夢のまにまに
夢を見た。空を飛ぶ、夢を。
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「あんな人、もう知りませんわ」
屋敷の中で女は呟いた。着き従う従者はそれを聞き、この方がそもそも夫を気にしたことなどあっただろうかと内心で首を傾げた。
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ベラルーダ貴族ナブラは、牢獄の中で狂気に蝕まれながら半生を回想する。
名門貴族の嫡子として誕生した彼は、生まれながらに栄誉を約束されたも同然だった。ただでさえ高い素養を持ち、英才教育を受け、周囲の期待に違わぬ有能さを発揮した。恵まれた美貌で社交界きっての美女と結婚し、若き王や側近の宰相からも信頼を受ける。
けれどそれは、全て表向きの上っ面だ。
脆い砂の城は崩れ、これまで築き上げた栄光が消え去った今、冷たく錆の臭いを放つ鉄格子を握りしめ、彼はきつく歯噛みする。
「何故だ。何故なんだ……ラウルフィカ!」
王の名を口にする彼の半狂乱の醜態に外の看守が顔を顰めた。王に会わせろというナブラの要求はこれまで無視され続けている。看守たちには罪人にして狂人の戯言など聞く必要はないと、宰相ゾルタ直々の達しがあったらしい。
何故、一体どうしてこんなことになってしまったのか。
自分は一体どこで道を間違えたのか。
生まれながらに栄誉を約束された存在だった。優れた能力を持ち至高の座にやすやすと近づけるほどの権力を手に入れ、周囲の羨望を集める結婚をし。
暗雲の影もなかった人生は、いつの間にか歪に捩じれた。
きっかけはなんだったのだろうか。
刻一刻と削れいく正気の狭間で、彼は夢を見る。
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昔、というほどでもない何年か前。
その頃はまだ国王夫妻が健在で、この王国が揺らぐことなど、まだ若いナブラには想像もできなかった。
理想に燃える青年貴族であったナブラは、社交界でこそ浮名を流していたものの、政治家としては真面目な部類であった。同じ青年貴族としてすでに未来の宰相として王宮で実績を積んでいたゾルタとよく顔を合わせてはこの国の未来について熱い議論を交わしていた。
王宮の中庭を通りがかると、子どもの笑い声がする。
国王の腕に抱かれ、愛らしい少年が笑顔を浮かべていた。それを横目に見つつ、またもゾルタと言葉を交わしながら廊下を過ぎる。新兵たちが騒ぎ、魔術師見習いがうろうろしている横を過ぎる自らの歩みに迷いはない。
そうだ、あの頃は自分の行動に、迷いなどなかった。
自分の力の全てを、国のために使うことに異論などあろうはずもない。
恵まれた容姿に優れた能力。順風満帆の人生に陰りが差したのはいつ頃だったか。
これほど国に対して尽くしたのだから、その分の報酬をもらってもいいだろうと、傲慢にも思い始めたのは。
ミレアスやパルシャ、ザッハールはいくら力をつけたとは言っても、彼ら単体ではこの国を掌握するには足らない。それができるのは宰相であるゾルタか、彼に近しい大貴族の自分ぐらいのものだと思いあがった。
ナブラは自分の立場にそれなりの満足感を得ていたが、宰相補佐のゾルタはそうではなかったようだ。野心に燃える男は、国王夫妻の悲劇を踏み台に若すぎる国王へと近づくことを他の四人に提案した。
ラウルフィカ個人に対してしたことはともかく、それは当時の王国としては必要なことでもあった。いくら世継ぎの王子として教育を受けてはいてもまだ十三歳の少年が突然父王を亡くしていきなり完璧な国王になれるはずもない。王太子のラウルフィカが一人前となるまでは、それぞの分野で彼を支える人間が必要だった。
しかしゾルタは王太子の心に付け込むぐらいでは生温いとラウルフィカの弱味を握り脅迫する手段を選んだ。
そしてナブラも、それを面白いと感じた。一時的な国王の不在と華奢で美しい少年王の不安定さに、自分がその上の立場になる欲を植え付けられた。
本人とって不幸なことに、ラウルフィカは彼らの助け手なしに一人で国を運営できると思いあがるような愚か者ではなかった。それがより一層少年王の苦悩を深くすると理解してはいても、ナブラはその弱味に付け込むことを選んだ。
後は、罪に溺れて堕ちていくだけだ。
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何もかもが上手くいっていないと感じられるようになったのは、その数年後だった。
まず、破綻をきたしたのは結婚生活だった。
社交界でナブラと同じく浮名を流していた美女は、恋人としては良くても妻としてナブラが迎えるには相応しくない女性だった。彼女は王宮に勤める貴族の中でも有数の立場になった夫を喜ぶこともなく、仕事に忙殺される彼が自分を見てくれないと不満ばかりを口にする。
王国の最高権力者を手中にした代償に、ナブラはこれまで自分が見ることのなかった世界まで知り尽くす羽目になった。それが無理とも不可能とも言わないが、結果的に心身にかかる負担が増したのは確かだ。同じように執務の増えたゾルタが、何故あんな平然としていられるのかわからない。
泣き言を言うのは彼の趣味ではなく、また、今更裏切ればあとの四人に殺される。ナブラ自身一度手に入れた栄光を手放すつもりもなく、黙々と仕事を消化する日々が続く。
屋敷に戻るたびにうるさい妻の顔を見るのが煩わしく、ナブラは連日王宮で政務に没頭した。負担は大きくとも、仕事自体は嫌いではない。若い頃は自らの手でこの国をよりよくしようと意気込んでいたくらいだ。公私の生活のバランスが取れていれば、今の立場に何ら不満はないはずだった。
しかし現実はそうではなく、一時の癒しを求めようにも屋敷では妻のせいでくつろぐことはできない。かといって結婚のときにあれほど騒がれた相手と離婚するにも体裁が悪く、夫婦の中は険悪なまま書類上の関係を続けていた。
本来大貴族の当主であれば、妻を相手にせずとも愛人の一人二人囲うのは容易い。だが彼の妻は嫉妬深く、自分がナブラに歩み寄る気配も見せないくせに、夫の女関係にはこれでもかと口を出す。妻の立場から言えば当然かも知れないが、ナブラは自分にまるで自由を許さない妻の行動に疲れ切っていた。
そんなナブラの目に留まったのが、それまでも幾度も定期的に肌を重ねていた少年だった。
かつては少年王と呼ばれていたラウルフィカも、成長するにつれてみるみるその才覚を現していく。ゾルタは表向きラウルフィカを献身的に支える宰相を演じていたため彼の手から執務の全てを取り上げるような真似はしない。元来生真面目なラウルフィカが成長してまで宰相に仕事をまかせきりにするはずもなく、段々と国王自身が執務をこなす量は増えて行った。
閨で時間を持て余しながら、ナブラがほんの愚痴とも言えぬ愚痴を口にする。それにさらりと相槌を打つラウルフィカに、ナブラはいつしか興味の範疇を超え、本気で惹かれていったのだ。
仕事の話を持ち込むことを嫌う妻と違い、ラウルフィカはナブラの愚痴めいた言葉も嫌がらずに聞いてくれる。ゾルタの調教により従順ではあったが、その眼には牙持つ獣の鋭さを隠し持っている。
ミレアスに甚振られた生々しい傷口を晒して自分に大人しく抱かれるラウルフィカに対し、それまでにない感情がこみ上げた。一度気づいてしまえば、その心地良さに浸るのは容易かった。
ナブラはラウルフィカに溺れ、いつしか彼との時間こそを何よりも大切にするようになっていた。
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夢を見る。
夢の中で彼は王城を自由に飛び回っていた。涼やかな風をその身に感じる。
窓からそっと入り込んだ一つの部屋の中で、愛しい面影がほんの少しだけ寂しそうに笑う。
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「愛していると言ってくれ」
思えば、何故あんなにも強くその言葉を望んだのだろう。
妻にそのように求めたことはない。結婚前はもとより夫婦となってからも。
口先だけなら何とでも言える。いくらでも取り繕える。だから言葉に意味なんてないと思っていたのだ。
恋愛はまるでゲームのように面白かった。整った容姿と貴族の身分があれば甘い言葉を囁くだけで簡単に幾人もの女性と肌を交わすことができた。
それ自体が目的だった日々は、だからその行為の虚しさに気づくことはなかったのだ。自分がやっていることのその先に、何もないことに気づかなかった。
皮肉にもそれを教えてくれたのは、本当に欲しいものを与えてくれない妻の存在だった。彼女は夫に対し常に自分に関心がないと文句を言うが、それはこちらの台詞でもある。
私はただ、私に対しての関心を示して欲しかったのだ。
深い理解でなくていい、完全な把握でなくていい。私がどれだけ真剣に物事に向かっているか、その一欠けらをわかってくれるだけでいい。
私はただ。
――まぁ、それはそうだな。
ただ、そうして頷いて欲しかっただけだ。こちらの言葉に耳を傾けて、一言小さく頷いてくれれば、それだけで満足だったのだ。けれどその願いを叶えてくれたのは、妻ではなく、そのつもりもなかっただろう若き王一人。
「……ラウルフィカ、愛している」
そして今はまた愚かにもその先を――彼からの愛情を欲している。
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「あんな人、もう知りませんわ」
謁見の間で女は呟いた。段上の若き王がそれを聞き、お前はそもそも夫を気にしたことなどなかったのではないかと内心で溜息をついた。
◆◆◆◆◆
公爵領から知らせが届いたのはラウルフィカが婚儀を上げる数日前だ。
「ナブラが死んだそうです」
「……そうか」
皇帝への不敬から自領地への蟄居を命じられていたナブラが、かねてより不仲だった妻に斬りかかって殺したあげく、自らの城に火を付けて炎の中で笑いながら狂死したという知らせを受けた、その日のこと。
ラウルフィカが自室で数日後には妻となる女性と寛いでいると、一羽の蝶が、窓から室内に彷徨い込んだ。
まるで作り物のように見事な真っ白い蝶だ。
「あら、蝶ですか。珍しいですわね」
「そうですか? この時期にはそれほど珍しいものでもないと思いますが」
「白い蝶は、人の魂の化身だと言いますのよ」
宮廷魔術師長より優れた魔術師である元隣国の王妃は、控えめに微笑む。
「どなたか親しい方が、最期に会いにでもいらっしゃったのかしら」
「私に?」
「ええ」
それから彼女はラウルフィカの内心を慮るように、少し用ができたと言って部屋を辞した。
一人きりになった室内で、ひらひらと舞う蝶にラウルフィカがすっと指を差し出すと、まるであらかじめそう望んでいたかのように蝶はその指先に留まった。
ラウルフィカが窓辺に向かうと、蝶はするりと指先すり抜けて部屋の奥へはいりこむ。鳥のいない鳥籠に自ら飛び込んだその蝶に、ラウルフィカはもう一度指を差し出した。
「おいで」
蝶は大人しく彼の指に留まる。
ラウルフィカは窓の外で軽く指を振って蝶を外へと押し出した。
「そしてお行き。お前はもう、この世のどんな柵や体裁とも無縁になったのだから」
白い蝶が遥かな空へと飛んでいく。
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夢を見た。
魂だけでも、あの人に会いに行く。
そんな、永遠の夢を見た――。
了.