Fatus――揺蕩う闇、彷徨う星――

Fatus――揺蕩う闇、彷徨う星――

001

 ――波音が響いている。

 彼は一人だった。
 暗い海の中を漂っている。
 どうして自分はこんな場所にいるのだろう。記憶が大分前から混乱していた。
『――忌まわしい』
『――の子! お前は――を呼び込んだ!』
『悪しき――よ、消え去れ!』
『――て、あなたの――ったものを――』
 過去なのか未来なのかもわからない場面が次々に脳裏に過ぎり、波に浚われる砂のようにまた去っていく。
 彼自身にもどうにもできない。
 何もわからない。自分が悲しいのかどうかさえ。
 海水は冷たく暗く、潮水に焼かれるかのように全身が痛んだ。それが海に落ちたせいばかりではないことは思い出したが、その理由はいまだにさっぱりだ。
 大いなる海の腕はたくましく、非力な人間である彼の身を捕らえて離さない。視界も利かぬ暗闇の中、肺にはほとんど空気は残っていない。反応が鈍くなった体でも感じる苦しみ。
 このままでは死んでしまう。だが、その方が良いのだろうか。それすらもわからない。
 彼は――独りだった。
 誰にも看取られぬ命なら、ここで母なる海のかいなに抱かれて永遠に眠る方がもしかしたら幸福なのかもしれない……。
 そう考えたとき、彼の耳に竪琴の音が届いた。
 弦を爪弾く音色に合わせて、微かな歌声が聞こえてくる。微かにしか聞こえないのは、ここからその場所まで距離があるからだろう。
 だが、ああ、なんて美しい歌声なのだろう。
 どこか懐かしい旋律は、死に向かう彼の心を絡めとる。幻惑と哀切の歌声が、暗闇に差し込む光のように陸地の場所を示す。
 無意識のうちに、彼は歌声を求めて移動していた。
 海よ、波よ、この身をどうか運んでおくれ。

 ◆◆◆◆◆

「ちょっと、ねぇ、あなた!」
 ――少女の声が呼んでいる。
「ねぇ、生きてるんでしょ! だったら起きて! ……早く起きなさいよ!」
 肩を乱暴に揺すられ、バシバシと頬を叩かれた。あんまりな仕打ちだが、そのせいで彼の意識はだんだんと暗闇から浮上してきた。
「早く……波がもうそこまで来てる! もうすぐ満潮の時間なのよ!」
「う……」
「気が付いた!?」
 彼は薄っすらと目を開けた。
 かすむ視界に真っ先に飛び込んできたものは、心配顔の一人の少女だった。彼女の背後の空は橙の実のような赤色で、すぐに日が暮れようとしていることを示している。
 いったいいつから自分はここに……?
 いや待て。その前に、もっと大事なことを忘れている。
「とりあえず起きて、あの岩場まで行けば波も来ないから!」
 必死な声で説明しながら、少女はとりあえず上体だけ斜めに起こした彼の腕を掴み、肩を支えるように担ごうとした。
「う……」
 しかし、彼女の力では彼を運びきれない。彼の足には少しも力が入らず、このままでは支えてくれている少女ともども波打ち際に再び倒れこんでしまいそうだった。
「だ、誰か……」
 額にぽつと汗をかいた少女が苦し気な息の下で呟く。その声に応えたというわけではないだろうが、街の方から二つの人影が近づいてきた。
「――タマオ! 何やってんだお前?」
「誰だよそいつ、まさか……」
「イナミ! トミテ! 助かったわ、ちょっと手を貸して……!」
 少女ーータマオからイナミと呼ばれた青年と、トミテと呼ばれた少年が慌てて砂浜を駆け寄ってくる。
 今にも倒れそうな少女の代わりに彼を支えて、波の来ない安全な岸辺へと連れて行った。
「ふぅ」
 イナミはてきぱきと彼の様子を見て大きな傷や出血がないことを確認し、腰の竹筒でできた水筒から水を飲ませる。
「……俺の肩が海水でぐっしょりなんだが。まさかこいつ、海の中に落ちたのか?」
 その横で不機嫌な顔をしたトミテが、全身ずぶ濡れの遭難者を見て一層眉をしかめた。
「この人が海に落ちたのか、海から来たのかなんて私は知らないわよ。ただ、この時間なのに波の中で倒れていたから……」
「知らない顔だな。町の人間じゃなさそうだ」
「しかし、旅人の話は聞いていない」
「俺もだ。じゃあこいつは海から来たとでも? 今の……?」
 遭難者の身元を確認しようと情報を交換し合う三人の前で、彼はゆっくりと意識を取り戻す。
「う……」
「気が付いたか」
 献身的な介抱をしていたイナミは、彼が意識を取り戻したのを知りほっとした表情を見せた。
 タマオも微笑み、トミテだけは不機嫌なままだったが、三人とも遭難者が意識を取り戻したことによって事態が進展することだけは共通して期待していた。
 しかしその期待は、すぐに打ち砕かれることになる。
「ここは……どこなんだ。僕は……誰なんだ……?」
 波音が響き続ける砂浜。
 揺れる視線が不安げに辺りを見回したことに、三人は一様に驚きの表情となった。

 ◆◆◆◆◆

 ここは“晨星郷(しんせいきょう)”の街だと、彼らは彼に教えた。
「自分の名前も忘れてしまったの?」
 少女――タマオは遭難者の少年に尋ねる。
 彼女が砂浜で拾った少年は、黒髪に、右目が青い。左目は布で覆われているので、色まではわからない。無造作に伸ばした髪をまとめた細い布で、左目も眼帯のようにぐるぐると覆っている。
「名前……名前はボウだ」
「ボウ」
 タマオは、その音の響きを確かめるように彼の名を口にした。
「そっか、それは忘れてなかったんだね。……私はタマオよ」
「タマオか……助けてくれて、ありがとう」
「どういたしまして。……ねぇ、ボウ。その布、外しても大丈夫? 濡れたから服を洗って、あなたも着替えないと」
 ここは晨星郷の海岸沿いに建つタマオの家だ。両親が何年も前に亡くなった今、十八歳の彼女が一人で住んでいる。
 タマオは白に近いやわらかな白金の髪に、南の海のような緑がかった碧い瞳の持ち主だ。御伽噺の姫君のように突出した容姿でこそないが、その脇に侍る妖精のようには愛らしい顔立ちをしている。
 若く器量の良い娘が一人で暮らしていると難儀しそうなものだが、幸い彼女には親切な隣人がいた。
 イナミとその妻ウルキ夫婦。トミテとその養父母。どちらも幼くして両親と死に別れたタマオのことをよく気にかけてくれる。
 今回も砂浜でボウを見つけたタマオを手伝い、イナミたちはボウをこの家まで運んでくれた。
 寝台に横たえようにも海水で濡れたままでは困ると、木の長椅子にまずボウを座らせてから、男二人はすぐ隣のイナミの家に一度着替えに戻った。
 ボウの着替えもイナミが貸してくれるという言葉に甘え、彼を待つ間、タマオはボウの世話をする。
「ああ……着替えか……。そうだね……悪いけど服を貸してくれるかい?」
「ええ。大丈夫よ。でも少し待ってね。まず体を拭きましょう。それと、持ち物を確認してもいい?」
 ボウの記憶喪失はどうやら自分の素性や過去に関することだけのようで、日常の動作や言語に問題はない。
 肉体的にも海で溺れかかったにしては元気で、今は多少の疲れを見せているがこのぐらいの症状ならすぐに回復すると思われた。
 彼に何があったのかはまだわからないが、タマオたち晨星郷の住民がまったく知らないところからやってきて何か事故にあったにしては、この健康状態は不思議なものである。
 海岸には様々なものが流れ着く。
 嵐の後は魚や海辺の生き物だけでなく、難破した船の漂流者が流れ着くことも多い。その多くが息をしていない状態で発見されることを思えば、ボウは大層な幸運の持ち主らしい。
 タマオはまだ少しぼんやりしているボウの上着を脱がし、背中を乾いた布で拭く。
 あまり筋肉のついていない上半身には、それでもいくつかの古傷らしきものが見られた。
 ボウは何をしていた人なのだろう? 記憶喪失なので細かく聞くわけにもいかないが、今のところ服装や肉体から彼の経歴を察せられそうなものはない。持ち物を調べれば何かわかるだろうか。
「タマオ、彼の着替え持ってきたぞ」
 髪と体を一通り拭い終わったところで、イナミたちが家に入ってきた。
「ありがとうイナミ。名前はボウだって」
「そうか。俺はイナミ。こっちはトミテ」
「……二人とも、先程はありがとう」
 乾いた布一枚を体に巻き付けた状態で長椅子に座り直し頭を下げたボウの顔を見て、男二人はあれ? と目を瞠る。
「さっき、頭と目に布を巻いてたろ。そっちの目、何ともないのか?」
 トミテの問いに、ボウは自らの左目の瞼を撫でながら答える。
「ああ。特に支障はないよ。……僕はなんで片目に布なんて巻いてたんだろう?」
「お前が不思議がってどうす――……そういや記憶喪失だったな。面倒な奴め」
「トミテ!」
 あけすけな物言いにタマオとイナミが咎める声を上げるが、ボウは小さく首を振る。
「すまない」
「あの状況だと恐らく何かの事故にあったのだから仕方ないだろう。記憶が戻るまではこの街でゆっくりすればいい」
 イナミが言い、その流れでうちに来るか? と誘う。
「でも、イナミの家はウルキさんがいるし……」
「新妻を日中若い男と家で二人きりにする奴があるかよ。イナミのバカ」
「トミテ、お前な……」
「このままうちにいればいいわ。ちょうど父さんたちの部屋が空いてるし」
「タマオ。お前年頃の娘がそんな……」
「イナミは人のこと言えないだろ」
 しばらくぎゃあぎゃあと三人で喚きあった後、結局ボウはタマオの家にこのまま滞在することになった。
「隣には俺がいるしウルキもいる。何かあればすぐに声をかけろ」
 この世界この時代、小さな街では助け合って暮らしていくのが当たり前だ。不埒な真似はしないとボウに約束させて、イナミは隣家に戻ることになった。
 トミテは念のため今夜はタマオの家に泊まると強引に決め、勝手知ったる他人の家で夕食と寝台の用意にとりかかる。
「トミテのことは気にしないでね。まずは体を治して記憶を取り戻すが先決よ。元気になったら世話代として仕事の手伝いくらいはしてもらうけれど」
 タマオは言い、この街でゆっくりすればいいとイナミと同じことをもう一度告げるが、ボウは小さく首を横に振った。
「君たちの気持ちはありがたい。でも多分、僕はいつかこの街を出ていく。……そんな予感がする」
 何故かは、自分でもわからないけれど。
 記憶がないはずのボウの物言いに、タマオは少しだけ不安になった。

 ◆◆◆◆◆

 昔々、悪い神様と、悪い魔法使いがおりました。
 悪い神様は背徳神グラスヴェリア。
 悪い魔法使いの名は辰砂。
 この二人は手を組んでフローミア・フェーディアーダの神々に反旗を翻し、大きな戦いを繰り広げました。
 魔術師は創造の女神の名を奪い取ってその力を手に入れたことから、創造の魔術師・辰砂と呼ばれるようになります。
 しかし最強の闘神こと破壊神イリューシアに魔術師・辰砂は倒され、背徳神グラスヴェリアも罰を受け“常闇の牢獄”と呼ばれる場所に封印されます。
 そしてしばらく、平和な時代が続きました。
 しかし、悪神と悪い魔法使いはやがて復活し、再び世界を混沌に陥れたのです。
 いったい何が理由だったのでしょう? “常闇の牢獄”から抜け出した背徳神グラスヴェリアと、新たに生まれ変わり蘇った創造の魔術師・辰砂は仲間割れをして、相討ちになりました。
 この時、空一杯を埋め尽くす黒い流れ星が地上に降り注ぎました。
 その悪しき流れ星に触れると、動物も植物も人間でさえも、みんな邪悪な心に飲まれ狂い、おぞましい化け物へと変化してしまうのです。
 そうして黒い流れ星から生まれた化け物たちは、魔獣と呼ばれるようになりました。
 魔獣たちの襲撃は、今でも世界中の人々や他の種族たちを脅かし続けています。

 ◆◆◆◆◆

「私ね、毎回不思議なんだけれど、この“神話”って誰が世界に伝えたのかしら」
「誰って……」
「だって誰か伝える人がいなければ、邪神と創造の魔術師の戦いとか相討ちになったとか分からないでしょう? どうやって知ったのかしら?」
「そうだなぁ……」
 ボウはタマオと他愛のない話をしながら、畑の薬草に水遣りをする。
 波打ち際で拾われてからほんの数日で、ボウの肉体は回復した。しかし記憶の方はさっぱり戻ることはなく、一月程経った今でもボウはタマオの家に居候している。
「タマオちゃん、ボウ君。精が出るね」
「あ、雑貨屋のおじさん。こんにちは」
 顔見知りの住人も増えた。ボウはタマオの言いつけに従って大人しく過ごしていることもあり、次第に周囲に受け入れられてきていた。
 道行く人にあいさつをしながらも、二人は水遣りの手を止めない。
 タマオの両親はすでに亡くなっているが、家とこの薬草畑を彼女に遺していた。タマオはこの薬草栽培と麦藁を編んで日除けの帽子を作る内職や、海岸で海藻や果物を干す作業を手伝う仕事をして生活しているのである。
 ボウが同居するようになり彼女の生活も一時はきつくなるかと案じられたが、思ったよりもボウの回復が早くタマオにはきつい力仕事をこなすようになって、結果的には二人でも以前と変わりない暮らしができている。
 元から親切なイナミはもちろん、初めは警戒していたトミテもそろそろボウに気を許し始めてきた。
 水遣りをする二人の手元では、雫を浴びた真珠草の白く丸い花が本物の宝石のようにきらきらと輝いている。
 真珠草は海沿いのこの街で、潮風に当たることで育つ珍しい薬草だ。乾燥させた葉が特定の病に効くため、内陸の街との良い取引材料になっている。
 春が盛りのこの花は、もうすぐ満開になるだろう。
「タマオちゃん、ボウ君」
 呼びかけられて振り返ると、二十歳過ぎぐらいの一人の女性が、塀の方から布を被った籠を持って歩いてきた。
「ウルキ」
「ウルキさん」
「靴屋の女将さんからパンを頂いたのよ。そろそろお昼にしましょう」
「わぁ、やったぁ」
 イナミの妻、ウルキはタマオの薬草園を手伝う形で隣家に住んでいる。
 この夫婦は元々街の外から来た人間で、住む場所や仕事を探している際に、両親が病で働けなくなったタマオの薬草園を手伝いに来て、当時空き家だった隣家に住み込むことになった。
 夫のイナミは普段は薬草園を手伝いながら、晨星郷の丘の上にある城にも仕えて剣士として評議会に頼まれた仕事をこなしている。トミテも似たような立場で、少年ながらイナミより更に荒事に向いた腕前だ。
 三人で庭の東屋の中からこの村の名物でもある丘の上の白い城を遠く眺めながら昼食をとる中、そういえば、とウルキが小首を傾げながら尋ねた。
「ボウ君はいくつぐらいかしら」
「……僕にもわかりません」
「まぁ、ごめんなさい。無理に思い出せと言うのではないの。私たちから見て何歳ぐらいなのかしらって」
「私も気になるわ。背も高いし、トミテよりは年上よね」
 喧嘩っ早い性格とは裏腹に端麗な面差しに劣等感を持つ少年と引き比べ、タマオはうんうんと唸りながらボウの年齢を見定めようとする。
「十五……いや、十六かしら」
「そうねぇ。タマオちゃんと同じ年の男の子ならもっとたくましいもの」
「でも、ボウってイナミたちみたいに剣士ではないようだし、歳をとっても細いかも」
「……えーと」
 なんとも反応に困り、ボウはパンをかじる手を止めて頬をかく。
 ふわふわの白パンには干した果物や木の実がいくつも練りこまれていて、燻製肉とチーズを挟んだだけの素朴な料理が空腹の胃に染み渡る。
 三人がいつものように緩い時間を過ごしていると、遠く街の中心の方から何か騒いでいるような声が聞こえてきた。
 ウルキが表情を曇らせる。
「何かあったのかしら……また」
 タマオとボウも、眉を顰めて顔を見合わせた。
 平穏な日々は長く続かないと、ここ数日彼らはそれを感じ始めてきたところだった。

 ◆◆◆◆◆

 異形の巨大な化け物が、地響きを立てて石畳に倒れこむ。黒い流れ星によって生まれた妖。魔獣だ。
 魔獣を退治したイナミとトミテの二人は、剣を一振りしてその青い血を振り払ってから鞘に納める。
 その様子を少し離れて見ていた群衆たちが、ようやくほっと息を吐いた。
「助かった……」
「もう今週三度目だぞ」
「怖いわ。もし魔獣が夜も襲ってくるようになったら……」
 がやがやとさざめく人波をかき分けるようにして、一人の老人が狭い路地へ現れる。
「二人とも、よくやってくれた」
「タタラ様」
 評議会の長であるタタラを前に、二人は片膝を立てて跪く。
 魔獣が跋扈するこの時代、どこの街も防衛のための戦力を置いている。辺境のこの海沿いの地域には星狩人と呼ばれる魔獣退治人が訪れることも少なく、住民の中に戦士を抱えているのだ。
 イナミとトミテは、その中でも最も貴重な戦力である。
 ウルキが薬草園の手伝いを選んだのは、夫のイナミが魔獣退治やタタラの命令で出かけることが多いため、彼が家を空けていても傍に誰かがいる暮らしを望んだためである。タマオや周辺の住人もそれを知っていて、いつも若妻を気にかけている。
 剣の腕だけならトミテの方が上だとも言われるが、彼はまだ十三。いくら何でも一人旅に出すのは幼過ぎると、剣を使う仕事では年長のイナミと行動を共にすることが多い。
「また魔獣か。これで今月七度目。しかも徐々に襲撃の間隔が短くなっている」
 タタラは険しい顔で周囲を見回した。
「被害の報告を」
「今日はたまたまイナミたちが駆け付けるのが早くて、この辺が壊れたこと以外には……」
 魔獣に壊された家の住民の一人がそう報告する。魔獣被害には議会が補助金を出してくれるとはいえ、家の塀や商店の軒先が破壊されつくしたこの惨状には頭が痛い。それでも、人的被害が出なかっただけまだマシなのだとわかっている。
「怪我人はなしか。それは良いことだ。だがいつまでも、そう都合よく事は運ばぬだろうな」
 イナミたちは頭を垂れたまま沈黙している。彼らは晨星郷に現れる魔獣を退治することはできても、その大本を絶つことまではできない。
 タタラの言葉に、人々も不安を隠せない様子を見せる。
 一体いつまでこんなことが続くのだろう。
 何故、この街は魔獣に襲われ続けるのだろう。
 魔獣は確かに理由なく人を襲うことも多い存在かもしれないが、この辺りは元々それほど魔獣被害が多い地域ではなかった。
 魔獣たちの王である魔王が攻めるのはもっと大国の中心近い地域で在り、晨星郷は良くも悪くも忘れられた土地なのだ。
 それが最近になって、街に次々と不吉なことが起こり始め、魔獣の襲撃が立て続くようになった。
 街はずれの古井戸が枯れ、湖が赤く染まる。畑の作物が腐り始め、家畜にも病気が流行る。ついには子どもたちが病に倒れるようになり、大人たちも精気を失う。そして恐ろしい姿の魔獣たちが、街中へやってきて人を襲う。
 今のところまだ死者は出ていないが、このままでは時間の問題かもしれない。何が原因でどう対処すればいいのかもわからず、人々の心は徐々に疲弊していく。
「タタラ様、我々はどうすれば良いのでしょう」
「評議会が対策を練っている。とにかく、魔獣を見かけたら気づかれぬよう身を隠して逃げ、すぐに議会へと報告するように」
「しかし!」
「もうしばし待て。我々もこのままで良いとは思っていない」
 不満と不安を訴えた民衆がタタラの言葉になんとか宥められて家々へと戻っていく。早くこの件を解決しなければ、人々の不満はあらぬ形で爆発するかもしれぬ、とタタラは危惧する。
 強大な力を持つ魔獣に対抗できる人員は限られている。
 その数少ない二人を呼び、タタラは言った。
「イナミ、トミテ。お前たちもこのまま城に来なさい。今後の対策について話し合う」
 晨星郷は本格的に一連の怪異と魔獣襲撃の真相を解明し、対処するのだと。

 ◆◆◆◆◆

「それで、評議会はなんて?」
「自警団を強化して、街の見回りをするそうだ。昼間はもちろん、夜も念のためにな」
「……そうね、今はまだ被害が出ていないとはいえ、夜に魔獣に襲われたらひとたまりもないものね……」
 城での会議から解放されたイナミとトミテは、タマオの家に集まりボウとウルキも共に五人で夕食をとりながら魔獣対策について話し合っていた。
 ウルキが夫に海鮮のスープをよそいながら会議の結果を聞く。
「俺とトミテは、今夜から自警団に参加して見回りに行ってくる」
「わかったわ。気を付けてね。二人とも」
「あの……」
 いつも物静かで聞き役に徹しているボウが、珍しく声を上げた。
「僕も、その見回りに参加させてもらえないだろうか」
「お前が?」
「ああ。……ただお世話になっているだけでは心苦しいし」
「確かに自警団は人手不足じゃあるんだが」
 腕利き故にほとんど毎日見回りに駆り出される予定となったイナミとトミテが、二人して微妙な顔をする。
「でもお前、戦えないだろ? 剣の一つも振り回せないくせに」
「う……」
 トミテの指摘に、ボウは痛いところを衝かれた表情になる。
「お前の荷物、武器らしきものがまるでなかったからな」
 ボウが記憶喪失であると分かった後、何か身元の手がかりになるものを探して彼の身に着けていたものをタマオたちは調べたが、結局何もわからなかった。
「旅人なら剣の一振りも佩いているでしょうから、ボウ君はどこかに帰る家がある人なのかもしれないわね」
「……」
 ウルキの何気ない言葉に、タマオが複雑な表情になる。
「あの杖は?」
 イナミは、今も寝室の壁に立てかけられているはずの杖の存在を気に掛ける。
 ボウの持ち物で変わったものがあるとすれば一つ、それは指揮棒程度の短い杖だった。
 足を悪くした者が使う杖ではないし、それこそ指揮棒でもないようだった。一体何に使うかもわからない小杖だけが、彼の身元を探す手がかりである。
 だが、あんな細い杖が武器になるとも思えない。
 ボウに戦闘の経験はないと見ていいだろう。イナミとトミテはそう判断していた。
「今回の見回りは人間じゃなく魔獣が相手だから、ちゃんと実力が必要なんだ」
 これが人間の盗人相手ならば、明かりを掲げて人が来たことを報せるだけで防犯効果がある。だが魔獣相手では意味がない。
 遭遇すれば確実に戦闘になる。そんな危険な見回りに戦闘のできない素人を混ぜてもいいものかとイナミたちは考える。
 それにもう一つ、ボウを加えたくない理由があった。
「ボウ、お前にはどちらかと言うと、この家に残ってタマオや、隣のウルキに何かあったときに助けてやってほしい」
「え?」
「俺が夜も家を空けることになるからな。男手が必要になった時に誰かいてほしんだ。頼む」
「……そういう、ことなら」
 イナミは普段から家を空けがちだが、そういう時には前もって隣人たちやイナミに命令を下すタタラたちがウルキたちを気にかけてくれている。しかし今は魔獣や謎の怪異相手で、いつ何が起こるかわからない。
 この辺りにはまだ何の怪異も魔獣の襲撃も起きてはいないとはいえ、楽観視はしていられなかった。
「お前の命の恩人はタマオだ。恩義を感じるなら、晨星郷より前にまずタマオにな。この娘を守れ」
「わ、私はそんなこと」
「いえ、わかりました。タマオを危険に晒すわけにはいきません」
 ボウはしっかりイナミの目を見て頷く。
「ちょっと!」
「ふふ。大事にされてるわね、タマオちゃん」
 五人は話が一度落ち着いたとみて、後は夕食が冷めないうちに消化する作業に戻った。

002

 ――歌が聞こえる。
 深夜、ボウは海岸から聞こえる歌声で目を覚ました。
 辺りはまだ暗く、窓の向こうで銀色の月が星々を照らしながら静かに輝いている。
 こんな夜更けに、一体誰が歌っているのだろう。
 海に最も近いタマオの家だからやっと聞こえる程度の歌声だ。街には響いていないだろう。
 竪琴の旋律に乗って微かに届く声は、高く透き通るように美しいが女性のものではない。タマオや隣家のウルキが起きだして歌っている訳ではないのだ。
 ボウはそっと目を閉じ、耳を澄ます。
 流れる旋律に寄り添う歌声にはどこか哀切な響きが宿っている。
 隣室に眠るタマオを起こさぬようそっと寝台を抜け出すと、上掛けを羽織り家を出た。
 手燭もいらぬほど月が明るい夜だ。なるべく物音を立てぬよう静かに歩き、砂浜へと辿り着く。
 波打ち際のすぐ近く、ほとんど海の中に生えているような小さな岩の上に誰かが腰かけていた。
 月光に映える青みを帯びた銀の長い髪がさらりと揺れる。
 白い指が竪琴の弦を爪弾く。
 零れ落ちる音と声。
 水のしずくを思わせる、透明で切ないーー鎮魂歌。
 ああ、だから、とボウは納得した。
 これは弔いの歌だ。生きている人に聞かせる必要のない、誰かを偲ぶ歌声。だから昼の砂浜ではなく、夜の海でひっそりと歌っているのだ。
 月に顔を向けているその人物の顔はわからない。
 だが邪魔をしてはいけないと思い、ボウはその人物に話しかけることもなく、来たとき同様静かにタマオの家へと戻った。

 ◆◆◆◆◆

「じゃあ、今日も行ってくるな」
「行ってらっしゃーい」
「二人とも気を付けて」
「まったく、面倒なもんだ。この雨」
「仕方がない。雨が降れば怪異が休んでくれるわけでもないのだから」
「俺たち人間は休みたいがね」
 トミテがイナミを迎えにやってきて、ついでに隣家のタマオたちにも声をかけることで二人の夜半の夜間の見回りは始まる。
 晨星郷でも有数の手練れであるトミテとイナミは、戦力として期待されている分とても忙しい。
 今日は夕刻から雨がしとしとと降りだして、夜半には大分勢いが強くなってきた。うんざり顔で二人が出ていく。
 見回りの成果だろうか、ここ数日は魔獣らしき化け物も出現せず、街は穏やかだった。このまま何事もない日々が続き、怪異も次第に鎮まってくれれば良いのだが。
「私たちはそろそろ寝る支度をしましょう」
「明日も早いしね」
 夫を見送ったウルキが隣家に戻るのを確認して、タマオとボウも家の中に入った。
 明日は早く起きて、見回りから帰ってきたイナミとトミテの朝食を作る必要があるのだ。
 小さな街とは言っても数千人が暮らしており、細々した路地も広い畑もある。その全てを途中交替するとはいえぐるりと気を付けて見て回るのは、やはり重労働だ。
 くたくたになったトミテたちは一度タマオの家に戻り、五人で朝食を摂る。その後イナミは自分の家に戻り、トミテはタマオの家で軽く仮眠をとってから養父母の待つ自宅に帰る。
 ここ数日は、そんな生活が続いていた。
 タマオとトミテは姉弟のように育ったため、トミテはよくタマオの家に入り浸っている。一時期は恋仲と噂されもしたそうだが、今ではボウの登場によってわからなくなっている……というのがここ最近の晨星郷に流れている噂だそうだ。
 そんなことはまるで構わず、タマオは明日の朝食の仕込みだけ手際よく終えると、寝支度に入った。ボウもそろそろ照明の火を落とすかと動き出そうとしたところで、家の戸が強く叩かれた。

 ドンッ ドンッ

「……何かしら」
 夜も更けたこんな時間に来訪者など普通はいない。ましてやこんな雨の中だ。例外はイナミやトミテたちだが、二人とも見回りに行ったばかりだ。
 タマオとボウが顔を見合わせると、外から声がかけられた。
「タマオちゃん! いるかい?!」
「雑貨屋のおじさん?」
 声の主はよく知った相手だった。駆け付けようとしたタマオを制して、ボウが戸を開けた。
「ああ、二人とも……」
 雑貨屋の店主――テンセンと言う名の男は、ここまで全力で駆けてきたかのような姿だった。
 風雨の勢いで脱げかけた雨具からぼたぼたと雫が垂れるが、本人の顔は赤く息を切らしている。
 彼はタマオとボウの顔を見て、安堵と不安の入り混じった顔で呻いた。
 その只事ではない様子に、タマオたちも顔つきを引き締めて、とにかくテンセンを家の中に引き入れる。
「どうしたんですか? こんな時間に」
 テンセンはボウが渡した布で顔を拭うことすらせず、焦った様子で用件を切り出した。
「薬を分けてほしいんだ」
 薬草園では数々の薬草を育てている。それらは種類によって細かく分けられ、あるものはそのまま、あるものは乾燥させたり様々な処理をしてから医師や街の薬屋に卸す。
 薬が必要なら、街の者たちは医師から処方されたり薬屋で買うはず。どうしてわざわざ原料を育てる薬草園に?
「うちの坊主の具合が悪いんだ。薬を切らしてたから医者の先生の所に行ったんだがこの雨の浸水で薬類がだいぶ駄目になっちまった」
「なんてこと……!」
 いつも通りかかる医院は盛況で医師も穏やかな人柄だが、確かに建物は古かった。
 浸水自体は命の危険があるようなものではないが、木造の棚の下段に入っていた薬草類が全て駄目になってしまったらしい。
 その中に運悪く雑貨屋の坊やの薬も含まれていた。
「どの薬ですか? うちに在庫があればお渡しします」
「ああ、元の草はこんな風に葉っぱが生えていて、白い花がついたやつなんだが……ええと……」
 息を切らしたテンセンが説明するが、混乱しているのか、なかなか薬草の名前が出てこない。
「白い花……」
 ボウはふといつも世話をしている真珠草のことが思い浮かび窓の外を見た。
 春の夜の冷たい雨に打たれて頭をもたげながらも、白く丸い花の蕾は輝くように美しい。
 その視線の先を追い、テンセンもはっとして指をさす。
「あ、あれだよあれ!」
「真珠草ね! それなら乾燥させたものがあるわ!」
 細かい調剤はもちろんタマオには無理だが、真珠草は主に乾燥させたものを煎じて用いることは知っている。医師に渡せばすぐに薬を作ってくれるだろう。
 タマオはすぐに薬草を保管している棚の前に行き、真珠草と更にいくつかの薬草を持ち運び用の箱に布で何重にもくるんで入れる。最後にしっかり防水を施した革の鞄にその箱を詰め込んだ。
「ボウ、私、おじさんと一緒にこの薬草をお医者様に届けに行くわ」
「僕も行くよ」
「でも」
「イナミから頼まれている。ウルキに事情を説明してくるから用意して待っていて」
 ボウが隣家に説明に行っている間に、タマオは寝巻から着替え、二人分の雨具を用意した。
 父の使い古した雨避け外套をボウに渡す。
「行きましょう」
「ありがとう、二人とも」
 三人は薬草園を出て、街の中心部にある医院へと向かった。
 風が吹き付け、雨は叩くような勢いで降ってくる。あっと言う間にタマオとボウもテンセンのようにずぶ濡れになり、髪の先から夜を映す暗い雫が滴り始めた。
 気温そのものより、雨と風のせいで寒さを感じながら、足元の水溜まりを蹴飛ばして進む。靴に泥水が跳ね、濡れた道にすぐ消える足跡を刻む。
 薬草を届けるのに急いでいるのもあるが、何かを喋るような気分ではない。
 石畳の道に入り、暗い大通りを行く。
 テンセンとボウの持つカンテラの頼りない明かりだけは離さないようにしながら、やけに長く感じる医院までの道を小走りに進んでいたとき。

 ――獣の唸り声がした。

「伏せて!」
「きゃあ!」
 ボウは咄嗟にタマオを抱え込んで地面へと転がる。二人の全身が泥水で真っ黒のずぶ濡れになった。
 彼らが先程までいた場所を、一瞬のきらめきが切り裂いていく。
「畜生! こんな時に……!!」
 テンセンが絶望よりも強い苛立ちを込めて叫んだ。
 そこには近頃、晨星郷を騒がせている化け物がいた。
「魔獣……!」
 大人の背丈ほどの大きさもある、半透明に透ける四つ足の獣に似た化け物。
 耳や背の辺りには魚の鰭のようなものがついていて、単純な獣型とも言い難い。
 その刃のように鋭い爪が、先程タマオとボウがいた場所に閃いたのだ。
 魔獣の周囲には黒い靄のようなものが漂っていて、どこか暗い闇の中から突然現れた生き物のようだった。
 獣は明確な敵意を持ってこちらを攻撃してきた。
「うぅ……薬、薬は?!」
 ボウに助け起こされたタマオは、泥まみれの姿で自らの持つ鞄を確かめる。
 厳重に封じた中の薬草はまだ無事だろう。しかし、先程の攻撃のせいで蝋が塗られている革の鞄にもすでに水が染み始めている。
 雨に濡れたら薬草の成分が溶けだしてしまい使い物にならない。
 けれど、医院までの道は魚の鰭を持つ化け物が塞いでいる。
「どうすりゃいいんだ……」
「……」
 カンテラを持ちながら立ち尽くすテンセンに、鞄を両腕で抱えたタマオを庇って前に立つボウ。
「……ボウ」
 タマオが、奇妙に静かな声で言った。
「薬草をお医者様に届けなきゃいけないの。私より足の速いあなたが走ってくれた方が――」
「駄目だ」
 やけに度胸のある少女が、自分が囮になると言い出す前に、ボウは先程の獣の突進で割れた石畳を示す。
「こいつの動きと突進の威力を考えると、医院の壁を壊してでも入り込んで来る」
「……ッ!」
 囮が通用するのは、それで事態が解決する場合だけだ。
 誰かが囮になって殺されてもそこで化け物が巣に帰ってくれるわけではない。
 一度逃げても、逃げた先で他人を巻き込んで殺されては意味がない。
「なら、どうすればいいの?」
「あの魔獣を倒すか、無力化できれば」
 ボウは剣が使えない。彼の手元にあるのは、短い杖が一本だけ。出発する際に何故か必要な気がして部屋から持ち出した。
 テンセンもタマオも武器らしきものは持っていない。持っていても二人には使えない。
 何とかしなければ。ボウは必死に、化け物が人に危害を加えないようにするにはどうするか考える。
 殺害する、昏倒させる、拘束する。いくつかの方法が浮かぶがどれも自分たちには実現する手段がない。
 真正面から倒すことはもちろん、縄などで拘束するのも難しい。落とし穴や狭い空間に嵌めようにも、化け物の体格と突進の破壊力を考えると、下手な場所は用意できない。街中ならなおさらだ。
 手元のカンテラを見る。これで火を点ければと思ったが、この雨の中で、魚にも似た恐らく水属性らしい化け物に火が点くだろうか。
「タマオ、薬草の中に眠り薬とかない?」
「ないわ。あの魔獣をどうにかできそうなものはないの」
 冒険者ならばともかく、街暮らしの一般市民がそんな物騒な薬を持っているはずはなかった。
「来るぞ!」
 テンセンが警告を叫ぶと、一度体勢を低く構えた化け物が再び彼らに突っ込んできた。
 ボウはタマオの手を引いてテンセンとは反対側に避ける。
 彼らが躱した化け物の突進が、通りに植えられた木をなぎ倒した。
「きゃああ!」
 その凄まじい音も、雨でほとんど殺される。それでもさすがに周囲の家々の人々が事態に気づいて起きだしたのか、微かに気配がした。
 化け物が襲来する可能性のある昨今、夜は迂闊に外に出ないよう民には言いつけられている。戸口からは誰も出てこない。
 それはそれでいい。手練れはほとんど夜間警備の見回りに出ているため、家に残っているのは女子どもや老人ばかりなのだから。
 ボウはあることに気づき、タマオから体を離す。
「タマオ、一人でも走れる?」
「だ、大丈夫だけど。ボウ、あなたは」
「――あの魔獣は、僕を狙っている」
 最初からボウとタマオがいる場所を狙って爪を振ってきた。次の突進でもテンセンは狙わずに二人のいる場所へ向かってきた。
 そして今、獣の暗い瞳は、タマオではなく彼女を抱えたボウだけを睨んでいる。
 それなら自分からタマオを引き離した方がいいとボウは考えた。
「こっちだ!」
 タマオを置いて走り出し、ボウは低い唸りを上げる獣の顔面に手元のカンテラを投げつけた。
「!」
 カンテラが割れ、獣の顔面に一瞬炎が走るがやはりこの雨ですぐに消えてしまう。直前で目を閉じたらしき獣は割れた硝子の破片を鬱陶しそうに振り払い、またボウの方を睨む。
「駄目か……!」
 その時、近くの家の戸がうっすら開き、誰かが小さなものをタマオの足音に投げた。
「お姉ちゃん!」
 見るとそれはおもちゃの小さな笛だ。鳥の形をした陶器の笛は雨のおかげで割れずにタマオの元へ届く。
「それで警備の連中を呼びな!」
 母親らしき声が一言だけ叫ぶと、あとは笛を放り投げた子どもを引き込んできっちりと戸を閉める。
 タマオは急いで笛を持ち上げると、唇に押し当てた。
 ピィイイイイと空気を裂く高い音が雨音に負けずに連なり、夜の街に笛の音が響き渡る。
 これで見回りに出ていたイナミたちがやってくる。
「まずい!」
 しかし、笛を吹いたタマオに化け物の注意が向いた。ボウは彼女の元に駆け付けようとするが、化け物が跳び込む方が早い。

 避けることもできずタマオが目を見開いたその時。

「させるかよ!」

 突如として宙から降ってきたトミテの剣閃が化け物の胴体を深く切り裂く。

 獣は恐ろし気な咆哮を上げてトミテに向かおうとするが、その背後から今度はイナミが一撃をお見舞いする。
「トミテ! イナミ!」
「タマオ、遅くなって悪かった」
「十分早いわよ! 今笛吹いたところよ!」
 家々の屋根を走ってきたトミテが上から、彼を陽動にイナミが背後から斬り付ける連携を披露した二人は、もともと見回りで街には近づいていたらしい。
 耳の良いイナミが遠くからでも争いの気配を聞きつけてトミテと二人先行して様子を見ようとしていたところに、先程の笛の音が響いたのだと言う。
「他の奴らもすぐに駆け付けるはずだ」
「助かった……!」
 タマオに駆け寄ったテンセンも安堵の息を吐く。
 化け物は二人がかりどころか、剣を振るうトミテ一人に危なげなく捌かれている。晨星郷一の剣士の名は伊達ではない。このまま倒すのも時間の問題だろう。
「おーい! 大丈夫か!」
 イナミの言葉通り、残りの自警団もすぐに駆け付けてきた。もうこれで大丈夫。
 だが、その緊張の緩みが、一瞬の隙を作った。
 トミテの剣をぎりぎり躱した化け物が、最期の力を振り絞って跳びかかる――一人だけ外れた場所にいたボウへと。
「ボウ!」
 イナミがフォローに入ろうとするが、タマオやテンセンの傍に付き添っていた彼も先程のボウと同じく間に合いそうにない。攻撃を躱されて体勢を立て直しているトミテの剣も届かない。――獣の牙から逃れる術はない。
 ボウは咄嗟に目を瞑り手を顔の前に突き出して庇う。
 無意味と知っていても人はその瞬間には恐怖で目を瞑ってしまうもの。
 ――獣が跳び込んで来る。そして。
「え?」

 ボウにとびかかってきた化け物は、すぅっと雨に溶けるようにして消えてしまった。

「一体……何が起きたんだ? 今」
 トミテが呆然と口にし、後の者たちも驚いて声が出ない。
 これまで、トミテやイナミが倒してきた魔獣たちは、倒されれば一度は屍を晒したはず。中には小さな灰になって消えてしまうものもいるが、その場合でも死んですぐ姿が消える訳ではない。けれど。
 今見た化け物は、まるでボウの中に吸い込まれるようにして消えてしまった。
 徐々に今の光景が脳に届き始め、これまでの魔獣の行動と違う光景に困惑と恐怖が広がっていく。
 そこに、一つの声が上がった。
「薬……薬を届けないと」
「! ……そうよ! お医者様のところに行かないと!」
 テンセンの言葉とタマオの叫びに、彼らは夢から覚めたように我に帰る。緊張のため聞こえていなかった、雨が石畳を叩く激しい音が耳につき始める。
 ひとまずこの場は自警団に任せて、自分たちは早く雑貨屋の坊やのために薬草を届けないと。
 時間にすれば僅かな足止めだったとはいえ、全身がずぶ濡れだ。鞄の中身が濡れてないようにと祈りながら、タマオとボウはテンセンと共にとにかく医院へと向かった。

 ◆◆◆◆◆

「信じられない!」
「まぁまぁ、落ち着け、タマオ」
 雑貨屋の坊やの容態も安定してようやく一行も休息をとった後、ボウは評議会から城へと呼び出された。
 丘の上の白い城へと、ボウはタマオやトミテ、イナミと共に登る。
 最後に魔獣がボウへぶつかるようにして消えたことについて、目撃していた自警団から評議会へ報告が上がったのだ。
 尋常ならざる事態の元凶が、ボウなのではないかという推測と共に。
「邪推よ!」
「落ち着けと」
 ボウは本日、その申し開きをするために呼び出されたのだ。
 とはいえ、ボウ自身にも具体的に何が起きたのかはわかっていない。何も知らないという言葉は果たして弁明になりうるのだろうか。
 最悪の場合には、これまでの怪異や魔獣の出現、ここ最近晨星郷で起きた不幸の全てが押し付けられて「処分」を受けることになるかもしれない。
 余所者の扱いなど、どこでもそんなものだ。
 四人は白と青の小さな可愛らしい花が植えられた小道を歩き、早咲きの薔薇の蔓が絡んだアーチを潜り抜ける。
 会議の行われる城は美しく、晨星郷を訪れた旅人たちの観光地ともなっているが、今はその美しい景色を堪能する気にもなれない。
 タマオたち住民はこの景色を見慣れているからだが、ボウは別の理由で周囲の景色が頭に入っていなかった。
 一昨日とは打って変わって晴れ渡った空とは裏腹に、彼の心は曇っている。
(あの時の獣、あれは……)
 自分でも上手く言語化できないせいでまだタマオたちにも話していないが、化け物が体の中に吸い込まれていった瞬間、ボウの中に見知らぬ光景が広がったのだ。
 暗い夜の海辺に佇む誰か。海岸の遠くで巨大な魚か何かが跳ねる音。
 一瞬で消えて、その光景が何だったのか、何故そんなものが見えたのか理由も意味もわからない。
 だが、何かがある。ボウは自分の正体にようやく疑問を抱き始めた。
 記憶喪失。知っているはずのことを思い出せないもどかしい感覚が胸を苛む。
 答を得られないまま城の会議室で、ボウは評議会の面々を前に先日の申し開きをすることになった。
「……事情はわかった」
 タマオがイナミやトミテと共に海岸でボウを拾ったこと。ボウには記憶がないこと。見つかった荷物には剣などの武器を含む怪しい品は入っていなかったこと。これまでの生活態度。魔獣に襲撃された一昨日の雨の夜の状況など、一行を代表して最年長のイナミの口から包み隠さず語られる。
 最高責任者の一人、タタラがボウと彼の付き添いでやってきた三人に声をかける。
「だが、それはお前のことを放置する理由にはならない。自覚がないだけで、お前自身に何かがあってあの魔獣を引き寄せている可能性がないとは言い切れん」
「タタラ様! ボウは――」
「静かにせよ、タマオ」
 反論しようとしたタマオの発言はさくりと制される。怒り心頭の彼女が冷静な発言をできるとは思われていないのだろう。
 タマオは口を引き結んだが、思い切り不満げな顔でタタラと議会の面々を睨みつける。
「ボウとやら、お前には記憶がないのだろう?」
「……はい」
 片膝を折って跪いたボウは頷く。だから、タタラの言う通り自分がこの騒動の原因ではないと主張することも叶わない。
 これでもタタラの態度は評議会の中では十分に穏当でボウの側に寄ったものだった。
 議会員の中にはすでにボウを元凶と決めつけ――あるいは余所者だからちょうどよいとばかりに、元凶として責任を押し付けようと目論んでいる者もいる。
 タタラの穏やかな語り口とは裏腹に、会議室にはぴりぴりとした空気が漂っている。
「お前が本当に此度の魔獣騒ぎと無関係であるなら、身の証を立ててもらわねばならない」
 潔白を自ら証明せよ。
 タタラはボウにそう告げた。
「身の証……具体的に何をすれば良いのでしょう」
「――此度の一連の騒動、お前の手で解決できるか?」
「!」
 トミテとタマオが呆気に取られる。ボウの一歩後ろに立っていたイナミが進み出て、同じように跪き口を開いた。
「タタラ様、彼は剣の一つも使えないただの少年です。ボウに魔獣退治を任せるなら、自分にもそのお役目、手伝わせていただきたい」
 イナミの言葉にボウとタマオが驚いているうちに、トミテもイナミとは反対側に並んで同じように宣言する。
「では俺も。もともと、タマオの面倒をこいつに頼んだのは俺たちだ」
「イナミ、トミテ……」
 タタラはゆっくりと頷いた。
「それは構わない。だが、事は魔獣退治という枠には収まらない」
「収まらない?」
 鸚鵡返しで尋ね返すタマオたちにタタラは険しい表情で告げる。
「自警団がいくら魔獣を倒しても、この街を襲う怪異は鎮まらなかった。ボウ、お前には魔獣の襲撃を含む、この事件の原因を突き止めて解決してもらいたい」
 もしもボウが街を襲う邪なる存在に与する者でないのなら、街のために脅威を排除することに否やを唱えることはない。それをもって身の証とせよと。
「危険では……」
 恐る恐る口にしたタマオにも、タタラは氷の如き冷厳さでもって返す。
「街の男たちは大なり小なりその危険に立ち向かっているのだ。この街に住まう気がある以上、お前だけそれを避けることは許されない。それとも街の者になる気はないと、晨星郷から出ていくか?」
「そんな……!」
「構いません」

「僕は、構いません」
「ボウ!」

「僕には記憶がない。自分が何者かもわからない。けれど、僕は――……僕なら、恐らくあの化け物に対抗できます」
 その一言に会議室が今日一番ざわついた。
「……それは、どういう意味かね?」
「わかりません。けれど、イナミやトミテのような剣の腕とは違うもっと別の力を、多分僕は持っていたはずなんです」
 タマオやイナミたちが訝ってボウを見る。
 ボウはあの日以来肌身離さず身に着けている、短杖を懐から取り出しタタラの前で捧げた。
「これは……」
 壮年の男は静かに目を瞠る。
「魔術師の杖ですね」
 短杖の正体は、ボウたちが部屋に入ってきたのとは別の入り口から現れた人物によって告げられた。
「ヨウコウ様」
 十を数えるかどうかの幼い少女が、部屋の奥側の入り口からやってきたのだ。
 白を基調とした、神職者風の衣装を身にまとっている。胸元には、青と赤の花を一輪ずつ飾っていた。
 評議会の面々とタマオたち晨星郷の住人が、一斉に少女に向かって頭を下げた。
「あの方はヨウコウ様。晨星郷を導く巫女様だ」
 イナミが顔を伏せたまま、そっとボウに教える。
「巫女……?」
 彼女は両側に侍女らしき共を侍らせ、更に後ろには雑貨屋の主人テンセンの姿も見えた。
「おじさん!」
「タタラ様、どうか堪忍してください。その坊主とタマオちゃんは、うちの坊主の命の恩人なんだ。悪さなんてするはずがない」
 テンセンはタマオたちに恩義を感じて、ボウを救うために晨星郷のもう一人の権力者、巫女ヨウコウに掛け合ってくれたらしい。
「初めまして、無限の一部たる我が兄弟よ」
「きょうだい……?」
「事情は全てテンセン殿からお聞きしました。あなたには記憶がないということも。――いまだ、“彷徨える魂”なのですね」
「さまよえる、魂」
 それが自分のことだと言われて、ボウはすっと納得がいった。ああ、そうか。
 自分は亡霊なのだ。肉体はあっても中身に足る記憶がなく、自分が誰かも、何のために生きているのかもわからない。それでも。
 それでも……死者には心がないなんて言わない。
「“揺蕩う闇”共の始末は、全て任せましょう。大丈夫、あなたならきっとできるはず」
 巫女はあっさりとボウにその役目を押し付けた。
「お言葉を疑う訳ではありませんが、本当ですか? ヨウコウ様。例え魔術師であろうと、彼にそんな力があるなどとは……」
「問題はありません」
 どちらにせよ、ボウは晨星郷で暮らしていくなら身の証を立てるためにこの依頼を受けざるを得ない。
 ボウが怪異を解決できればよし。解決できずに死んでも、それはそれで元凶らしき余所者が死んで人々の心が落ち着けば評議会としてはそれで良いのだ。その間に具体的な魔獣対策を彼らは練り、事件はやがて解決し、悲劇など日常を繰り返していくうちに忘れ去られるだろう。
 元より晨星郷は損をしない。
「……お引き受けいたします」
「よろしく頼みますわ、彷徨える魂のお兄様」
 巫女は微笑んでボウにそう声をかけると、元来た入り口から帰っていく。
 ボウたち四人も、進展があったらイナミかトミテが報告するよう約束して、城を下がるよう命じられた。

 ◆◆◆◆◆

「どういうことなの? ボウ。ヨウコウ様の兄って何?」
 四人は話しながら再び城の小道を辿る。
 ひとまず解放されたがその条件は、ボウが魔獣襲撃の原因を突き止め、近頃の怪異を解決するのと引き換えだ。これから何をするべきか、考えなければならない。
「僕にも詳しいことはわからないよ」
 けれど、あの巫女の少女に、何か響くものを感じたことは確かだ。
「ヨウコウ様の口ぶりだと、実の姉弟とかそういう話ではなさそうだな」
「いやその前に年齢だろ」
 真面目くさって考え込むイナミに、隣からトミテが突っ込んだ。
「ヨウコウ様って魔族の血を引くらしくて、あの見た目よりは年上なのよ。私たちが子どもの頃からずっとあの姿なの」
「そうなのか」
 不思議な少女の姿を脳裏の隅に留め置き、ボウはタマオ、イナミ、トミテの三人に向き直った。
「……さっきはありがとう。庇ってくれて」
 これからの協力を約束してくれて。
「気にするな。俺もウルキも元々流れ者だからな。気持ちはわかる」
「俺は生まれも育ちも晨星郷だけど……親がわからないんで外から来た人間の可能性が高いし」
 ボウはイナミとトミテに軽く頭を下げる。
「私はあの晩もボウに助けてもらったし、今度は助けるのは当たり前じゃない」
「……タマオには助けられてばかりだね」
 海辺に流れ着いたボウをタマオが拾った日から、全ては始まった。
「そうよ。だから借りを全部返すまでは、どこかに行くなんて許さないんだからね!」
「――わかった」
 先行きはまだ不透明だが、青い空の下、彼の心もまた晴れていく。
 たぶんきっと、大丈夫。根拠はないがそう信じられる。こんな時でも、信じられる人がいる幸運をボウは噛み締める。
 四人が街の大通りに出たところで、ボウは一人の少年とすれ違った。
 真昼の陽光の下でも、眩いばかりに深い青みを帯びた銀髪。
 何かが引っかかり、あれ? とボウが振り返った時、小さな声が聞こえた。

「ごめん」

「……?」
 いったい何の謝罪だろう。別にすれ違う際にぶつかられた訳でもなければ、もちろん財布もちゃんとある。
 思わず立ち止まったボウを、先を歩いていたタマオが呼んだ。
「ボウ、帰るわよ!」
 長い銀髪の少年の背は、その隙に路地を曲がり見えなくなってしまう。
「どうかしたのか?」
「いや、なんでもない」
 知り合いでもない人間を呼び止めることもできず、ボウはそのまま三人と共に薬草園へ帰宅した。

003

「ごめんくださーい」
「おや、タマオちゃん……それに」
「彼はボウです。しばらく前からうちにいるの」
「ああ、ちょいと噂になってた子だね。それで、今日は二人してどうしたんだい?」
「この前の大雨でお医者様のところの薬草が一部ダメになっちゃったらしいから、他にも難儀してるお家はないかなって」
「まぁ! わざわざすまないねぇ」
「そのついでに、何か魔獣の話も聞けたら助かるわ」
「僕は先日、評議会から魔獣退治のお役目を任されたんです……」

 タマオはボウを連れて、晨星郷内でここ最近魔獣被害に遭った家を一軒一軒訪ねて回った。
 育てた薬草を売り込みつつ、彼らが遭遇した魔獣について何か知っていることはないか聞いて回る。
「表向き親切な振りしてよくやるよな、タマオも」
 その作戦を聞いた時、トミテは溜息と共に言った。
 ボウについては、評議会から魔獣退治の依頼を受けたことを隠さずにむしろ吹聴して回った。
 議会の人々はまだボウを信用していないどころか何かあれば余所者に罪を着せて追い出すつもりだが、街の人々はそんな事情露知らず、評議会が正式に依頼したなら一定の信用はあるのだろうと勘違いしてくれる。
「親切は親切だろう。病人や怪我人が出れば薬はどうしても足りなくなる。だが、無償で配るのはやめておけ、タマオ。あまり必死で情報を集めている姿を見せれば向こうも警戒する。お前たちの目的はあくまで薬の売り込みで、魔獣の情報集めはそのついでという扱いがいいだろう」
「そうするわ」
 イナミの助言通り、タマオは表向き薬の売り込みに力を入れた。
「魔獣被害以外の人たちのところも回った方がいいわよね」
「そうだな。怪我人や病人はわざわざ外に買いに出なくても薬が手に入る。お前は金を稼げる。ボウは魔獣の情報を集める。集めた情報で俺たちが魔獣を退治する。全部こなせればみんなが幸せになれるはずだ」
「そうね!」
 イナミとトミテの二人は元々の街の見回りと魔獣退治の任務があるため、新たに情報を集める時間はない。いざ戦闘になれば頼りになるが、怪異の元凶を探ることは難しい。
 ボウの役目とは“揺蕩う闇”と呼ばれる怪異の情報を集め、まとめ、元凶を探し出すことだ。
 元凶が魔獣か何かでそれを退治すれば話が終わるなら、戦闘はイナミたちを始めとした街の自警団に任せても構わない。
 重要なのは、誰も知らない怪異の元凶を探り、正体を突き止めることだった。
 この二、三日。街の見回りに向かうというイナミとトミテを見送ったあと、タマオとボウも薬草箱を背負い、連日街へと繰り出していた。
「こんにちはー、薬草園のタマオです。薬草はご入用ではございませんか?」
「おや、薬屋さんの方から来てくれるとは。ちょうど買いに行かなきゃいけないものができてね……」
 薬草を無料で配ることこそしなかったが、大雨後の大変な時期ということで少しばかり値引きした品をタマオは販売する。やはり浸水で薬をいくつか駄目にした家が多かったらしく、大概は有難がられた。
「ところで、おじさんが出くわした魔獣ってどんなだったの?」
「そうさねぇ……」
「坊や、魔獣をいつどこで見たか詳しく教えてくれる?」
「うん! あのねあのね!」
 タマオとボウの薬箱は少しずつ軽くなり、同時に情報も増えていく。
「今日はこの辺りでおしまいね」
「ああ。……参考になったよ」
 タマオの家に戻ってすぐ、ボウは街人たちの目撃証言をまとめて一覧表を作り、地図の作成に取り掛かる。
 昼の見回りを終えてイナミとトミテがタマオの家に戻り、隣家からウルキも夕食の手伝いにやってきた。それでもボウの作業は終わっていない。
「何をしているの?」
「魔獣の出没地域に目印をつけるんだよ。被害の多い場所を調べれば魔獣がどこから来て、何を狙っているのかわかるかもしれない」
 晨星郷とその周辺の森と海の位置を荒く書き込んだ大きな地図。そこに今日得た魔獣の情報を細かく書き留めていく。
 タマオの問いに答えながら、逆にボウは尋ねる。
「今まで、晨星郷ではこういう調査作業はやって来なかったの?」
「ええと……」
 タマオは過去に街で起きた様々な事件を思い返していく。
 しかし彼女が思い出すよりも、イナミとトミテの二人がボウの疑問に答える方が早かった。
「そういう時は、巫女様が占いで原因を調べてくださるのさ」
「巫女様って、この前会った……」
「そう、ヨウコウ様だ」
 少女の姿をしているが、実年齢は人間からするとかなり上らしい魔族の巫女。
 神秘的だが微笑みの下の感情を見せない姿をボウはそっと思い返す。
「困りごとの対処は大体巫女様に聞けば的確な指示をくださる。俺たちはそれに従って動くだけだ」
 トミテがそう言うと、イナミが難しい顔をした。
「だからこれまで、俺たちは何か問題が起きてもその原因を探したり対処法を調べたりするということがあまりなかった。考えてみれば、それ自体が問題なのかもしれないな……」
「私たちもこの街の外では人並みに不便を感じていたのに、いつの間にかヨウコウ様の導きに慣れ過ぎてしまったのかしらね……」
 ウルキも夫の隣でしみじみと考えている。
 イナミとウルキの夫婦は街の外からやってきた者たちであり、巫女の存在を知ったのも晨星郷にやって来てからだ。
「他の街では違うのか?」
「この街のように評議会が会議で街の運営を決めるところもあれば、王様や皇帝陛下が民を統治する国もあるわ」
 トミテの問いに、ウルキはこれまで訪れた国についての知識を語る。
「大きな国になるとあらかじめ治水の件はどこそこ、流行り病の件はどこそこと専門の部署を決めて仕事を回しているんだったわね」
「その土地その土地ごとの困りごともあった。川が荒れやすく水害に悩む地域もあれば人が生きるのに最低限の水の確保に困る乾いた土地も」
 まったく異なる環境で、人々は異なる常識を持って生きていく。
「二人とも色々な場所を知っているのね」
「それだけ旅をしてきたから」
 タマオが感心して言うと、イナミとウルキは苦笑しながら顔を見合わせた。
 この二人もこの街に来るまで様々な苦労をしてきたのだろう。
「……僕は、どこから来たのかな」
「ボウ?」
「なんでもない。じゃあ、作業の続きは夕食を頂いてからにするよ」
「そうしなさいよ。でないと途中でお腹空いて倒れちゃうわよ」
 今日はいっぱい歩いたもの、と言いながらタマオが夕食の支度に戻る。
 五人は夕食を終え、再びボウは作業に戻る。
 タマオとウルキが片付けと明日の食事の仕込みを終え、イナミとトミテが剣の手入れや魔獣退治用の装備を確認している頃、ボウの地図作りはようやく一段落した。
「これがここ数か月の魔獣の出現記録だ」
 ボウに促され、四人は地図を覗き込む。
「えーと、出現地域が偏って……る?」
「街の北東寄りに多いな」
 タマオの家とトミテの実家は街の南東にある。
「北東以外で襲われた人たちは?」
「……彼らも住所の方を見ていくと北東住まいが多く、例外はほんの一、二件だ」
「本当だわ……」
 ボウが地図に記した情報に、タマオたちは驚く。
「そういえば今日薬を売りに回ったのも、怪我人は北東の家が多かったわ」
 タマオは魔獣被害の怪我人だけでなく、元々病弱で薬を必要としている人々にも薬草を持って行った。北東以外の家々は元々病人の多い家庭だ。
「海に何かあるのかしら……」
 ウルキが北東から東までの被害地域を結ぶ線をなぞりながら呟く。
 晨星郷の東部、北東から南東にかけては海岸線が続いている。
 怪異の被害は街の東部、すなわち海沿いに圧倒的に多い。
「そういえばあの時の化け物も、魚みたいな鰭があったわ」
 タマオとボウは先日雑貨屋の主人と共に襲われた魔獣の姿を思い返す。
「海か……しかし、ここ数か月、海辺で変わったことなんてこいつを拾ったことくらいだろう?」
「もう! トミテまでそんなこと」
「ただの事実の確認だよ。“揺蕩う闇”の怪異はこいつが来る前から始まってた。ボウが関係ないことはわかってる」
 タマオに詰め寄られ、トミテは勘弁してくれと両手を挙げながら弁明する。
 そんな二人のやり取りを見ながら、イナミが不思議だと言わんばかりに腕を組み首を傾げた。
「いつもなら巫女様が占いで導いてくれるんだが、今回の怪異は何故占うことができなかったのだろう。あの方はボウのことすら何か知っているようだったのに」
 イナミの疑問に、ボウは考える様子もなく地図を眺めたまま淡々と答える。
「今回はあの人だからこそ無理なんだろう。この街には星の気配が漂い過ぎてる。だから……」
「え?」
「ボウ?」
「気配って何の話だ?」

「え?」

 晨星郷の者たちですら多くは知らぬ巫女の事情をさも分かっているとばかりに言葉を紡いだボウは、改めてそれを問われると急にきょとんとした顔になる。
「ボウ、今のなんの話? 星の気配って何?」
「……僕、そんなこと言った?」
「言ったじゃない!」
 完全に無自覚だったボウは、先程自分で言った言葉も覚えていないようだった。
「あれ?」
 演技とも思えない様子で首を捻るボウに、四人も狐につままれたような心地だ。
「こいつ、悪い奴じゃなさそうだけどやっぱり変な奴だよな」
「……まぁ、そうかもな」

 ◆◆◆◆◆

 翌日もボウとタマオは薬を売り込みがてら情報収集に出かけた。いくら晨星郷が小さな街と言えど、薬の用意をしたり魔獣の話を聞いて調べながらでは一日では回り切れない。
 魔獣被害の怪我人ではないが、昔から体の弱い少年がいる北東の街はずれの家をタマオはボウと共に訪れる。
 生憎と言うべきか、病人本人は不在だった。
「セイは本当に元気になったのね」
「ええ。最近では毎日のように近所を出歩いているのよ。今まで何年も床に伏していたから、外を見るのが面白くて仕方ないのね」
 この家の一人息子は病弱な少年で、一日のほとんどを寝台の上で過ごしていた。何年も同じ街で暮らしていても、タマオですら数えるほどしか顔を合わせたことがない。
 その彼が最近急に病状が回復したのだと、母親は喜んでいた。
「それなら私の持ってきた薬はいらないかしら?」
「そうねぇ……」
 母親は一度家の奥を確認するような素振りを見せてから、念のために頂いておくわ、と告げる。
「きっと大丈夫だとは思う……思いたいけれど……」
「おばさん……」
 浸水被害後だから安くしておくと言って、タマオは病弱な少年のための薬草を手渡す。
 乾燥させた薬草の粉末はとても苦くお世辞にも美味とは言えない。そんなものを何年も飲み続け、日がな一日寝室の窓から外の海を眺めていたこの家の少年。
「……セイってどんな人?」
 病人の家を辞し、次の家を訪ねるまでの道中でボウはその少年の話をタマオに聞く。
「体は弱くてほとんど交流もないけれど、綺麗な子よ。竪琴が得意で、たまに家の外にも聞こえていたの」
「竪琴? ……って、こんな感じの?」
「ええ、そうよ。竪琴。あんな感じの……ん?」
 楽器屋の家はたびたび演奏もするために、街から少し離れたところにある。タマオの家が南東のはずれなら、ここは北東のはずれだ。
 誰もいない海岸線に近い場所から、竪琴の調べが聞こえてきた。
「きっとセイだわ」
 海辺に近寄り、その姿を探す。少し離れた岩場で、銀髪の人影が竪琴を爪弾く姿が目に入った。
「邪魔したら悪いかしら」
 タマオがセイに声をかけようにも、この距離では届くかどうか。二人は妙なる調べに耳を傾けながら数舜迷っていたが、結局声はかけずにそのまま通り過ぎようとした。
「この曲……あの夜の」
 ボウはセイの竪琴の旋律を聞きながら、いつかの夜に海辺で歌っていたのは彼だと気づく。
「本当に綺麗な曲……って、ちょっとあれ!」
「!」
 タマオが指さす先で、セイの前方に黒い影が立ちふさがる。
「魔獣!?」
 ボウは走り出し、魔獣除けだという香を入れた袋をその鼻先に叩きつけた。
 グギャァアアアア!
 悲鳴を上げてのたうち回る魔獣から、セイの腕を掴んでそのまま遠くへと走って逃げる。
 この魔除けの香は、さすがに魔獣退治を含む怪異の解決を命じられたのに身を守る手段が絶無では心許ないだろうと、イナミから与えられた今のボウの武器だ。
 雨の夜に襲われたように執拗に追われることを覚悟していたが、今日の魔獣は何故か大人しかった。ボウがセイを引きずるようにして逃げ出すと、その後を追っては来ない。
「二人とも大丈夫?」
「な……なんとか!」
 呼吸を荒げるボウと、息も絶え絶えなセイ。
 そういえば彼は病弱だと聞いたばかりだ。魔獣が迫っていたとはいえ無理に走らせてしまって大丈夫だったろうか。
「君……」
 声をかけようとしたボウはそこで気づいた。
 青みがかった銀髪の少年。
 それはいつかの夜に海辺で竪琴を奏でながら歌っていた少年であり。
 つい先日、評議会から怪異の解決を命じられたボウがすれ違った時に「ごめん」と囁きを遺したあの少年だったのだ。

 ◆◆◆◆◆

「セイ、大丈夫かしら? 何か様子がおかしかったけれど」
「うん……」
 ボウに助けられたセイは、その手を振り払うようにして二人の前から逃げ出した。
 タマオは追うに追えず、その背を見送るしかなかった。病弱な彼を放っておくのは心配だが、セイが二人の前から姿を隠したかったなら追うのは逆効果だ。家がすぐ近くなのだから、あまり長く走らせない方が良いだろう。
「でも、昔より全然元気そうで良かったわ。半年前くらいに姿を見た時は、このまま死んじゃうんじゃないかと思うくらい具合が悪そうだったもの」
「たった半年前にその状態?」
「うん、私はお医者様じゃないから詳しいことはわからないけどね」
 ボウが今日見た少年は儚げな様子だったがそこまで体が弱いようには見えなかった。
 ほんの半年前には死にそうなほどに体調が悪かったとしたら、そんなにすぐ元気になるものだろうか。元々体力のある人間が怪我をしただけならともかく、何年も寝台の上でしか過ごせなかったという話なのに。
 ボウは疑問に思ったが、やはり彼も医者ではないので確かなことは何も言えない。ボウが知らないだけで、中にはそういう病気もあるかもしれない。
「とにかく魔獣のこと、イナミたちに報告しなきゃ」
「そうだね。地図の方にも情報を書き加えないと」
 二人は街の中心部に向かい、イナミとトミテがいるはずの自警団本部に顔を出す。
「どうしたんだ?」
「ボウ? あっちは……」
 しかし、タマオがイナミたちを呼びに行っている間に、ボウが街の男の一人と言い争いになっているようだった。
 否、ボウの方は声を荒げることもなくただ相手の言い分を聞いて、時々反論しているくらいだ。言い争いと言うにはあまりに一方的だった。
 相手は、先日ボウの目前で魔獣が吸い込まれるように消えた状況を見ていた自警団の青年の一人。その時の状況から、最近の怪異がボウの手によるものではないかと疑っている様子だ。
「じゃあなんでお前の前で魔獣が消えたんだよ! これまで誰が剣で深手を負わせても、あんなふうになることはなかった!」
「僕にもその理由はわからない。僕の方が何故なのか知りたいくらいだ」
 晨星郷を次々に襲う“揺蕩う闇”と呼ばれる怪異。
 その原因の究明と解決は、街人全てが願うことである。
 ボウが解決を評議会に命じられたからと言って、自警団が何もしていない訳ではない。イナミやトミテも加わって日夜見回りを続けている。
 青年は、ボウが怪異の調査をすること自体が気に入らないようだった。
 戸惑う周囲の人々を押しのけて、トミテがようやく顔を出す。ボウに絡んでいる青年の顔を見て、苦虫を噛み潰したような表情でげっと声を上げた。
「ああ、またロクソンの奴か」
 トミテはずかずかと二人の間に割って入るように歩いて行って、ロクソンを思い切りにらみつける。
「おい、ロクソン。お前いい加減にしろよ。タマオに振られたからってこいつに絡むのはやめろ!」
「なっ……!」
 ロクソンの顔が怒りとも羞恥ともつかぬ様子で真っ赤になる。
「い、いきなり何を! 今の話はそれとは関係ない! だいたいお前だって関係ないだろ!」
「トミテ……」
「関係なくねーよ! ボウが来るまでお前に一方的に敵意を向けられてうんざりさせられたのはこっちだっての」
 タマオは十八歳、トミテは十三歳。少し歳の差があるが、タマオに好意を抱く男は女房持ちのイナミよりもタマオの家に入り浸るトミテを警戒する者が多かった。
 当の本人たちはあくまで姉弟のようなもので、恋愛感情などはまるでない。ほとんど一緒に育ったような相手に、今更そんな感情抱くわけがないと。
 けれど、少し前にタマオの家にボウがやってきた。
 ボウは見た目からして十五、六。トミテよりタマオと年齢が近く、身内でもないのにタマオの家に居候している。
 ロクソンとしては気が気でないというところだろう。
「その辺にしておけよ、ロクソン」
 その恋心はトミテ以外にも知られているところ。トミテの登場を機に他の自警団の青年たちも騒ぎを止めに入る。
 ボウのことはともかく、本気で剣での斬り合いをしたら街一番の剣士であるトミテにロクソンが勝てる訳はないのだ。
「……みんなは怪しいと思わないのかよ! こいつが来た頃に魔獣が増え始めて、こいつの中に魔獣が吸い込まれるようにして消えた! どう見ても関係あるじゃないか!」
 周囲はトミテとロクソンの乱闘を警戒したが、ロクソンが敵視しているのはボウだ。
「違うわ。晨星郷の怪異はボウが来る前から始まってたわよ。それにこの前魔獣が現れた時は、ボウは私と雑貨屋のおじさんを助けてくれたのよ」
 タマオがボウを庇って言う。ボウがいつ街に来たのかは、ボウを拾ったタマオたちが一番よく知っている。それは怪異が始まりだして少ししてからのことだった。
「わからないじゃないか! タマオの家に来る前に、街の近くで魔獣を操っていたのかもしれない!」
「いい加減にして! そんな無茶こと言い出したら、誰だって犯人にできてしまうわよ!」
 収拾がつかなくなってきた事態を、周囲は呆れ半分、迷惑半分の眼差しで見ている。
 その中で一歩動いたのはボウだった。
 前にいたトミテの肩をそっと押して下がらせると、再びロクソンの目前に立ちその視線を真っ向から受け止める。
「僕には海でタマオに拾われるまでの記憶がない。だからあの時何故魔獣が消えたのか、その理由は僕にもわからない。僕と晨星郷の怪異は何か関係あるのかもしれないし、ないかもしれない」
「ちょ……ちょっと、ボウ……」
「だから僕は魔獣を追う。それが、失くした僕自身を見つける手がかりになるからだ」
 周囲の不審と好奇の視線に晒されながらも、ボウはきっちりと、言いたいことを言い切る。
「君にどう思われようと、僕は僕のために怪異の元凶を追う」
 そして言いたいだけ言うと、人だかりの手前に立つタマオに声をかけた。
「さっきの話、イナミたちにした?」
「ええ、伝えたわ。海でセイと一緒に魔獣に会ったって」
「じゃあ、もうここに用はないね。お暇しよう」
「……そうね」
 タマオは何か言いたげだが、結局はボウの言葉に頷くこととなった。
「あ、待て。俺も帰る」
「俺はまだやることがある」
 トミテは二人と共に帰ると言い出し、イナミはまだ自警団に残ると手を振った。
 ボウたちが自警団の建物を出ようとしたとき、ロクソンがその背に向かって叫んだ。
「俺は、お前のことなんか絶対に認めないからな!」
 ボウは静かに振り返ると氷のような青さを持つ瞳で、氷のように冷たい声で言い放った。
「僕は君に認めてもらう必要なんてない」

 ◆◆◆◆◆

 トミテはウルキの手料理を食べて帰り、しばらくして戻ってきたイナミも明日話があるとだけ告げて隣家に妻と共に帰って行った。
 薬草園にはタマオとボウの二人だけが残される。
「少し出てもいい? 海を見に行きたいんだ」
「いいわよ。でも私も一緒に行くからね」
 ボウとタマオは二人連れ立ち、夜の海へと向かった。
 規則的な波音を立てる海は暗く、黒く。対照的に白い砂浜は月の光を受けて眩い。
 カンテラを先日の魔獣との戦いで割ってしまったため、二人の手元に明かりはない。それでも煌々とした月明りが、思った以上に鮮やかに地上を照らしている。
 この砂浜でかつてタマオはイナミたちと一緒にボウを拾った。
 海からきて、記憶を失くし、自分がどこの何者なのかもわからないというボウ。
「……ボウでも、あんな風に怒ることがあるのね」
「怒る? ……ああ? ロクソンに言ったこと? 怒ると言うか……僕は多分、普段からあんな感じだよ」
「そうなの? でもあんな態度見たことないわ」
「タマオには怒る理由がない」
 苦笑しながら歩くボウの手には魔導士の杖と呼ばれた小杖が握られている。
「まだ魔導の使い方は思い出せないし、自分の過去もわからないけれど、僕は自分自身がどんな人間だったのかだんだんわかってきた」
 魔獣がボウの中に吸い込まれるようにして消えた日から、何かが変わったように感じる。
「僕はきっと自分の力に自信のある魔導士として行動していた。魔導の才を持つ者は希少だから人と違う視点でものを見ていた。逆に言えば、普通の人たちに溶け込むのは得意じゃなかっただろうね。そんな気がする」
「ボウ……」
「多分、そんないい人間じゃなかったんだよ」
 ボウ自身は記憶を取り戻したいと考えている。けれど、本当に自分にその価値があるかはわからなかった。
 海を漂流していたのは、罪人として突き落とされでもしたのではないか?
 最近はそんなことばかり考えている。
「ねぇ、タマオ。あの晩、何故タマオはこの海辺にいたの?」
 たまに貝や海藻を採ることがあるとはいえ、普段から頻繁に海を訪れるような用事はタマオにはない。
 彼女があの時あそこでボウを見つけなければ、きっとボウは死んでいた。
「……昔、あるところに」
 タマオはボウの先を行くように、歩きながら語りだす。
 ボウの方を見ていないのに、その声は夜の海辺に朗々とよく響いた。
「あるところに、子どもを亡くして悲しんでいる、薬草園を営む夫婦がおりました」
 歌うように語られる、彼女自身の過去。
「夫婦が子どものために祈っていると、海から小さな笹船が流れてきました」
「笹船?」
 川ならともかく海で笹船とは。
「不思議でしょう? でももっと不思議なのはここからよ。その笹船には真珠のような小さな白い光の球が乗っていたのですって。その光の球が赤子の亡骸に吸い込まれるように消えると、死んでいたはずの赤子は息を吹き返した……」
「タマオ」
 薬草園の一人娘は微笑んで振り返る。
「私も私がわからないの。ここにいる私は、本当にあの両親の娘なんだろうかって。身体は薬草園の夫婦の子どもでも、中身は得体のしれない化け物なのかもしれない」
 タマオは海からやって来た。
 だからだろうか、時々むしょうに海が恋しくなる。ボウを拾った時に海辺にいたのもそういう理由だ。
「私は、自分と似たような境遇のあなたが来てくれた時ほっとした……自分のことがわからないのは、私だけじゃないんだなって」
「それで僕を……?」
「そうよ。あなたも私と同じ。どこにも行けない。何にも成れない」
 いまだ還る場所を知らぬ、“彷徨える魂”。
 タマオはずっとボウを甲斐甲斐しく世話していた。その理由がこれか。
「……僕には確かに記憶も、帰るべき家もない。でも君には、トミテやイナミ、ウルキたちがいるだろう」
 タマオは静かに首を横に振る。
「わからないの。みんなのこと、大好きなのに。それでも私は、いつもそこが自分の居場所じゃないような気がしている」
 気のせいだと言えたらどんなに楽だったろう。けれどタマオが口にする感覚は、ぴたりとボウにも当てはまった。
 欠落を自覚しているのに、それを埋める一欠けらがいつまでもいつまでも見つからない。
 ほんの小さな暗い穴。けれどそれを埋めぬ限り自分は自分になれない。
「タマオ、僕は――」
 ボウが口を開きかけたその時だ。
「――あ」
 人の気配に気づいて振り向いたのはタマオの方が早かった。
 慌ててボウもその気配を追うと、翻る長い銀髪の先が視界に入った。
「待って!」
 さすがに病弱だったせいか、足の遅い少年の腕をすぐに捕まえる。ほんの僅かな距離で息を荒げているその背に問いかけた。
「何故逃げる。疚しいことがないのなら」
「俺が疚しいんじゃなくて、あんたらが気まずいんだろ! 俺だって人の逢引を見る趣味はない!」
「……逢引?」
 思いもかけない言葉に、ボウは一瞬理解を放棄した。
 少年の腕を捕らえたまま固まるボウの傍らに、さくさくと白砂を踏んでやってきたタマオが立ち少年に問いかける。
「セイ、あなたどうしてここに?」
「……海を見に来たんだよ」
 その言葉に、ボウは数日前の出来事を思い出した。
 潮風に靡く青みを帯びた銀髪。白い指先が竪琴を爪弾き奏でた鎮魂の旋律。
「この前竪琴を奏でながら歌っていたのも君だね」
「……そうだよ」
「この前の……“ごめん”はどういう意味?」
 聞いていたのか、とセイは口の中で小さく呟いた。
「聞いていたんだな。なら、わかるだろう。あの時――評議会に責められるのは、本当は俺のはずだった」
 ボウはセイとしっかり顔を合わせたことはない。夜の海辺で歌声を聞き、昼の街中ですれ違い、今朝も魔獣を遠ざけたと思ったらすぐに逃げてしまった。
 初めて間近で見たその少年は、夢のように美しく、悪夢のように人間離れして魅惑的だ。
 長い銀の睫毛を伏せて、セイは告げる。

「俺が……この街の怪異の原因だからだ」

004

 セイは言う。晨星郷を襲う怪異の原因が自分だと。
 どういうことだ? ボウとタマオは思わず顔を見合わせた。
 これまでずっと床についたまま起き上がれもしなかった病弱な少年。そんな彼が、一体何をしたら怪異の元凶になどなりえるのかと。
「……魔獣に知り合いでもいるの?」
「……街を襲っているのは魔獣じゃない」
 え? とタマオとボウが驚いて目を瞠る。
「でも、イナミたちが倒したのは確かに」
「魔獣は彼女の手下。あくまで道具だ。魔獣がその意志で街を襲っているわけじゃない。あくまで操られているだけ」
「彼女?」
「操る?」
 初めて聞く話に二人は目を丸くしたままセイを見つめた。
「彼女の目的は俺への――」
 その時、突然海が荒れた。
「!」
 足元で強風に煽られた砂が舞い踊る。
 三人は横殴りの風に頬を叩かれながら、夜の暗い海面を振り返った。
 荒れ狂う波の飛沫が音を立てて次々に揺らめき砕ける。その中に浮かぶ白い人影。
「……女の人?」
 思わず目を疑ったボウたちにセイが叫ぶ。
「あれは人魚だ! 彼女がこの事態を引き起こしてる!」
 海上で魚のように跳びはねた、その女性の下半身は透き通るような翡翠の鱗に覆われていた。
「さっき言ってたのって……」
 セイが口にしていた彼女とは、この人魚のことらしい。
「確かにこの海には人魚が棲んでいるって聞いたことあるわ。でもどうして……?」
 タマオのどうして? は様々な問いを含んでいた。
 どうして、人魚がここにいるのか。
 どうして、街を襲ったりするのか。
 どうして、セイは人魚のことを知っているのか。
 残念ながら、今はそれらの疑問に答えてもらう暇はなさそうだ。
 荒れる海面から次々と顔を出す、獣とも巨大な魚ともつかぬ怪物の数々。夜闇の中で光るその目が、彼ら三人に狙いを付けた。
「タマオ! セイ! 逃げるんだ!」
「ボウ!」
 人魚が差し向けた魔獣が次々と海から上がってくる。これもまた謎だ。人魚族に魔獣を操る力があるなんて聞いたこともないのに、どうして。
 全ての疑問は後回しにして、今は逃げるしかない。
 ボウはタマオの手を取り、二人は砂に足を取られつつも走りだそうとする。
 その横を、長い髪を強風にもつれさせながらセイが海に向かい駆けていく。
「セイ!?」
「一体何をやって……」
 ボウたちの呼びかけを意に介さず、セイは嵐の海でも平然と泳ぎ続ける人魚へと叫んだ。
「もうやめてくれ!」
 傍で聞いていたボウたちの方が胸を衝かれるような必死さで、彼は人魚に訴えかける。
「あんたが憎いのは俺だけだろう! 他の奴らを巻き込むな!」
 それでも遠く見える人魚の表情は、まったく動く気配すらない。
 彼女の繰り出した魔獣たちだけが、砂浜へと上がり彼らにゆっくりと近づいてくる。
「セイ! 駄目だ!」
 二人の間に何があったのかは知らない。けれど人魚がセイの言葉に聞く耳を持つ様子はなく、このままでは三人とも魔獣の餌食になるだろう。
 ボウはセイの細い手首を掴み言い聞かせる。
「今は逃げよう。逃げるしかない」
「……いやだ」
 帰ってきたのは拒絶。我儘と言うには力ない声音で、少年は疲れ切ったような苦い笑顔を浮かべながら言う。
「もう、終わりにしたい」
 彼の抱えていた竪琴が砂浜に落ちて僅かに跳ねる。壊れこそしなかったものの、濡れた砂に塗れて放り出されたその姿は今のセイ自身の心境のように無残なものだ。
「ずっと考え続けてたけど、ダメだった。償う方法がどうやっても思い浮かばない。だって俺の気持ちも、彼女と一緒なんだから」
 最近健康になったというはずの少年は、けれどやつれ衰えた病人よりも青白い顔をしている。
 バシャンと水の跳ねる音に気付いて振り返れば、荒波の中を人魚が泳いで近づいてきていた。
 人魚の顔立ちは美しく、その表情はよくできた彫像のように凍り付いている。
「殺すなら俺を殺せ。どうせ、本当ならそうなるはずだったんだ」
 睨みあうと言うにはどちらも悲痛な様子で、セイは人魚と視線を交わしていた。
「……」
 人魚が白い腕をゆっくりと持ち上げる。三人の周囲を魔獣が取り囲んでいた。
「やめろ!」
 ボウは叫ぶ。
 手にした魔導の小杖を振ってみるが、記憶の戻っていない彼にはそれを扱いこなすことは出来なかった。
 魔獣が迫る。セイがせめて二人のことは庇おうと、自ら前に出る。
 タマオは懐を探るが、香袋は昼間の魔獣を追い払うのに使い切ってしまった。

 ガツッ

「くっ……!」
「ボウ!」
 魚の顔に獣の牙を持つ魔獣。その鋭い牙をボウは咄嗟に小杖で受け止めた。
 指揮棒のような見た目に反して頑丈な杖は見事魔獣の攻撃を防いでくれたが、二度目は期待できないだろう。
 押しのけられたセイの腕をタマオが必死に掴んで引き留めている。彼をそのままにしておけば、またいつ身を投げ出すかわからないからだ。
 けれど自分たちだけでこの事態を解決するのも難しい。先日とは違い、魔獣の数が多すぎる。
 海から上がってきた魔獣たちに、三人はぐるりと周囲を取り囲まれていた。
 波の向こう、海面から突き出した岩に身を預けた人魚が口を開く。
「返して」
 それは敵意とも憎悪とも違う、ただただ哀切な声。
「あの子を返して」
 魔獣と睨みあいながら、ボウは人魚が何故そんなことを言うのか気になって仕方なかった。
 彼女の言葉を聞いて、セイが苦痛を堪えるような顔をした理由と共に。
「タマオ! ボウ!」
「二人とも無事か!?」
 じりじりと包囲が狭まりいよいよ覚悟するしかなくなったとき、見知った声がタマオとボウを呼んだ。
「イナミ! トミテ!」
 二人の剣士はぴったり息の合った戦いぶりで、瞬く間にボウたちを取り囲む魔獣を蹴散らしていく。
 忌々し気に顔を歪めた人魚が海中へと姿を消した。
「待ってくれ!」
「駄目よセイ!」
 人魚を追いかけようとして砂浜を蹴ったセイを、タマオが肩口に飛びついて止めた。
「いい加減、全部話してもらうんだからね!」
 人魚が姿を消した海は、先程の嵐が幻だったかのように静まり返っていた。

 ◆◆◆◆◆
 
「なんとなく嫌な予感がして戻って来たんだよ」
「俺は嵐に気づいたウルキに起こされた」
 トミテとイナミの二人は、真夜中にも関わらず駆け付けた理由をそう話した。
 隣家のイナミはともかく、トミテの「嫌な予感」というのには皆、首を傾げるしかない。
「晨星郷には隅々まで巫女様の力が行き渡っている。たまにはそういう不思議なこともあるさ」
「そんなものですか」
 何にせよ助かったのだから良いだろうと、追及は早々に打ち切られた。
 潮風の中で大立ち回りを繰り広げる羽目になった五人は、まずはタマオの薬草園に戻り体を拭くことを優先させる。
 今から湯を沸かす程の余裕はないが、とにかく砂だけでも落としたい。
 彼らの様子をあらかじめ察していたウルキが全て準備を済ませてくれていたおかげで、身支度は案外すぐに整った。
 そして、ようやく人心地が着いた頃。
 お茶代わりの白湯を前に、一同は、怪異の中心であるというセイの話を聞く態勢になった。
「今回の事態の解決には、ここにいるボウの立場もかかっている。お前が話せることを、全部話してくれ」
 イナミの落ち着いた口調に促され、目を伏せて椅子に座っていたセイはようやく重い口を開いた。
「――人魚について、有名な伝説を知ってる?」
「えーと、歌が上手いとか?」
「それで誘った男を水に引きずり込むんだろ?」
 タマオとトミテの言葉にセイは緩く首を横に振り、まさか、といった顔をしているボウとイナミ、ウルキの方を見た。
「人魚伝説で有名なのは、人魚を食べた者は不老不死になるという話だね」
「セイ、お前……」
 ずっと床から起き上がれなかったという病弱な少年が最近は街を歩き回れるほど健康になった。
 ――晨星郷に怪異が起きはじめた時期は、ちょうどセイの身体が良くなった時期と一致している。
「あの人魚が『返して』欲しがっているのは彼女の妹」
 街に魔獣をけしかけて人々を襲い、セイを見つけて殺そうとした人魚。それは復讐なのだ。
「俺が殺した、俺の友人」

 セイは、人魚を食べたのだ。

 ◆◆◆◆◆

 静まり返る部屋の中。
 外では真珠草の花が発光するかのように白く輝いているのに、ここは酷く薄暗く感じる。燭台の火の灯りは、あまりにも無力だった。
 重い空気をかき分けるようにして、真っ先に口を開いたのはボウ。
「……それじゃあ、どんな理由があっても赦してもらえそうにないね」
「……ああ。妹を殺した俺が街にいる限り、人魚は街を襲うのをやめはしないだろう」
「君を差し出せば晨星郷は平和になる?」
「ちょ、ちょっとボウ!?」
 段々と危険な流れになってきた話に慌ててタマオが口を挟もうとするが、セイの途方に暮れた様子で再び言葉を失う。
「……わからない」
 セイは力なく俯いて言った。
「あの人魚に、街を襲うのをやめてもらいたい。でも、俺がそう言ったところで、あのひとは聞いてはくれない」
「……人魚の肉を食べた者は不老不死になる。セイ、そもそもお前、殺されることが『できる』のか?」
 イナミの質問にも、セイは首を横に振る。
「多分、無理だ」
 何故それを知っているのかはボウたちには聞くことができなかった。
 理由の方には想像つくとはいえ、セイが具体的にどういう経緯で人魚の友人を殺して食らうことになったのか聞けないのと同様に。
「えーと、そもそもあの人魚を殺して全部終わらせたら駄目なのか?」
 気まずい空気に耐えきれない様子のトミテが言うと、セイはこれまでとは打って変わって強く反応した。
「それだけは絶対にやめてくれ。初めに彼女から奪ったのは俺なんだ。もうこれ以上は……!」
「わ、わかったよ。悪かったって」
 トミテも自分が酷いことを言った自覚はある。セイの反対を受けて、すぐに引き下がった。
「魔獣を従えているってことは、あの人魚は魔獣になりかけているってことだよね。……そうか、“揺蕩う闇”の正体はそれか……」
「正体? 何のことなの? ボウ」
「晨星郷で目撃された“揺蕩う闇”と呼ばれる黒い靄の正体だよ。あれは、背徳神グラスヴェリアの魂の一部だ。人魚にとり憑いてセイへの憎しみを煽り、彼女を魔獣にするつもりなんだろう」
「魔獣!? 魔獣ってそうやってできるの!?」
「そうだよ。神話で黒い流れ星と呼ばれているのが背徳神の魂の欠片だってのは有名だろう? そして背徳神の魂の欠片をとりこむと、人でも獣でも魔獣になってしまうんだ。魔族だってね」
 “黒い流れ星”――グラスヴェリアの魂の欠片が魔獣という存在を生み出す。人に獣に、あらゆるものに宿り変質させる。
「ボウはよくそんなことを知っているわね。何か思い出したの?」
 ウルキの問いに、ボウはいつもと変わらぬ様子でこくりと頷いた。
「うん。魔導や、魔獣に関する記憶はね。自分に関することより、魔導に関することの方が思い出しやすいみたいだ」
 だが、知識が戻っても今のボウには魔導が使えず、自分の身一つ守ることが難しかった。
 魔導を使うには、欠けた記憶を完全にする必要があるのだろう。
「そうなの……」
「ボウの記憶も大事だが、それより今はセイと人魚のことだ。これ以上街に被害を広げる訳にはいかない」
 逸れそうになる話をイナミが引き戻し、ボウは自分のことはひとまず置いて人魚の話を続ける。
「対策は早い方がいいと思う。あの感じだと、彼女が魔獣堕ちするまでもう時間がないよ」
「そんな……」
 セイが愕然とした表情で唇を噛む。
「……俺は、どうすればいい?」
 あの人魚の妹であり、セイの友人でもあったという少女を望みどおり返してやることはできない。死者は還らない。
「世の中には、死人も蘇らせることのできる魔導士もいるらしいが……」
「じゃあ、その人を連れてくればいいんじゃないか!」
 イナミの言葉にトミテが顔を輝かせた。
 世界には聖女と呼ばれ、自らの血肉を神に捧げることで様々な奇跡を引き起こすことのできる術者がいる。
 しかし、その提案をボウは魔導士として否定した。
「無理だと思うよ。蘇生術の条件は、死んだ直後で肉体の復元が可能だとか、かなり厳しかったはず」
「死んだ直後って……街に怪異が起き始めてからもう何か月も経ってるわよ?」
「だから、どんな魔導士にも蘇生は無理だろうね」
 肉体も魂もすでに残っていない。まったくの無の状態から生命を蘇らせるなんてできるはずもない。
「……やっぱり、俺が行くよ。彼女を説得して街から手を引いてもらう」
「セイ」
「これは俺の罪だ。だから俺が決着をつけなきゃ」
 思いつめた表情のセイをタマオたちが案じる一方で、ボウは手厳しい言葉を告げる。

「心がけは立派だけど、それで君は彼女に手をかけさせて、彼女まで罪人にするの?」

「!」

「……」
「……容赦ねーなお前」
 トミテがぽろりと感想を口に出す以外、彼らは二人に声をかけられない。
 八方塞がりになってきたところで、室内に重苦しい沈黙をもたらした張本人であるところのボウは小さく手を挙げた。

「一つ、提案があるんだけど」

 ◆◆◆◆◆

 海岸線に夫と並んで黄昏の海面を見つめながら、ウルキは昨夜のことを思い返していた。
「ボウは大分性格が変わって来たわね」
「本来の気質を取り戻し始めたということだろうな……。はじめはどうなることかと思ったが……」
 頷いたイナミは、途中で言葉を濁す。この一件が無事に解決できるかどうかはまだわからない。
 今回晨星郷を襲った怪異は、イナミたちの想像を超えて複雑な事情を持っていた。魔獣退治のように、剣で敵を倒しておしまいと行かないのが辛いところだ。
 しかしボウは、魔導の知識から“揺蕩う闇”の正体を突き止めた。
「この調子で人魚の一件も上手く解決できればいいが……」
「……難しいわね」
 ウルキは目を伏せる。死んだ者に関わる話はいつも辛く、物悲しい。二度と取り戻せないのに、忘れることもできない。
「準備できたよ」
 ボウとタマオ、トミテとセイが薬草園の方から歩いてくる。
 今夜で決着をつけたい。ボウの話を聞き、一同は昼のうちに人魚と対面する準備を済ませ、仮眠をとっていた。
 事情が事情であるだけに、街の者たちにはできるだけ知られたくない。事を起こすのを夜にしたのはそのためだ。
 事情とはセイの事情であり、これから「あること」をするボウの事情でもある。
 やってきた四人を振り返り微笑むと、ウルキは来たばかりの彼らに一度戻るよう促す。
「まだ日が落ちるには時間があるわ。今のうちに少しお腹に入れましょう。干し肉を挟んだパンを作ってあるわ」
「ありがとう、ウルキ!」
 タマオが喜んでトミテとセイの背を押し元来た道を戻る。
 一人残ったボウはいつも通り腰に剣を佩いているイナミを見上げた。
「……今夜はよろしくね、イナミ」
「……ああ。任せておけ」

 ◆◆◆◆◆

 様々な想いがもつれたように絡み合い、全てを覆い隠す夜と、その闇を暴く月がやってくる。
 宵闇に輝くような白い砂浜に、ボウ、タマオ、イナミ、トミテ、そしてセイの五人は足を踏み入れた。
 昼も夜も、見慣れたはずの海の空気が今日は少しだけいつもと違う気がした。
「……人魚が近くにいるからだね」
「わかるの? ボウ」
「うん。段々と思い出してきたよ。でもまだ足りない。あともう少しなんだ。だから……」
 ボウは暗い海面に映る月を静かに眺めた。
 その手には竪琴が握られている。
 昼のうちに、セイの実家の楽器店で購入してきた品だ。
 今の楽器店の主人夫妻……セイの両親が子どもの頃から蔵で長く眠っていたらしい。
 青い幾何学模様の装飾が美しい見た目に惹かれて何人もの音楽家が手に取ったが、その誰もが扱いこなせずに返品を繰り返してきたという曰く付きの品だ。
 まつわる話も不吉な竪琴を、街に厄介者扱いされようとしている魔導士の少年が爪弾く。
 ピンと張られた弦が弾かれて奏でた澄んだ音が、ゆっくりと空に溶けていく。
「ボウ」
 セイが自分の竪琴を持ち直しながらボウの名を呼んだ。
「準備はできた? セイ」
「……うん」
「じゃあ……行くよ。みんなも準備しておいて」
 セイ、そしてボウは竪琴に指をかける。
 一瞬の緊張の後、それを破るように二人で一つの曲を奏で始めた。
 銀色の月光に照らされ光り輝くような弦の振動が、無限の音の連なりを生み出しては消えていく。

「――」

「綺麗な曲……」
 タマオが無意識のように囁いた。
 ボウがセイに教えたのは、魔族を呼び寄せるためのもの。
 人の耳にはわからぬ音も捉える彼らにとって、呼び声のように強く響く誘いの旋律。
 ボウは慣れた様子で、セイは額に冷たい汗を浮かべて緊張した表情で奏でる。
 その呼び声に応えるように、凪いでいた海面が騒めいた。
「――来るぞ!」
 いち早く反応したトミテが剣を振るい、襲い掛かってきた水の魔獣を斬り払う。イナミが逆側を守る。
 月光を隠すように空を雲が多い、夜の闇が一段と深くなる。
 鈍く煌めく荒れた波の向こうに白い人影。
 ――妹を殺された恨みから、セイを狙っている人魚だ。
「……!」
「今は大人しくしてて」
 苦し気な顔で、何か言いたいのに言葉が出ない。そんなセイに、ボウは言い置く。
「まずは僕の記憶を完全に取り戻すことが先決」
 魚の尾を使い悠々と波間を泳ぐ人魚の姿が近づく。彼女の周囲を覆う黒い靄と一緒に。
 海面から突き出された腕が砂浜のセイたちに向けられ、高波が彼らを襲った。
「避けろ!」
 ボウは叫び、セイをタマオたちの方へ押しやる。敵を倒したトミテとイナミがそれぞれタマオとセイの腕を引いて駆けだす。
 ボウはただ一人砂浜で、自らを呑み込もうとする高波を見上げる。
 人魚の戸惑いの表情と共に、ボウの周囲を以前のように黒い靄が包んだ。
「ボウ!」
 頂点まで持ち上がり、次の瞬間落ちるように崩れた波の下に飲まれたボウの名を、タマオは悲鳴のように強く呼んだ。

 ◆◆◆◆◆

 体中を引きちぎるような水の勢いの中、ボウは“揺蕩う闇”に呼び掛ける。
(おいで)
 人魚の憎悪から離れた黒い靄は、暗い海中を仄かに輝きながらボウのもとへと泳いでくる。
(お前は僕と縁深いものなんだろう?)
 背徳神の魂の欠片。それが自分にとってどんな意味を持つのかはよくわからない。
 けれど、雨の中で退治した魔獣が纏っていた“揺蕩う闇”を取り込んだ瞬間、ボウには失くしたはずの魔導の知識が蘇ったのだ。
 同時に直感した。
 自分と“これ”は惹きあうものだ。
 だから。
(僕の記憶を返してくれ)
 ボウは決意した。
 もう一度“揺蕩う闇”を取り込み、今度こそ完全に記憶を取り戻す。
 今は断片だけとなった記憶が完全になれば、魔導を使うことができるだろう。この事態を打開する術も見つかるかもしれない。
(僕が何者であっても、お前が背徳神であっても構わない。――一緒に行こう)
 闇をその身に取り込むことを、ボウは恐れなかった。
 恐れる必要はないのだと、何処かで知っていたのだ。
 生き物のように蠢く闇は束の間戸惑うように動きを止めたが、次の瞬間、意を決したようにボウの身を包み込む。
 ようやく親を見つけた迷子がその胸に飛び込むように。

 海中のボウを中心として、白と黒の光が溢れた。

005

「ボウ!」
 波に呑まれた人の名をタマオが呼ぶ。イナミとトミテは次々と襲い掛かる魔獣を斬り伏せるのに必死でボウの許まで行くことはできない。
 緊張に胃を炙られながら海を見つめるセイの目に、白い影が映った。
「……っ」
「返して」
 息を呑むセイの腕をタマオが引く。
「人魚……!」
 上半身は僅かな装身具と長い髪が海藻のようにまとわりつく人間の裸体。下半身は翡翠に輝く鱗で覆われた魚。
 美しい面差しをしているが目元には厚い隈が浮かび、やつれている。
 その暗い目は、目の前のタマオではなく彼女の背後に庇われているセイへと向けられていた。
「あの子を返して」
「……あ」
 何かを言わねば、そう考えるセイの唇は、人魚の次の言葉で凍り付く。
「どうして、あなたからあの子の気配がするの……?」
 言えることなどない。
「……ごめん」
 目の前の彼女ではなく、彼女にそっくりな友人の顔が瞼の裏に浮かび、セイの胸を刺す。
 届かないと知っているのに、零れ落ちる言葉。
「ごめん、ごめん、――」
 妹の名を呼んだセイの態度に、人魚はぴくりと細い眉を跳ね上げた。
 彼女も多分わかっている。返してと願う妹が、もはやこの世にいないことを。
「……やっぱり」
 小さく呟き腕を振る仕草。それだけで彼女の背後の海面が不自然に持ち上がって高波となる。
「おい! やばいぞ!」
 魔獣の攻撃を剣でいなしたトミテが警告する。
 妹が帰って来ないと知った人魚は何もかも諦めて、セイを波に飲み込む気だ。
「タマオ、逃げろ!」
「そんなこと言っても……!」
 街の方へ向かおうとする魔獣を斬り払いながらイナミが言うが、セイの腕を引いたタマオが海岸を抜けるより波が砂浜を浸食する方が速い。
「くそ……っ! ボウの奴は何やってんだよ! あれだけ自信満々だったくせに!」
 毒づくトミテの耳に、先程海中に引きずり込まれたはずの魔導士の声が響いたのはその時だった。
「お言葉だね。ちゃんとやってるよ」
「ボウ!?」
 どこから聞こえるんだと探そうにも見当たらない。そしてそんな状況でもない。
「きゃああああ!」
「タマオちゃん! イナミ! トミテ! セイ君!」
 離れた場所で状況を見守っていたウルキが血相を変える。
 タマオの派手な悲鳴と共に、四人は人魚の待ち受ける海の中へと飲まれた。

 ◆◆◆◆◆

「きゃああああ! ……って、あ、あれ?」
「タマオ! 口を開けていると水が入――……何?」
 タマオが、イナミが、トミテが、セイが、海水の中で目を開けて呆然とする。
 呼吸ができる。視界は真っ暗で上も下もわからないというのに、服や肌が濡れた感触はあっても溺れていない。
「一時的に呼吸ができるようにしたよ。後でずぶ濡れになるのは我慢して」
「ボウ!」
 暗い海中にぼんやりと灯りが生まれたと思ったら、それはお互いの姿だった。これも魔導の一種で、水中での呼吸と同じくボウが互いの位置をわかるようにしたのだと言う。
「お前、記憶は戻ったのかよ!」
 トミテの問いに、ボウは静かに頷く。
「うん。だからもう、大丈夫」
「本当か?」
 イナミが見つめる先のボウは、口調こそいつも通りだがその表情は酷く険しいものだった。
 どこか人間離れした雰囲気は、常に険しい表情をしていたあの人魚と近しいものを感じる。
「……大丈夫だよ、イナミ。心配をかけてごめん」
 もしもボウが、“揺蕩う闇”を吸収して記憶を取り戻すのに失敗し、狂ってしまったら。
 その時は自分を殺してほしい。
 イナミはそう頼まれていた。
 ボウは記憶を取り戻したい。けれど背徳神の魂の欠片、邪神の憎悪と憤怒を引き継いで魔獣となり周囲の者を襲うわけには行かない。
 だからこの作戦がもしも失敗したら、被害を出す前に殺してほしいと。
 ――頼むよ、イナミ。
 ――……わかった。だが、俺もお前を殺したい訳じゃない。お前が無事に記憶を取り戻せるよう、信じている。
 ボウは賭けに勝ち、無事に記憶と魔導を取り戻した。
「お前は……」
 これまで人形のように冷たい感情しか見せていなかった人魚が、ボウを見て戸惑った声を上げる。
 当のボウは人魚の様子に構わず指揮棒のような魔導の小杖を振るい、海中に無数の光る泡を生み出した。
 人の顔程もあるその泡の球の中に、それぞれある光景が映り込む。

 ――綺麗な音ね。もっと聞かせて。
 ――君は?

 いつも寝台の上で過ごしていた病弱な少年が、近くの砂浜で竪琴を弾いていた時に人魚の少女と出会う光景。
 他の子どもたちのように外を元気に走り回ることができない少年にとって、人魚の少女はたった一人の友人だった。

 ――セイは街の外に出たことある?
 ――ないよ。街の外どころか、街はずれの森に行くのだって一苦労だ。
 ――じゃあ私と一緒ね。私もこの海から出たことないの。
 ――いつか、身体が治ったら、街の外に行きたいな。
 ――その時は、私も一緒に連れて行ってね。

 砂浜で綺麗な貝を拾い集めて贈り合う。捨てられたごみを見て文句を言う。祭りに浮かれる街の光景を海岸で二人眺めやる。
 移り変わる時を共に過ごす。楽しそうな二人の姿がいくつもの泡の中に映し出されていく。

 けれどそんな平穏な日々は永遠には続かない。

 ――セイ、どうしたの? 最近滅多に来ないのね。
 ――……うん。近頃なんだか調子が悪くて。またしばらく来れなくなるかも。
 ――顔色が悪いわ。無理しちゃ駄目よ。

 ――元気になるまで、私はこの海で待ってる。

 いつしか少年の容態は悪化して、ほとんど寝台から起き上がれなくなった。
 たまに体を起こしては部屋の窓から海を眺めて寂しそうにしている息子を、両親は哀し気に見守っていた。

 セイの症状は日に日に悪化する一方で、意識を取り戻す時間が徐々に短くなる。
 医者にはもう覚悟した方がいいと言われ、高熱でうわ言を発する息子に何もしてはやれないのだと、看病にやつれた両親は人の身の無力さをただ噛みしめる。
 ある日海沿いを通りがかり、そこで大きな魚のような生き物が海面を跳ねるのを見た。
 魚? ――否。あれは人魚。
 長年友達のいなかった病弱な息子がやっとできた友人だと報告してきた少女。

 街の子どもたちと遊べない息子に友人ができたことを、両親は喜んでいた。喜んでいたはずなのに。

 ――だあれ? セイじゃないの?
 ――ごめんなさい。でもこれも、あの子のためなの。

 思いつめた顔立ちの女性。ボウとタマオも会った、楽器店の奥さん。
 波打ち際から砂浜に乗り出した人魚の少女を見下ろすその手に、武骨な鉈が握られている。
 ごめんなさい、と悲痛な声音で繰り返しながら、彼女は鉈を振り下ろす――。

 夢から覚めるように、その光景を映していた泡が割れる。

「セイ、あなた……!」
「……」
 タマオは咄嗟にすぐ隣にいる現実のセイの方を見た。一緒に波に呑まれた二人は、海の中でもタマオが手を離さなかったために今も傍にいた。
 友人である人魚を食べたと言ったセイ。
 その言葉だけ聞くとまるで彼自身が友人を殺したかのようだったが、真実は病身の息子の身を案じた親が、彼を生き永らえさせるために人魚を殺したのだった。
 息子の友人だと知っていた少女を。
「……両親は俺のためにあいつを殺したんだ。だから全部、俺のせいなんだ」
 それは己の罪だと、セイは言う。
 だが彼も最初から現実を受け入れて割り切っていた訳ではない。

 無事に峠を越して起き上がれるようになったセイはすぐに海へと向かった。
 二人で決めた合図を送れば、友人の少女はすぐに来てくれるはず。
 だけど来ない。
 あの子がどこにもいない。
 しばらく友人を探し回り、やがて自分の身に起きた奇跡と友人がどこにもいない現実の因果に辿り着くと、セイは発狂せんばかりに両親に掴みかかった。

 ――どうして!? どうして、そんなことをしたんだ!? そんなこと俺は頼んでない!!
 ――あいつを殺してまで生きるなんて、そんなことなら、あのまま死んだ方が良かった!!

 その瞬間、いつも優しかった母親が真っ青になって手を振り上げた。
 頬に走る衝撃と痛み。遅れてやってくる熱に叩かれたのだと気づく。

 ――この親不孝者!

 一瞬鬼の形相となった母親は、しかしすぐに泣き崩れた。

 ――私たちがどんな気持ちで……!

 日に日にやつれ、死に向かう息子を彼の親はどんな気持ちで見守っていたのか。
 何をしてでも息子を助けたかった。
 例え罪のない少女を殺してでも。
 その少女が息子の大事な友人だと知っていても。

 泣き崩れる母親と無言でその肩を抱く父親の姿に、セイはただ途方に暮れる。
 両親との亀裂が決定的になり、たった一人の友人を失い、人魚の肉を口にした彼はもう、人の世界にも戻れはしないのに。

 ――あの子を返して。

 返せるものなら返したい。この命をあの子に返したい。
 誰よりもそう願っているのはセイ自身だったのだ。
 けれどそれは、決して叶わない願い。
 例えセイを殺すことができたとしても、死んだ人魚の少女は還って来ない。

「ああ……!」
 荒れ狂う海水の中で人魚が唇を噛みしめ両手で顔を覆う。
 その周囲を、再び黒い靄が包む。
「おい、あれ!」
「“揺蕩う闇”……!」
「ボウが全部吸っちゃったんじゃなかったの!?」
「いや流石にそれは無理だって」
 背徳神の魂の欠片はかつて創造の魔術師・辰砂の手によって無数に砕かれ今も地上に息づいている。
 あらゆる形であらゆるものに宿り、背徳神の憎しみと狂気を伝えてくる。
「このままだと、あの人魚が魔獣になっちまうんじゃないのか?」
「そうだね」
 セイはボウの方を見た。魔導士を名乗る少年の雰囲気が、先程までと大きく違うと感じるのは、彼の中に取り込まれた人魚の魔力だろうか。
「……止める方法はないのか?」
「一つだけある」
 セイの問いに頷くと、ボウはいつも身に着けていた眼帯を外す。
「ボウ、目が……!」
 その下から現れた色彩に、タマオたちは驚愕し言葉を失った。
 遭難して海岸に流れ着いたボウを拾った日、彼は最初から片目に布を巻いていた。
 怪我をしているなら手当てをしないといけないと布を外させたその時に、彼らはボウの左目が右目と同じ、なんの変哲もない青い瞳であったことを確認している。
 だが今、眼帯の下から現れたボウの瞳は、紅玉のような深紅に染まっていた。
 妖しい程に美しいその色が、彼を人ならざるものへと見せている。
「タマオに頼みがあるんだ」
「な、なに?」
 改まって名を呼ばれ、タマオはらしくもなく動揺した。そして次の言葉に更なる動揺が重なる。
「君の身体を貸してほしい」
 ――後にトミテは語る。
 多分ここが海中でなければ、その言葉で反射的にボウを殴っていただろうと。
 なお、別にボウは疚しい意味で体を貸せと言った訳ではないことはすぐにわかった。
「僕たちの言葉はきっとあの人魚には届かない。でも、あの子の言葉なら……!」

 ◆◆◆◆◆

 光る泡球に映し出された光景を拒絶し、ただ顔を覆って全てから目を逸らそうとした彼女の耳に聞きなれた声が響く。
『お姉様……』
 はっと手を外し視線を上げると、海中を漂う人間の少女の姿に亡くした妹の姿が重なって見える。
「――!」
 彼女は妹の名を呼んだ。
 少女の肉体を使い、妹はほんのりと微笑む。困ったような笑顔が、今ではこんなにも懐かしい。
 あの子が人間と時々会っているのは知っていた。所詮寿命も何も違う種族なのだから情を移しすぎないようにとは言ったけれど、まさかこんな結末を迎えるなんて思いもよらなかった。
 それが人間たちにとっても同じことだと、不思議な気配の魔導士が術によって伝えてきた。
 目の前の少年を責めても仕方がない。わかっている。しかし、そんな簡単に心の整理はつかない。
 妹を地上で探し回っている時からたびたび語り掛けてきた黒い靄に怒りや憎しみの感情を任せて狂ってしまいたい。そう思っていた。
『ごめんなさい、最期まで心配かけて』
「まったくだわ……」
 暗い海水に交じり見えない涙が後から後から溢れてくる。喉を詰まらせる彼女に、妹の魂は言う。
『どうか、セイを責めないで。』
 隣にいる少年の困惑顔に目を遣りながら願う。
「……」
 妹を食らった少年に対する憎しみは確かにある。
 だが、海岸近くの入江でたまに聞くことのあった竪琴の音は、天上の音楽のように美しかった。
『体はなくしてしまったけれど、私の魂は、セイと一緒にどこまでも行くから』
 一度離れた手を少年と繋ぎ直し、肉体の枷を離れた魂は無邪気に笑う。
『ずっと外の世界を見て見たかったの。でもいつかはきっと、私の故郷であるこの海に還るわ。長い長い旅に出て、少し、帰るのが遅くなるだけ。どうかわかって』
「あなたって子は……!」
 これが人間の魔導士の見せるただの幻影である可能性はもちろん考えた。
 けれど、この期に及んでこんな頓狂な頼みをするのは間違いなくあの子しかいない。
「そんなことを言われたら、もう怒れないじゃない……!」
 人間たちは卑怯だと彼女は思った。
 死者は何もできない。死者には何もできない。遺された者たちにできるのは復讐か狂うことぐらいだというのに、それすらも許さない。
 セイが友人の名を呼ぶ。
 喪われた人魚の少女はタマオの腕を通じて海の中でセイを抱きしめた。
 生きている間はこんな風に近く触れ合うことはなかった。
 種族の違いはそのまま世界の違いだった。お互いの肉体に流れる血の熱さを感じることもないまま、突然全ては失われた。
「……ごめん」
 海水に滲む涙を振り落とそうとするかのように、セイがきつく目を瞑る。
「ごめん、俺は……!」
『もう、いつまでも泣かないでよ。――連れて行って、セイ。あなたと同じ景色を、私も見てみたい』
 彼女は笑う。恐怖も苦痛も悲しみも、何もかもを呑み込んで。望まぬこととはいえ自分が置いて行ってしまった者たちのために、綺麗な想いだけを伝えていく。
「うん……!」
 セイが泣きながら頷いたのが、魔導の終わりを告げる合図だったようだ。
 最後の会話を見守っていたボウが静かに赤と青の瞳を閉じる。

 黒い靄を追い出すように、海中を白い光が包んだ。

 ◆◆◆◆◆

 ――人魚を妹の魂に説得してもらった三日後。
 ボウたちは再び晨星郷の評議会が置かれている城に向かうための道を歩いていた。
 先日の四人に加え、今度はセイも一緒だ。
 街を襲った怪異について、評議会に報告しボウの処遇と共に対処を考えてもらうためだ。
 セイの表情は沈みがちだが、これまでのような追い詰められた光はない。
 どんな結果になったとしても、受け入れるという覚悟があった。
 足取りの重さに反して道のりは短く、五人はすぐにタタラを始めとした評議会の面々に引き合わされる。
 晨星郷の巫女たるヨウコウも、今回は最初から同席してボウの報告を待っている。
 他の四人より一歩前に出たボウは、落ち着いた語り口で今回の出来事のあらましを説明し始めた。
「三か月ほど前に、海で大きな嵐があったことをご存じでしょうか」
「ああ。この街にも多少の被害が出た」
「今回晨星郷を襲った怪異は、その時に亡くなった人魚に関係するものです」

 え?

 セイの事情を含め全て真実を説明すると思っていたタマオたちは、ボウの言葉に意表を衝かれる形となった。困惑を表に出さないよう、四人は必死で耐える。
 ボウはしれっと、如何にも誠実に話をしていますと言う顔で嘘八百を並べ続ける。
「人魚の遺体が流れ着いたのが、このセイの家がある街の北東部です。その後、亡くなった人魚の身内が家族を探しに来たために、怪異と呼ばれる様々な異変が起こり始めました」
 議会の面々はボウの滔々とした語り口に注目しており、幸か不幸か目を白黒させている四人には気づかない。
「身内を探す人魚は“揺蕩う闇”に付け込まれ、どうも魔獣へと変化する寸前だったようです。我々は魔獣に狙われていたセイからその話を聞き、人魚の説得に成功しました」
「それでは、もう街に怪異が起こることはないのだね?」
「それはどうでしょう」

 おい。

 タマオたちは今すぐボウを問い詰めたかったが、理性を総動員して我慢する。
 せっかく良い流れになりそうだったところに水を差され、議会員たちがざわつく。タタラは腕の一振りでそれを宥めると、ボウに話の続きを促した。
「原因となった人魚はもう去ったのだろう。何故まだ怪異が起きると?」
「人々の心が乱れているからです。“揺蕩う闇”は“黒い星”と呼ばれる背徳神の魂の欠片。人々が心を乱せば、その隙間に付け入ってくる」
「では、真の意味で街を元に戻すにはどうすればいい?」
 それがボウに本来与えられた役目だろうと、タタラが無感情に追及する。
 ボウの方も動揺一つ見せず、淡々と意見を口にした。
「僕は、街を挙げての慰霊祭を執り行うことを提案します」
「慰霊祭……」
「はい。亡くなった人魚をはじめとする、海で死んだ者たちの魂を慰めるための祭りです。怨霊から魔獣へ変化しそうな魂を鎮め、鎮魂の儀式を執り行ったというけじめをつけることで、人々の心に平安を取り戻したいと思います」
「それは良い考えですね」
 タタラより先に、巫女が反応する。
「ヨウコウ様」
「良いではありませんか。どうでしょう、皆さん。ボウ殿の言う通り、現在晨星郷に必要なのは、魂鎮めの儀式による『区切り』だと私は思います。“揺蕩う闇”の影響が多少残っても、それは残滓に過ぎずゆっくりと消えていく。そう説明すればいい」
 不安や恐れと言った感情に頭の中だけで区切りをつけるのは難しい。
 だが、慰霊祭という形を用意することで、この一件はもう終わったのだと皆に印象づけることができる。
「――良いだろう」
 ヨウコウの説明も聞き、タタラはついに頷く。
「慰霊祭を執り行い、怪異の鎮静を狙う。その後、大きな問題が起きなければ、ボウを無事に晨星郷の住人として認める」

 ◆◆◆◆◆

「とりあえず怪異の件もボウの処遇も一段落しそうね。良かった……!」
 帰り道、タマオは大きく胸を撫でおろす。
「本当に……良いのか?」
 黄昏の光を浴びながら、セイはまだ不安そうな顔をしていた。
「君たちの詳細な事情を話してもいいことなんてないだろう? もう誰もどうにもできない過ぎ去った問題について話しても、無用な混乱を招くだけだ。これから君にできることもないんだし」
「それはそうなんだけどさ……」
 セイが死んでも友人の人魚は還らない。取り戻せない。家族のもとに返してやることはできない。
「人はいつか必ず死ぬよ。それを止める術がない以上、僕たちは、どうにかしてその死に向かい合わなければいけない」
 セイといくつも年齢の変わらぬ少年にも関わらず、今のボウは遥かな時を生きた老人のような表情をしていた。
「君も彼女の死に向かい合うんだ、セイ。それが残された君の責任だろう」
「……そうだな」
 四人は途中の道でセイと別れ、タマオの薬草園に戻る。
 その道すがら、イナミはボウに尋ねた。
「さっきの話、本当はセイのためなんだろう? ……事情を話せば、セイが責められる。最悪の場合、議会はセイを人魚族に差し出して街の平穏を買うかもしれない」
「ええ!?」
 そんなことをまったく考えていなかったというタマオが声を上げる。
 ボウは静かに微笑んで、イナミの発言を半分肯定、半分否定した。
「確かにその可能性は考えた。でもセイはもう不老不死という罰を受けているし、それがある以上彼を殺して差し出すのは無理。……そういう混乱が長引くのを避けたかったのは、結局平和に生きたい僕の都合」
「……そうだな。それでいいだろう」
 人魚の一件は片が付いた。慰霊祭によって街の人々の気持ちも落ち着くことだろう。
 これ以上セイにしてやれることがないのは、彼らも同じだった。
 ――評議会は手際よく準備を進め、三日後にはボウの提案通り慰霊祭が行われることとなった。
 突貫であることと慰霊祭という性質からあまり派手な騒ぎにはならないが、住民たちは思い思いの絵を描いた灯籠を持ち寄って海へと集まる。
「これだけの数をよくこんな短時間に用意できたわね」
「テンセンおじさんに感謝しないと」
 ボウとタマオに色々と助けられた雑貨屋の店主は、同業者と協力して慰霊祭に必要な諸々の準備を協力してくれた。
 タマオの手にも、木枠に彼女が素朴な花の絵を描いた紙を貼り、中に蝋燭を入れた灯籠が握られている。
「じゃ、僕は行って来るよ」
「ええ」
 街の広場に造られた壇上で、ヨウコウが慰霊祭の意義について穏やかに人々に語り掛ける。
 怪異の鎮静を望む人々は厳粛な面持ちでそれを聞いていた。
「では、これから鎮魂の灯籠に火入れを行います。――ボウ殿、お願いしますね」
 巫女に名を呼ばれて壇上に上がった魔導士の少年の姿に、ボウを知る者も知らぬ者もざわざわと声を上げた。
 ボウは壇上で人々に向かって一礼すると、片手に握った魔導の小杖をそっと振る。
「わぁ……!」
 次の瞬間、晨星郷に静かに青い雪が降り始めた。
 否、それは雪ではなく、青い炎。
「なんだこれは……!?」
「綺麗……!」
「触っても熱くないぞ!」
 ふわりふわりと、雪か、あるいは蛍の光のように、光が空から降ってくる。
 そして広場に集った人々の持つ灯籠の中に宿ると、ぼわりと燃える青い炎へと変化する。
 宵闇の街に次々と青い灯が灯され、世界を照らしていく。
「さぁ、皆さま。灯籠を海へ流しに行きましょう」
 ヨウコウの言葉に、見慣れぬ魔導に浮足立っていた人々も我に帰ると、ゆっくりと海に向かって歩き出す。
 海岸へ辿り着くと、順番に自分が持ってきた灯籠を流し始めた。
 無数の青い光がゆらゆらと波に運ばれていく。
「……なぁ、あれ」
 ボウたちもしばらく流れていく灯籠を見守っていると、トミテが遠くの海面を見ながら声を上げた。
「あの光は……何だ?」
「きっと人魚の一族だよ。向こうも僕らと同じようなことをしているんだろう」
「そっか……」
 例え種族が違っても、死者に対する弔いの念は同じ。
 遠く、けれどこの岸から見えるほどには近く住まう、晨星郷の隣人たる人魚たちが慰霊を行っている。
 風に乗って優しい旋律が響き始めた。
「……竪琴だな」
「セイが弾いてるんだわ」
 とある人魚の少女が愛した旋律を、灯籠の光と共に海へと流す。それは弔いの音。声にできない懺悔。
 海上を流れていく青い光の美しさに見惚れながら、その竪琴の音が天に届くように彼らは祈った。

 ◆◆◆◆◆

 まだ夜も明けきらぬ空の下、一人の少年が旅支度を整え墓標もない墓に参っていた。
「本当に行くの?」
「うん」
 慰霊祭が終わり、セイは晨星郷を出ることをボウたちに伝えていた。
 あまり大ごとにはしたくないという本人の希望を汲んで、ボウとタマオの二人だけが、ひっそりと見送りに訪れる。
 その場所は海を見晴らせる小さな丘の上。季節の花がとりどりに咲く――人魚の墓。
 友人のことがあってから両親とほとんど話していないセイが、それでも一度だけ言葉を交わして聞いたという、彼女の亡骸を埋めた場所だった。
 決して見つけられてはいけないその死体を、こんな美しい景色の下にセイの両親が埋めた理由を推測はしても、誰も口にできない。
 両親は他者の命と引き換えに息子の命を繋ぎ止めた。
 その代償として、永遠に息子を失う。
 セイはもう晨星郷には二度と戻らない。
「俺がすぐ見える場所にいたら、あの人の心をまた乱しちゃうよ。だから……」
 両親が生きている間も、人より寿命の長い人魚が生きている間も。
 セイはこの街に近づかないことを自らに課した。
 そういう形で、二度と取り戻せないものに決着をつけたのだ。
 家族も友人も人間である自分も全てを失い、この先永い永い時を独りで生きていくことを――。
「でも、あなたの両親は――」
「タマオ」
 言いかけたタマオをボウが止めた。
 セイだってわかっていないはずがないのだ。それでももう彼は決めてしまった。
 楽器店を営む両親からかつて送られた竪琴だけを手に、少年は生まれ育った街を旅立つ。
 踵を返して背中を向けながら、ひらひらと手を振って何でもないことのように頼んだ。
「俺はいなくなるけど、うちの両親とはまぁ同じ街の住民として仲良くしてよ」
「そうするよ」
「……ありがとうな、色々と」
 徐々に遠ざかる背をボウとタマオはやるせない表情で見送る。
 晨星郷に一人の少年がやってきた年、一人の少年は去った。
「寂しくなるわね」
「……僕らにできるのは、彼の道行に幸あらんことを祈るくらいだ」
 そうして、しばらくぼんやりとその場に佇んでいた二人は、セイと入れ替わるように丘の上にやってきた壮年の男に驚く。
「セイはもう行ったのかね」
「タタラ様。どうしてここに?」
「楽器店の夫婦から事情を聞いたものでね。見送りには間に合わなかったようだな」
「あー……」
 セイの方はボウがあれこれ手を回したが、その両親までは気に掛ける余裕がなかった。だが罪の意識に苛まれ続けていた彼らは、タタラに懺悔していたらしい。
「まぁ、その、……セイ程の竪琴の腕前なら、凄腕の吟遊詩人としてそのうち噂の一つも聞きますよ」
「そうだな。たまには他の街で集めた罪のない噂の一つ二つ、楽器屋の主人夫妻に教えるのもいいだろう。……ところで」
 いくつかの皺が刻まれつつもまだまだ精悍な印象を失わないタタラの目が、ボウを捉える。
「噂と言えば、こんな話が隣町の港から入ってきた。どうも二か月ほど前に航海中で色々と事件があった船の船員の証言らしい」
「二か月前?」
「……」
 ちょうどボウが来た頃だわと反応するタマオの横で、ボウはいつも通りのつまらない顔を貫いている。
「ああ。大嵐で乗客に犠牲が出てもめたところで、残りの航海の無事を願って、乗船していた魔導士の少年を一人、生贄として海に投げ込んだという噂だが」
「そ、それって……」
 タマオは思わず並んで立つボウを見上げる。
「その後、少年はどうなったんだろうな?」
「さぁ……普通なら死んでるところでしょうが、もしその少年が凄腕の魔導士ならなんとか命を繋ぐために生命機能を落として無事に陸地に辿り着き、そこで親切な人々に拾われて今はそれなりに平和に暮らしているいるかもしれませんね」
「そうだな」
「ボ、ボウ……」
 ボウがタマオたちに拾われた際に記憶を失っていたのは、生命維持のために自ら身体機能の大部分を封じて一時的に仮死状態になった名残だった。
 黒い星を呑み込んで色々と思い出してからは、自分はよくよく「海に投げ込まれる」状況に縁があるようだとボウは溜息を吐いた。
「……人には色々な事情があるものだ。しかし、辛い目に遭った者たちなら、その後は平穏に生きてほしいものだ」
「……ええ」
「――そうですね」
 セイのことか、ボウのことか。タタラの言葉に二人は軽く驚きながらも頷く。
 日が完全に昇ろうとしている。
 海辺の平和な街の一日は、今日も穏やかに始まりを告げようとしていた。

 ◆◆◆◆◆

 竪琴を片手に、セイは銀髪をなびかせてそっと背後を振り返る。
 病弱な頃は永遠に出ることはできないと思っていた街が今は少し遠い。
 健康な足は前に動かし続けるだけで呆気ない程簡単に、彼と故郷の距離を引き離す。
 体の動きに、自らの感情がまだまだついていかない。
 青と金の黎明に包まれた晨星郷は、二度と訪れることのできない桃源郷だ。
 悲しい思い出が詰まった場所でも、再訪できないというだけでそこはあまりに狂おしい楽園へと変わる。
 街を出なければという思いがあった。だが何処に行けばいいという具体的な目的地がある訳ではなかった。
 ただただ、虚無と寂寞だけが彼と共に在る。
 ――かと思えた、が。
『寂しいの?』
 突然の言葉にぎょっとして振り返ると、傍らにはいつの間にか黒い靄。
 黒い三つ編みの少年の姿を模して語り掛けてくる、それは――。

『寂しいなら、僕と一緒においで』

 ――彷徨える星はいつか居所を見つけ、闇は、いつでも我らのすぐ傍に揺蕩う。

 「揺蕩う闇、彷徨う星」 了

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