愛玩

04

 アイオンは自分が正確にはどんな場所に、どんな立場でいるのかを知らなかった。
 ルーファスは手に入れたヴァランタン公爵家の屋敷ではなく、自分で買った屋敷にアイオンを連れて移り住んでいたからだ。アイオンがその屋敷に運ばれたのは、家族を全て殺されたあの日、ルーファスの手で抱かれて気を失った後だった。そのため彼は今現在自分が王国内のどの地域にいるのかすらわからない。
 奇しくもアイオンがそれを知ることとなったのは、思いもかけぬ訪問者の言葉からだった。
 アイオンがルーファスに与えられた一室で、一人きりの静かな時間を流れるに任せていた時、部屋の扉が前触れもなく開けられた。
「だれ……?」
 すっかり反応の鈍くなったアイオンがのろのろと部屋の入口の方へ顔を向けると、視界に入ったのは見知らぬ少年だった。元はヴァランタン家の執事でありながら公爵を裏切りルーファスの臣下に下ったサヴァンをはじめ、この屋敷には大勢の使用人がいるが、目の前の少年はアイオンの見た事のない顔だ。
 もちろんアイオンは囚われの身、それも主君の“ペット”ということで、この一室に閉じ込められている。この屋敷で働いている人間の十分の一の顔も知らなかったが、目の前の相手が新顔であることに変わりはない。
 そして少年とはいえ、彼はアイオン自身よりは年上のようだった。十四か、十五か。そのくらいの、大人と子どもの中間くらいの年齢だ。
 金髪碧眼に白い肌の、いかにも貴族的な顔立ちのアイオンとは正反対の、短い黒髪に黒い瞳、そして浅黒い肌をした執事服の少年。
 顔立ち自体は平凡なのだが、その鋭い目つきが野生動物を思わせてどこか引きつけられる。
 彼はアイオンを憎悪の眼差しで睨みつけると、つかつかと部屋の中まで歩み寄って来て、応接椅子に腰かけていたアイオンの頬をバシンと思いきりはたいた。
「な……」
 平手打ちとはいえみるみる腫れあがる頬の感触に、アイオンは呆然と少年を見上げた。これまで貴族の嫡子として生きて来たアイオンは、理由もなく理不尽に人から暴力を受ける経験などしたことがない。ルーファスに抱かれる時だって、彼は極力アイオンを殴り、肌に傷を作るようなことは控えていた。
「ふん。見事に顔だけって印象だな。ヴァランタンの次期公爵サマ」
 震えているアイオンを冷たく見下ろして、少年が言葉を発する。
「俺の名はウェイ。立場はほとんど同じだ。あの方に……ルーファス様に拾われた」
「拾われ……」
 思いがけない言葉にアイオンは鸚鵡返しにただそれを繰り返した。
 アイオンはルーファスに拾われたわけではない。むしろ彼に、家族も財産も身分も、全てを奪われた被害者だ。
 しかしウェイの言葉は続く。
「ルーファス様はこの国の全ての平民を救うつもりなんだ。だから、俺の実家やお前の家のような悪徳貴族の家を潰している」
「潰す……同じ……じゃああなたも」
 彼の言葉通りなら、ウェイ自身もアイオンと同じくルーファスの謀略によって実家を潰されたことになる。
「あなたは何故ルーファスを恨まないの?」
 生憎とアイオンはウェイの顔をこれまで見た事がなかった。今度はこの屋敷でという意味ではなく、国内の貴族の社交関係の中でということだ。
 打たれた頬の痛みも忘れて問いかけるアイオンに、ウェイは鼻を鳴らす。
「俺の実家はとんでもない因業悪徳貴族だった。あんな腐った奴ら、殺されて当然だ。ルーファス様は俺だけはあいつらとは違うと言って命を助けてくれた。あの方に忠誠を誓うのは当然だ」
 アイオンは戸惑いの色を瞳に浮かべた。今の言葉から察するに、ウェイは実家の人間と折り合いが悪かったのだろう。もしかしたらアイオンが彼の顔を見た事がないのも、ウェイがアイオンと違って貴族の家の正嫡ではないからかもしれない。
 けれどその言い分は一方的だ。ウェイは自分の実家が潰れてもいいと考えていたようだが、アイオンは違う。家族とも仲が良かったし、平民の解放なんて願ったこともない。だからルーファスのことは憎い仇にしかすぎない。今大人しく愛玩犬の役割を演じているのだって、ただひたすら、彼が怖いからだ。
 そして、目の前のウェイのことも怖い。
「ルーファスは……」
「ルーファス様、だ」
 そう言うと彼は、主君の名を呼び捨てたアイオンの腫れた頬をもう一度ひっぱたいた。
「ぎゃあ!」
 一度叩かれた場所に再度刺激を加えられて、アイオンはたまらず悲鳴を上げる。
「生意気な……! なんでお前のような奴が、ルーファス様に特別扱いをされているんだ!」
 ウェイの糾弾は、アイオンにはまったく寝耳に水の話だった。特別扱い? ルーファスが自分を?
「あの方に惹かれている人間は男も女も、大勢いる。だがその誰が身を差し出そうとしても、伽を申し出てもルーファス様はその好意を受け取ることはなかった。俺だってそうだ、好きにしてくださいと言ったのに相手にしてもらえなかった!」
 呆然としたまま、アイオンはウェイの言葉をゆっくりと整理する。つまりウェイは、ルーファスに抱かれようとしたのだ。他の者たちも。それなのに彼らは拒絶された。
「なのにお前は! この顔で、あの高潔なルーファス様をたらしこんで!」
 ルーファスは、アイオンだけを相手にしている。アイオンだけに夜の相手をさせている。
「なんでお前なんだ! ヴァランタン家より位の高い家の子息だって、仲間の中にはいるのに!」
 何故アイオンだったのだろう?
「だって……僕はルーファスに恨まれてるから……」
 今この状態で、アイオンに出せる答はそれだけだった。
「僕は……今まで何度も意地悪してきて、ルーファスに嫌われてるから……」
 言った瞬間、ぽろりと瞳から涙が零れて来た。
 そうだ。いつも自分は彼を困らせてきた。ルーファスはこれまでお坊ちゃまのどんな我儘にでも耳を傾けてくれたけれど、本当は心の中では鬱陶しいと思っていたに違いない。だから今、自分だけをこんな目に遭わせるのだ。
 アイオン自身は父の秘書であったルーファスに誰よりも親しみを感じていたつもりだったけれど、そうは受け取られていなかったのだろう。
「お前……!」
 ウェイが煮えたぎるような憎しみを黒い目に浮かべてアイオンをきつく睨む。
 金髪碧眼の美少年は思いもしなかった。目の前の浅黒い肌の少年が、彼の容姿を羨み、主人に愛されるアイオンを妬んでいるなどと。ぽろぽろと涙を零す様まで愛らしい少年に対し、黒髪の少年が抱いたのは、憐れみでも庇護欲でもなく、果てしない憎悪だけだった。
 ウェイはずんずんと大股で近寄ってくると、アイオンの柔らかな金色の髪を乱暴に掴む。
「いたっ、痛い! 放して!」
 そのまま無理矢理華奢な少年の身体を引きずり、大きな寝台の上に放り投げた。バネを軋ませるようにしてその上からのしかかり、アイオンの動きを封じる。
「お前がルーファス様に恨まれているというなら、俺の敵だ」
 白い手首を握る褐色の手に力が込められる。
「滅茶苦茶にしてやるよ」