劫火の螺旋 05

31.潜入

「陛下、本当に大丈夫なんですか?」
 ザッハールの言葉は真にラウルフィカ自身の身を案じる言葉だ。だからこそこれより無謀な行動をとろうとするラウルフィカに対してよい顔はしない。
 戦場に着く前の話だ。隣国に潜入するならば自分を護衛につけろと言ったザッハールの言葉を、ラウルフィカはやんわりと跳ねのけた。
「かまわない。どうせこれが失敗して立場を失うなら、それは死んだも同じこと。たかが死ぬ程度の危険など、もはや危険などとは感じない」
「陛下」
 ラウルフィカの言葉はザッハールの心配を和らげるものではなく、むしろ彼を案じる気持ちを高めるようなものであった。まるで死ににでも行くような言葉だとザッハールに思わせた。けれどラウルフィカはもう一度、護衛は必要ないと繰り返した。
「何もかもが上手くいくなんて思っていない。私の考えたことが全てに通用するなんて思っていない。けれど、だからこそ、そんな時にお前が傍にいれば、頼りたくなる」
 ザッハールは悲痛な顔をした。
「だから、お前は連れていかない」
 彼が傍にいなくても、ラウルフィカは戦い続けなければいけないのだから。

 ◆◆◆◆◆

 ミレアスが陣地に戻った時、ラウルフィカの不在はすでにベラルーダ軍の上層部に知れ渡っていた。末端の兵士たちにまでは知らされていないが、ラウルフィカから直接指示を与えられてきた隊長たちまでは全てそのことを知らされた。
 自分が尋問されることとなっても、ミレアスはまったく動じていなかった。ここでしまったと後悔するような男ではない。
 というよりも、ミレアスが己の行動を後悔するような暇がなかったと言った方が正しいか。戻ってきたミレアスの体に貼り付けられていた手紙を、ザッハールが見つけて読みあげる。
 肌や服に触れればすぐ気づかれるだろうと、わざわざ鎧の部分にそんなものを貼り付けたのはラウルフィカだ。ミレアスに拉致され敵国に売られたこと自体は、ザッハールが把握していた。
 ミレアスによるラウルフィカ拉致は、ラウルフィカの意向ということにされていた。ミレアスは愕然とするが、何故か周囲は納得している。この状況には、ミレアスも違うとは言い出しにくい。悪事が露見したのに悪事と受け取られないのは、それはそれで苦痛だった。何故そんなことをしたのかという問いをこそ予想していたのに。気づけばラウルフィカの手の中で踊らされていたのだ。
「してやられたな、ミレアス」
 他でもない裏でラウルフィカの意向と周囲の役割を微調整した立役者であるザッハールがそう言う。ザッハールとしてもまさかミレアスがあんな暴挙に出るとは思わなかったため、彼の行動に怒りを抱いている。愕然とするミレアスの顔を見て初めて溜飲が下がった気分だ。
 戦の途中で突然姿を消した国王の行動に、歴戦の将たちからは不信感が寄せられている。ラウルフィカは隣国に潜入したのだとザッハールから告げられてはいるが、むしろ国王の行動は自分だけ戦場から逃げたのではないかと思う者が大多数だった。
 そんな周囲を説得する立場の者こそがカシムだった。上司の信頼も厚い真面目な騎士は、今回の戦に関するラウルフィカの考えをここで初めて明らかにする。
「そもそも国王陛下は、プグナと正面からやりあおうとは考えていませんでした」
 簡単に勝てるのならば、これまでの小競り合いの時点で決着がついていただろう。国力に影響しない程度に相手国をあっさりと併呑できるならば、帝国の目も気にする必要はなかった。
 集まった将、諸侯の様々な思惑や意見を含んだ眼差しを受けながら、カシムは説明を続ける。
「今回の事、皇帝陛下は“プグナを取ってこい”とは仰いましたが、それは戦争でかの国を打ち負かせという意味ではないとラウルフィカ陛下はお考えです。むしろ、我が国の兵力を削らずにプグナを手中に納められれば、それこそが皇帝陛下のお望みだと。そのためにラウルフィカ陛下は、自らプグナへと潜入されました」
 ほぼ単身で敵国の中枢に乗り込むなど無茶な話だが、実際にラウルフィカがやってしまったのだから仕方ない。
「何故そんな無謀なことを。我らに一言の相談もなく!」
「“相談すれば、許可したとでも言うのか? マロード卿”とのことです」
 カシムはラウルフィカに渡された指示をそのまま読みあげる。先日ラウルフィカに作戦を教えろと直談判に来た将の名まで手紙には書いてあった。ちなみにこの指示書はミレアスの体につけてあった走り書きとは別の手紙だ。
「陛下は戦場に出た実績のない国王です。いきなり何をどうしたいのだと言われても閣下方が頷かれないのは予想されていたようです。しかし陛下は初陣となるこの戦いで皆様に己の実力を示しつつ、皇帝陛下に対する失態も贖いベラルーダ国王としての威勢を見せつけねばならなかった。そのための行動です」
 皇帝の時と今回、二度に渡り主を守れないという失態を演じたカシムへの非難の眼差しも大きい。だがカシムはラウルフィカに命じられた通りに、諸侯の説得を努めた。
「陛下はプグナ王国を内部から切り崩す奇策をお考えです。これ以降も、陛下の指示に従っていただきます」
 カシムがラウルフィカから渡された、事こまかな指示を明らかにするその時だった。
「こんにちはー」
 戦場に不釣り合いな明るい声がベラルーダの陣に響く。困った顔の取次の兵士が、どうしてもこの部屋に連れていけと命じられて逆らえなかったと言いながら、その人物を重大な会議の場に招き入れた。
「御注文の品をお届けに参りました。憎いあいつを斬り殺す長剣、うるさい相手を黙らせる拘束具、忌々しい敵兵を吹っ飛ばすための爆弾、戦場を血の海に変える罠の数々。そう、あなたの“ささやかな欲望”を満たす死の商人こと、ヴェティエル商会でーす」
 殺伐とした国王不在の砦に朗らかな声で怖い売り文句を口にしながら現れたのは、少女と見紛う美少年だ。ラウルフィカのように少年と青年の境にあるわけではなく、本当にまだ「子ども」と言った年頃の少年である。諸侯たちは呆気にとられた。
「レネシャ殿!」
 カシムが名を呼んだ。彼はもちろん、このヴェティエル商会の御曹司を知っている。しかしレネシャのことを知らない者も多く、会議室にまたもや困惑のざわめきが広がり始めた。今回の戦は経緯も、帝国に見張られている圧力も、並々ならぬものがある。それを知らないのではなく、気づいていながらこの場に爽やかな笑顔を浮かべて入って来れるレネシャの態度に、得体の知れない威容を感じた者もいた。
「商人? そんな話は聞いてないぞ」
 近くの軍人が問いかけるが、レネシャはやはり笑顔で返す。
「注文されたのはラウルフィカ陛下ですよ。外の馬車に積んであるのがお届けの商品です」
「その、陛下が注文した商品とはなんだ?」
「火薬です。ちなみに量は……」
 そしてさらりとレネシャが口にした量に、貴族騎士の諸侯も歴戦の将も例外なく仰天した。
「何をお考えなのか陛下は! プグナを丸ごと燃やす気なのか!」
 上手くやれば一国の半分を吹き飛ばせるほどの量の火薬を国王が注文したと聞いて、集まった軍上層部の者たちは激しく動揺した。
 ラウルフィカ王は本気なのだ。皇帝の手前大軍を挙兵して戦ったという実績だけを作ればいいと考えているわけではなく、本気でプグナを潰そうとしているのだ。
「……陛下の作戦をお耳に入れていただけるでしょうか」
 カシムは声を張り上げ、諸侯に問いかけた。
 会議室に沈黙が訪れた後、代表してジュドー将軍が「聞こう」と了承の言葉を返した。

 ◆◆◆◆◆

 会議が無事に終わり。カシムはほっと一息ついた。彼の仕事はまるで耐えることだと言わんばかりに、最近のカシムに任せられることはどれも一筋縄ではいかない、表だって活躍もできない内容ばかりである。
 国王の騎士であるカシムの本来の責務は「ラウルフィカ王を守ること」。だが、肝心のラウルフィカ王はカシムに自分を守らせてはくれない。
「よぉ、カシム殿」
「ザッハール殿」
 国王の執務室でカシムはザッハールと顔を合わせた。銀髪の謎めいた魔術師は、その腕に白い翼を持つ小鳥を止まらせて窓枠に腰掛けている。
「何をされているのですか?」
「ちょっとプグナの様子を探ってた。我らの陛下は一応無事だ」
 一応、という言葉が気にかかったものの、ザッハールが無事だというのであればラウルフィカは無事なのだろう。カシムはひとまず安心した。そして、ちょうどこの魔術師長と二人きりになったのだからと、彼に聞いてみたかったことを思い出した。
「ザッハール殿は……気になさらないのですか?」
「……何を」
「陛下が護衛もつけずにプグナへ一人で向かってしまったことを」
 実際にはミレアスに攫われて売りつけられたといった方が正しいのだが、ザッハールはカシムにあれはラウルフィカの作戦だと伝えていた。ただでさえ負担の激しい位置にいるカシムに、これ以上余計な気苦労をさせるのは得策ではない。ザッハールは魔術でラウルフィカと連絡をとることができるので、国王から直接そう指示を受けていた。
 と言ってもラウルフィカのその考えは、真にカシムを案じての行動というわけでもなかった。これからも充分利用できそうな手ごろな駒であるカシムに、ラウルフィカ自身が裏切られては困るという判断からである。
 だがそれもどうやら十分な効果にはならなかったようだ、とザッハールは思った。
「陛下にとって、私は……本当に私たちは必要なのでしょうか。あの方は何でも、一人でやってしまわれるから」
 カシムはラウルフィカに自分が求められないことに不満を感じているのだ。ラウルフィカは深窓の令嬢にも引けを取らない気品と美しさを持っているが、中身はやはり世継ぎの王子として育てられただけあって行動的で攻撃的だ。黙って守られるという行為が苦手である。
 その妙なる不均衡こそがラウルフィカの魅力だとザッハールなどは考えるが、カシムにとってはそうではない。カシムはラウルフィカを騎士として守りたいのだ。もうすぐ青年とも呼べそうな年頃の少年に対し、何もしない何もできないお姫様のように思っている節がある。その考えと現実のラウルフィカの行動との差にいつも戸惑っている。
「いえ、陛下にあなたという存在は必要なのかもしれません。けれど私のことは、どうも必要とされてない気がするのです」
 ミレアス避けとしては役に立ったが、カシムが最も活躍したのはその時だけだ。皇帝の時も今回隣国に侵入する特も、カシムはラウルフィカを守れてはいない。
 それが騎士にとっては不満だった。
「俺だって必要となんかされてないさ。便利だから使われてるだけだ」
 ザッハールはとりあえず真実を言った。確かにカシムよりはザッハールの方が重用されているだろう。だがそれは彼が魔術師だからだ。
「陛下は王様であってお姫様じゃないからな。ただ守られてるだけじゃなく、自分で動かないと納得できないんだろうよ。何もしない王様よりはいいだろ?」
「それはまぁ、確かに」
 一度は納得した様子を見せたカシムだったが、その顔つきを見ると心情的に落ち着いていないのは確かだった。
 だが続く台詞は彼がここにいない主君の身を案じるものだったので、ザッハールはこれ以上余計な口を挟む必要はないと考える。
「国王陛下……どうぞご無事で」
 しかしこの頃から確かに、カシムの中でラウルフィカに対する小さな不審が芽生え始めたのかもしれなかった。

 ◆◆◆◆◆

 戦場のザッハールからもたらされた、ミレアスによる国王拉致の話は宰相ゾルタをもってしても一瞬心臓を止めるにおかしくない衝撃だった。
「それは面白いことになったな」
 ゾルタの顔色が憤怒で赤く染まる。療養という名目でベラルーダに居座る皇帝スワドは、それを見て愉快そうに笑った。
 不幸なことに、ラウルフィカにプグナ侵略を命じた皇帝がその時同じ部屋にいた。ゾルタ側の事情を汲むという注意を怠ったザッハールのせいで、ベラルーダの重要事があっさりと帝国皇帝にまで筒抜けだ。馬鹿二人の失態に加えこの不利により、ゾルタはいよいよ頭の血管がぶちきれそうになった。
 だが素直に自分の血管をぶちきっている場合ではない。ミレアスとザッハールが馬鹿なのは今に始まったことではない。彼らより数段賢いはずのナブラでさえあんな失態を犯したのだ。
「どうしてくれるのですか! 皇帝陛下!」
 防御よりは攻撃だと、ゾルタはその憤怒を皇帝への叱責に転じることにした。国同士の付き合いの場合、例え自分の側が悪くても謝らないのが普通である。むしろ下手に出れば弱味につけこまれる。こんな事態になったのはそもそも皇帝が無茶な命令を出したことが原因だと彼は糾弾した。
「わかっておられるのですか、皇帝陛下。これでラウルフィカ陛下が戻らなかった場合、ベラルーダは唯一の直系王族を失うこととなるのですよ」
「そうだな。だがお前にはその方が都合がいいんじゃないか?」
 スワドは笑う。だが周囲はその言葉に息を飲んだ。ゾルタとスワド、それから召使が数人程度しかいなかったが、それでもこの場の全ての人間の呼吸を奪うには十分な一言だった。
 その言葉は、簡単に口にしていいようなものではない。
「……いったい何を仰るのです」
 ゾルタは平静を取り繕ったが、皇帝には通じなかった。スワドが高笑いしながら、自分より十五も年上の他国の宰相の闇を覗き込む。
「ラウルフィカが戻らなければ、名実ともに宰相たるお前がこの国の実権を握れるものなぁ! 取り繕った言葉で私を動かそうなど生温い。さぁ、ぶちまけろ、お前の欲にまみれた本心を!」
 挑発にゾルタは乗らなかった。ひたすら奥歯を噛みしめ、指の関節が白くなるまで拳を握りこんで耐える。しかしスワドの言葉はこの部屋にいる誰もが真実だと思えた。ゾルタの権力欲に関して近くにいる者は誰でも知っている。
「誘いに乗らないか。やれやれ随分大人でいらっしゃって、結構なことだな。ゾルタ宰相」
 不自然な言葉遣いで嫌味を言った皇帝は、それきりゾルタに興味を失ったように、両側に美女を侍らせた怠惰な時間に戻った。
 この時ゾルタは知らなかった。今の挑発に、ラウルフィカだったらなんと答えるだろうという想像に皇帝が耽っていることを。