28.不穏
国王陛下が何をお考えなのかさっぱりわからない。
それが現在のベラルーダ兵全員の気持ちだった。ひとくくりに兵とは言っても、一兵士である二等兵、三等兵から上級大将などの階級まで、ほぼすべての人間である。末端の兵士たちに作戦の全容が伝わってこないなどよくあることだが、今回はいつもとは状況が違っていた。
ラウルフィカの指示は、「負けること」。この戦争を放棄しろというわけではなく何かの作戦の一環らしいのだが、その作戦の全貌らしきものがまったく見えない。そのことが兵の間に不満と不安を溜めていた。ラウルフィカの指示自体は細かく、どの将の部隊がどの場所で敵をどう誘いこむかなど決められていた。結果としてベラルーダ軍は実質的な被害は少ないが、傍から見れば戦闘初日にプグナ軍に大きく敗退したような形になっている。そのことは戦いに慣れた将たちの間に不審の影を落としている。
プグナ兵はいい気になり、ベラルーダ兵の間には不満が燻っている。
「陛下、どういうことです。いきなり“負けろ”などと」
戦闘初日の指令に納得がいかなかったらしい上級大将の一人が、砦内の国王の部屋を訪れて意見を申し立てに来た。しかし、ラウルフィカは彼の顔も見ずに今日の被害状況報告の書類に見入っていた。
「うむ、やはり無理があったか」
「そうですよ、負けろなどという命令で、兵士たちの士気が」
まくしたてようとした部下の報告を、ラウルフィカは聞いてはいなかった。自分の脳内の計算と今日の戦況を分析し、整理する。
「こちらが負けることはこれから重要となる作戦のうちだ。勝つのではなく負けるだけならうまくいくかと思っていたが、なかなかそれも難しいようだ。まぁ、もともとこれまで十年以上渡り合って譲らなかった我らがプグナにそうあっさりと負けるようにしろというのも……ん、どうした?」
部屋に入ってきていた大将の一人にようやく気付き、ラウルフィカは顔を上げて声をかけた。扉を開けたカシムが困った顔をしている。どうやら無意識に入室の許可を出していたらしい。
「陛下……今日の敗退はあくまでも作戦のうちと仰るのですか?」
「そうだ。まともにやりあえば我らのベラルーダ兵がプグナ兵ごときに無様を晒したりはしない。そうだろう?」
「もちろんですとも! このたびの事が全て陛下のお考え通りというのであれば、別によいのですが……そろそろ我らに陛下の作戦の全貌をお教えいただけませんか?」
「それに関してはすまないが、まだ無理なんだ。もうしばらくは“例え何があっても”私の指示を聞いていてほしい」
「……」
その大将は眉間にしわを寄せて不満を全面に押し出していたが、結局ラウルフィカの言葉に頷いて大仰な礼を返すと、それ以上何も言わずに部屋を出ていった。
「陛下……」
たまりかねた様子でカシムが声をかけてくる。
「兵士たちの間に不満が広がっています。陛下は何をお考えなのかと。今日の作戦はこれまで歴戦の将と呼ばれた将軍たちのどなたが考えたものでもないのでしょう? 陛下は初陣なのですから、せめて参謀として、ジュドー将軍のような方にご指示を仰いではいかがでしょうか?」
主君に逆らうことが苦手なカシムにとっては、それは精一杯の忠言だったに違いない。しかしラウルフィカはそれを聞く訳にはいかなかった。
「お前の言いたいことはわかる、カシム。だが、私はお前の言う通りにするわけにはいかない」
「ですが……」
「確かにお前の言う通り、ジュドーを参謀としてつけ、彼の考えた作戦を尤もらしく読みあげれば、私はそれだけで歴戦の将たちがそれなりに命を預けるに足る王となれるだろう。兵士たちも人望厚いジュドー将軍の命令ならば安心して聞けるだろうし、勝てるか負けるか、今ほど不安にはならないに違いない」
ラウルフィカが初陣だというのも兵たちの不安を煽っていた。初めて戦場に出るまだ十八歳の少年王が、参謀もつけずに兵士たちを動かしているのだ。それも誰が見ても安心できるような正攻法で攻め入るのではなく、何処を目的としているかもわからない奇策で。
命を預けるにたる信頼とは安いものではない。そしてそれがなければ兵士と国王の関係など築けるものではない。
「だがそれでは駄目なんだよ、カシム。これまで自分自身の力も努力も誰かに見せる機会のなかった私が、初めから誰かに頼る。それでは今までと何も変わらない」
「陛下……」
「私は王だ。しかしその器を、今まで誰にも見せてこなかった。それではいずれゾルタを退けることが叶っても、結局誰かの傀儡のままだろう」
ラウルフィカが王になるには、自分の力でその位を手に入れなければならない。そのためには、誰かの力を借りてはならないのだ。
ラウルフィカ側の事情を知っているカシムは、彼の覚悟を知り頭を下げた。彼にとって主君であるラウルフィカを案じるのは簡単だが、その身をただ案じるだけで彼を玉座に据え付けておけるわけではない。
「御用の際にはいつでもお呼び下さい。私も陛下のお役に立ってみせます」
「ああ、期待している」
ラウルフィカは彼に、一つ頼みごとをしていた。
◆◆◆◆◆
二日目の戦場は更にベラルーダの旗色が悪かった。初日の戦況を見て、ラウルフィカは更に計算を下方修正した。陣形が薄くなることも気にせず後方に撤退するベラルーダ兵の姿を見れば、プグナ兵でなくとも彼らの勝ちだと思うことだろう。
国境の砦で一度一つにまとめられた軍隊は、二日目の戦いですでに散り散りになっていた。両国の国境を境に北にプグナ国があり南にベラルーダがあるが、プグナの兵たちは国境をすでに南下し侵入してきていた。ベラルーダの兵士たちは陣地である砦の存在する南方向以外に、東と西と三手に分かれる形となっていた。
国王が何を考えて二日目の作戦を授けたのか、兵士たちにはまだ知らされていない。
知らされてはいないが、一部の人間に不満を与えるには十分な時間だった。
「……もう、我慢がならねぇ」
赤毛の上級大将が一人、負け戦の戦場を眺めて憎々しげに呟いた。彼らを追い詰めたと思いこみ、意気揚々と引きあげていくプグナ兵が憎たらしい。視線で彼らが殺せるものならば、馬上の背中にはとっくに穴が開いていることだろう。
「将軍、陛下の御命令で」
「そんなことはわかっている。ただ気分が悪いだけだ」
ただでさえ近頃ぴりぴりしているミレアスに話しかけるのは、彼の直属の部下と言えども勇気がいった。あらゆる感覚の麻痺しがちな戦場で、それでも不機嫌なミレアスに声をかける者はほとんどいない。
ミレアスが不機嫌なのは、単純にこれが負け戦だからというだけでもなかった。彼にとっては、ああしろこうしろとラウルフィカが命令を下している、その状況だけですでに我慢がならないところまで来ていた。
カシムとの決闘騒ぎの後、軍部でのミレアスの評判は地に落ちた。中にはあれはカシムに国王付きの騎士として相応しいだけの栄誉を求めた八百長試合だろうと看破しミレアスの機嫌をとろうとする者もいたが、その相手にしたって真実は知りようがないのだからミレアスにとっては何を言われても不愉快なだけである。ラウルフィカがカシムをけしかけてミレアスを貶めたことに関しては、みだりに人に話してはならないとゾルタに厳命されている。
ミレアスにとっては、ラウルフィカなどこの国で最も信用ならない人物だ。ある意味で彼だけが、ラウルフィカの頭にあるのは彼ら五人への復讐のことだけだと最も正確に把握していたと言えるのかもしれない。
そんな男が国の頭として戦場に立つのは危険すぎる。それに、ミレアスは自分を鞭打ったラウルフィカへの恨みつらみを忘れたわけではなかった。この戦場でのことだってラウルフィカの復讐への足がかりとなるためだけに仕組まれたのかもしれない。
そう考えればミレアスにとって、ラウルフィカはその言葉を信用するしない以前に、ベラルーダから排除せねばならない存在だ。
そういった考えから引き起こされた行動はあまりに短絡的だった。
彼はまだ、ラウルフィカへの、そしてゾルタやナブラの態度に象徴されるベラルーダという国そのものに憎悪を抱いていた。
「ミレアス?」
砦内の国王の執務室へ訪れた男の姿に、ラウルフィカはまず不審と警戒を抱いた。だが武芸に関して精々護身術程度の技しか身につけていないラウルフィカの警戒など、ミレアスにとってはあってないようなものだった。
隙を衝き、黒髪と衣装の襟元から覗く白いうなじに手刀を軽く叩きこむ。
「な――」
ミレアスにとってはそれだけで十分だった。たったそれだけの動作で、ラウルフィカは気を失い、たいした傷も作らないまま、簡単にミレアスの腕の中へと倒れ込む。
簡単なのだ。こんなすぐにでも捻り殺せそうな若造から全てを奪うことなど。ラウルフィカが二日続けて戦場で失策をとろうとまだ命があるのは、彼が大勢の兵士に守られているからであり、ラウルフィカ自身の力ではない。
ミレアスがカシムに負かされたこととて、カシム自身の実力とザッハールの手助けがあってこそであって、それらは何一つラウルフィカの実力ではない。そんなことも理解せず自分に大層な実力があると勘違いした小僧に踊らされるなど、武人としてミレアスは我慢がならなかった。
そして彼は武人としてはともかく、軍人としては最も「ありえない」行動に出る。ラウルフィカが復讐に囚われているというなら、今のミレアスもまた同じだった。どれだけ相手に屈辱を与えるかだけを考えて、その行動が示す後先のことなど考えもしていなかった。
彼が向かったのは、プグナ兵の見張り小屋だった。プグナの砦から離れた場所で、ベラルーダ軍の動きを見張るための場所だ。出て来た見張りの兵士を何とか言いくるめて、ミレアスは彼らと取引する。
――こうして一人の男の裏切りにより、ベラルーダ王ラウルフィカはプグナの捕虜となった。