神様の思召すまま

5.ラウズフィール

「肺の病です」
「え……」
 医師の言葉に、シェイは目を瞠った。薄い掛布一枚だけで寝台に眠るディナの顔は今もまだ青白い。
「こちらのお嬢さんのお仕事は、絨毯作りでしたっけ? 多いんですよ。一日中糸を紡ぎながら羊の毛で肺をやられてしまう人が。この町は絨毯作りで栄えていますが、その分若い娘の死亡率も高い」
「死亡率って……死……」
「すぐにでも仕事を辞めねば身体に差し触るでしょう」
 すでにディナの身体は深く蝕まれていて、今日明日で良くなるものではないらしい。それどころか、このまま絨毯作りの仕事を続ければ命も危ないと。
 シェイは呆然とした。ディナに何と言えばいいのかわからない。
「……シェイ君、君も寝た方がいいよ。ディナ嬢の様子は私が見ておくから」
 それまで部屋の隅で静かに様子を見守っていたラウズフィールが声をかけてくる。
 思えばディナが血を吐いて倒れた時、医師を呼んだのは彼だった。シェイはただディナを抱きしめて震えていただけ。
「ラウズフィール……ディナが……」
「うん。大変みたいだね。でもそのことはとにかく明日、ディナ嬢が起きてから一緒に考えることにしよう」
「でも……」
「君がここで起きていたって何も解決しないよ。ちゃんと眠って頭を冷静にして、明日ディナ嬢を説得するんだよ」
「……うん……」
 子どもに言い聞かせるようなラウズフィールの言葉に、シェイは大人しく頷いた。
 ディナのことは心配だが、旅の疲れもある。その日の夜は無事に眠ることができた。しかし問題は次の日だった。
「仕事を辞めない? どうして、ディナ。このままじゃ――」
「ごめんなさい、シェイ。でも、駄目なの。両親が死んだ時に私たちの抱えた借金を肩代わりしてくれたのはこの町の領主様だったわ。今作っている絨毯をお望みなのは、その領主様だもの」
 だからこの仕事を蹴ることはできないのだとディナは言う。彼女は命を削っても、絨毯作りを止めない。
「それに……大丈夫よ。私、この仕事好きだから。自分の手で一枚の絵のような世界を作るの」
「ディナ!」
「だからごめんね。シェイ、あなたの頼みは聞けないの」
 私のためを思ってくれてありがとう。そう言って彼女は、しかしシェイの言葉を拒絶する。
「僕……僕、出かけてくる!」
 ディナ自身を説得できないなら、他の相手を説得するしかない。シェイはディナの勤める店に向かい、そこで取り合ってもらえないとなると領主の屋敷に向かった。
 オアシスの小さな町でそこだけやたらと広い敷地に建つ館。それが領主の屋敷だった。
「お願いがあるんです!」
 幸いにも小さな町の領主は気さくで、突然押しかけてきた、しかも町の者ではないシェイにも会うと言ってくれた。門前払いされたらどうしようというのも杞憂で、呆気ないほど簡単に応接室に通される。
「ディナの仕事を止めてくれ? しかしあれにはすでに莫大な金が」
「でも、このままではディナは死んでしまいます。お願いします、領主様」
 仕事さえ辞めれば、この領主に納得さえしてもらえればディナを養うだけの用意はある。
 族長である父は、神殿への使いが終わったらシェイに帰って来なくてもいいと言った。つまりシェイが帰らなければ、一人分養う余裕ができるということだ。
 ここで借金の問題さえ片付けば、ディナに絨毯作りの仕事を続けさせる必要もない。
「お願いします……」
 対面でシェイの様子を見ていた領主の表情が変わる。
「うむ……確かに、なんとかできるものならばしてやりたいが」
 だが、それにはディナの作りかけの絨毯にかかった費用、彼女の抱えた借金を清算する必要がある。
 ディナが抱えた借金は、この町に来てしばらく仕事を探していた間に金を借りただけだというからさほどの額ではない。問題は今彼女が作っている絨毯の方だった。最高の素材を使用しているのに、途中から織り手が変われば質が落ちてしまう。
 その損失は貧しい月の民にとって、莫大な金額だった。
「……こういうのはどうだろうか」
 頭を悩ませるシェイの前で、領主が顎に手をやりながら提案する。
「そんなにディナを救いたければ、君がこの町に残ればいい」
「え? でも俺、絨毯を作ることはできませんよ」
 シェイは驚いて領主を見た。人のよさそうな顔をした領主の瞳に、しかし今は好色な光がある。
「絨毯など作らなくても構わんよ。ただここに、私の屋敷に留まってくれればね」
 領主はすっと距離を詰め、シェイの頬に手を伸ばす。
「辺境の蛮族とも思えない滑らかな肌だね」
 頬から首筋と、服の裾から覗く鎖骨にかけて撫でられる。シェイの脳裏に、まさか、という思いが広がった。
「月の民は銀の髪に銀の瞳と月色の肌を持つ可憐な一族、か。あながち文献の言うことも間違いではないね。ディナも良い子だが、君は彼女よりもっと美しいな」
 がさついた両の掌に頬を挟まれる。
「君が私のものになるなら、ディナを解放してあげるよ」
 シェイは目を瞠った。
 今ここでこの男の言葉に頷けば、大事な幼馴染を救うことができる。それは、下手をするとこの先一生の恥辱と引き換えに。
「僕は……」
 それでも。
「僕は、領主様のものに……」
 それでも、その程度のことで、彼女を救えるのならば。
 どうせもう集落に戻らずとも良いと言われたのだ。神殿への使いさえ終われば、もう月の民としてすべきことは何もない。族長の座にはヴェインがつくことになるだろう。
 本来一銭の価値もないこの身が、ディナを救えるのであれば。
「領主様のものになりま――」
「ちょっと待ったぁ!!」
 最後の一音を言いかけたところで、ちょうど邪魔が入った。
「ラウズフィール……」
「なっ! ラウズフィール殿?!」
 何故か領主までもが、その闖入者の名を呼んで驚き立ち上がる。
「トルファン、残念だけどその契約は破棄だ破棄。この子は私のものだからね」
 人のことを勝手に所有物宣言し、ラウズフィールは領主トルファンに指を突きつける。正確にはまだ契約破棄も何も、契約がなされる前だったわけだが。
「ディナ嬢の借金は私が清算する。だから彼女を解放してやれ。そんでもってシェイも返せ」
「……突然出てきて勝手なことを。この少年は自らの意志で私のもとへやってきたのですよ」
「それでも、女の身と引き換えっていうのはあまりにも卑怯だろ。それとも、お前がファルドゥートの後ろ盾を失っても生きていく気があるなら別だが」
 トルファンが悔しげな顔をした。
「お家の力を使おうとはあなたらしくもない。ラウズフィール殿、あなたはもう実家の力は借りないと、つい昨日宣言していませんでしたか?」
 ラウズフィールが昨日会いに行っていた知り合いというのは、どうやらこの領主のことだったらしい。シェイは二人のやり取りをただ見つめるしかできなかった。
「確かに私はもう実家に帰らないつもりでやってきた。けれどね……シェイのためなら、なんだってできるんだよ」
 あまりにもあまりな言葉に、思わずシェイは呼吸を忘れた。間の抜けた顔でただただ呆然とラウズフィールを見つめると、くす、と穏やかな笑みで返される。
「よほどこの少年がお気に入りのようですな」
「そういうことだ。引け、トルファン」
「……仕方ありませんな。優秀な絨毯の織り手を、ただの金だけで失うのは惜しいですが……」
 未練ありげにシェイに視線を向けたトルファンだが、次の言葉と共に、最終的には観念したようだった。
「まさか“魔王”を敵に回すわけにもいきますまい」