愛玩

07

 アイオンは食事の盆を片手に地下へと降りた。
「う、うう。うううううう!」
 猿轡を噛まされて言葉を封じられ、獣のように唸るのはかつてウェイと呼ばれていた少年だ。アイオンは彼の声を封じている猿轡をとると、その口元に食事を乗せたスプーンを運ぶ。
「お前……!」
「食べないの?」
 冷めた目で奉仕というにはあまりに素っ気なく給仕するアイオンを睨みつけ、ウェイは大人しく口を開いた。逆らっても無駄なことは、彼にもよくわかっている。
 かつてアイオンを叩いた手も、のしかかった足も、彼の身体にはもうないのだ。無駄なものはいらないのだと、ルーファスが斬りとってしまったから。
 この地下室でウェイは現実を恨みながら、目の前の、かつての自分と立場が逆転したアイオンを恨みながら手足のない身体で鬱屈と日々を過ごすしかない。
「畜生、お前なんか……お前さえいなければ!」
 彼の手で食事を運ばれることこそ今では拒否することはないが、それでもウェイは毎日のように口さえ開けばアイオンを罵倒する。口だけで実際には何をすることもできないとわかっているからこそ、アイオンももう彼の言うことを気にしない。だがそろそろ鬱陶しくなってきた。
「あんまりうるさくすると、今度はその舌も斬り取られるよ? 舌を噛んで死ぬのって、先端が斬られて縮まった舌が気道を塞ぐからなんだってね。だからそれさえあらかじめ予防しておけば、人間の舌を斬ったまま生かす方法なんていくらでもあるわけだ」
 アイオンの脅迫に、ウェイの顔がさっと青ざめる。暗い地下に閉じ込められて多少は色が薄くなったが、彼の肌はまだ褐色だ。もともと異国の踊り子の血が入っているウェイはそういう体質なのだ。
 この国の全ての平民を解放すると言いながら、貴族的なものに焦がれるルーファス。金髪碧眼のアイオンは、自らがとてつもなく脆い薄氷の上に立っていることを知っている。
 食事を終えたウェイの口に再び猿轡をはめながら言う。
「諦めるしかないんだよ……君も、僕も」

 ◆◆◆◆◆

 先日ルーファスに連れられた夜会で、アイオンは珍しいものを見た。
「――げっ」
「男……?」
 若草色のドレスが濡れて、その下の肌の線が露わになる。茶髪に緑の瞳の美少女は、実は彼と同じ少年だ。
 女装して夜会に潜りこんでいたというのならお互い様なのだが、少年はアイオンの正体に気づかなかったようだ。自分の方が男だと気づかれると、脱兎のごとく逃げ去った。
 その後、アイオンはルーファスから、タディアス・ディランと言う名の新興貴族のことを聞かされた。ルーファスと同じく平民上がりだが、こちらは武勲を立てた褒章に爵位を要求した男で、傭兵伯爵と呼ばれているという。
 その彼が連れていた少女の名がエセル。淡い茶の髪に緑の瞳をし、若草色のドレスを身に纏っていた美少女――少年。
 金髪の鬘をはずし、アイオンは口紅を乱暴に手の甲でぬぐい去る。適当な娼婦を連れ歩くより確実だと、何を考えたかルーファスはアイオンを女装させて夜会に連れた。だがそのおかげで面白いことがわかった。
「男だったよ」
「何?」
 いまだ口紅の味が残る唇をルーファスの舌に舐められながら、アイオンは告げる。
 傭兵上がりの野蛮な伯爵タディアスを、ルーファスは目の敵にしている。戻ってからは彼をどう陥れるかの策略にばかり腐心していたルーファスが、アイオンの言葉にようやく顔をあげた。
「男だったよ。その、ディランとかいう人が連れていた女の子、エセルって名乗った子。ドレスが濡れたところを見たんだ。間違いない」
「――詳しく聞かせるんだ。イオン」
 淡い紅色の、年頃の少女なら誰もが憧れるだろう美しいドレスで着飾ったアイオンの腰を抱いてルーファスは促す。金髪碧眼で貴族的な美しさを持つアイオンには、少女の格好がよく似合った。まさしく硝子箱の中に飾りたくなる人形のような愛らしさだ。
 ルーファスの腕に抱かれながら、アイオンは夜会で出会ったエセルと言う名の少年のことを思い出す。最初は彼も相手が男だなどと夢にも思わなかった。人形じみたアイオンと違って、茶髪に緑の瞳のエセルからは、日向と草原の青い香りがした。エセル……エセル……。
「エセルバート・ローウェル?」
「ローウェル……そうか! あの老いぼれが探していたという、行方不明の下町育ちの息子。それが奴の切り札というわけか!」
 ルーファスがようやく得心がいったという顔をする。奴というのはタディアスのことだ。彼がエセルと言う名の少年を連れていた以上、二人の関係が、ここ最近のディラン伯爵の躍進に一役買っていたことは間違いない。
 アイオンはたまたま聞き覚えのあった名を口にしただけだが、それは意外とルーファスの役に立ったようだ。ルーファスは自分自身の才能と努力、そしてアイオンの実家であるヴァランタン侯爵家やウェイの実家の力も取り込み、この国で何かをやろうとしている。だがその望みが最終的にどこへ行き着くかなど、アイオンにとってはどうでもいいことだ。
 自身の破滅も栄光も、最期までルーファスと共にある。
「ああ、坊ちゃま。あなたはやはり最高だ」
 高価なドレスを台無しにする勢いで開かせた胸元に、ルーファスは口づける。傭兵伯爵への憎悪に攻撃性が増しているのか、性急な手がスカートの中に滑り込んだ。
 ふ、と熱い吐息を零しながら、アイオンはそんなルーファスの背に腕を回す。
「ねぇ……ルーファス様。ご主人様。お願いがあるの」
「なんだ?」
 アイオンの一言からこの後の計画の足掛かりを得たルーファスは上機嫌に、自らの愛玩する奴隷の言葉を聞く。
「あのエセルって子、僕にちょうだい」
「かまわないが……どうした? そんなことを言うなんて、珍しい」
「ちょっと……ね。今までにいないタイプだったもの」
「ふん……」
 ルーファスはしばし考え込む様子を見せた。アイオンはウェイの立場を奪うように彼の仕事を手伝うようになってからは、多少不遜な言葉ですら赦されるようになっている。それでも最終的な決定権は、いつもルーファスの側にあった。
「そうだな……お前ほどではないが、化粧をした顔はそれなりだった。お前の隣に立たせるには、ウェイよりは映えるだろう」
 くす、と笑ってルーファスは告げる。
「あの小憎らしいディランの首をとったら、そのペットの雑種はお前にやろう」
 その後はもう、エセルの話もタディアスの話も二人の間で出なかった。ただ肉欲を満たすために、お互いの肌をまさぐりあう。
 この関係が脆い薄氷だということはわかっている。
 青い香りのする日向の熱を浴びれば、溶けてしまうほどに儚い地面だ。
「ご主人様……」
 か細い喘ぎで呼ぶ声に応え、ルーファスが悪戯っぽく笑って唇を落とす。禁忌も穢れも憎しみも恐れも、アイオンの中では全てが通り過ぎて消えていく。それら都合の悪い言葉はすべて忘れ去り、ただ触れる手の気まぐれな優しさにばかり、縋る――。
 自分は彼の奴隷でペットで、人形。ただの愛玩物なのだから。
「愛しているよ、イオン」
 僕も、とは決して言わず、アイオンはただ唇を押し付け返すことで万感の想いを返した。