャの血を抜き始める。
未だ意識の戻らないエルフィスの枕元が大分慌ただしくなった。その喧噪に紛れてこの物語の、最後の役者もついにこの場所に到着する。
「それが呪毒ならば、ファラーシャの血だけでなく、毒に侵された血も必要だろう」
「アルライル!」
フェングの兵士たちと相談し、彼らに王宮でアムレートの手勢と交渉するよう頼み終えたアルライルが、王宮の魔法陣を使ってようやくこの島へと辿り着いた。
「ハシャラート本来の血液と、毒に侵された血液。そして蝶を媒介とした禁呪の毒。これだけあれば……!!」
解毒薬であり、解呪の技でもある治療法を新たに創出する。
この夜最後の、セルセラの戦いがついに始まった。
◆◆◆◆◆
打てる手はすでに全て打った。後はセルセラが解毒薬を完成させるだけ。
疲れ果てた人々はそこかしこでもう眠りについているディフ監獄で、ファンドーラー王エルフィスの治療にあてられた部屋だけが夜通し蝋燭と魔導の火をありったけ灯していた。
けれどその時間もようやく終わる。
「う……」
「エルフィス」
ようやくできた治療薬を打たれたエルフィスが意識を取り戻し、自分の目の前に立っていたセルセラをまだ熱の残る瞳で見上げる。
「……正気は戻ったか?」
確かめるように問いかけるセルセラに、普段から彼女に愛を告げてやまない少年王は微笑んだ。
「あなたはいつだって、僕にとっての女神です」
「この大馬鹿野郎が……!!」
台詞とは裏腹の喜色を浮かべ、セルセラはエルフィスの首元をそっと抱きしめる。
ファンドーラーの護衛たちも目に涙を浮かべてその光景を見守っていた。
平穏と喜びをようやく取り戻した室内を、ファラーシャはそっと抜け出す。
そして誰もいない廊下を、出口に向かって駆け出した。
「ファラーシャ!」
「ファラーシャ、どこへ」
今はもうほとんど明け方だ。昨夜から眠らずにずっと活動し続けている人々の体力はそろそろ限界である。
けれどレイルたち星狩人は鍛えている分まだ余力があり、当然ファラーシャが抜け出したのにもすぐに気づいた。
「……!」
アルライルはファラーシャの動きに気づいても、どうしても声をかけることが出来なかった。
「……」
セルセラも駆け出すファラーシャを追おうとして、事後処理の大変さを考え一瞬戸惑う。この状況を放っておいていいのか。まだエルフィスの体調は万全ではない。急変の可能性もある。
しかしそのエルフィス自身が言った。
「行ってください、セルセラ様」
「エルフィス」
「私はもう大丈夫です。どんどん調子が良くなっていくのが自分でわかります。けれど今夜のファラーシャさんには、誰かついていてあげるべきではありませんか」
ファラーシャの事情を十全には知らないエルフィスにも、何か大変なことがあったのはわかった。これまでダールマークの事情やエルフィスの危機に気を取られて、そんなファラーシャの事情を気に掛ける余裕がなかったのではないか。
「セルセラ様ははっきり言うのは嫌がるかもしれませんけど、仲間って大事でしょう?」
「……すまん。何かあったら本気で呼んでくれ」
セルセラは治療部屋を後にし、先に駆けて行ったレイルたちを追いかける。
島の端で合流した頃には、レイルとタルテが揃って難しい顔をしていた。
「セルセラ、頼む。俺を送ってほしい」
「私たちだけだと空を飛ぶ手段がありませんからね」
ファラーシャはハシャラートの翅で、どこかへ飛んで行ってしまったらしい。
毒を媒介する紅い蝶とは対照的な、あの透き通るような青い光でできた翅で。
「今のファラーシャを一人にしたくはないんだ」
「何も言わずに私たちを置いていくのは、これが最後にしてもらいましょう」
二人の言葉に、セルセラもいつも通りの笑みを取り戻して頷いた。
「そうだな、行くか!」
◆◆◆◆◆
そろそろ春を迎えるとはいえあまりにも冷たい青の大陸上空の空気。その冷たさを切り裂くようにして、ファラーシャは青い光を放つ翅で飛び続ける。
全てが綺麗に終わったはずなのに、心が落ち着かない。
アムレートと抱き合うヘルミントの姿に、生き残ったフェングに、全てに嫉妬してしまう。
自分でエルフィスを救うために血を分けたはずなのに、実際に全てが大団円で終わろうとする今になって、自分でもどうしようもない感情が沸き上がる。
どうして私たちはああなれなかったの。
どうして私の一族は、誰にも救われずに滅びてしまったの。
どうして……。
八つ当たり以外の何物でもない感情を上手く処理できない。
――生き残る気はあるか?
――噂に聞く天上の巫女か。そうだな……あなたがかつて死んだ我々の一族を全員蘇らせることができるのならば、私も復活を受け入れよう。
その場に天上の巫女がいたにもかかわらず、伯父を救うことはできなかった。
何一つ叶わない。自分に奇跡は起きない。それを横目に、他の者たちが真実の愛や幸せな結末を手に入れていくのを、ただ眺めているだけ。
「どうして」
凍える空を飛びながら、熱い雫がついに堪えきれずに頬を流れる。
「どうして私だけこうなの……!?」
これまでは決して口にできなかった思いが溢れ、身体を突き破りそうだった。
喚き散らして暴れまわりたい。
けれど、自分を追ってくる気配。
「ファラーシャ!」
「来ないで!」
後ろを見ずに叫ぶ。
今、他の人間の顔を見たら八つ当たりしてしまう。
「今来たら……私、嫌な奴になるから……だから来ないで!」
この世の全てが妬ましい。わかっている。そんなことは歪んだものの見方だと。
明日になったらきっと冷静になるから。せめて、今日だけは。
けれど仲間たちはそんなささやかな自制を打ち壊そうとする。
怒鳴りつけそうな衝動を必死に押し殺すファラーシャの背後で、なぜか急に気配が騒がしくなった。
セルセラが箒で飛び回るのはいつものことだが、今日はレイルも一緒だろう。タルテの気配は少し離れた場所だからまた別に移動している。
後ろにいるのは自分を追いかけてきたセルセラとレイルの二人だ。そのはずだ。そこまでは合っているのだが。
「は!? ちょ! 何をする気だレイル――!!」
セルセラが珍しく酷く焦った声をあげる。今日はなんだかセルセラの珍しい声を聞いてばっかりだなと一瞬脳裏を過るが、すぐにファラーシャ自身もそれどころではなくなった。
「ファラーシャ!」
レイルに呼ばれたファラーシャが振り返ると、そのレイルはそれまで乗ってきたセルセラの箒から飛び降りるところだった。
繰り返すが、「空を飛ぶ箒から」飛び降りるところだった。
は? 飛び降り?
ここ(超上空)で?
地上を覆う雲の海すら遥か彼方の足元に見えるような、この高さで?
「ぇえええええええええ!!」
驚いた。文字通り飛び上がるほど。
慌ててファラーシャは雲を掻き分け、落下するレイルを捕まえに向かう。
腕をつかんだ瞬間、凄い音がしたような気がするのだが大丈夫だろうか。
セルセラはもともとファラーシャより高度にいたので僅かに距離に余裕があったが、それでも空中を落下するレイルを追うのは並大抵のことではない。
「れ、れいるなななななんでっ、こんなっ!」
ハシャラートの翅でやっと追いついたファラーシャは思わずレイルに問いかけようとしたが、うまく言葉にならなかった。
いや、今のは言葉にできない感情とかそういう切ないアレではなく、単にめちゃめちゃ驚いて言葉が出ない。
何を……何を馬鹿なことをやっているんだこの男は……・!!
「ははは、やっぱりこうなったな。うん、ありがとうファラーシャ」
「ありがとうで済むか――!!」
上空からセルセラの罵声が背景音楽として降ってくる。セルセラの声は可愛いが、言葉はまったく可愛くない。だがファラーシャも気持ちは同じだった。ついさっき私の気持ちなんて誰にもわからないとか思っていたはずなのに。
「~~~~~!! ~~~~~!!」
ファラーシャには聞こえたが、レイルは聴覚自体は普通なのでおそらくこの距離ではセルセラの声はわかっても言葉までは聞き取れないのだろう。どこ吹く風と言った顔をしている。上空を吹く強風に吹かれながら。
「どうしてこんな……!」
「君と話すためにはこれが一番早いと思って」
「だからって普通あの高さで飛び降りる!? 私が拾わなかったら死んでるからね! 不老不死だって落下死の衝撃と痛みはあるでしょ!!」
レイルのバカ!!! とこれほど強く思ったことはない。
「でも拾ってくれただろう?」
「……っ」
見透かすような言葉に息を呑む。
「それは……たまたま……」
「いいや、あの場面で俺が飛び出せば、君はきっと、絶対にこの手を取ってくれる。だから俺は、何も怖くもなければ、心配もしていなかった。君の行動を読み切る確信があったから」
先程あまりにも大胆な飛び降りをかました男とは思えないほど穏やかな表情で、レイル・アバードは告げる。
「俺はある意味では君自身以上に、ここで俺を見捨てられない君をよく知っている。だから」
「ファラーシャ、君は、嫌な奴なんかじゃないよ」
「!」
「あの場面で嫉妬してしまうのも、周囲に八つ当たりしたくなるのも、思いっきり泣きたくなるのも――人として当たり前のことだよ」
ゼィズは殺すしかなかった。一族は生き返らない。真実を知っても、何も戻ってこない。
アムレートにはヘルミントがいる。フェングは生き残った。この国はこれから立ち直るだろう。
同じ復讐者なのに。どうしてこんなにも違うのか。
身近によく似た境遇のものがいれば、比べたくなるのが人情というもの。
兄と弟。復讐者と復讐者。王子様とお姫様。恋する者と恋する者。
運命を自らの手で切り開いたアムレートやエルフィスと違って、ファラーシャには何も残っていない。それが苦しかった。叫び出したくなるほどに。
幸せな恋物語に嫉妬する。
ヘルミントにとっての王子様であるアムレートや、エルフィスにとって運命の聖女であるセルセラと違って、ファラーシャには誰もいない。
復讐を果たし恋も両方手に入れるなんて絶対に無理だよ。世の中そんなにうまくいくわけないよ。
でもそれを口にしたくなる自分は、アムレートたちに嫉妬するただの嫌な奴だ。
絵物語のような恋を、自分の中のどす黒い感情が塗りつぶしてしまう。
だから離れるしかない。私がここにいなければいい。
そう、思って……だから……。
「君は嫌な奴なんかじゃない。自分で思ってるよりずっと優しい女の子だ。だから――泣いてもいいんだよ」
「だって……私が殺したんだよ。伯父様を。アルライルの父親を。その私に、悲しむ資格なんて……」
「あるよ」
レイルの言葉には何の気負いもなく、まるで東の空から太陽が昇ることを告げるように当たり前のことだという顔をしていた。
「君は、君たちは、俺の話を聞いてくれたじゃないか。俺が主君を守れなかった情けない過去を、真剣に受け止めてくれた。ならば、君の葛藤も過去も悲しみも、俺は受け止めたい」
ファラーシャは思わず呼吸を忘れ、この世界一美しい男の、今まで見たことがないぐらい優しい笑みに見入る。
「物語に出てくるような、格好いい王子様じゃなくてすまない。でもだからこそ、君も完璧なお姫様じゃなくたっていいんだ。自分に持っていないものを手に入れた誰かに嫉妬したっていい」
レイルの言葉がゆっくりと、乾いた心に沁み込んでいく。
「ファラーシャ」
「う……ううっ……」
零れる涙を抑えることはもうできない。
これまで自然と吊り下げる形でいたレイルの腕を引き上げその胸の中に飛び込む。
「レイルのバカ、ずっと、ずっと我慢していたのに……!」
ゼィズに生きてほしかった。
彼自身がセルセラに言った通り、変異して半狂乱の化け物の姿で、治療に何十年かかってもいいから、それでも生きていてほしかった。
けれどゼィズ本人とその息子であるアルライルの意志を無視して、ファラーシャがそう願えるわけがない。
愛しいものは何もかも、この手を滑り落ちていく。
「うん。そうだね。頑張ったな、ファラーシャ」
「私が泣くのは……レイルのせいだ!」
「ああ、それでいい。好きなだけ泣いていいよ。傍にいるから」
――生きる時も死ぬときも、どうか、私をお傍に。
ファラーシャには、アムレート王子のように復讐を止めてくれるヘルミントはいない。
それでも今この瞬間だけは、その胸を貸してくれる人がいる。
上る太陽の黄金の光に照らされた世界で、この身を包んでくれる相手。
(どうしよう私)
レイルの胸の中で泣きながら、ファラーシャは自分の物語の終わりと始まりを知った。
ずっと淡い憧れの人であった実の伯父・ゼィズとの因縁の決着。
そして。
(レイルのことが好きだ。これまで出会った、誰よりも)
◆◆◆◆◆
抱き合うファラーシャとレイルより更に上空で、箒に乗ったセルセラと、ハインリヒの空を飛ぶ使い魔に乗ったタルテが見守っている。
いや、と言うかあれは抱き合うと言っていいのだろうか。
「レイルの奴、腕というか肩折れてるよな」
「凄い音がしましたし、状況から言って骨折と脱臼両方してるでしょうね」
「だよなぁ……」
「そもそもあの体勢で飛び降りて、片腕一本で体重を支えていたんだから腕が千切れていない方がおかしいですよ。鍛え上げた筋肉と魔導外装のおかげであって、普通は肩から千切れて落ちてるでしょう」
「だよなぁ……」
人間より遥かに頑強な肉体を持つファラーシャはすぐには気づかなかったようだが、レイルは飛び降り云々を抜きにしてもかなり危険な状態であった。
「あの状態でよく平然と微笑みを保てるものです」
「レイル……お前実はスゴイ奴だったんだな……強さ的な意味は知ってたんだが、どんな強敵を瞬殺してた時より今それを実感してる……」
セルセラとタルテはハラハラしながら二人を見守り、レイルの行動にひたすら呆れていた。