劫火の螺旋 SS

「劫火の螺旋」外伝(本編読了後推奨)

砂漠の星と魔術師

1.

 さぁ、君は今日から魔術師になるための勉強をするんだよ。
 砂漠の国の辺境、日干し煉瓦の家が立ち並ぶ下町、暗い灼熱の路地裏で死を待つばかりだった薄汚い孤児の少年にそう声をかけたのは、身なりは普通なのにどうにも怪しい雰囲気が漂う男だった。
 後で知ったところによると、男は魔力を持ち、街中で魔術の才能を持ちながらそれを知らずに生きている者を魔術師の世界へと引き込む勧誘者であり、同時に貧しい家から子どもを買い取る人買いでもあったらしい。見るからに寄る辺ない孤児である少年は、男にとって金を払わずに手に入る強大な魔術師の卵ということで、とても都合が良かった。
 黄の大陸の北部はかつて創造の魔術師が渡ってきたという伝説があり魔術師が恐れられている。そして砂漠地域を含む南部では、そもそも魔力を持つ人間自体が生まれにくい。
 しかし、だからこそ魔術師を「売る」闇ブローカーたちにとっては砂漠地域は他でもない宝の山と言えた。遥か昔に白砂を血に染めて暴れ回った魔王ラウズフィールもすでに伝説と化した今、砂漠地域の魔術的勢力は変革期を迎えようとしている。国家は魔術師を重用することを政策として打ち出すが、そもそも他国からわざわざ南東の砂漠くんだりまでやって来てくれる高名な魔術師もいない。
 そこで人買いたちは魔力を持つ子どもたちを探し出し、教育を施してから貴族に売った。貴族は売られた子どもを買う。中には無理矢理両親と引き離されて売られた子どもも中にはいたはずだが、その頃の王国にそれを気に止める者はいなかった。たとえ魔力を持っていても、制御を知らなければただの子どもと同じ。人買いたちは何人もの子どもを買い、教育し、売った。少年は後にその中の一人となった。
 男は少年に名を問う。昨日から水の一口も飲んでいないからからの喉で少年は答えた。
「ザッハール」

2.

 特に魔力が強いからお勧めですよとかなんとかいう声を聞き流しながら、ザッハールはひたすら床に頭を擦りつけていた。正確にはそうするよう隣の男に頭を押さえつけられていた。
 ベラルーダの先代国王がまだ健在の頃、彼は兼ねてからの予定通り王宮に売られた。人買いたちにとって幸運だったのは、元手タダ同然で手に入れた路上の孤児が存外に強い魔力を持っていることだった。この子は孤児で私どもが教育し云々というあながち嘘でもない言葉を王に説明しながら、ザッハールを売りつける。
 ザッハールの魔術師としての修業はそこで終わらず、鍛え上げればもっと優れた魔術師になるだろうとの話から国外に留学させられることとなった。その前に一度王宮を見せて愛着を覚えさせようだのなんだのという話になり、ザッハールは気づけばベラルーダ王の案内により王宮を見学させられていた。廊下を歩きながら王は先程買い取ったばかりの子どもであるザッハールに語りかける。
「先代の魔術師長はすでに高齢でね……遅くても十年後には辞職すると申し出られてしまったんだ。君には何としてでも、できれば十年以内に魔術師となってこの国に戻って来てもらいたい」
 難しい話はその頃の彼にはわからなかったが、とにかく自分が必要とされているらしいということはなんとなくわかった。他国からしてみれば小国と言えど、砂漠地域においてはそれなりの権力を持つベラルーダにも魔術師が少ないという弱点がある。これまではそのことが偏見や古い格式に縛られず自国の力を伸ばす利点となったが、段々とそうもいかなくなってきた。
 ベラルーダは隣国プグナと何かにつけて争っているが、数年前からついに領土をかけて国境線で小競り合いを繰り広げるようになった。この隣国プグナの王妃アラーネアは魔術師であり、五年ほど前に王との間に娘を一人生んでいる。どうやら夫婦仲が悪いらしく王妃自身が戦場に出てくるわけでもないのだが、隣国の脅威をみすみす見過ごすわけにもいかないと、ベラルーダは魔術師の育成に力を入れることにしたらしい。
 ザッハールに今すぐ優れた魔術師になれと言うことはないが、他にも次代の魔術師長候補は何人も集められていて隣国に対抗できるだけの魔術師戦力が揃えられようとしている。幸いにもベラルーダの王子ラウルフィカとプグナの王女は同い年。十年程ベラルーダが持ちこたえて勢力の均衡に努めれば、いずれはラウルフィカ王子と隣国の王女を結婚させて、自然な形で和睦に持ち込むという案もある。
 父のような年齢のベラルーダ王はそんな話をしながらザッハールを連れて、王宮の中を案内してくれた。宮殿に上がるこどなど一生ないだろうと考えていた孤児の少年にとって、小国とは言えベラルーダ王宮の中はきらびやか過ぎた。
 まず建物が当たり前だが日干し煉瓦ではない。入口はただの布でなく透かし彫りの入った樹の扉がついていたりするし、人々の衣装も豪華だ。柱には砂漠の民の信仰の元であるイシャルー神殿と同じだという精緻な紋様が彫られていて、天井にもまた古き神々の神話を元にした絵が描かれていて見る者の目を楽しませる。中庭にはこの地域では滅多に育たない花まで植えられていて、甘い香りを人々に届けていた。
 興味がないわけではないが眠たくなるような王の話に、見慣れない珍しい美しいもの、きょろきょろと辺りに視線をやっていたザッハール少年はそこで気づいた。
「……やべ、迷った」
 いつの間にか彼は、王宮の廊下に一人きりだった。

3.

「おやおや坊ちゃん、見ない顔だね。お困りのようならわしが何か売ってさしあげ……あ、何故逃げる?!」
 まるまると太った肉団子、もとい肉だるま系の怪しい商人から逃げたところで、ザッハールは完全に王宮の中で迷ってしまった。多忙な国王の時間をとらせておきながら、その王様を見失って迷子というこの体たらく、十三にもなって間抜けにも程があるが、なってしまったものは仕方がない。なんとか王様を見つけだすしかない。
「だからナブラ卿、フェルネ運河の河川に関しては」
「いいえ、ゾルタ。いくら宰相家の嫡男殿の仰ることとは言えこれは譲れません。あの工事に関しては例の業者に一任すべきで」
 速足で王宮の廊下を歩く貴族青年二人組は、何やら難しい話をしているらしくその形相も真剣すぎて迂闊に声をかけられなかった。まだ二十歳前後だろうに、二人ともすでに政治家の顔をしていたのだ。あの会話に割り込むのは勇気がいりそうだ。
 少し歩いて次に見つけた人影はこれはこれでまた厄介そうだった。たくましい体つきの赤毛の少年に、ザッハールより少し幼いくらいの茶髪の子どもが食い下がっている。
「ミレアス准尉、訓練を勝手に抜けだされては困ります! ジュドー将軍閣下が探していらっしゃいましたよ!」
「うるっせーぞ坊主。ああ? お前、確かジュドー親爺のところのカシムだったか。俺と対等な口聞きたきゃ、俺様に剣の腕で勝ってから言いな」
「無茶言わないでくださいよ! 今の僕……私とあなたではまるっきり大人と子どもの体格差じゃないですか! 私だって成長したら、ミレアス准尉くらい倒してみせますよ!」
「言ったなこのガキ」
 二人はぎゃーぎゃー喚くだけ喚くと、ザッハールのことなど気にも留めず歩いていった。仕方がないので彼は再び歩き出した。
「あぷっ」
 その膝に何かが当たる。
「あうー、だぁれ?」
 ぽすっと気の抜ける音と共に彼の膝にぶつかってきたのは、小さな黒髪の子どもだった。小さな……というか本当に小さい。まだ五つかそこらだろう。ぷくぷくとした頬は、そのくらいの歳の頃は食べるものにも困ってがりがりに痩せこけていたザッハールとは対照的だ。
「おにいちゃん、だれ?」
「俺は……」
 彼が答えようとしたところで、知った声が子どもの名を呼んだ。
「ラウルフィカ! どこに行った!」
「あ、ちちうえ!」
 きゃらきゃらと笑って子どもは国王のもとに駆けていく。王様の腕はしっかりと子どもを抱きかかえた。それはザッハールの知らない、家族の光景。
「ああ、なんだザッハール。君はこんなところにいたのか」
 ザッハールがやはり何も言えないでいるうちに、王様が笑顔で歩み寄ってきた。彼が子どものことについて聞く前に、子どもの方が父親の腕の中から手を伸ばして尋ねて来た。
「ちちうえ、このおにいちゃんだれ?」
「彼はザッハールだ。ラウルフィカ、お前の魔術師だよ」
「わたしの?」
 王様が言った途端、子どもはきらきらとした目でザッハールを見つめて来た。王子様のきめ細かな肌とは似ても似つかないざらざらに荒れた頬へと手を伸ばしてぺたぺたと触って来る。
「わたしのまじゅちし!」
 舌足らずな声で叫ばれて、ザッハールは心臓がどくんと跳ねるのを感じた。

4.

 将来的に仕える相手を一目でも見ることができたというのは、ザッハールにとって良い目標となった。
 可愛らしい黒髪の王子は、ザッハールに早く国に戻って来いと言った。とはいえザッハールはラウルフィカ王子と他に何を話したというわけでもなく、国王が王子をすぐに連れていってからは、姿を見かけることすらなかったのだが。
 ザッハールにとってはそれだけで十分だった。気がつけば町の片隅で死にかけていた、誰にも必要とされない野良犬。それが今までの自分だった。小さな子どもの目の前の玩具に対する興味と同じような形でも、誰かに必要とされ、気にかけてもらえるというのは嬉しかった。
 ラウルフィカ王子に魔術師として再び会うことが当面のザッハールの目標となった。魔術師を養成する学院で、彼は見事に成績を上げていった。主席とその次席には天才と秀才と呼ばれる少年たちが常に座っていたので名前が挙がるようなことはなかったが、学年で常に五番手程度の位置を守り続けていた。
「やぁ、ザッハール」
「アリオスか。なんだよ」
「君の薬草コレクションを貸してもらおうかと思って。生物学に関しては君の右に出る者はいないからね」
「……アリオス。人を褒めてさらりと誤魔化そうとしたみたいだが、シファに惚れ薬を盛る相談には乗らねーからな」
「あ、バレた?」
 エトラ学院での生活はそれなりに楽しかった。貴族から孤児、下手をすると逃亡途中で魔力を発揮した前科者まで雑多な人間が詰め込まれている学院での経験は、ザッハールの世界を広げた。それはあくまでも彼自身がそう思っていただけに過ぎないけれど、砂漠地域以外の土地や人々のことを学ぶ機会になったのは確かだった。
 しかし同時に、ザッハールはこの学院で初めて壁というものにもぶつかった。生きるか死ぬかの問題とはまた違う、自分という存在の生き方そのものに対する壁だ。
「お主の能力はここまでじゃな」
「……って言うと」
「第五階梯の魔術師。ただの魔術師としては優秀だが、上には上がいくらでもいるというところだ」
 三分野以上で第四階梯までを修めれば魔術師を名乗れる。だが他国で宮廷魔術師を名乗る者たちは、第六階梯の魔術師と呼ばれる者たちが多い。
「俺に足りないのは努力ですか?」
「いや、むしろ才能だろう。お主はこれまでようやった」
 教官の言葉はザッハールにとっては慰めにもならなかった。ちりちりとした焦りのようなものが首筋を焼く。
 ザッハールは同じようにベラルーダの宮廷魔術師候補として連れて来られた孤児の中では、群を抜いて優秀だった。しかし友人のアリオスなどは生来の魔力容量が少ないと言われる不利をセンスで埋めて、ザッハールと同じく第五階梯の魔術師の名を得た。そして次席のアリオスの上を行く、何年も飛び級して彼らと同学年まで昇り詰めた天才と名高いシファ少年は、第七階梯を修めて遂に「界律師」の称号を得ようとしている。
 魔術師の中でも頂点に立つ能力者が「界律師」。魔術は究めれば「界律」と呼ばれるものを使えるようになるのだという。しかし界律師はなろうと思ってなれるようなものではない。ある段階を越えれば自然と到達できるというが、その段階とは「人間の限界」だとも言われている。
「ベラルーダの方ではお前を宮廷魔術師長として引き取るつもりなのだろう。心配せずとも、お前の実力なら十分にこなせる」
 だが、ベラルーダ王が――いや、ラウルフィカ王子が少しでも魔術師というものに対して興味を持ち、もっと優秀な魔術師を必要とすればそれこそ代わりはいくらでもいる。界律師はいなくとも、第七階梯の魔術師、それどころか第六階梯の魔術師にすらザッハールは敵わないのだ。彼は所詮第五階梯。学院で学ばずとも神殿の司祭が聖職者としての奉仕活動の傍らで得た治癒魔術が第四、第五階梯程度に達することを考えれば、なんとも中途半端な位置だ。
 魔術師の実力に関しては、一口で計ることはできない。術の相性というものもあるし、それこそ多岐にわたる魔術の分野のどれをどこまで伸ばしていくかという問題もある。
 ザッハールの強みはほぼすべての分野で平均的に第五階梯まで修めた秀才型の魔術師であるということだ。単発で大きな術を使うには向いていないが、その代わり二、三分野にまたがる高度な複合魔術が使える。
 火を出して大地を焼き払ったり水をうねらせて津波を作るような、これぞ魔術と言った大技にはまったく向いていない。しかし、生き物の精神を乗っ取り勝手に身体を使うような傀儡の術、遠く離れた相手と会話を交わす伝心の術など、威力は弱いが応用力が必要な術を得手とする。
 界律師の教官、及び天才シファ少年辺りに言わせれば、これらの能力はかなり「界律」に近いのだという。ザッハールは期待されていた。魔力量も決して少なくはないのだし、一線を越えれば恐らく界律師になれるだろうと――。しかし結局、ザッハールが人としての限界を突破することはなかった。
 もしも必要ないと、いらないと、言われてしまったら。
 そうしたら……どうすればいいのだろう。
 第五階梯の魔術師なら、それこそどこででも生きていけるし、出世できる。けれどザッハールは喜ぶことはできなかった。彼はベラルーダの宮廷魔術師に、ラウルフィカ王子の魔術師になりたいのだ。
 不安を抱えたまま学院を十八で卒業し、ザッハールは再びベラルーダへと戻った。

5.

 例え実力が伴わずとも、みすみすその座を誰かに渡すのは許せない。
 期待されていたよりは実力がないと言われて一度は落ち込んだザッハールだが、そのまま諦めるわけにはいかなかった。ベラルーダに戻り遠目に成長したラウルフィカ王子の姿を見ると、もはやたまらなくなった。ラウルフィカが成人するまでになんとか宮廷魔術師長の座につくことを考える。
 ザッハールが選んだのは、自分以外の人間の力を借りることだった。エトラ学院で某国大臣の息子であるアリオスと出会って知ったことだが、世の中には恐ろしいくらい巧みに相手の才能を見抜き利用することができる人間がいる。そういった人間に認められれば、ザッハールの中途半端な力も使い道があるに違いない。
 そして彼が手を組んだのは、将来の宰相と呼ばれているゾルタだった。
「ふん……なるほどな」
 実力を示さなくてはならないザッハールとは違い、将来ほぼ確実にラウルフィカの宰相となることが決まっている世襲宰相家の子息は、ザッハールの話を興味深そうに聞いていた。
「面白いぞ。ザッハールと言ったか。魔術師なんぞ書物を恋人にして俗世の欲など無縁の顔をした生き物だと思っていたが……そういうことなら、協力してやろう」
 この頃からすでに腹黒い企みの数々を行っていたゾルタにとって、ザッハールの能力は有用だった。ザッハールとしても、貴族の後ろ盾は見つけねばならなかった。王国に売られた魔術師の子どもたちは、国が人身売買を公然と行うわけにもいかないので皆表向きどこかの貴族の養子となる。
 そしてザッハールはゾルタに協力する見返りに、宮廷魔術師長になれるようゾルタに口を添えてもらった。そういった関係がザッハールとゾルタの間にはすでにできあがっていた。
 宮廷に出入りするようになれば、またこれまでとは違った人間関係ができる。ゾルタの他にも、ザッハールは様々な人間と交流した。ゾルタとは古い付き合いだというナブラの企みにも協力させられたし、時折国一番の商人だというパルシャなども顔を出した。
 魔術師と戦士は相容れない生き物だなどと言われることもあるが、ミレアスとは貴族的な気取った態度をとらない者同士ということで気があった。もっとも単に元から孤児であって宮廷の礼儀作法が身についていないだけのザッハールと、それなりにいい家柄の出でありながら粗野で知られる変わり者のミレアスとは少しばかり事情が違ったが。
 ついでに言えば気が合うからといって常に仲良しこよしだったわけではなく、やはり随分喧嘩などもしたのだが。
「で、お前の憧れの王子様はどうだったって?」
「ああ……忘れられてた」
「だろうな」
 ゾルタについて宮廷を歩くうち、何度かラウルフィカ王子と顔を合わせる機会も合った。しかし五年前にたどたどしくザッハールを呼んだ少年は、ものの見事に彼のことを忘れ去っていた。ザッハールはまたしばらく落ち込んだ。
「五歳児の記憶に、んな大層な期待をしてんじゃねぇよ」
「そういえば俺、陛下に連れられて王宮を歩いた時にお前らしい赤毛を見た気がするんだが」
「ああ? んなの覚えてねぇよ」
 ザッハールが十三歳のその頃十六歳だったはずのミレアスはあっさりとそう言い放った。
「で、いけそうなのかよ。宮廷魔術師長は」
「ああ、なんとかな」
 ゾルタの見事な手腕と言うべきか、たまたま両者の能力がかみ合ったのか、ザッハールは自分で考えていたよりも随分早く、宮廷の魔術師たちの中で頭角を現した。ラウルフィカの成人にも余裕で間に合うどころか、その頃には盤石の地位を築けるだろう勢いだ。
 しかしその予想は彼にとってはいい意味で、そしてラウルフィカにとっては人生最大の不幸により外れることとなった。
 ザッハールが宮廷魔術師長の地位を得て間もなくの頃、不慮の「事故」により国王が亡くなり、ラウルフィカ王子は成人までまだ五年もある僅か十三歳での即位を余儀なくされたのだ。

6.

「ってなわけで、俺は孤児から魔術師になったんです」
「そう」
 これまでの経緯と言おうか、ザッハールの半生を事後の睦言代わりに聞いたラウルフィカの反応は薄い。
「そう、て。それだけですか? 俺がこんなにも陛下への深い愛を示しているのにー」
「私が物心もつく前の子どもだった頃に顔を合わせて、その頃から勝手に人を目標にしていたことが?」
 取引を持ちかけた当初からラウルフィカを好きと公言してはばからないザッハールに、ラウルフィカはどこか冷めた目を向ける。常識的とは間違っても言えない関係の始め方をしたラウルフィカにとっては、ザッハールはこちらが可愛がってもいないのに一方的に懐いて来る大型犬のようなものなのだろう。完全に無碍にはしないが、基本的に鬱陶しいというような。
 そんな予想にたがわず、次のラウルフィカの一言は大層辛辣だった。
「はっきり言って、気色悪い」
 はっきり言い過ぎです陛下。
「陛下、繊細な我が心が血を流しているんですが……」
 ザッハールは胸を押さえてよよと泣き崩れる真似をした。実際泣きたい気分であるが、ここで泣いてもどうにもならないので代わりに腕の中のラウルフィカをぎゅっと抱きしめた。
 案の定鬱陶しいだの暑苦しいだの文句が出るが、ラウルフィカが無理にザッハールから離れようとすることはない。単純に面倒くさいのでそのまま枕代わりにされているだけかもしれないが。
 ザッハールにとって今のこの状況は夢のようだ。小国とはいえ、仮にも一国の主であるベラルーダ王が彼の腕の中にいるのだから。ラウルフィカが王になるということを、昔のザッハールは特に深く考えていなかった。ただ、ラウルフィカが大きくなる頃には自分がその傍にいたいと思っただけで。
 彼があの時見た可愛らしい子どもはあどけない少年時代を過ぎて、類稀なる美しさを誇る青年へと成長しようとしている。
 野心の始まりは本当にあの時だったのだろうか。ラウルフィカ王子の傍に行きたいと思ったことは事実。しかしあの頃はまだ、それがこんな形で果たされるようになるとは夢にも思っていなかった。ただ傍で――ラウルフィカを見ていられれば幸せだったのだ。
 それが触れたい、口付けて、その華奢な身体を抱きたいと思う欲望に変質していったのは本当に自然な流れだったのだろうか?
 ゾルタから企みを聞かされた時、他四人の行動を自分一人では抑止できないと考えたザッハールはゾルタに取り入ることにした。そこには確かに、そうしてラウルフィカにもっと近付けるという黒い計算が存在した。
 現状でラウルフィカの唯一の味方と言っていいザッハールだが、誰よりも大事な相手に信用されていないのは仕方のないことだった。好きだ好きだと口にしながら、そこにあるものはラウルフィカが求め、理解できるような純粋な想いではなく、もっとどろどろとした醜いものなのだから。
 だから――その結末は当然のことだったのかもしれない。

7.

 美しい花に棘があるように、燃え盛る炎に触れれば手が焼けるように、近付いてはならないものに近付き過ぎた者には当然の罰が下される。
 ラウルフィカがアラーネアを連れ帰ってきた時、ザッハールはもう潮時なのだろうなと感じていた。プグナの王妃が優秀な魔術師だと大昔に聞かされたことをザッハールはこれまですっかり忘れていたが、今回の戦いで自分の術を彼女に破られた時に、その実力は彼には太刀打ちできないものなのだと充分に痛感した。
 そんな優秀な魔術師を手に入れて、ラウルフィカが決して好きで傍に置くようになったわけでもないザッハールをそのままにしておくわけがない。
 腹に埋まる刃の冷たい感触と共にザッハールはそれを実感した。
「は……はは」
 視界がかすみがかるのを感じながら力なく笑う。
「やっぱり……赦してはくれないんですね。ミレアスもナブラ卿も死んだんだから……当然かぁ」
 ラウルフィカは凍りついたように無表情なままこちらを見つめてくる。こんな時だというのに、返り血で頬を濡らしたその姿でさえ美しいなと彼は思った。
「でも……仕方ないな……離れりゃ良かったのに……俺が、傍にいたかったから……」
 これは当然の罰なのだ。ラウルフィカを見ているだけで幸せだったのに、近付き過ぎたザッハール自身への。出会いとは言わないが、この関係の始まりがもっと違うものであったなら、永遠に肌を重ねることはなかったろうが、少なくともこんな終わり方を迎えることだけはなかったに違いない。
「私はお前を憎んでいた」
 ラウルフィカは静かに口を開いた。
「私はあの時に死んでしまいたかったのに、お前が私をこの世界に引きとめた。お前が私の一番近くで私を支え続けた。汚濁に塗れてでも生きていろと、私を縛った」
 何故か泣きそうな声だとザッハールは感じた。だけどそれはおかしい。ラウルフィカが自分を殺すのに、彼の方が悲しそうだなんて、そんな話はない。それでも。
「お前は永遠に、私のものにはならないんだ」
「は……そりゃ逆でしょ……陛下こそ……俺の物には……」
 なってくれないくせに、と。恨みがましく囁いた。
「ラウルフィカ……」
 それでも、愛していた。愛してた。
 彼が自分を受け入れながらも心の奥底でまだ赦していないことも知っていた。求めながらも拒絶され、本音の裏には後ろ暗い想いがあり、けれどラウルフィカにとって、自分といる時間がほんの少しでも安らぎになればザッハールはそれでよかった。
 傷つくほど近付きすぎてでも、傍に行きたかったのだ。
 だが今、彼は離れていく。白い踵が踵を返して、血溜まりの中に倒れ伏す彼から離れ行くのをザッハールは黙って見ているしかなかった。
 否、もう見ているとも言えない。視界は半分以上黒く霞がかっている。
 行かないで、と一言言えればどんなに幸せか。
 行かないで。もうそれ以上は何も望まないから。
「……面白いね」
 急に、耳に聞こえるというより直接頭の中に響いたその声は、ラウルフィカよりもっと歳若い少年のもののようだった。
 刺された腹部の痛みを感じない。しかし、傷が癒えたわけではなさそうだ。生と死の狭間、罪深い人間が死後赴くという永遠の夜の国で、ザッハールはその声を聞いた。
「君は、面白いよ」
 皮肉なことだ。その存在の目に触れるのをあれだけ望んだ学院時代には見向きもされなかったのに、今、こうして人生が終わるはずのほんの隙間にその姿を現すなんて。
「辰砂、創造の魔術師……」
「当たり」
 見た目は白に近い銀髪の、十四、五の少年だ。ザッハールには馴染みがなければ理解もできない西国の奇抜な衣装を身にまとっている。
 かつてこの世界を創り上げた創造神に反逆したという最強にして最悪の魔術師は、その永い不死の生命を、いかに退屈を紛らわすかに懸けているらしい。それは魔術を学んだ者たちの間でまことしやかに伝わる伝説だ。創造の魔術師の目に留まれば、全てが手に入ると。
 どうやらザッハールは、その彼の目に留まったようだ。――退屈しのぎとして。
「君はどうやら“界律”に近しい存在のようだ。だから、少し手を貸してあげる」
 一方的にそうやって助力を貸し付けてきた相手は、ザッハールの傷を癒してベラルーダ宮廷から連れ去る。
 経緯はどうであれ、結局ザッハールはその手を取った。あのままラウルフィカに殺されるならそれでも良かったけれど、できるならもう一度生きて言葉を交わしたかったから。

 後悔はしていない。だが時折複雑な気分になる。
「あのリューシャ王子ってのは、そんなに重要な人物なのか?」
「ああ。何せかつてこの僕と引きわけたくらいだからね」
 創造の魔術師に三年ほど雑用係として引きずりまわされたザッハールは、そうして二度目の運命と出会う。
 彼の愛するラウルフィカ王と、ラウルフィカを利用するレネシャとスワド。ナブラとミレアス、そしてパルシャは死に、ザッハールはこうして姿を消したが、ラウルフィカの人生にはまだまだ苦難が付き物のようだ。プグナ王女を共犯にラウルフィカを再び引きずり落とそうとするゾルタの企みはレネシャとスワドの暗躍で事なきを得たようだが、ゾルタより彼らがマシだとは間違っても言いきれない。
 そんな中、ラウルフィカが出向いているシャルカント南東帝国で起きたごたごたの渦中で、彼は一人の少年と出会った。
 薄紅色の髪に空色の瞳の、妖精のように可憐な少年だ。なんでも黄の大陸に存在するベラルーダとはおよそ世界の反対側と言ってもいい青の大陸アレスヴァルド王国からやってきたという、世継ぎの王子らしい。
 詳しいことは知らないが、創造の魔術師・辰砂はそのリューシャ王子とやらを大層気にしている。そして王子の傍には今、ラウルフィカがいるのだ。スワド帝がリューシャ王子に対して何事かを企むようであれば、自然とラウルフィカも巻き込まれることになるだろう。
 そんな事情を知れば、ザッハールとしては手を出さないわけには行かなくなる。
「ラウルフィカ」
 かつて愛した人――今でも愛している遠い人の名を呟いて、ザッハールは月と星の天蓋に身をさらす。魔術師の里は常に快適だけれど、今は砂漠の熱い風が懐かしい。
 早くラウルフィカに会いたい。この次こそ、刺し殺されても構わないから。
「馬鹿は死んでも治らないというけど、君のベラルーダ王好きも結局治らなかったよね」
 最強魔術師の呆れ声も微笑んで聞く。馬鹿で結構。愛する者に殺されるなら本望だ。
 彼の眼はすでに遠い砂漠の地を向いていた。

 了.もしくは「Fastnacht」に続く