第5章 劫火(前編)
26.開戦
砂漠地域に多大なる影響を及ぼす帝国の皇帝に対し、ベラルーダ国王ラウルフィカは臣下の失態を贖わねばならなくなった。
「本当に、自ら戦場へ出向くおつもりですか」
皇帝の望みは、ベラルーダを通じてその隣国プグナを帝国の支配下に置くこと。友好国のベラルーダとは違い反帝国の気炎を上げているプグナを、ベラルーダに「取ってこい」というのだ。
ベラルーダ王国とプグナ王国の戦力は拮抗していてこれまで幾度も剣を交えて小競り合いをしたが、どちらかが勝つことはなかった。しかし皇帝の望みがプグナの敗北である以上、ベラルーダは何としてでも次の戦いでプグナ王国に勝たねばならない。
これまで危うい均衡の上にあった砂漠の勢力図が、皇帝スワドの登場により描き換えられることとなる。
「もちろん」
現状国内唯一の王族である国王ラウルフィカを今回の戦の指揮官として隣国との国境に出すことに、宰相であるゾルタは渋い顔をした。彼の権力が安定しているのは、このラウルフィカが玉座についているからである。隣国との戦争などで簡単に死なれては困るのだ。
ラウルフィカはまだ十八歳の少年であり、王族の責務として後継者を作るどころか、その手段となるべき妃もいない。王子であれば十代の前半で良家の令嬢と婚約、結婚していてもおかしくはないのだが、何せラウルフィカの場合は十三歳で父王を事故で亡くし、性急に玉座につく必要があったために結婚などしている暇がなかったのだ。
「戦場に出るのは初めてであるあなたが司令官となったところで、やすやすとプグナに勝利できるとは思えませんが?」
部下としては非常に辛辣なことをゾルタはあっさりと言う。苦々しげで忌々しげなその様子は、彼がラウルフィカに「忠誠を誓う」などと間違ってもないからだ。ゾルタにとっては幼くして玉座につき、こちらの言うことを簡単に聞かせられるラウルフィカは傀儡として都合の良い王だ。いや、――だった。
「やすやすとはできぬことを見事実現でもしない限り、この国の王と名乗る資格はないだろう。皇帝陛下もそんなものは求めていない」
これまでゾルタとその共犯者たちの手ごろな玩具であり、この王国にとっては傀儡でしかなかったはずの少年はついに真の王として玉座に昇りつめようとしている。ゾルタにもそれはわかっていたが、彼の立場上止められるはずもない。
宰相は憎らしげに国王を睨み、ぎりりと奥歯を噛みしめる。
◆◆◆◆◆
「陛下、本当にいいんですか?」
国王が戦場に乗り出すという話はベラルーダを混乱に叩きこんだ。その原因となった公爵ナブラ卿には、「王を皇帝の暴挙から守った」という、宰相が美談風に仕立て上げた話から同情と、「プグナとの戦いの原因を作った」という話から怒りが寄せられている。王宮の牢から解放こそされたが、今回の戦闘にも領地から兵を出すこと許されず自らの屋敷に蟄居を命じられている。破滅も時間の問題だろう。
「もちろんだ。もともと、このために皇帝陛下と共にナブラの前で馬鹿な芝居までしてみせたんだ。今更何を言う」
国王のための旅支度はすでに侍女たちが終えていた。明日から戦場へ赴くという晩、ラウルフィカの私室にはザッハールがいた。護衛のはずのカシムは彼自身も戦場へ行く準備が必要なことを理由に遠ざけられている。
「しかし、陛下の考えた作戦はあまりにも危険すぎる。単身でプグナに乗り込むなど」
銀髪の青年は立ち上がると、長椅子に優雅に腰掛けた少年王へと詰め寄った。長椅子の背もたれに片手を置いて、単に話し合うだけなら不要な程近付く。
これまで一度も自ら戦場に立ったことのないラウルフィカのことをザッハールは案じていた。ゾルタとはまた別の意味でラウルフィカの戦場行きを阻止したいが、ラウルフィカが聞くはずもない。
「私の身一つだから簡単なんだ。兵士の命は兵士のもの。いくら国軍元帥である国王に預けたと言っても、簡単に消費するわけにはいかない。ましてや私は皆の言う通り、これまで戦場で指揮をとったことなどない」
国王として軍事演習なら何度か行っているが、実戦に参加したことはない。その実戦というのがそもそもプグナとの小競り合いなのだ。いずれあの国とぶつかると予想していたなら参加しておくべきだったと、今悔やんでも後の祭りだ。争いを激化するような火種を投じたのはラウルフィカ自身とはいえ、ザッハールからは無謀にしか見えない。
「だがそれが私の命となれば話は別だ。私の命は私のもの。私の好きにする」
「陛下、あなたは王です」
「そうだな。だがただ王という冠を乗せていくだけなら誰でもできる。その時人が玉座に見るのは私の姿ではなく、私の頭の上の冠だ。そんな称号に何の意味がある?」
戴く玉座と、戴かされた玉座の座り心地は違う。
至近距離で僅かに色の違う青い瞳が不満げに覗きこんでくる。ラウルフィカはザッハールの頬に手を添えて妖しく微笑んだ。
「私は王になる前に、まず“ラウルフィカ”にならなければならない。ゾルタたちに無理矢理王冠を乗せられたことで奪われたこの五年間を取り戻し、改めて“ラウルフィカ王”とならねばならない」
「陛下はもう十分立派な王ではありませんか」
「本当にそう思っているなら、お前の目も節穴だな」
頬の横に落ちる黒髪を長い指で弄ぶザッハールの言葉に、ラウルフィカは軽い嘲笑を返す。もっともそうでなければ困るわけだが、という本音は包み隠しておく。
「そんなことを言うために来たわけじゃないんだろう?」
これからしばらくは戦場だ。以前ミレアスに無能と言われた通り、攻撃型の魔術師ではないザッハールは普段は小競り合いに関わることはなかった。だが今回は国王までもが出陣するということで、万が一のための同行が決められている。
しかし王宮と違って人の目のあるところで魔術師長と肌を重ねるわけには行かず、ザッハールは作戦に関しての話以外ではラウルフィカに近寄れない。そのために今晩を空けたのだ。
「お前がしなくていいというなら、私はさっさと寝るが?」
「いえ、待って下さい!」
欲望に正直な男は、性急に唇を重ね合わせた。ラウルフィカの服の胸元を肌蹴させると、まさぐる。
「ん……」
慣れ親しんだ快楽を与えてくる男に、ラウルフィカはすぐに身を任せた。いつの間にか長椅子にそのまま押し倒されている。
「陛下……」
白い胸元に唇を落としながらザッハールが熱を込めた調子で囁いた。
「戦場でも俺をちゃんと重用してくださいね」
「ん……どうだかな」
「こういう時ぐらい雰囲気に流されてくださいよ」
「他を当たれ他を……ん、あ、んん」
乳首を吸われてラウルフィカは甘い声を上げる。拗ねたザッハールは唇を尖らせるよりも、舌で小さな赤い突起を弄る方を選んだ。
「ちぇ」
「ああっ」
胸を弄られて下半身に血が集まっていくのをラウルフィカは感じた。ザッハールの手が衣を割って下肢をまさぐる。
「この肌に他の男が触れる場面を無理矢理見せつけられるとしたら、俺だって逆上して相手を刺し殺してしまいますよ」
ナブラのことを引き合いに出してザッハールは言うが、ラウルフィカの返答は素っ気ない。
「そんなことをするなら、お前を戦場には連れていけないぞ。作戦に関しては話しただろう? お前の力が必要だ」
「本当に些細な力ですけどね……あ、ちょっ」
労うようにラウルフィカの白い指に自身を慰められると、ザッハールの方も余裕を失くしていく。
「頼りにしているぞ、ザッハール」
「……仰せのままに」
様々な思惑を秘めて、夜が更けていく。
ベラルーダとプグナとの決定的な戦いの火蓋が切って落とされたのは、この翌日のことだった。