劫火の螺旋 03

16.騎士

 ラウルフィカはカシムからマントを借りるとそれで身体を隠すように羽織り、宮殿内の私室へと戻った。
 この状態の国王を一人放置するわけにもいかず、カシムもその共をする。これまでそのような場面がなく近付いたこともなかった王の寝室には、ちゃんと警護の兵士がいた。
 だが、様子がおかしい。彼らは主のいない寝室を守り、ラウルフィカが外から戻っても取り乱す様子を見せるどころか、声一つかけない。
 確か国王の身辺を警護する役目の兵士をまとめているのは、軍部ではなく宰相のゾルタだった。同じ兵士としての衣装を身にまとってはいるが、見慣れない顔の彼らを不審に思いながら通り過ぎ、カシムは招かれるままラウルフィカの寝室へと入る。
「ここまでありがとう」
 傅かれるのが当然の貴人としては珍しく、ラウルフィカはカシムにそう声をかける。
「マントを返すのは今度でいいか? なんなら代わりができあがるまで仕事を休んでもらっても構わないが」
「いえ……代わりはありますから」
 大将クラスになるとマントの布地一つとっても高価なものだ。しかしカシムにもそのくらいの財力はある。
「もう……充分だ。帰って休んでいいぞ」
「は。……あ、いえ。そのっ」
 ラウルフィカの言葉に反射的に頷いてしまったカシムだったが、次の瞬間にはそれを取り消した。ここで何事もなかったように宿舎に戻るには、彼は今宵余計なことを知り過ぎた。
「あー……医師を呼んでもよろしいでしょうか」
「いや、それには及ばない。――ザッハール」
 いつの間にか、軍人のカシムにも気配を気づかせることなく、銀髪の男が部屋の隅に現れていた。
 それは彼に、練兵場へ行くようにと事付けた宮廷魔術師長だ。
「治療ならこれに任せる。だが……お前はまだすんなりと戻れそうにはない顔だな」
 ラウルフィカが困ったように苦笑した。その首元に痛々しい赤い手形が見えている。
「その顔は、事情を聞きたいという顔だ。少し待たせるが、それでも良いのなら話そう。とりあえず、治療をして身体を洗いたいんだ」

 ◆◆◆◆◆

 誘導は功を奏し、大将カシムは真夜中の練兵場でミレアスに抱かれているラウルフィカを目撃することとなった。そしてその後も素知らぬ顔で立ち去ることができず、王の寝室にまでついてきて、話を聞こうとしている。
 浴室で身体を洗いながら、ラウルフィカは口元を緩めた。あの軍人の素直なこと。危機感がないと言うべきか、それとも根が純粋で真面目だと評してやるべきか。
 恐らく危険を察知する能力に優れた者ならば、厄介な事情には関わりたくないと踵を返したことだろう。もしくは腹黒い狸ならば、この秘密を握って自分も甘い汁を吸おうと脅迫してきたか。
 カシムはそのどれでもなく、ラウルフィカの事情を自分の知れる範囲で知って、真剣に王の力になるためにこの部屋に残った。ここまではラウルフィカの目論見通り。
 ああいう状況を見てしまった以上、ラウルフィカに対して何も感じずともカシムの性格上国王を救わんと勝手に奔走してくれるだろう。だが彼を効果的に動かそうと思えば、それ以上を求める必要がある。
 カシムがラウルフィカを唯一無二の主君と認めれば、主の境遇を改善するために、こちらが口に出さずとも必要以上に努力してくれるだろう。
「待たせたな」
 汚れを洗い流し、首の手形も魔術治療で跡形もなく消したラウルフィカは、身支度を整えてカシムの待つ室内へと戻った。
「あの……魔術師長殿は……」
「ザッハールなら部屋に戻った。今日はもう休むそうだ」
 都合よくザッハールは退場する。人を本格的に口説く時には、余人の目がない方がいい。レネシャの時と同じだ。
「さて、何から話そうか……」
 隠す必要もないが乗り気ではない、そんな調子を装ってラウルフィカは言葉を口にした。普通、貴族は身分の高い者が先に名乗り言葉を発するのだ。カシムの性格であれば、ラウルフィカが良いと言うまで言いたいことも口にしないであろう。
「楽にしてよいぞ。私もきっかけがなければ話す順序に困るところだ。聞きたいことはそちらから聞けばいい」
「で、では失礼して……」
 ラウルフィカの促しに、ようやくカシムは口を開いた。
「先程のあれは……ミレアス上級大将は合意だと仰いましたが、本当に……」
「……合意、と言えば合意だろうがな。例え始まりがどうであれ、この状況に持ちこませてしまったのは私だ」
 眉を下げて半ば哀しむように、けれど深刻すぎずあくまでも自嘲するように笑って見せる。
「……少し考えればわかることだ。本当は私は世間で言うような、有能な王などではないことを。五年前十三歳だった子どもが、父王の後を継いですぐに結果など出せるわけはない」
「……まさか、それと引き換えに?」
 具体的な名前こそ出さないが、身体を差し出すのと引き換えに有力者に国の舵取りをこなしてもらったのだと暗に告げる。
 本当は取引も何も、相手に無理矢理身体を奪われてからそのことで脅迫されたのだが、そこまで事実を語って悲観的に、自分を哀れむような素振りは見せてはならない。
「私のような面白味もない男を、それも子どもを欲しがる物好きがいて助かったと言うべきかな。……私は王だ。例え名目に実力が伴わなかったとしても、それで国を転覆させるわけにはいかないからな」
 少し顔を横に向け、視線を逸らしながら告げる。
「ああいった関係にあるのは、ミレアスだけではない」
 そこでラウルフィカは視線をカシムの方へと戻した。小さく笑いながら――自嘲の笑いを浮かべながら問いかける。
「軽蔑したか? こんな人間がこの国の王で」
「いいえ!」
 カシムは思わず真夜中だということも忘れたように声をあげた。はっとして自らの口元を手で覆う。だが言葉自体は止めることはなく、かといって上手い言葉も見つからない様子で、もごもごと呟き続ける。
「いいえ……そんな、そんなことは……」
 カシムの戸惑いを、ラウルフィカはあえて違う方向に解釈したように見せる。カシムに縋ったり頼ったりするような態度の一切を見せず、ただ行きがかり上話しただけで彼には何も求めてはいないというように。
 そういう態度をされる方が、カシムのような真面目な人間はなんとか自分にできることはないかと探してしまうものだ。しかも国王であるラウルフィカに力を貸すことは、最終的に有利になっても無駄ということはない。
「気を使ってくれなくてもかまわない。幻滅させてすまなかった。ミレアスはあの通りの性格だから、お前が今後何かされるということもないだろう。だから、お前も今夜のことは忘れてしまうといい」
「なんっ……あ、あなた様は、それでよろしいと言うのですか?!」
 そこでラウルフィカは、一際綺麗に、儚げに笑う。
「良いも何もないさ。それしか方法がないのであれば仕方がない。私の体一つで国を動かす有能な臣下、というものを買えるなら安いものだ。――なに、気にするな。生娘ではあるまいし、私が穢れようとどうということないだろう」
「あなたは、穢れてなどいない!」
 感極まったようにカシムが立ち上がった。椅子が倒れて音を立てるが、部屋の外の見張りは反応しない。
「し、失礼いたしました! 国王陛下……ですがあなたは、貴方様は決して、穢れてなどおられない。身体の交わり如き、真の心の高潔さの前にはなんだと言うのでしょう」
 カシムは自らラウルフィカの足元に跪き平伏した。
 彼は上気した頬を上げ、まるで神聖なものでも見るような目でラウルフィカを一心に見つめる。
「わたくしに、何かできることはございませんか……?」
 カシムの申し出に内心歓声をあげながら、ラウルフィカは表面上は予想外だと言わんばかりの驚きを浮かべて見せた。
「……ありがたいが……」
 その上で、ラウルフィカはカシムの言葉をそっと引き取らせる。
 ここで申し出を断ることが大切なのだ。だが最初から宛てにしていないという態度をとってはならない。ラウルフィカはカシムの申し出に喜びながら、それでもその喜びを必死に押さえて助力の手を拒むような態度で断りの言葉を口にする。
「お前の気持ちはとても嬉しい。この国に対する、その親愛と忠誠も。けれどそのために、この宮殿の奥深くの闇に足を踏み入れる必要はない。もう今は騎士が主君のために、などという時代ではないのだ。お前の愛する者を守って息災に暮らせ」
「は……」
 形式上、カシムはそれ以上ラウルフィカに何かを請うようなことはなかった。しかしその奥では、自分の忠誠を受け取ってほしいと目で物語っている。
 渋るカシムに対し、ラウルフィカはあくまでも彼を巻きこめないという態度を崩さずに、彼を部屋に返す。
 これでいい。
 これでいいのだ。後はラウルフィカが何もせずとも、カシムが勝手に行動を起こしてくれるだろう。今はそういう時期だ。この時期だからこそ、彼に目をつけたのだ。ミレアスを越える可能性のあるあの男に。
 ラウルフィカに恋情めいた憧憬を抱いていた年下のレネシャが相手の時は、相手に自分が特別扱いをされているのだとわからせるように、とにかく優しく優しく接して甘やかしてやればよかった。
 カシム相手にはそうもいかない。二十四歳のこれまで実力で大将にまで登り詰めた男が、六歳も年下の少年王に上から目線で褒めそやされて良い気になるものでもないだろう。
 ラウルフィカが利用したのは、カシムの貴人に対する憧憬だ。家柄と本人の資質が相まって、彼は貴人の警護を希望していた。しかし根はもっと深いものだとラウルフィカは考えている。
 あの真面目な男が望んでいるのは、命を懸けて守るに値する主だ。しかも、身分に憧れを抱きながら、よく知りもしない相手を身分だけで尊敬することはできないという贅沢ぶりだ。
 カシムが欲したのは、身分を持ちその身分にたがわぬ性質を持つ者、そして彼自身が尊敬できる人物、主君。
 だからラウルフィカはあえて、自らの最も無様で醜い一面を赤裸々に見せた。自らを無能と認め、国を維持するために男に身体を売る男だと知らしめた。
 カシムは思惑通り、そんなラウルフィカを軽蔑するのではなく神聖なものを見つめるような眼差しを向けて来た。
 中身のない正義も人格のそぐわない実力も意味がない。自分が何の犠牲も出さずに押し通した綺麗事に意味はないし、強ければただそれいいと言うのであればミレアスと変わらない。
 男でありながら男に抱かれる屈辱と、ミレアスに受けていたあからさまな暴力の痕。それを堪える様子を見せたことで、カシムはラウルフィカを身分に溺れず自分の実力を認め、そして国を守るために自らの身をも差し出すことを厭わない高潔な人物だと思ってくれた。
 そう、カシムが欲したのはそういう高潔さだ。ラウルフィカに求める像の系統的にはゾルタに近い気もするが、厳密に言うと違う。ゾルタは自分と正反対の純粋さを少年王に求め、カシムは自分と同じ高潔さをラウルフィカに求めた。
「さて、これからどうなるかな」
「この後、騎士選抜の御前試合がありますからね」
 音も立てずに背後から忍び寄ってきたザッハールが、ラウルフィカを抱きしめるように腕を回してくる。彼の胸に頭をもたせかけながら、ラウルフィカは口を開く。
「私が可憐な淑女であったなら、こんなまだるっこしいことをせずとも、涙を浮かべて助けてとでも縋りつけばそれで済んだのにな」
 美しい乙女と騎士の恋物語は数多い。人々はそういう話に憧れるものだ。女性が主な読者だが、男とて一度くらいは自分が誰からも尊敬される英雄になることに憧れる。騎士にもいろいろあるが、特に貴人の警護をする騎士は、自分の守りたいものに命を懸けることと、人々からの称賛を受ける英雄物語と、その両方の願望を満たしてくれる立場だ。
「いやー、それはどうでしょ。苦労知らずで自分可愛がりのただのお姫様よりは、あの生真面目坊やは陛下のような方の方が好きだと思いますね」
「男が好きな男、お前のように性的対象が男というのとは別の意味で、男は男を愛するという男の美学という奴か」
 恋愛としては女性に愛を捧げていても、一方で自分より何かで優れた男に恋情以上の言葉にならないような熱い思いを抱く男というのは案外多い。
 自分にないものを持っている男への強い憧れを持つ男。同性の主君への忠誠が家族への愛情より強くて当然と考えるような男。兵士のような男性社会で生きる男は、仮に女性と恋愛していても、心のどこかで所詮は女にその心境は理解できないと思っているのだ。女好きで女の敵と呼ばれる男よりも、ある意味ではそちらの方が余程女性を軽んじているように思えるが。
「何せ陛下はそのお美しさだ。姫君を守る聖騎士のような優越感を与えてくださる一方で、自らが頭を垂れるに相応しい最高の主君として額ずかせて下さる」
 そう、ラウルフィカもそれを狙った。男性的というよりは女性的であり、正しく言うならば中性的であるラウルフィカが強い男の振りなどしても滑稽なだけだ。それよりは肉体的な弱さをさらけ出し、その上で精神的な強さや、芯を持っているように見せかけた。
 女性よりも美しく儚げで可憐に振る舞い、大人しやかながらも男性として国主として、人々に守られながらも自分の領分を守る王の姿。精神的な真の高潔さを求める騎士が仕えるに相応しいと思えるだけの国王像。まるで人々が聖女か天使かと思うような、清らで高潔な人物。
 本当に心からそうあれればどんなにいいことだろう。けれどあれは所詮演技。本当のラウルフィカは、その本心はもっと醜い……。わかっているからこそ、ラウルフィカは素顔を見せずにいつも意図的に、彼らの求める王の顔を演じて見せる。
 ラウルフィカが素顔を見せるのは、この男の前だけだ。
「ザッハール」
「ん?」
「お前は、私にどんな顔を望む?」
 そのザッハールの前ですら、ラウルフィカは全てを口に出しているわけではない。他の人々の前ではよくできた仮面を付け替えるように表情を作っていることを思えばこの男の前での態度は素顔に近いが、それでも素顔の更に奥にある――もっと、一番醜いどろどろとしたものはこの男にすら見せていないのだ。
 ラウルフィカの気を知ってか知らずか、ザッハールは青い目を閉じて穏やかに笑う。
「何も。そのままのあなたで」