第4章 あなたは祈りの姿をしている
084.どうか物語に幸せな終止符を
ファラーシャの肩に白鳩のドロミット、レイルの足元には子犬のハインリヒ。
二人と一匹と一羽の旅は、子ども向けの絵本の挿絵のように長閑だった。
身体能力が化け物じみた面々なのでその穏やかさに反する健脚で馬よりも早く歩を進めているが、それはそれとして見た目ややりとりは平和そのものである。
「もうすぐキノスラ王国じゃない?」
「ああ、懐かしいな……」
自然の中には当然国境線など引かれてはいない。しかし地図と周りの景色を見比べながら、ファラーシャは大体の道のりを読み取った。
「レイルって、呪いをかけられてからずっと故郷に帰ってなかったの?」
「……ああ。どうしても、足を向ける勇気が出なかったんだ」
まだ街並みは遥か彼方だが、この地方で生まれ育ったレイルには故郷に近づくたび空気が変わるのがわかったらしい。
王都を目指す道のりの傍ら、ファラーシャたちに他愛のない昔話を聞かせながら歩を進めていた。
「ファラーシャ、君やセルセラたちに出会わなかったら、俺は永遠にキノスラに帰る勇気を持てなかったかもしれない」
「そんなこと……」
一瞬否定しかけたファラーシャは、しかしすぐに最近己も同じ心情を知ったことを思い返して言い直す。
「ううん、わかるような気がする。私も……もしもみんなと出会ってなかったら、一族のみんなが眠る故郷に帰る気にはならないと思う」
ダールマーク王国で、灰に還した母と伯父の遺骨を今も天界のアルライルに預けてある。
いつかは故郷に還してやりたいと思っているが、きっとファラーシャも、一人では帰る気にはならないだろう。
今回は四人一緒の旅路とはならなかったが、ファラーシャだけでもレイルについてきて良かったのだ。
偽聖女の件でセルセラの偽名を定着させられずにうっかりいつものように呼んでしまいそうなのは本当なのだが、それを差し引いてもこの采配はやはりセルセラなりのレイルへの気遣いだったのだと二人は思う。
「お墓参りって大事よね~」
「そうですよ、僕もそのうち元の御主人様に会いに行きたいです!」
ドロミットとハインリヒまでもが頷く。
「……そうか、君たちも大切な人を亡くしているんだったな」
「人は喪っていくものよ。誰であっても。何であっても」
「そうかもしれない……」
季節は夏に近く、冬は極寒と呼ばれる国々もさすがにこの季節は過ごしやすい。目に明るい緑の草々を踏んで歩く。
ファラーシャはずっと気になっていたことをレイルに尋ねる。
「あの……レイル。故郷に戻っても、会えるような人はいるの?」
ファラーシャは伯父と従兄が生きている可能性は考えていたが、レイルはどういう気持ちなのだろう。
レイルにとって人生を一変させた出来事はもはや八十年も前なのだ。
年上や同年代の人間はすでに寿命を迎えている可能性の方が高く、当時十九歳の青年にとって自分を覚えていてくれるような年下の知り合いも僅かだろう。
「誰もいないかもしれない。それでも、俺自身の区切りとして、一度帰らねばならないと思っていたんだ」
レイル自身も当然、そのことは常に考えていたという。
「迎えてくれるものがいないことを、受け止めることもきっと、俺自身がやるべきことなのだと思う」
「……そっか」
それ以上かけられる言葉もなく、ファラーシャはしばし沈黙する。
二人と二匹がてくてくと足を進める音だけが規則正しく流れる中、そろそろ話題も尽きて反応に困ってしまう。
(こ、こういう時って何話せばいいんだろう……?)
ファラーシャにとっては最近片思いを自覚した相手との二人きり(ドロミットとハインリヒもいるが)の道中なのだが、何を話していいのかわからない。
話を出来ることは嬉しいのだが、肝心な話題が思い浮かばないのだ。
しかし幸か不幸か、穏やかな沈黙は長くは続かなかった。
「ん?」
「今何か、聞こえ――たよね!」
遠くから誰かが助けを呼ぶ声を耳にし、二人と二匹はすぐさま駆け出した。
◆◆◆◆◆
「ありがとうございます! 星狩人様!」
「無事で良かった~~」
レイルたちが聞きつけたのは、近くの森で木の根に足を取られて横転した馬車が助けを求める声だった。
すでにキノスラ王国内に入っている。
領地を気軽に移動するためのものらしい、二頭立ての小さな馬車は王侯貴族の令嬢が好むものだった。
横転した馬車の外で運よく怪我を免れた御者たちが騒ぐ声が聞こえ、ファラーシャとレイルはすぐさま現場へと駆け付けた。
中に取り残された令嬢をファラーシャが救出してから、横倒しになった馬車本体の向きをレイルが直す。
一応セルセラから簡易な治療用の魔道具を預かっているとはいえ、レイルとファラーシャの二人では本格的な治療はできない。事故とはいっても人々に怪我がないのは幸いだった。
あちこちひしゃげた馬車にまた乗るのは危険だと判断して、レイルたちは令嬢と従者たちを目的地まで送り届けることを申し出た。
「ハインリヒ、大きくなってー」
「わん!」
ファラーシャの頼みに応え、子犬程度の大きさだったハインリヒが見る間に馬よりも大きくなる。
「まあ、素敵! そのわんちゃん、どうなっていらっしゃるんですの?」
「ば、化物では……?」
「似たようなものかもしれませんが、きちんとした魔導士の使い魔ですから大丈夫ですよ」
はしゃぐ令嬢とは対照的に護衛と御者は人を背に乗せられるほどに巨大化したハインリヒの姿に恐れおののている。確かに魔術と縁遠い青の大陸ではなかな見ることのない光景である。
「わたくしはカナレイカと申します。王城のおばあ様に会いに行くところだったんです。お二人とも、今日の宿泊先はお決まりでして?」
「いいえ。近くの街に宿を取ろうかと」
「でしたら、ぜひ王城に泊まっていらして! もともとこの国は小さな国ですから、よく遠方からのお客様がお泊りになるの!」
怪我がなかったとはいえ事故直後にしては元気な御令嬢は、ファラーシャたちをこの国の王城へと誘う。
若いカナレイカの顔立ちは、当然八十年前に国を出たレイルには見覚えがない。
けれど。
「王城におばあ様がいるってことは、もしかしてカナレイカ姫は王女様なんですか?」
「先々代の国王陛下の血は引いていますけれど、わたくしのお母様は公爵に降下されましたので、わたくしは王女ではありませんの。でもこれから会いに行くわたくしのおばあ様は、王女殿下から王妃殿下、そして今は王太后殿下となられた方でしてよ」
「……」
小鳥のように明るいカナレイカ姫の様子に、レイルはどこか懐かしい面影を見る。
その王太后殿下とは、もしかして――。
◆◆◆◆◆
昔知り合った人々は、どれほど年齢を重ねてもわかるものなのだろうか。
「お久しぶりです……マリノーフカ王女殿下」
「まぁ、レイル……レイル・アバード!」
懐かしいキノスラの王城、感極まった様子でレイルにゆっくりと歩み寄る高貴で上品な王太后殿下。
彼女はその昔、レイルの主君エスタの後見であった王女殿下だった。
「王女殿下、ね……私はもう、孫までいるおばあちゃんになってしまったのよ、レイル」
「申し訳ありません、御無礼をお許しください。……王太后殿下になられたのですね」
「ええ。あなたがこの国を出てから、それだけの年月が経ったの」
マリノーフカは皺の刻まれた顔に穏やかな笑みを浮かべ目元を滲ませる。
「聖女エスタ様が亡くなり、聖騎士だったあなたもいなくなり、けれどあなたたち二人のおかげで、この国は以後ほとんど魔獣の襲撃に遭うこともなく、平和に暮らしていくことができたのです」
容姿だけならば、もはや見る影もないほどに歳を重ねた王女殿下。しかしレイルには彼女のちょっとした仕草や表情の全てが懐かしく、昔と変わらないように見えた。
「あなたは、本当に変わらないのですね、レイル」
かつての王女は懐かしそうに、そして悲しそうに呟いた。
彼女は当然、レイルが不老不死を得た経緯をよく知っているからだ。
一方でレイルの口からは、八十年前は口にしなかったような冗談が零れ落ちる。
「おかげさまで、今でも御婦人方には大人気です……ぐふっ!」
「あ、ごめんつい……」
反射的に肘鉄を入れてしまったファラーシャが素直に謝る。
「ファラーシャ、これでも先日ウィラーダたちと話したような冗談のつもりだったんだよ……」
「いやその、わかるんだけどそれでもつい……」
「まあ……」
マリノーフカ王太后……いや、レイルにとってのマリノーフカ王女殿下はそのやりとりに目を丸くする。
「私に八十年の時間が流れたように、例え外見が変わらずとも、あなたもこの八十年の間に得たものがあったのですね、レイル・アバード」
「ええ。たくさんの出会いがあり、別れがあり、新たな出会いを得ました」
マリノーフカは八十年の歳月をその容姿に刻んだ。けれどレイルは彼女を昔とまるで変わらないと思った。
レイルは八十年前からずっと変わらない姿をしている。けれどマリノーフカは彼の隣にいる少女とのやりとりに、この八十年のレイルの変化を感じ取った。
二人は改めて、お互いの上に流れた時間の長さを想う。
「聞かせてくれる? あなたの話を」
「はい、王女殿下……いえ、王太后殿下」
「王女でも別に構わないわよ。こんなおばあちゃんの階級に関して、大して気にするような大きな国でもないでしょう」
「変わりませんね、マリノーフカ殿下」
「今の私にそんなことを言えるのは、もうあなただけですよ、レイル」
マリノーフカは歓迎の意を表すよう両腕を広げて微笑む。
「お帰りなさい、レイル・アバード。あなたの故郷へ」
「親愛なる王女、マリノーフカ殿下。元聖騎士レイル・アバード。……ただいま帰還しました」
レイルはマリノーフカの前に、かつて聖騎士だった頃のように片足を曲げて跪いて礼をする。
その姿は一幅の絵画のようであった。
「あれ、なにこれ……」
見た目の年齢差はとんでもなく大きいはずなのに、実年齢は同年代の二人がごく当たり前のように繰り広げるやりとりは、まるで自然な一対の男女の姿を見せられているような気がする。
その光景に、ファラーシャはきゅっと胸を締め付けられる。
「もしかしておばあ様にわたくしの知らないロマンスの話が!? これは楽しくなってまいりましたわ――!」
カナレイカ姫だけが、なんだかとっても元気だった。