劫火の螺旋 03

18.鞭

 騎士の任命は玉座のある謁見の間で行われる。ラウルフィカはカシムをそこに招き、儀式を行った。
 「騎士」とは兵士そのもののことを言うことも多いが、この場合は違う。主君に一生仕えることを誓った武芸者のことを、特別に「騎士」と呼びあらわすのだ。
 これからカシムはラウルフィカの護衛の筆頭となる。常に彼の傍につき、ラウルフィカが国内外問わず出かける場合は彼が、彼の部隊を引きつれて護衛することになる。
「まさか、こんな方法をとるとは思わなかった」
 予想通りとはもちろん告げず、周囲から人を下がらせて二人きりとなったラウルフィカは口を開いた。大会用に正装したカシムが前に立っている。
 もともと彼は高位の軍人なのでどこに出しても見劣りしない大将の正装を持っているが、一週間もすれば新しく国王の騎士としての衣装が届けられるだろう。
「私はどうしても……陛下のお傍に近付きたかったのです。御身の苦しみを、少しでも軽減することができたら、と」
「カシム……」
「私は陛下の手足となることを近います。何なりとお命じください。もとよりこの身も、後ろ暗いことのある身。今更昔の自分に戻りたいとは思いません」
 カシムはラウルフィカに、ミレアスとの決勝で己が何をしたかを全て語っていた。ザッハールの力で、一瞬だけミレアスの動きを止める。それが彼らの取引内容。不正を行ったという事実を重石にして、カシムは自分のラウルフィカへの忠誠を示した。
 それは一つの共犯関係。ラウルフィカがカシムを騎士にと望むのであれば、このことを黙っていなければならない。そう、カシムというこの男は、潔癖だが無意識な部分で狡猾なのかもしれない。自分に相応しい主が欲しいという彼の願いは、お眼鏡に適わない主などいらないと同義なのだから。
「ラウルフィカ陛下」
 カシムは再びラウルフィカの前に跪いた。
 そしてそっと、ラウルフィカの白い手を両手でおし抱く。滑らかな手の甲に、静かに唇を落とした。
 それはありふれた敬意の示し方。ただの挨拶。しかしカシムのように、乙女の理想とするような騎士然とした男がすると絵物語に相応しいような光景となる。口付けを送られるラウルフィカが、生半な姫君など太刀打ちできないほどに美しければ尚更だ。
 カシムは熱っぽい眼差しを向ける。彼にとってラウルフィカは、神聖にして誰よりも守るべき至高の存在だ。
 カシムという男の性格を考えれば予想できた事態。だからこそ上手くいった、今回の作戦。だが少しばかり不安がないでもない。こうまで神聖視されてしまうと、逆にやりづらいものがある。ラウルフィカは今後も、カシムの前では完璧に美しい王を演じ続けなければいけないのだろう。
 それでも今ばかりは、思惑通りに動いて手に入れることの叶ったこの男の存在を喜ぶべきだろう。
「ありがとう、カシム。……お前が私の騎士となってくれて、とても心強い」
「陛下」
 主従は見つめ合った。

 ◆◆◆◆◆

 ミレアスは怒りを露わに廊下を歩いていた。
 向かう先はザッハールのいる、魔術師たちの宿舎だ。
 今日の試合、途中でミレアスの剣を持つ手が突然動かなくなった。あの感覚は魔術だった。ミレアスはそう確信している。
「どこの誰があんなふざけた真似を……!」
 試合、勝負、そういったものに勝つことだけを人生の楽しみとしているこの男にとって、あんな風に負けるのは何よりも許しがたいことだった。絶対に犯人を見つけなければ気が済まない。
 だが試合中に使われた魔術の気配は一瞬で、おかしなことがあったとの報告も受けていない。そもそも魔法防御の結界が張られた中で、あれだけさりげなく魔術を使える人間はそうはいない。
 自らが恨みを買っていることは知っている。わかっていてこれまで好き勝手やってきたのがミレアスだ。試合相手は以前から好敵手と目されていたカシムだったが、彼の差し金とは考えにくい。
 魔術を使われた自分だけが気づいた小さな違和感だ。不正があった根拠として訴えるには弱く、また決勝の対戦相手だったカシムは潔癖なほどに潔癖な男として有名だ。あの場で勝敗に口を挟んでもそれこそ勝ち目がないと悟ったミレアスは、裏で動くことにした。
 自分に敵意を向ける相手を探し出すのは数が多すぎて難渋するが、国が用意した結界をすりぬける高位魔術の使い手であれば人数は限られる。宮廷魔術師長ザッハールであれば、心当たりがあるかもしれない。そう考えて彼は、カシムの騎士就任祝いも終わった夜更けにザッハールの部屋を訪れた。
「おい、ザッハール! 貴様に頼みが――」
 乱暴に扉を開け放ったミレアスは、中に予想外の人物の姿を見つけて言葉を切った。
「なんだよ王様。なんであんたがここにいる。それとも今夜はザッハールの番だったか?」
 ミレアスが訪れたのはザッハールの部屋の一つだ。先日カシムが訪れた怪しげな実験室ではなく、普段使いの簡素な部屋の方。そこにいたのは、国王ラウルフィカだった。
「よく来たな、ミレアス」
 ラウルフィカはいつもの洗練された美々しい国王としての衣装ではなく。淡く肌を透かす布地を申し訳程度に身につけている。長椅子から立ち上がって露わになったその娼婦のような装いに、さすがのミレアスも一瞬呆気にとられた。
「どういうことだ。お前らそんなプレイしてるのかよ」
「いいや。これはお前のために用意した衣装だ」
 清らかと言われる美貌を妖艶に歪め、ラウルフィカは口を開く。
 ミレアスの背後では、ザッハールが部屋の扉を閉めた。そして当然のようにラウルフィカの傍へと戻る。彼も最初から部屋の中にいたのだ。ミレアスの場合、逆上すると何をしでかすかわからないために、護衛として。
 カシムを騎士として手に入れはしたものの、やはり彼には話せない部分が多すぎる。ラウルフィカの裏の共犯者は相変わらずザッハールだった。
「明日からはカシムが私の警護につく。お前とはこうして仕事以外で顔を合わせることも最後になるだろうな」
「それがどうした。俺があんな若造に遠慮することがあると思うか」
「遠慮するかどうかはともかく、実質私の警護として選ばれた“王の騎士”に言われたら、城の兵だってお前程度の男など通すわけにはいかないな」
「なんだと?!」
 あからさまな侮辱に、ミレアスの目が吊り上がる。
「てめぇら、何か企んでやがるな?」
 ラウルフィカと背後のザッハールを睨みつけ、ミレアスがそう口にした。次の瞬間、彼は衝撃を受けて床に這いつくばっていた。
「がっ……!」
「お前はこれが好きだろう。一度自分の身体で味わってみるといい」
 そう言ったラウルフィカの手元にあるのは、細長い鞭だった。これまで隠し持っていた革製のそれをピシリと鳴らし、ラウルフィカは這いつくばったミレアスを冷たい笑いで見くだす。
「お、まえ」
「国王陛下と呼んでもらおうか? ミレアス。今日の試合は残念だったな。途中で右手が動かなくなるなど」
 ミレアスは目を見開いた。何故そんなことを知っている? 動きが不自然だったと言うならともかく、誰もそのことに気づかないくらいさりげない動作だったのに、動かなくなった場所まで――。
 笑うラウルフィカと、その背後で肩を竦めるザッハールの姿に合点がいく。
「そうか、お前か。お前らの差し金か。今のも、さっきのも――」
 ラウルフィカのような素人の鞭攻撃など、いくら至近距離だとはいえミレアスほどの武人に止められないはずがない。それができなかったのは、彼の身体を打った鞭が透明だったからだ。正確に言えば、ザッハールの魔術でつい先程まで見えなくされていたのだ。
 そして試合中ミレアスの右腕の動きを止めたのもザッハールの魔術。
「こんなことして、ただで済むと思ってるのか?」
「思っているよ。私は王だ。無礼な部下に躾をしたくらいで誰に文句を言わせる筋合いもない」
 立ち上がろうとしたミレアスを、再びラウルフィカの鞭が襲った。
「う、うう……!」
 今度鞭で打たれたのは顔面だ。さすがに衝撃が大きく、すぐには立ち上がれない。
「さすがに顔に傷を残すのは面倒だ。あとでザッハールに淑女よろしく痕が残らないよう治療させてやろう……。だがその前に、お前にはもっと苦しんでもらわないとな。私が苦しんだこの五年分」
 火を押し付けられたように熱く痛む頬を抱え蹲るミレアスの頭を踏みつけ、ラウルフィカは武人の抵抗を封じる。そうして手にした鞭で、ミレアスの衣装の背中が破れるほど激しく鞭で打ち据えた。
「ぅぐ、ぅう……」
 ビシ、バシ、と、しばらく聞くに堪えない音が部屋に響く。軍人の最後の意地か、ミレアスは悲鳴だけは噛み殺していた。いっそ大声で叫べば誰か人が来たのかもしれないが、それには彼の矜持が許さないのであろう。
 ぽたぽたと赤い痕から血を垂らして這うミレアスに、ラウルフィカは頭上から告げる。
「お前が今後、私に逆らうことは許さない。ああ、このことをゾルタやナブラやパルシャに言いたいのならば好きにすればいい。どうせあの三人は、お前がどんな目に遭おうが気にしないだろうがな」
「な、ぜ」
「お前たちはもともと仲間意識などで集まったわけではないだろう。別にお前が失脚しても、宰相とナブラには何の痛手でもない。カシムとお前の勢力争いは、傍目には極自然に交替されたように映るからな。むしろお前が私に何をされたかと言ったところで、面倒事を起こすなと口を封じられる可能性が高いだろう」
 そう、ミレアスにはそういった立場の弱さがある。
 カシムが護衛についたところで、ゾルタやナブラの夜半の訪れを禁じることはできない。あの二人はカシムよりもずっと強い権力を持つ貴族だからだ。また、消えたのがパルシャならばゾルタたちも多少は動揺するだろう。経済の有力者がいなくなれば、国内の勢力図が大きく乱れる。
 だがミレアスとカシムでは、国内においてその価値は同等。部下に慕われ人気が高いという意味では、カシムの方が有能と言っても良いだろう。潔癖な性格故にゾルタたちの企みには間違っても参加しなかっただろうから声をかけられなかっただけで。
 今はラウルフィカも、もう五年前のような世間知らずの子どもではない。ある程度国内の舵取りをできるようになってきた今のラウルフィカなれば、軍の人材を入れ替えても多少の無茶はできる。
「今後二度と、貴様を私の寝台にあげることはない。私が貴様の呼び出しに応じることも。ではな」
 血のついた鞭を無造作に放り出すと、ラウルフィカは後の事をザッハールに任せ、部屋を出ていった。

 ◆◆◆◆◆

 クソッ、クソクソクソ、クソ!
 ミレアスは苛立ちも露わに廊下を歩いていた。仕事の時間だが、全て放り出している。傷の痛みに半日ほど寝込んだ後、彼はついさっきゾルタとナブラに会ってきたところだった。
 宰相の執務室にナブラもたまたま居合わせていた。日中からその報告を聞いたゾルタは、面倒そうな声を上げた。
「それがどうかしたか?」
「どうって、どうも何もないだろ! あのガキは俺たちに盾突く気なんだぞ!」
「私たちではなく、お前にだけだろう? 我々の知ったことではないな」
 ゾルタの言い様に、ミレアスは愕然とした。ラウルフィカの言った通り、二人は初めからミレアスを相手にする気はないのだ。
 ナブラが溜息をつきながら言う。
「お前のやり方は乱暴だからな。この間も練兵場で陛下の首を絞めたそうだな」
「なんでそんなこと知ってるんだよ」
「ザッハールが報告してきた。あれが治療をしたそうだ。お前は国王を殺す気か? いくら加虐趣味だと言っても、限度があるだろうが。陛下がお前をどうにかして遠ざけようと考えてもおかしくはない。むしろ国内に混乱を招かないようにと理由があるおかげでその命がまだあることに感謝するがいい」
 そこに、もう一人客が訪れた。
「パルシャか」
「どうしたのだ? ここにミレアス殿がいるとは珍しい」
 取引のためにやってきた商人にも、宰相が事情を説明した。
「それはまぁ……仕方がないだろうなぁ」
「仕方がないだと?!」
「お前さんのやり方はあまりに乱暴すぎる。わしらは陛下を脅しているとは言っても、手足を縛って監禁してるわけじゃないんだ。あまりに酷いことをすれば報復されてもおかしくはないじゃろ」
「そう言えばパルシャ、お前の息子、最近陛下の傍をちょろちょろしているようだが」
 指摘を受け、パルシャがうぐっと声を詰まらせた。哀れっぽい声で告げる。
「そうじゃ……前々から少年王に憧れのあった息子じゃったが、この間たまたま顔を合わせたところを王に優しくされてころりといってしまった……そう考えれば、あれがわしへの復讐なのかもしれん……」
「息子大事のパルシャ相手でもなければ、随分ささやかな嫌がらせだな」
 ゾルタとナブラは鼻で笑った。鞭で打たれたというミレアスの話とは違い、パルシャの被害は息子が王になついてしまったというだけ。二人の大貴族からすれば、そんなもの嫌がらせにもならない。
 実際にはレネシャはラウルフィカの手で犯され、息子の身柄を盾にパルシャは脅迫されている状態だが、そこまではもちろんパルシャも口にしない。
「だが、それも問題はないだろう。パルシャは財産を奪われたわけではないし、ミレアス、お前も軍人としての立場を失ったわけではないだろう。レガインが出世したからといってお前が降格されたわけでもなし。国内の利権を寄越せという契約は生きたままだ」
「なんだと? この状況でもか?!」
「そうだ」
「ザッハールの奴が裏切っていてもか?」
「あいつはもともと国王を抱きたいという理由で参加した男だからな。お前を退けた分の時間を回してやるとでも言われれば、素直に従うだろうさ。予想済みだ」
 ミレアスの加虐趣味に危惧を抱いていた男たちの態度は、どこまでもミレアスに対して冷淡だった。
「ラウルフィカが捨て身の覚悟で私たちを告発するとでも言うのならば契約違反だがな。そうではなく自力で私たちを出しぬいたのであれば向こうの実力。もともと私たちは五年前の少年王より有能だという理由で優位を握ったんだ。そうでないと判断されれば、切り捨てられても仕方ないだろう」
 そしてミレアスは、仕事の邪魔だと宰相の執務室を追い出された。
(クソ……! どいつもこいつも!)
 彼は苛立ちのままに、国王の部屋へと向かう。昨日一日中御前試合を観戦した疲れをとるという名目で、本日のラウルフィカは一日中部屋にいるはずだ。
 だが、その部屋の前には、今は憎んでも憎み足りない忌々しい男の姿があった。
「カシムか」
「何の用だ、ミレアス卿」
「用があるのはてめぇじゃねぇよ。そこをどけ」
「国王陛下に用があると言うなら、尚更はいそうですかと引き下がるわけにはいかないな。見たところ急の伝令でもないようだが、仕事だと言うのなら国王陛下のお時間を頂く失礼を納得させられるだけの理由を述べよ」
「そんなことはどうでもいいんだよ!」
 カシムの肩に手をかけ、彼をどかして無理に部屋の中に入ろうとしたミレアスの体が廊下に吹っ飛ぶ。
「きゃあ! ミレアス様?!」
「カシム様! 何をっ」
 通りがかった侍女たちが悲鳴を上げる中、頬を腫らしたミレアスを見おろしてカシムは言い放った。
「国王陛下に対する貴様の無礼な行為、陛下の騎士として許すわけにはいかん。去れ!」
 ミレアスがこれまでラウルフィカに暴力を振るっていたことを知っているカシムは容赦がなかった。
 ミレアスはここでも、撤退を余儀なくされた。今日は仕事をする気になどなれず、すれ違う人々がぎょっとする怪我と形相のまま、自室へと戻る。
(畜生! あいつら、今に見てやがれ!)
 喧嘩と暴力だけを趣味とし、これまで何にも執着というものを抱いたことのなかったミレアスは、初めて身の内を焦がす憎悪というものを知った。
 彼は死ぬまで、その感情から解放されることはなかった。