Fatus――揺蕩う闇、彷徨う星―― 01

揺蕩う闇、彷徨う星

1.潮騒の客人(まれびと)

 ――波音が響いている。

 彼は一人だった。
 暗い海の中を漂っている。
 どうして自分はこんな場所にいるのだろう。記憶が大分前から混乱していた。
『――忌まわしい』
『――の子! お前は――を呼び込んだ!』
『悪しき――よ、消え去れ!』
『――て、あなたの――ったものを――』
 過去なのか未来なのかもわからない場面が次々に脳裏に過ぎり、波に浚われる砂のようにまた去っていく。
 彼自身にもどうにもできない。
 何もわからない。自分が悲しいのかどうかさえ。
 海水は冷たく暗く、潮水に焼かれるかのように全身が痛んだ。それが海に落ちたせいばかりではないことは思い出したが、その理由はいまだにさっぱりだ。
 大いなる海の腕はたくましく、非力な人間である彼の身を捕らえて離さない。視界も利かぬ暗闇の中、肺にはほとんど空気は残っていない。反応が鈍くなった体でも感じる苦しみ。
 このままでは死んでしまう。だが、その方が良いのだろうか。それすらもわからない。
 彼は――独りだった。
 誰にも看取られぬ命なら、ここで母なる海のかいなに抱かれて永遠に眠る方がもしかしたら幸福なのかもしれない……。
 そう考えたとき、彼の耳に竪琴の音が届いた。
 弦を爪弾く音色に合わせて、微かな歌声が聞こえてくる。微かにしか聞こえないのは、ここからその場所まで距離があるからだろう。
 だが、ああ、なんて美しい歌声なのだろう。
 どこか懐かしい旋律は、死に向かう彼の心を絡めとる。幻惑と哀切の歌声が、暗闇に差し込む光のように陸地の場所を示す。
 無意識のうちに、彼は歌声を求めて移動していた。
 海よ、波よ、この身をどうか運んでおくれ。

 ◆◆◆◆◆

「ちょっと、ねぇ、あなた!」
 ――少女の声が呼んでいる。
「ねぇ、生きてるんでしょ! だったら起きて! ……早く起きなさいよ!」
 肩を乱暴に揺すられ、バシバシと頬を叩かれた。あんまりな仕打ちだが、そのせいで彼の意識はだんだんと暗闇から浮上してきた。
「早く……波がもうそこまで来てる! もうすぐ満潮の時間なのよ!」
「う……」
「気が付いた!?」
 彼は薄っすらと目を開けた。
 かすむ視界に真っ先に飛び込んできたものは、心配顔の一人の少女だった。彼女の背後の空は橙の実のような赤色で、すぐに日が暮れようとしていることを示している。
 いったいいつから自分はここに……?
 いや待て。その前に、もっと大事なことを忘れている。
「とりあえず起きて、あの岩場まで行けば波も来ないから!」
 必死な声で説明しながら、少女はとりあえず上体だけ斜めに起こした彼の腕を掴み、肩を支えるように担ごうとした。
「う……」
 しかし、彼女の力では彼を運びきれない。彼の足には少しも力が入らず、このままでは支えてくれている少女ともども波打ち際に再び倒れこんでしまいそうだった。
「だ、誰か……」
 額にぽつと汗をかいた少女が苦し気な息の下で呟く。その声に応えたというわけではないだろうが、街の方から二つの人影が近づいてきた。
「――タマオ! 何やってんだお前?」
「誰だよそいつ、まさか……」
「イナミ! トミテ! 助かったわ、ちょっと手を貸して……!」
 少女ーータマオからイナミと呼ばれた青年と、トミテと呼ばれた少年が慌てて砂浜を駆け寄ってくる。
 今にも倒れそうな少女の代わりに彼を支えて、波の来ない安全な岸辺へと連れて行った。
「ふぅ」
 イナミはてきぱきと彼の様子を見て大きな傷や出血がないことを確認し、腰の竹筒でできた水筒から水を飲ませる。
「……俺の肩が海水でぐっしょりなんだが。まさかこいつ、海の中に落ちたのか?」
 その横で不機嫌な顔をしたトミテが、全身ずぶ濡れの遭難者を見て一層眉をしかめた。
「この人が海に落ちたのか、海から来たのかなんて私は知らないわよ。ただ、この時間なのに波の中で倒れていたから……」
「知らない顔だな。町の人間じゃなさそうだ」
「しかし、旅人の話は聞いていない」
「俺もだ。じゃあこいつは海から来たとでも? 今の……?」
 遭難者の身元を確認しようと情報を交換し合う三人の前で、彼はゆっくりと意識を取り戻す。
「う……」
「気が付いたか」
 献身的な介抱をしていたイナミは、彼が意識を取り戻したのを知りほっとした表情を見せた。
 タマオも微笑み、トミテだけは不機嫌なままだったが、三人とも遭難者が意識を取り戻したことによって事態が進展することだけは共通して期待していた。
 しかしその期待は、すぐに打ち砕かれることになる。
「ここは……どこなんだ。僕は……誰なんだ……?」
 波音が響き続ける砂浜。
 揺れる視線が不安げに辺りを見回したことに、三人は一様に驚きの表情となった。

 ◆◆◆◆◆

 ここは“晨星郷(しんせいきょう)”の街だと、彼らは彼に教えた。
「自分の名前も忘れてしまったの?」
 少女――タマオは遭難者の少年に尋ねる。
 彼女が砂浜で拾った少年は、黒髪に、右目が青い。左目は布で覆われているので、色まではわからない。無造作に伸ばした髪をまとめた細い布で、左目も眼帯のようにぐるぐると覆っている。
「名前……名前はボウだ」
「ボウ」
 タマオは、その音の響きを確かめるように彼の名を口にした。
「そっか、それは忘れてなかったんだね。……私はタマオよ」
「タマオか……助けてくれて、ありがとう」
「どういたしまして。……ねぇ、ボウ。その布、外しても大丈夫? 濡れたから服を洗って、あなたも着替えないと」
 ここは晨星郷の海岸沿いに建つタマオの家だ。両親が何年も前に亡くなった今、十八歳の彼女が一人で住んでいる。
 タマオは白に近いやわらかな白金の髪に、南の海のような緑がかった碧い瞳の持ち主だ。御伽噺の姫君のように突出した容姿でこそないが、その脇に侍る妖精のようには愛らしい顔立ちをしている。
 若く器量の良い娘が一人で暮らしていると難儀しそうなものだが、幸い彼女には親切な隣人がいた。
 イナミとその妻ウルキ夫婦。トミテとその養父母。どちらも幼くして両親と死に別れたタマオのことをよく気にかけてくれる。
 今回も砂浜でボウを見つけたタマオを手伝い、イナミたちはボウをこの家まで運んでくれた。
 寝台に横たえようにも海水で濡れたままでは困ると、木の長椅子にまずボウを座らせてから、男二人はすぐ隣のイナミの家に一度着替えに戻った。
 ボウの着替えもイナミが貸してくれるという言葉に甘え、彼を待つ間、タマオはボウの世話をする。
「ああ……着替えか……。そうだね……悪いけど服を貸してくれるかい?」
「ええ。大丈夫よ。でも少し待ってね。まず体を拭きましょう。それと、持ち物を確認してもいい?」
 ボウの記憶喪失はどうやら自分の素性や過去に関することだけのようで、日常の動作や言語に問題はない。
 肉体的にも海で溺れかかったにしては元気で、今は多少の疲れを見せているがこのぐらいの症状ならすぐに回復すると思われた。
 彼に何があったのかはまだわからないが、タマオたち晨星郷の住民がまったく知らないところからやってきて何か事故にあったにしては、この健康状態は不思議なものである。
 海岸には様々なものが流れ着く。
 嵐の後は魚や海辺の生き物だけでなく、難破した船の漂流者が流れ着くことも多い。その多くが息をしていない状態で発見されることを思えば、ボウは大層な幸運の持ち主らしい。
 タマオはまだ少しぼんやりしているボウの上着を脱がし、背中を乾いた布で拭く。
 あまり筋肉のついていない上半身には、それでもいくつかの古傷らしきものが見られた。
 ボウは何をしていた人なのだろう? 記憶喪失なので細かく聞くわけにもいかないが、今のところ服装や肉体から彼の経歴を察せられそうなものはない。持ち物を調べれば何かわかるだろうか。
「タマオ、彼の着替え持ってきたぞ」
 髪と体を一通り拭い終わったところで、イナミたちが家に入ってきた。
「ありがとうイナミ。名前はボウだって」
「そうか。俺はイナミ。こっちはトミテ」
「……二人とも、先程はありがとう」
 乾いた布一枚を体に巻き付けた状態で長椅子に座り直し頭を下げたボウの顔を見て、男二人はあれ? と目を瞠る。
「さっき、頭と目に布を巻いてたろ。そっちの目、何ともないのか?」
 トミテの問いに、ボウは自らの左目の瞼を撫でながら答える。
「ああ。特に支障はないよ。……僕はなんで片目に布なんて巻いてたんだろう?」
「お前が不思議がってどうす――……そういや記憶喪失だったな。面倒な奴め」
「トミテ!」
 あけすけな物言いにタマオとイナミが咎める声を上げるが、ボウは小さく首を振る。
「すまない」
「あの状況だと恐らく何かの事故にあったのだから仕方ないだろう。記憶が戻るまではこの街でゆっくりすればいい」
 イナミが言い、その流れでうちに来るか? と誘う。
「でも、イナミの家はウルキさんがいるし……」
「新妻を日中若い男と家で二人きりにする奴があるかよ。イナミのバカ」
「トミテ、お前な……」
「このままうちにいればいいわ。ちょうど父さんたちの部屋が空いてるし」
「タマオ。お前年頃の娘がそんな……」
「イナミは人のこと言えないだろ」
 しばらくぎゃあぎゃあと三人で喚きあった後、結局ボウはタマオの家にこのまま滞在することになった。
「隣には俺がいるしウルキもいる。何かあればすぐに声をかけろ」
 この世界この時代、小さな街では助け合って暮らしていくのが当たり前だ。不埒な真似はしないとボウに約束させて、イナミは隣家に戻ることになった。
 トミテは念のため今夜はタマオの家に泊まると強引に決め、勝手知ったる他人の家で夕食と寝台の用意にとりかかる。
「トミテのことは気にしないでね。まずは体を治して記憶を取り戻すが先決よ。元気になったら世話代として仕事の手伝いくらいはしてもらうけれど」
 タマオは言い、この街でゆっくりすればいいとイナミと同じことをもう一度告げるが、ボウは小さく首を横に振った。
「君たちの気持ちはありがたい。でも多分、僕はいつかこの街を出ていく。……そんな予感がする」
 何故かは、自分でもわからないけれど。
 記憶がないはずのボウの物言いに、タマオは少しだけ不安になった。

 ◆◆◆◆◆

 昔々、悪い神様と、悪い魔法使いがおりました。
 悪い神様は背徳神グラスヴェリア。
 悪い魔法使いの名は辰砂。
 この二人は手を組んでフローミア・フェーディアーダの神々に反旗を翻し、大きな戦いを繰り広げました。
 魔術師は創造の女神の名を奪い取ってその力を手に入れたことから、創造の魔術師・辰砂と呼ばれるようになります。
 しかし最強の闘神こと破壊神イリューシアに魔術師・辰砂は倒され、背徳神グラスヴェリアも罰を受け“常闇の牢獄”と呼ばれる場所に封印されます。
 そしてしばらく、平和な時代が続きました。
 しかし、悪神と悪い魔法使いはやがて復活し、再び世界を混沌に陥れたのです。
 いったい何が理由だったのでしょう? “常闇の牢獄”から抜け出した背徳神グラスヴェリアと、新たに生まれ変わり蘇った創造の魔術師・辰砂は仲間割れをして、相討ちになりました。
 この時、空一杯を埋め尽くす黒い流れ星が地上に降り注ぎました。
 その悪しき流れ星に触れると、動物も植物も人間でさえも、みんな邪悪な心に飲まれ狂い、おぞましい化け物へと変化してしまうのです。
 そうして黒い流れ星から生まれた化け物たちは、魔獣と呼ばれるようになりました。
 魔獣たちの襲撃は、今でも世界中の人々や他の種族たちを脅かし続けています。

 ◆◆◆◆◆

「私ね、毎回不思議なんだけれど、この“神話”って誰が世界に伝えたのかしら」
「誰って……」
「だって誰か伝える人がいなければ、邪神と創造の魔術師の戦いとか相討ちになったとか分からないでしょう? どうやって知ったのかしら?」
「そうだなぁ……」
 ボウはタマオと他愛のない話をしながら、畑の薬草に水遣りをする。
 波打ち際で拾われてからほんの数日で、ボウの肉体は回復した。しかし記憶の方はさっぱり戻ることはなく、一月程経った今でもボウはタマオの家に居候している。
「タマオちゃん、ボウ君。精が出るね」
「あ、雑貨屋のおじさん。こんにちは」
 顔見知りの住人も増えた。ボウはタマオの言いつけに従って大人しく過ごしていることもあり、次第に周囲に受け入れられてきていた。
 道行く人にあいさつをしながらも、二人は水遣りの手を止めない。
 タマオの両親はすでに亡くなっているが、家とこの薬草畑を彼女に遺していた。タマオはこの薬草栽培と麦藁を編んで日除けの帽子を作る内職や、海岸で海藻や果物を干す作業を手伝う仕事をして生活しているのである。
 ボウが同居するようになり彼女の生活も一時はきつくなるかと案じられたが、思ったよりもボウの回復が早くタマオにはきつい力仕事をこなすようになって、結果的には二人でも以前と変わりない暮らしができている。
 元から親切なイナミはもちろん、初めは警戒していたトミテもそろそろボウに気を許し始めてきた。
 水遣りをする二人の手元では、雫を浴びた真珠草の白く丸い花が本物の宝石のようにきらきらと輝いている。
 真珠草は海沿いのこの街で、潮風に当たることで育つ珍しい薬草だ。乾燥させた葉が特定の病に効くため、内陸の街との良い取引材料になっている。
 春が盛りのこの花は、もうすぐ満開になるだろう。
「タマオちゃん、ボウ君」
 呼びかけられて振り返ると、二十歳過ぎぐらいの一人の女性が、塀の方から布を被った籠を持って歩いてきた。
「ウルキ」
「ウルキさん」
「靴屋の女将さんからパンを頂いたのよ。そろそろお昼にしましょう」
「わぁ、やったぁ」
 イナミの妻、ウルキはタマオの薬草園を手伝う形で隣家に住んでいる。
 この夫婦は元々街の外から来た人間で、住む場所や仕事を探している際に、両親が病で働けなくなったタマオの薬草園を手伝いに来て、当時空き家だった隣家に住み込むことになった。
 夫のイナミは普段は薬草園を手伝いながら、晨星郷の丘の上にある城にも仕えて剣士として評議会に頼まれた仕事をこなしている。トミテも似たような立場で、少年ながらイナミより更に荒事に向いた腕前だ。
 三人で庭の東屋の中からこの村の名物でもある丘の上の白い城を遠く眺めながら昼食をとる中、そういえば、とウルキが小首を傾げながら尋ねた。
「ボウ君はいくつぐらいかしら」
「……僕にもわかりません」
「まぁ、ごめんなさい。無理に思い出せと言うのではないの。私たちから見て何歳ぐらいなのかしらって」
「私も気になるわ。背も高いし、トミテよりは年上よね」
 喧嘩っ早い性格とは裏腹に端麗な面差しに劣等感を持つ少年と引き比べ、タマオはうんうんと唸りながらボウの年齢を見定めようとする。
「十五……いや、十六かしら」
「そうねぇ。タマオちゃんと同じ年の男の子ならもっとたくましいもの」
「でも、ボウってイナミたちみたいに剣士ではないようだし、歳をとっても細いかも」
「……えーと」
 なんとも反応に困り、ボウはパンをかじる手を止めて頬をかく。
 ふわふわの白パンには干した果物や木の実がいくつも練りこまれていて、燻製肉とチーズを挟んだだけの素朴な料理が空腹の胃に染み渡る。
 三人がいつものように緩い時間を過ごしていると、遠く街の中心の方から何か騒いでいるような声が聞こえてきた。
 ウルキが表情を曇らせる。
「何かあったのかしら……また」
 タマオとボウも、眉を顰めて顔を見合わせた。
 平穏な日々は長く続かないと、ここ数日彼らはそれを感じ始めてきたところだった。

 ◆◆◆◆◆

 異形の巨大な化け物が、地響きを立てて石畳に倒れこむ。黒い流れ星によって生まれた妖。魔獣だ。
 魔獣を退治したイナミとトミテの二人は、剣を一振りしてその青い血を振り払ってから鞘に納める。
 その様子を少し離れて見ていた群衆たちが、ようやくほっと息を吐いた。
「助かった……」
「もう今週三度目だぞ」
「怖いわ。もし魔獣が夜も襲ってくるようになったら……」
 がやがやとさざめく人波をかき分けるようにして、一人の老人が狭い路地へ現れる。
「二人とも、よくやってくれた」
「タタラ様」
 評議会の長であるタタラを前に、二人は片膝を立てて跪く。
 魔獣が跋扈するこの時代、どこの街も防衛のための戦力を置いている。辺境のこの海沿いの地域には星狩人と呼ばれる魔獣退治人が訪れることも少なく、住民の中に戦士を抱えているのだ。
 イナミとトミテは、その中でも最も貴重な戦力である。
 ウルキが薬草園の手伝いを選んだのは、夫のイナミが魔獣退治やタタラの命令で出かけることが多いため、彼が家を空けていても傍に誰かがいる暮らしを望んだためである。タマオや周辺の住人もそれを知っていて、いつも若妻を気にかけている。
 剣の腕だけならトミテの方が上だとも言われるが、彼はまだ十三。いくら何でも一人旅に出すのは幼過ぎると、剣を使う仕事では年長のイナミと行動を共にすることが多い。
「また魔獣か。これで今月七度目。しかも徐々に襲撃の間隔が短くなっている」
 タタラは険しい顔で周囲を見回した。
「被害の報告を」
「今日はたまたまイナミたちが駆け付けるのが早くて、この辺が壊れたこと以外には……」
 魔獣に壊された家の住民の一人がそう報告する。魔獣被害には議会が補助金を出してくれるとはいえ、家の塀や商店の軒先が破壊されつくしたこの惨状には頭が痛い。それでも、人的被害が出なかっただけまだマシなのだとわかっている。
「怪我人はなしか。それは良いことだ。だがいつまでも、そう都合よく事は運ばぬだろうな」
 イナミたちは頭を垂れたまま沈黙している。彼らは晨星郷に現れる魔獣を退治することはできても、その大本を絶つことまではできない。
 タタラの言葉に、人々も不安を隠せない様子を見せる。
 一体いつまでこんなことが続くのだろう。
 何故、この街は魔獣に襲われ続けるのだろう。
 魔獣は確かに理由なく人を襲うことも多い存在かもしれないが、この辺りは元々それほど魔獣被害が多い地域ではなかった。
 魔獣たちの王である魔王が攻めるのはもっと大国の中心近い地域で在り、晨星郷は良くも悪くも忘れられた土地なのだ。
 それが最近になって、街に次々と不吉なことが起こり始め、魔獣の襲撃が立て続くようになった。
 街はずれの古井戸が枯れ、湖が赤く染まる。畑の作物が腐り始め、家畜にも病気が流行る。ついには子どもたちが病に倒れるようになり、大人たちも精気を失う。そして恐ろしい姿の魔獣たちが、街中へやってきて人を襲う。
 今のところまだ死者は出ていないが、このままでは時間の問題かもしれない。何が原因でどう対処すればいいのかもわからず、人々の心は徐々に疲弊していく。
「タタラ様、我々はどうすれば良いのでしょう」
「評議会が対策を練っている。とにかく、魔獣を見かけたら気づかれぬよう身を隠して逃げ、すぐに議会へと報告するように」
「しかし!」
「もうしばし待て。我々もこのままで良いとは思っていない」
 不満と不安を訴えた民衆がタタラの言葉になんとか宥められて家々へと戻っていく。早くこの件を解決しなければ、人々の不満はあらぬ形で爆発するかもしれぬ、とタタラは危惧する。
 強大な力を持つ魔獣に対抗できる人員は限られている。
 その数少ない二人を呼び、タタラは言った。
「イナミ、トミテ。お前たちもこのまま城に来なさい。今後の対策について話し合う」
 晨星郷は本格的に一連の怪異と魔獣襲撃の真相を解明し、対処するのだと。

 ◆◆◆◆◆

「それで、評議会はなんて?」
「自警団を強化して、街の見回りをするそうだ。昼間はもちろん、夜も念のためにな」
「……そうね、今はまだ被害が出ていないとはいえ、夜に魔獣に襲われたらひとたまりもないものね……」
 城での会議から解放されたイナミとトミテは、タマオの家に集まりボウとウルキも共に五人で夕食をとりながら魔獣対策について話し合っていた。
 ウルキが夫に海鮮のスープをよそいながら会議の結果を聞く。
「俺とトミテは、今夜から自警団に参加して見回りに行ってくる」
「わかったわ。気を付けてね。二人とも」
「あの……」
 いつも物静かで聞き役に徹しているボウが、珍しく声を上げた。
「僕も、その見回りに参加させてもらえないだろうか」
「お前が?」
「ああ。……ただお世話になっているだけでは心苦しいし」
「確かに自警団は人手不足じゃあるんだが」
 腕利き故にほとんど毎日見回りに駆り出される予定となったイナミとトミテが、二人して微妙な顔をする。
「でもお前、戦えないだろ? 剣の一つも振り回せないくせに」
「う……」
 トミテの指摘に、ボウは痛いところを衝かれた表情になる。
「お前の荷物、武器らしきものがまるでなかったからな」
 ボウが記憶喪失であると分かった後、何か身元の手がかりになるものを探して彼の身に着けていたものをタマオたちは調べたが、結局何もわからなかった。
「旅人なら剣の一振りも佩いているでしょうから、ボウ君はどこかに帰る家がある人なのかもしれないわね」
「……」
 ウルキの何気ない言葉に、タマオが複雑な表情になる。
「あの杖は?」
 イナミは、今も寝室の壁に立てかけられているはずの杖の存在を気に掛ける。
 ボウの持ち物で変わったものがあるとすれば一つ、それは指揮棒程度の短い杖だった。
 足を悪くした者が使う杖ではないし、それこそ指揮棒でもないようだった。一体何に使うかもわからない小杖だけが、彼の身元を探す手がかりである。
 だが、あんな細い杖が武器になるとも思えない。
 ボウに戦闘の経験はないと見ていいだろう。イナミとトミテはそう判断していた。
「今回の見回りは人間じゃなく魔獣が相手だから、ちゃんと実力が必要なんだ」
 これが人間の盗人相手ならば、明かりを掲げて人が来たことを報せるだけで防犯効果がある。だが魔獣相手では意味がない。
 遭遇すれば確実に戦闘になる。そんな危険な見回りに戦闘のできない素人を混ぜてもいいものかとイナミたちは考える。
 それにもう一つ、ボウを加えたくない理由があった。
「ボウ、お前にはどちらかと言うと、この家に残ってタマオや、隣のウルキに何かあったときに助けてやってほしい」
「え?」
「俺が夜も家を空けることになるからな。男手が必要になった時に誰かいてほしんだ。頼む」
「……そういう、ことなら」
 イナミは普段から家を空けがちだが、そういう時には前もって隣人たちやイナミに命令を下すタタラたちがウルキたちを気にかけてくれている。しかし今は魔獣や謎の怪異相手で、いつ何が起こるかわからない。
 この辺りにはまだ何の怪異も魔獣の襲撃も起きてはいないとはいえ、楽観視はしていられなかった。
「お前の命の恩人はタマオだ。恩義を感じるなら、晨星郷より前にまずタマオにな。この娘を守れ」
「わ、私はそんなこと」
「いえ、わかりました。タマオを危険に晒すわけにはいきません」
 ボウはしっかりイナミの目を見て頷く。
「ちょっと!」
「ふふ。大事にされてるわね、タマオちゃん」
 五人は話が一度落ち着いたとみて、後は夕食が冷めないうちに消化する作業に戻った。