劫火の螺旋 04

25.始末

「この馬鹿者が!」
 宰相ゾルタが公衆の面前でナブラを殴り飛ばした。
 集まった貴族たちがそこかしこでざわつく。声を潜めようと努力はしているが、この人数で、事が事だ。どうしてもざわめきは収まらなかった。
「貴様はベラルーダ貴族として何をしたのかわかっているのか?! 皇帝に刃を向け、自国の君主に怪我をさせるなど……!」
 武官としての鍛錬を積んでいたこともあるゾルタに思い切り殴られては、文官のナブラなどひとたまりもない。盛大に頬を腫らして床に倒れ込んだナブラは、俯いたまま顔を上げることはなかった。――放心状態だ。
 これまでナブラを拘束していた衛兵二人も、宰相の登場に後ろへと下がっていた。誰もナブラに手を貸す様子はなく、謁見の間は痛い程の沈黙に満ちている。
「もういい! この男を牢へと連れていけ!」
 ゾルタの合図で、兵士二人がナブラの腕を掴みあげひっ立てる。いまやベラルーダ最高位の貴族の立場は地に落ちた。この騒動に呆然とする者、ナブラの失脚を喜ぶ者、帝国との関係に罅が入ることを案じる者、それぞれの思惑を胸に秘める中、罪人となったナブラが兵士たちに護送されていく。
「宰相閣下、陛下の御容態は……」
 貴族の一人が尋ねた。この場にいる者たちの関心事はそれだ。ナブラに受けた傷が元でラウルフィカが亡くなり、スワド帝の機嫌をも損ねることになればベラルーダは間違いなく帝国に潰される。いくらゾルタが有能であると言っても、そんなことになればベラルーダの独立を保つことは難しい。
 しかし貴族たちの心配ごとのうち一つは杞憂に終わった。ラウルフィカは軽傷だ。
「陛下のお怪我に関しては問題ない。医師と魔術師長が手を尽くした。意識もしっかりしているし、すぐに話もできる」
 おお、と安堵のざわめきが貴族たちの間に広がる。国王が有力貴族の手で死亡すれば普通の国ならば自らが権力を握る機会だと喜べるかもしれないが、今のベラルーダではそれは悪夢以外の何ものでもない。だが、少なくともラウルフィカ王は無事だ。
 ゾルタは一度完全に場を鎮めると、謁見の間に皇帝と国王を通した。皇帝スワドの様子はいつも通りに見えるが、国王ラウルフィカの方は顔色が紙のように白い。包帯は見えるようなところには巻いていないが、怪我をした分血が足りないのだ。
 ナブラがスワドを刺そうとした瞬間、ラウルフィカは皇帝と臣下の間にその身を割り込ませた。刃はラウルフィカの背中から腕を斬り裂いたが、皇帝は一筋の傷もなく無事だ。
 しかし一連の出来事を皇帝がどう受け取るかはわからない。刃を向けられたことを不快としてベラルーダと敵対するのか、実質被害はなかったとして寛大な処置をとるのか。
 そもそも、皇帝が何故ナブラに刺されるようなことになったのか。これまでのスワドのラウルフィカへの態度から、ここに集まった人々には大体の予想がついていた。それに対してどう申し開きがあるのか。
 普段は自らが座っている玉座にスワドを通し、ラウルフィカはその目の前で跪き頭を垂れた。
「こたびは我が臣下の不敬、皇帝陛下にはお詫びのしようもなく」
「ああ、いい、いい。あの男が暴走したのは自分の王を守ろうとしてのことだろう。たいした忠誠心ではないか」
 意外にもあっさりした様子でラウルフィカの謝罪を遮った皇帝の様子に、ベラルーダの貴族たちはほっと胸を撫で下ろした。ただでさえプグナとの小競り合いに頭を悩ませているのに、帝国を敵に回すなど冗談ではない。
「しかし、そうだな。私に刃を向ける者がいる国をそう簡単に許してやっては、こちらも南東帝国の皇帝として示しがつかないんだ」
 寛大な言葉の後に付けたされたそんな台詞に、貴族たちの顔色が変わった。国土も財も労働力も全てが帝国に劣るどころか、比べることもおこがましい程小国であるベラルーダに、皇帝に差し出せるようなものなど彼らには思いつかなかった。それこそ国ごと帝国の植民地となるくらいしか。ここで皇帝にそう言われても、皇帝の機嫌を損ねて戦争を仕掛けられてもこの国が辿る末路は同じ。
 ラウルフィカは貴族たちの緊張には素知らぬ顔で、表情を変えずに尋ねた。
「何をもって、忠誠の証だてといたしましょう?」
「そうだな」
 形良い唇を楽しそうに歪め、皇帝は玲瓏な声で告げた。
「砂漠地域プグナ王国領、というのはどうだ?」
 謁見の間に緊張が走る。
「何もプグナの上がりを全て寄越せというわけではない。ただ、あの国は我が帝国にとっては目障りなんだ。こちらの言うことには従わず、ベラルーダのように親帝国派というわけでもない。だからできれば、あの地域の実権をベラルーダに握ってもらいたい。これでどうだ?」
「帝国への忠誠と同時に、この砂漠地域の覇者となるだけの実力を示せ、ということですね?」
「そういうことになるな。ラウルフィカ王。やりがいがあるだろう?」
 やりがいも何も、それができないからこれまでどうするか何年も会議で無益な議論を繰り返して来たのである。しかも皇帝は、和睦による戦争回避の道は認めないとまで告げた。ベラルーダは何が何でもプグナを降伏させ自国の支配下に置かねばならない。
 皇帝の来訪までは帝国に兵を借りるという案もあったが、今回の出来事で目論見の全ては水泡に帰した。ベラルーダ側はあくまでも、全て自分たちの力でプグナに勝利せねばならない。その負担は大きい。
 ラウルフィカが顔を上げた。しっかりと皇帝の顔を見据え、挑戦的な笑みを浮かべる。
「――ええ、とても」
 ベラルーダ国王としての彼の実力を試しているとでもいう皇帝の眼差しにラウルフィカは真っ直ぐに応えた。これまで息を殺していたベラルーダの貴族たちも、皇帝がこうして幾つもの国を追い詰めるところを見て来た帝国の臣下たちも、皆が大なり小なりの動揺を見せた。
「我が臣下の不手際に対し、寛大なる御処置を感謝いたします。我がベラルーダは皇帝陛下への忠誠の証だてに、必ずやプグナ王国を手に入れてみせましょう」
 宰相に意見を伺うこともせず、ラウルフィカは堂々と言いきった。愕然とするゾルタの顔を見て、ベラルーダの貴族たちは、どういう顔をするべきかもわからない。彼らの知らないところで、歯車が動き出している。
 あまり長く時間をとらせるとラウルフィカ王の怪我に障るという理由で、その場は早々に収められた。しかし国王が、皇帝が、宰相が退出してもベラルーダ側の人々の動揺は収まらなかった。

 ◆◆◆◆◆

 宰相ゾルタは国王ラウルフィカの部屋へと戻る前に、まず地下牢のナブラのもとへと足を運んだ。見張りの兵士を威圧して下がらせる。彼の他にミレアスがついてきている。
「さ、宰相」
 人の気配に鉄格子の中で顔を上げたナブラが憔悴した様子でゾルタを呼ぶ。
「無様だ。なんという愚かなことをしたのだ、ナブラ」
「わ、私も自分が何故あのようなことをしたのか……! ただ、頭に血が昇って何も考えられなくなって……」
 ラウルフィカを刺した後、我に帰ったナブラの精神はぼろぼろだった。自分が皇帝に刃を向けたことも、ラウルフィカに怪我をさせたことも信じられない。だが斬り裂いた肌の感触が確かに手に残っている。
 ラウルフィカの傷は幸いにも深くなかった。普通の剣で斬るように刃の短い短剣で薙いだため、傷の範囲は広くとも傷自体はそれほど深くならなかったのだ。
 だが、あの白い肌が斬り裂かれ血が吹き出る感触。堪えてはいたが、苦痛に歪んだ表情。思い出すたびに大の男の体ががくがくと震える。
「これだから戦場を知らないお貴族様は……」
 ミレアスが心底呆れたように侮蔑の眼差しを送った。普段彼を野蛮人だと罵るナブラの軟弱な精神に、ミレアスは蔑み以外の視線を向けることができない。
「ナブラ、皇帝陛下の寛大な御処置により、お前への処罰は自領地への謹慎と決まった」
「え……」
「今後お前は、死ぬまで自らの領地に蟄居だ。財産を没収されるでもなし、一族郎党処刑されるでもなし、爵位を剥奪されるわけでもなし、実に寛大な処置だろう」
「そ、そんな……では、私は、もうこの王宮に来ることは……」
「できぬな。この牢を出たら最後、お前は領地に戻りそこから出ることはなくなる」
「ラウルフィカは?! ラウルフィカに会わせてくれ! 話を……ッ!」
「……誰のせいで、今この国がこんな目に遭っていると思っている? 多忙な国王を貴様ごとき罪人に会わせる暇などあるわけがないだろう。そもそも、王子がお前に会いたいと思うのか?」
 鉄格子に縋りつくナブラに、ゾルタは氷の眼差しを向けた。一言だけ吐き捨ててミレアスを伴い踵を返す。
「貴様には失望した。いや、貴様ごときを買い被った私の失態か」
「宰相! 待ってくれ! ラウルフィカを呼んでくれ! こんな状況嘘だ! 待て、待ってくれ……!!」
 地下牢で絶望する囚人の叫び声がいつまでも反響していた。

 ◆◆◆◆◆

「うまくやりましたね、陛下」
「ゾルタか、何のことだ?」
「いつの間に皇帝陛下を手懐けたのです? ここまでの筋書きは、あまりにもあなたに都合が良すぎる。皇帝と共謀して、ナブラを嵌めましたね?」
「さぁ、何のことかな? 私は皇帝陛下を手懐けたりしていないぞ。いろいろお願いくらいはしたが」
 自室にてザッハールの治療を受けるラウルフィカは、まだ顔色こそ悪いがその目には闘志とも呼べる生気が宿っている。ゾルタとその背後のミレアスに、嫣然とした笑みを向けた。
 室内で微かに薫る植物の香のような匂いにゾルタは気づいた。そして胸中で舌打ちする。今はかなり薄まって効果が消えているが、これらの香りには確か人の興奮を促進する作用があったはずだ。すなわちいつもより人を大胆に、暴力的にする効果がある。ナブラはもともとの感情に加えこの香りを吸い込んでいたから衝動を抑えることができなかったのだろう。
 そしてこういった怪しい植物や薬品はザッハールの専門だ。材料を揃えるのが大変だが、それらはパルシャのヴェティエル商会を使えばどうにでもなる。宰相は宮廷魔術師長を睨んだが、彼は素知らぬ顔でラウルフィカの肩の包帯を替えている。
「あまり大胆すぎるのもどうかと思いますよ。御身大切になさいますよう」
「お前の口からそんな言葉を聞けるとは意外だったな、ゾルタ。私はお前たち五人には、自分を大切にする方法は教わらなかった気がするが」
 そう、ここまでのことは、全てラウルフィカの筋書き。
 まさかナブラがスワド帝を刺そうとするまでは考えなかったが、元からのラウルフィカへの執着と優れた権力者への劣等感と香の効果により、何らかの暴走を引き起こして失態を演じるとは思っていた。ラウルフィカはスワド帝と共謀してそれを殊更吊るしあげ、ナブラを追い詰めることにした。それまでも散々ラウルフィカにちょっかいをかけていたスワドは、ラウルフィカが自分を抱いて欲しいとせがめば簡単に話に乗ってくれた。
「プグナとの戦争もあなたが望んだことですか。大見栄を切ったは良いが、あなたごときにプグナを潰すことができると御思いか?」
「宰相こそ、私にそれができぬと思うのか?」
 ラウルフィカとゾルタは、お互い表面上はにこやかな笑みを浮かべたまま睨み合う。ゾルタの背後では、ミレアスが彼らを裏切ったザッハールを睨みつけていた。
「――いいでしょう、陛下。世間知らずで無駄に矜持だけ高い、見た目しか取り柄のないお子様のお手並み拝見といきますよ」
「ああ。忠誠深い宰相閣下、私が今更貴様の手など借りずとも良い事を、立派に証明して見せようとも」
 隣国との戦争と帝国の主までをも巻き込み、復讐劇が佳境を迎える。

 ◆◆◆◆◆

 皇帝は共もつけずに楽しげにベラルーダ王宮の回廊を歩いていた。
 この国に来て一番の収穫は他でもない国王だ。美しい黒髪の少年王は、彼自身さえも利用して面白い余興を見せてくれた。
 時間のある限りラウルフィカを傍に置いていたスワドだ。公的な時間だけでなく私生活でも彼に接触できないかと目論んでいた。ゾルタやベラルーダ側の人間が場を空けることも多く、この国に来ても退屈なだけで別段やることもないスワドは、自ら暇を見つけてはラウルフィカを探していた。そして麗しの王を探して廊下を歩きながら、たまたま銀髪の魔術師との会話を立ち聞きした。
 妬心を煽るだの、誰を貶めるだの、彼らは実に楽しい会話をしていた。
 何もなくてもあの美しさだ。ぜひに抱いてみたいとは思っていたが、まさかラウルフィカの方から彼にそれを乞うとは予想外だった。しかも、とある男の嫉妬心を煽り、暴走させるためにいっそ手酷くしろというのだ。いくらスワドが皇帝と言う立場である以上無茶な頼みごとをされることも多いとは言え、そんな頼みをしてきたのはラウルフィカが初めてだ。
 そうして皇帝と国王は上手く宰相たちの目を盗み、手を組んで貴族の一人を貶めることに成功した。予想外に流血沙汰にもなったが、ラウルフィカは己の怪我にさえ無頓着であった。それがスワドの興味を引いた。
 あの国王は面白い。もっともっとあれで遊びたい。関わってなおスワドのラウルフィカへの興味は尽きない。己の力で支配しつくせる地域は全て支配した男にとって、齢二十にして人生は退屈以外の何でもなかった。だがこの砂漠の小さな国は、そこに住む住人たちが興味深く、もう少しくらい楽しめそうだ。ラウルフィカを抱くのだとて、あれで満足したわけではない。
 飽くなき欲望に一時の充足とそこから派生する更なる欲望。次の渇きをどう癒すのか、皇帝は思索を巡らせる。
 ――と、背後に誰かの気配を感じた。
「誰だ」
「商人でございます」
 柱の影からそう名乗り出たのは、その名乗りに不釣り合いな少年だった。神秘的で中性的なラウルフィカとはまた少し違うが、これも随分美しい。スワド自身より大分淡い色の金髪をした、まだ十五にも満たぬ幼い少年だ。見た目はかよわい少女にすら見えるが、彼は帝国の支配者を臆すことなく見つめ、微笑んだ。
「商人か。このような場所で、売り物を持っているようでもないが何を売る気だ」
「そうですね。貴方様の心の渇きを癒す、愉快な話などどうでしょう? そう、例えばこの国の、麗しきラウルフィカ陛下に関することなど」
「ほう……」
 底知れない笑みを浮かべる幼い商人の姿に、皇帝はまたぞろ腹の中で欲望の蛇が蠢くのを感じる。背筋にぞくぞくと期待の波が寄せて、彼は少年の前に歩み寄っていた。高みから見下ろそうとも、少年はまったく動じる様子を見せない。
 いい目だ、と皇帝は思った。そして知った。
 これは私と同類だ。
「その話、ぜひ聞かせてもらおうか」