劫火の螺旋 SS

彷徨う剣

 ベラルーダ国王の寝室で明かりが落とされる。ラウルフィカは寝台に浅く腰かけながら、ここまで自分を護衛してきた騎士にやわらかく声をかけた。
「御苦労だったな。今日はもうこのくらいで休む」
「おやすみなさいませ、陛下」
 寝台の横に跪き、ラウルフィカが瞼を閉じるまで見守っていた騎士の名はカシム・レガイン。つい三日ほど前に、国王付きの護衛騎士になったばかりの青年だ。
 彼は主の就寝を見届けると、そっと気配を殺して部屋の外に出た。
 カシムの知る限り、今日これからのラウルフィカの予定は何もない。複雑な立場にいる国王は真夜中であっても宰相やとある貴族の呼び出しで部屋を抜け出すことが多いのだが、今夜においてはその限りではないらしい。寝台に入る時も身構えることなく、落ち着いて眠りに入った様子からわかる。
 騎士としてカシムがラウルフィカの傍近くに侍るようになったのは、その準備期間も含めてここ数日だ。その短い間ですら、ラウルフィカは真夜中の宰相からの呼び出しに、顔を顰めながらも部屋を抜け出したり、自室に彼を迎え入れたりしていた。今日はその様子がなく、カシムは一安心した。
 いくらなんでもそう連日では、ラウルフィカの体力がもたない。カシムは主を守るのには短すぎる己の手の無力さを思いながら、その足を王宮内のとある一角へと向けた。

 ◆◆◆◆◆

「よぉ、カシム卿。どうした、こんな時間に?」
 相変わらず怪しいものに埋もれた部屋で、ザッハールが気さくな調子でカシムを出迎えた。彼の手元にはすでに栓を開けられた瓶があり、一人で酒盛りの最中だったことがわかる。すでに何杯か開けているようだが、ザッハールの顔色に変わった様子はないのが恐ろしい。
「あんたもどうだ?」
「いや、遠慮しておく。仕事の付き合いでもないのに、騎士が宿酔いなど洒落にならない」
「これも仕事の付き合いだと思うがねぇ……ま、いいさ。それなら茶でも出すよ」
 怪しいものに埋もれている割に水回りは清潔感の漂う様子に若干ほっとしながら、カシムはありがたく杯を受け取った。
 宮廷魔術師長ザッハールの住む一角は特別で、城中の魔術師たちが集うその建物は王宮の他の区画とは何もかもが違っている。
 国内の魔術師の頂点という大層な肩書きとは裏腹に、ザッハール自身は気さくな青年だ。カシムより二歳ほど年上で、宮廷魔術師長の地位についたのももう何年も前。有能なはずだが、それらしい威厳はあまり感じさせない。
 それは彼自身の性格でもあるし、彼がその地位についたのが後ろ暗いツテとコネのためだという事情もある。
 孤児であったザッハールは、もともとこの国では珍しい魔術の才を見込まれて貴族に教育された。そこから国内の中枢に入り込み現宰相ゾルタと繋がりを持ち、とある計画に手を貸した。決して実力に不足があるわけではないが、並み居る競争相手を押しのけて宮廷魔術師長という地位を手に入れたのは、そうした策略のおかげもある。
 とはいえ、カシム自身人の地位にどうのこうの言える立場ではない。決して譲れないもののためと言えば聞こえはいいが、国王の騎士という地位を手に入れるために他でもないザッハールに不正を依頼したのはカシム自身だ。
「先日のこと、感謝する」
「改めて口に出すなよ。誰かに聞かれたら困るぜ」
「ああ。だが、もともと最初からあなたのおかげだ。あの時私があの場所を通りがかった――それが仕組まれたものであっても」
 ぴくり、と一瞬ザッハールの手が止まった。しかし次の瞬間には何事もなかったかのように、酒の入った杯を傾ける。
 カシムは尋ねた。
「ザッハール卿。あなたは陛下の味方なのか?」
「宮廷魔術師長は国王陛下の味方さ。それがお役目だからね」
「では、“ザッハール”としてはどうなのだ。あなた自身として、“ラウルフィカ”様にどういった想いを抱いている」
「おいおい、そんな直截な聞き方はやめてくれよ。照れるぜ」
「真面目な話だ」
「それで? 俺があんたの意に沿わない答を口にしたら斬り捨てるのかい? 国王の騎士」
 硝子の杯が涼やかな音を立てる。ザッハールが盃を卓の上に置いたのだ。
「……私にはわからない。どうしてあなたは、あんな今にも壊れそうな陛下を黙って見ていることができるのか、これまでそうしていられたのか」
 それはカシムがラウルフィカの隠された秘密に触れてしまってから、ずっと考え続けてきたことだった。表立って彼を守る護衛騎士は確かにこれまで不在だったが、その代わりカシムが知る限り、いつもラウルフィカの傍にはザッハールが控えていた。
「陛下から全ては聞かなかったのか? 俺は、最初から裏切り者なんだよ。陛下を裏切り、今はゾルタたちも裏切ってる。ただそれだけの、卑怯な男さ」
「それだけではないだろう」
 断言するカシムの強い口調に、視線をどこか遠くに彷徨わせていたザッハールが顔を上げる。
「あなたは陛下を愛している。……なのに何故、あの方を守って差し上げなかった」
 カシムの問いに、ザッハールは皮肉げな、それでいて今にも消えてしまいそうな儚い笑みを返した。
「守るって、どうやって?」
「だから、宰相たちから」
「ゾルタたちの存在を退けて、そうして一人で玉座に取り残されてまた別の貴族に傀儡にされるあの人を見ていることか? それとも、あの人を追い落として自分が王になろうという不届き者を放置することか? それとも――」
「ザッハール卿」
「俺は俺自身の力では、何一つあの人の役に立ってやれない。だいたい、五年前は陛下と俺に面識はほとんどなかったよ。わからないんだ。カシム。俺には、わからないんだよ」
 守るってことが――。
 自らを嘲笑うように告げられた言葉に、そういえばこの人は孤児だったのだとカシムは思い出した。

 ◆◆◆◆◆

 無垢な愛情は、どうしてこうも簡単に下賤な欲望に変わってしまうのだろう。
 穢れのないものを、自らの手で穢すことに喜びを感じてしまうのはどうしてなのだろう。
「陛下」
 触れたくて触れたくて、けれど自分に、そんな資格があるはずもないと否定して。
 しかしその否定の裏で、理性の裏で抑圧されてきたものを、あの美しい金髪の少年が鮮やかに暴き出した。
 そうしてカシムの手元には、罪が残った。
 はじめはただ純粋な忠誠と敬意だったのに、いつの間に自分の心はこんなにも穢れてしまったのだろう。その捩じれ、歪んだ欲望に、ついには誰よりも大切な人まで巻き込んだ。
 人形のように表情を失った青年の唇に、自らのそれを重ね合わせる。柔らかな感触はカシムを恍惚へと誘うが、甘い夢想は彼の胸を弱々しく押し返す腕によって、すぐに打ち破られた。
「陛下……」
 背を向ける彼の首筋にさらりと音を立てて流れた黒髪。カシムはその細い身体を背後から抱きしめた。ぎくりと一瞬強張った肩から、やがて諦めたように力が抜けていく。
 ラウルフィカはカシムにその身を委ねることは許したが、恋人のように振る舞うことは許さなかった。明らかな非難を口に出されたわけではない。しかし、青ざめたその顔を見れば言葉よりも雄弁だ。
 かつて彼の高潔な仮面に騙されて、明らかに嘘をつかれていた時の半分も、今のラウルフィカはカシムに本心を見せてくれない。
 かつて神々しいとさえ感じた美貌にも力はなく、人の退廃的な欲望ばかりを煽る。
 それほどまでに二度目の「裏切り」が彼にもたらしたものが大きかったのか?
 否、それは違うということぐらいは、カシムにもわかっていた。
 かつてのラウルフィカにとっては、レネシャもカシムもスワド帝すらも道具に過ぎなかった。出し抜かれたことを屈辱と感じても、それだけで折れてしまうはずがない。
 ラウルフィカの心を真に打ち砕いたのは、今ここにいない銀髪の青年の存在だ。
 彼がラウルフィカ自身の手で王宮から姿を消した時点で、ラウルフィカの精神はすでにぎりぎりだったのだ。その機会を逃すことなく行動したレネシャの狡猾さにカシムは便乗し、ラウルフィカは抵抗する気力さえなくした。そういう状況だ。
 腕の中の美しい人の温もりに胸が高鳴ると同時に痛めながら、かつて自分があの銀髪の青年に問いかけた言葉を思う。
 何故、あの方を守って差し上げなかった。
 違う、彼はすでに守っていたのだ。ただラウルフィカの傍にいるだけで、あの青年は若き王の支えとなっていた。
 たとえ同じように裏切りから始まった関係であっても、自分にその代わりは務まらない。そのことをカシムは思い知った。
「ラウルフィカ陛下」
 虚ろな碧い瞳を伏せる主君の足元に跪き、カシムは深く首を垂れる。
「お慕いしております」
 愛している。愛している。だけれど、どう愛していいのかわからない。どうすればその身も心も守れるのかすらわからない。
 かつて自分が魔術師を責めた問いが、今は全て自身に跳ねかえる。この世の全てから傷つけぬよう守るやり方なんて、カシム自身にだってわからない。
 わかっているのは、いずれ自分のこの位置も誰かにとって代わられるだろうというそれだけ。不当な手段で得た立場はやはり、いつか必ず他の者に同じ不当な手段で奪われることだろう。
 あるいは今度こそ正しくラウルフィカを守り、導く者が現れて、彼をこの銀の月もない闇から救ってくれるだろうか。
 ならばせめてそれまでは、心が無理でも肉体だけは自分が守ろう。
 向ける先を迷い続ける剣は、それでも彼の生涯ただ一人の主へ、永遠の忠誠を誓うのだった。

 了.