劫火の螺旋 04

22.皇帝

 皇帝来訪の知らせを受け、ベラルーダでは慌ただしく最高級の賓客を迎え入れる準備が整えられた。王宮の人々はもちろん、登城できる身分の貴族たちまでもが皆、上から下まで対応に追われていた。
 実際に歓迎の準備をしたのは召使たちだが、上に立つ国王ラウルフィカ、宰相ゾルタたちも彼らとは違った意味で忙しさに追われていた。あらゆる部署に指示を出しつつ皇帝に対しどのような対応をするのか会議を開いて意見を統一し、更には皇帝を出迎えるのにベラルーダが財のない田舎国だと侮られぬよう衣装や装飾品を新調した。仕事の合間に採寸を済ませ、食事をしながら同時に皇帝に出す食材の吟味までしている。
 しかしこの十日は万が一にもラウルフィカの気力を削ぐわけにはいかないとゾルタ以下五名の男たちはラウルフィカに仕事以外では近寄って来なかったので、ラウルフィカとしては幸せな日々でもあった。商人としての仕事のついでに寂しそうな顔を見せるレネシャをほんの少し慰めれば、それだけで良かったのだ。
 そしてどこまで準備してもまだあちらこちら準備し足りないような慌ただしさがどうにも収まりきらないまま、ベラルーダは南東帝国シャルカント皇帝が来訪する日を迎えた。
 現在の皇帝スワドは三年前に皇帝に即位したばかり。しかしその功績は歴代の皇帝の中でも群を抜いていて、保守派の父帝が築いた約定を無視しいくつもの国を侵略している。ベラルーダも一つ対応を間違えばこの強大なる帝国に飲みこまれるに違いない。
 そして現在迎えの馬車から降りてベラルーダの宮殿前に立つ、スワド帝の姿と言えば。
(若い)
 スワドと初めて顔を合わせたラウルフィカは、表には出さず内心でそう考えた。三年前に即位したばかりの青年だと聞いていたが、見た目はラウルフィカと幾つも変わらない年頃に見える。二十歳かその少し上ぐらいだろう。
 いまだ少年と呼ばれることのあるラウルフィカと違い、スワドが青年と呼ばれるのはその身にまとう雰囲気と体格が大きい。背が高く、肩幅がしっかりしていてすでに子どもの名残などまるでない。厳つさはないが、一挙手一動に気品の溢れる君主は完全に武人の動きであり、何気ない仕草でもその衣装の下には隙なく鍛えられた筋肉が隠されているのだろうと思わせる。
 髪の色は華やかな金。レネシャのようなごく淡い木漏れ日の金ではなく、砂の大地を貫く真夏の太陽のような黄金。
 両の目は翡翠。砂漠の民にとって、焦がれても届くこと叶わぬ深き森のような、暗くも力強い翠。
 美丈夫、とまさにそう呼ばれるのに相応しい青年だ。すでに出迎えのベラルーダ人女性たちは、皇帝の美しさにそれまでの緊張も忘れてうっとりと見惚れている。帝国からの付き人たちも、単純な身分や権力だけでなく主を誇らしく思う気配が伝わって来る。
 ベラルーダにも美青年と呼ばれる者は多い。貴族の中ではナブラやゾルタは三十をゆうに過ぎてなお貴婦人たちの熱い視線の的となり、軍部では美形とはまた違うが、精悍な顔立ちのカシムが貴族から庶民にまで人気を集めている。単純な造作の整い具合で言えば、ザッハールも皇帝に負けはしないだろう。
 しかしこの皇帝は、それらの単なる美形たちとは違う。ただ造作が美しいだけではなく、己という存在の魅せ方を熟知しているとでも言うのか、彼の動作一つで、その空間の色彩が塗り替えられるような迫力と存在感を持っているのだ。
 これは手強い相手だとラウルフィカは感じた。ラウルフィカ自身とさして変わらぬ年齢でありながら、皇帝は人心の掴み方を熟知している。自分がどのように振る舞えば相手が自分に魅了されるのかを理解し、いついかなる時もそのように振る舞う。
 驚いてばかりもいられないだろうと、ラウルフィカは一歩前へ出た。
 それはそれで帝国側の人々から男女問わず溜息を誘う光景だった。
 黒髪を引き立たせる白い肌。瞳と同じ青色の生地に金糸の装飾がされた衣装を着こんでいる。優美でありながらどこまでも男性的な気配を主張する皇帝とは対照的に、男と知っているはずの人間でさえその容貌を目にすればハッと性別に迷う。真昼の太陽の下であればこそその存在を疑うことはないが、真夜中に月明かりの中で顔を合わせれば何かの精霊かはたまた幽鬼かと疑わせるような神秘性を湛えている。
 皇帝はマントを翻すその様まで生き生きとしていたが、ラウルフィカ王の動作はどこまでも静かだった。礼儀正しい淑女でもここまで華麗に動くことはできないだろうというほど、滑らかで音を感じさせない動き。まるで別世界のものを見ているかのような、誰にも手の届かない美しさ。
 いざ並び立ってみれば、王と皇帝はどこまでも対照的であった。皇帝は人々と同じ次元にありながら他の者よりも確実に一段上に立つ風格を持つが、ベラルーダ王は、そもそもこの人と自分が同じ地面に立っているのかどうかと人々を惑わせる。
 ラウルフィカがまずはその場に立ったまま皇帝に頭を下げる。
 口を開くのは、皇帝が許可の言葉を発してからだ。しかしいつまで経っても、皇帝はラウルフィカに顔を上げるようにとも、挨拶を許すとも言葉を発しない。
 そのまま何故か足音が近付いて来る。怪訝に思ったその時だった。
「あ――」
「美しいな」
 少し離れて立っていたはずの場所からいつの間にかすぐ目の前に来ていた皇帝スワドが、半ばその身を抱きしめるようにしてラウルフィカの顔を無理矢理上げさせる。
 ベラルーダ側は王に何をするのかとすぐさま殺気だったが、帝国側にも一気に緊張が走った。いくら帝国の皇帝と言えど、友好国の王にあまり傍若無人な真似は許されない。しかし皇帝の成すことがとんでもない暴挙だと認めて皇帝の行動を止めることも、帝国の人間としてはできない。
「へ、陛下!」
 どちらの陛下だと紛らわしいこの状況で帝国側の臣下が叫ぶも、スワドは意に介さずラウルフィカの顔を真正面から見つめていた。彼より背の高いスワドによく見えるようにと、ラウルフィカの顎を指ですくい上げる。もう片方の腕は、驚いて体勢を崩すラウルフィカの体を支えるようにその腰に回されていた。
「本当に美しい。ベラルーダの王は美貌の少年だと聞いていたが、これほどとは――」
 くすりと耳元で笑う低い声さえ魅惑的だ。ゾルタやナブラに嫌味を言われたり美貌を称賛されたりと免疫をつけていなければ、腰が砕けそうなほどだ。
「帝国に連れ帰りたいくらいだな。いっそ私の妻とならぬか?」
「陛下!」
 侮辱というにはあまりにあけすけに、スワドはラウルフィカを女性のように扱いそのように尋ねた。召使たちは面白そうに成り行きを見守っているが、居並ぶ貴族たちは帝国側もベラルーダ側も青ざめて息を飲んだ。特に帝国側で大臣級の地位にあるらしき老人が、主君の最大級の暴挙に今にも泡を吹いて倒れそうだ。
 帝国とベラルーダの友好と安寧は、この瞬間のラウルフィカの態度にかかっているのだ。ラウルフィカが侮辱されたと怒りだしても、予想外の言葉に動揺して不安の表情を見せても両国の関係にはどんな形であれ亀裂が入る。前者は帝国との決裂を、後者は帝国への無意識の屈従を示す。
 衆人環視の息詰まるような興味と期待、恐れの視線の中、ラウルフィカはゆっくりと唇を吊り上げて優美ながら遊び心のある笑みを形作る。踊るようにさりげない仕草で顎にかけられた皇帝の指を外し、その手に自らの手を重ねる形で動きを封じると、瞬く睫毛の動きまで艶やかな仕草で言葉を紡いだ。
「大陸各地で美女を見定めているという皇帝陛下にお褒めいただくとは、私の容姿もなかなか捨てたものではないようだ」
 更に周囲の者たちにも不自然と映らないごくさりげない動作で皇帝の手を取ったまま一歩下がり距離をとると、そのままダンスの誘いとも貴人に対しての忠誠の証ともとれる優雅な仕草で皇帝の手の甲に口付けを落とした。
「この顔がお好みであるとすれば残念ながらわが国の美女は陛下のお目に適わぬかもしれませぬが、その代わりに国中の美酒美食を揃えさせました。宴席に添える華の代わりは、陛下御自らお褒めくださったこの私が侍ることを御許し下さい。この通り中身はまったくもって面白味のない男ではありますが、陛下に誠心誠意お仕えいたしましょう」
 神秘的と言われることのある容貌を親しみに変え、にっこりと友好的な笑顔を最後に浮かべてラウルフィカは言った。
「我がベラルーダは皇帝陛下の御来訪を臣民一同心より歓迎いたします」
 そこでようやく二国間の権力者たちの間に走った緊張が消えた。
 合図と共に歓迎の花吹雪が降り注ぎ、一気に場が賑々しくなる。歓声に紛れてお互いの声しか聞こえなくなるような状態で、皇帝が周囲に気づかれないように声をかけてきた。
「ふふふ、なかなかやるなベラルーダ王」
 ラウルフィカは口元に笑みを浮かべた。何も知らぬ者から見れば笑顔の一種と解釈されようが、見る者が見ればそれは自分のはかりごとが成功した者の会心の笑み。
 皇帝の言動を受けてあえて道化じみて振る舞うことで、ラウルフィカは両国の関係に亀裂を入れることなく恙無く歓迎という名の「儀式」を遂行したのだ。
 無礼を先に働いたのは皇帝だからと、その気さくさに乗る振りをして、身分の高い者からの許しがなければ喋ってはいけないという原則を無視した。美貌を褒められて満更でもない振りをしながら、皇帝の美女漁りをあてこする。ベラルーダに美女がいないかもしれないという台詞は一見自国に対し失礼な謙遜に見えて、男であるラウルフィカが好みならばどんな美女も気にはいらないだろうという痛烈な皮肉。望むなら宴席に侍ろうと皇帝の失礼な要望に応えた振りでちゃっかりと同じ席に着くという対等の立場であることを宣言し、これだけの言葉遊びをしておきながらあえて自分は面白味のない男などと言って、誰にもこれらの台詞が深い意味を持っていることや、本心からの謙遜などでないことを「見抜かれるように」演出する。
 ベラルーダの立場としては、帝国に歯向かってはならないが、だからといって追従しすぎて自ら帝国の支配国家のようにおもねってはいけないのだ。あくまでも謙りながら堂々と舌を出していることを、相手側にわからせねばならない。
 そのためにラウルフィカは、皇帝の言葉を道化じみた振る舞いで交わすことにした。受け取る側が悪意ではなく戯言と真剣に受け取らなければ、それは冗談になる。皇帝はあくまでもベラルーダ王の容姿をからかいじみた言葉で褒めただけであってこんなものは侮辱ではない、としたのだ。
 ベラルーダ王が侮辱発言に抵抗しなかったとしてベラルーダ側の従属を示したのではなく、皇帝の発言こそを侮辱ではなく親愛のあるからかいだということに無理矢理すり変えたのだ。
 そしてベラルーダが帝国と友好的関係であることを表向き強調しながら、さりげない言葉の端々にはそちらの言いなりにはならないと宣言するための毒を含ませる。
「本気で、あなたを私のものとして連れて帰れないことが残念だ」
「まだベラルーダに着いたばかりですよ、皇帝陛下。こんなものが欲しければ、いつでもお相手いたしましょう。ぜひ“遊んで”くださいな」
「こんなに“美味そう”なのに“食えない”とは残念だ」
 食えない皇帝は食えない王に婀娜っぽい笑みを見せると、案内された通りに歩きだした。

 ◆◆◆◆◆

 皇帝歓迎の宴は盛大に行われた。
 美女はいないなどとラウルフィカは言ったが、宴席にはやはり美しく着飾った女たちが何百人と駆り出された。宴に参加する貴族の娘から、料理を運ぶ給仕の侍女まで。
 皇帝は終始機嫌のよい様子で女の美しさを褒め、砂漠地域独特の芸術を含んだ城を褒め、料理に舌鼓を打ち、ラウルフィカとも周囲の者たちとも和やかに会話した。
「砂漠の女は帝国の美姫とはまた違った美しさだな。ラウルフィカ王が意地悪を仰るものだから、何より怯えつつ期待したよ」
「まぁ、王陛下ったら、何を皇帝陛下に仰ったのかしら」
「王陛下はこの国の姫君があまりにも麗しいものだから、私に攫われないかと警戒したらしい」
「いえ、皇帝陛下に攫われるのでしたら、皆も本望でしょう。きっと美しい花嫁衣装と馬車を仕立てて堂々と攫ってしまうのでしょうから」
 時折のからかいじみた会話もラウルフィカが全て交わし、ベラルーダと南東帝国の者たちはそれぞれ後ろ暗い思惑を胸に秘めながらも、表面上はただ平和に皇帝来訪初日を終えようとしていた。難しい政治の話は明日以降の話となる。
 優美な外見と不釣り合いにならない程度に気さくさを見せる皇帝は、ベラルーダの者たちにも寛大な態度を見せた。帝国と砂漠地域の国々は文化が違うので、お互いの領域不可侵を守れば少なくとも全面対決になることはない。
 しかしベラルーダ側にとっては、皇帝という存在そのものが国に波乱を巻き起こす嵐であった。