劫火の螺旋 06

33.王妃

 ファラエナ王に抱かれるようになってから、ラウルフィカは彼の奴隷扱いとなった。
 奴隷とはいっても、暴力を振るわれたりきつい労働をさせられたりという意味ではない。王の愛妾という言葉に、女ではないということで区別をつけただけだ。更にラウルフィカに関して言えば、捕虜であるからという意味合いも大きい。
 ファラエナ王はラウルフィカを着飾らせて自身の傍に置いた。ラウルフィカの移動できる範囲は部屋の幾つかと城の中庭だけ。中庭に出ることを許されたのは、与えられた部屋が中庭と繋がっているからだ。逆に言えばそこから出られる中庭とその部屋自体しか訪れることはできないと言えよう。プグナ側としてはいくら捕虜としていてもベラルーダの王に好き勝手をされるわけにはいかないのだから当然のことだろう。
 ファラエナはラウルフィカをベラルーダの王として見る思いと、単純に美少年を愛人として侍らせたい思いの狭間で揺れ動いているようだった。ラウルフィカを娘の婿とする案を撤回はしなかったが、腰布一枚に装飾品だけを纏わせた姿は同じ国王や貴族としてのものではなく、愛人としての態度や装いをラウルフィカに求めていた。砂漠の国とは言え、こんなに露出の多い格好は酒場の踊り子か奴隷でもなければしない。
 ラウルフィカは与えられた区画以外を訪れてプグナ側を煩わせることはしなかったが、何も考えていないわけではなかった。毎日部屋に閉じこもるのは辛いと、監視の目がもう少し緩い中庭に出ていた。
 そしてその日、ラウルフィカは王の命をものともせず中庭へとやってきた人物と顔を合わせた。
「あら……あなたは」
 美しい貴婦人だった。ラウルフィカのように素顔をぱっと見て人が美しいと思うような類の美貌ではない。しかし完璧に施された化粧と隙なく整えられた格好、そして気品に溢れる物腰は、ラウルフィカがこれまでプグナで見た誰よりも「貴人らしい」と思わせた。
「どなた? 見た事のない顔ね。ここは誰も使っていない後宮の一角だと思っていたけれど」
 中庭と言ってもラウルフィカが与えられた部屋に近い辺りだ。それを指して彼女は言ったのだろう。
 口調は丁寧で、純粋に疑問に溢れていた。彼女の方から名乗らないのは相手を軽く見ているわけではなく、恐らくプグナでは名乗る必要もない程に有名なのだろうとラウルフィカは見当をつける。
「私はラウルフィカ・アズン・フェイ・セラ・ベ――」
「ベラルーダ王?!」
 ラウルフィカが名乗り終える前に、彼女は彼の正体に気づいた。
「ベラルーダの王を捕虜として捕らえたという話は本当だったというの?!」
 彼女はその事実を知りながら、正式に知らされたわけではない複雑な立場にいるようだ、とラウルフィカは分析した。そこで彼女は自分の態度に気づき、これまでのことを軽く謝罪した。
「……大変失礼をいたしました。わたくしはアラーネア・ロム・ロスル・ゾイ・プグナ」
「王妃殿下」
 ラウルフィカは驚いた顔を作る。彼女の衣装や振る舞い、言葉とその内容からある程度予想はついていた。ついていたが、まったく驚かなかったと言えば嘘になる。
 プグナのアラーネア王妃は確か今年で三十八歳。ラウルフィカと同い年の十八歳の娘を持つ、ラウルフィカより二十歳年上の女性である。
 とはいえ、見た目にはまったくそう見えなかった。ラウルフィカの目の前の貴婦人は、二十代で通じそうな若々しい美しさを保っている。それでも未婚の娘のようなはしゃいだ空気がなく、理知的な黒い瞳には常に落ち着きと憂いを湛えていた。
 二人は一応捕虜とそれを捕らえた国の王妃という立場であったが、アラーネアはラウルフィカがベラルーダ王と知ると、それ相応の態度をとろうとした。貴族の付き合いとはそういうものだ。敵は憎いから蔑む、などというほど単純なものではない。
 しかしそうはっきり言い切ってしまうのも、今度はファラエナのやり方を否定することになる。ファラエナは憎しみや蔑みよりはむしろ色欲というのが強い動機だが、ラウルフィカを確実に自分のものにするために、ラウルフィカを奴隷として自分の手元に置きたがった。
 中庭は構造上監視の目が多少緩く、ラウルフィカは王妃と二人人目を盗んで、そういうことを話し合った。はじめは警戒心を見せていたアラーネアも、ラウルフィカが現在の自分の立場を話すうちに打ち解けていった。
 王妃である彼女としては、まがりなりにも現在夫の愛人であるラウルフィカを憎んだり嫉妬したりしてもおかしくはない。だが彼女がラウルフィカの事情を知った際、真っ先に見せた感情は同情と諦観だった。そこにはベラルーダからは探りきれなかった、プグナの内情が関わって来る。見張り小屋の兵士たちの言葉もラウルフィカには参考になった。
「わたくしとファラエナ陛下は、見ての通り愛情で結ばれた夫婦というわけではありません」
 それは完全な政略結婚だった、とプグナの王妃は語り出す。プグナの玉座は男子が継ぐのが普通だが、ファラエナの先代王には男子が少なかった。そこで当時の王は自分の弟の娘、つまり先代王弟の娘であるアラーネアと、自分の従兄弟の息子であるファラエナを結婚させファラエナに王位を継がせたのだ。
 名目上国王はファラエナだが、それには直系の王族に近い血縁のアラーネアの存在が不可欠となる。足りない血筋を補ってファラエナはようやく玉座に着ける程度の血だったのである。
 しかしそれは王国として王族の血統を守るためには有効な方法であっても、夫婦二人の問題となると必ずしも良い方法とはいえなかった。ファラエナもアラーネアも王家の義務として一人娘をもうけたが、彼らの間に子どもはその王女だけだ。男子はいない。
 王でありながら王妃より血統という意味で劣っているファラエナは、アラーネアに対し良い感情を持たなかった。それどころか、事あるごとに彼女に冷たく当たったという。更にはアラーネアがこの砂漠地域では数の少ない「魔術師」であることも夫の感情に影響した。魔術師に対する感情は同じ砂漠地域の人間でも環境によって異なるだろうが、少なくともファラエナは魔術師が嫌いのようだ。
 このようなことを王妃はラウルフィカに話した。彼女にとってはラウルフィカは自分の娘と同い年の子ども。高貴な血筋でありながら帝国に圧力をかけられて初陣に赴いたあげく敵国の王の愛人にされているのを、黙って見てはいられないのだろう。
 彼女の話を聞きながらラウルフィカは、ファラエナ王のアラーネア王妃に向ける感情を、自分より優れた者に対する嫉妬だと解釈した。自分よりも血統で優れる、もしもプグナが女子に継承権を認めていれば自分で玉座に着いたかもしれない有能な王妃。
 容姿も気品に溢れ話し方も完璧で、王族としてまさしく隙がない。それに彼女は夫に不満を抱いているようではあったが、明らかに貶めるようなことは言わなかった。女特有の醜ささえ見せない理想的な王妃としてアラーネアが振る舞えば振る舞うほど、彼女に対する嫉妬がファラエナの中に蓄積されたに違いない。
 それこそ罪でも何でもない魔術師としての特性を偏見に従って貶めるくらいしか、ファラエナ王にとってアラーネアは隙のない王族なのだ。
 これほど美しい妻がいながら愛人を一度に何十人も抱えているというファラエナの胸の内とはそういうものだろう。国を治めるのに関し最も協力せねばならない王妃への嫉妬、それがファラエナを愛人へと走らせる。
 見た目だけの妾を何人も侍らせている時は口煩くも言われないし、王は王妃に不満があるのだと、無言でアラーネアを責められる。
「あの人がわたくしに不満を持っていることはわかっています。けれど、そのためにベラルーダの王陛下まで愛人のように扱うなど、許されることではありません」
 アラーネアは真摯な瞳をラウルフィカに向けた。
「お逃げください、ラウルフィカ陛下。折を見てわたくしが何とかいたします。あなたはこのようなところにいてはいけません」
「……逃げたいのは、あなたの方ではないのですか? アラーネア妃殿下」
「え? ――あ、何を」
 突然彼女を抱きしめた少年の行動に、王妃は動揺した。ほんのりと顔を赤らめ、焦った様子でラウルフィカを見上げる。
「私よりも、あなたの方が余程このプグナの王妃という立場の檻に囚われているようだ」
「ら、ラウルフィカ陛下」
「私は私のことよりも、あなたの幸せの方が気にかかります。あなた自身を愛してくださらない王など」
「それは言ってはいけませんわ。万が一にでもファラエナ陛下の耳に入れば、あなたでもただではすみません」
「何を仰います。私はどうせ元よりこの国の敵。今更不敬を働いて殺されることなど怖くはありません。――ただ、その前にもしもできるならば、あなたをその辛い立場からお救いしたい」
「何を……」
 ラウルフィカは片腕でアラーネアを抱きしめながら、片手で彼女が胸元に置いた手を取り握りしめる。それはもちろん友愛などというものではなく、恋人の距離だ。驚くアラーネアの瞳を、至近距離で見つめる。
「いつか私が、あなたをこの国から攫っていきます」
「なんてことを……」
「ファラエナ王に憎まれてでも、強引にでも。あなたには私が若造にしか思えないかもしれませんが、私はあなたを」
「そ、それ以上仰ってはいけません!」
 アラーネアは慌ててラウルフィカを遮った。顔立ちが中性的だと、美しいだのと言われてもラウルフィカは性別的には男だ。抱きすくめられてそれを実感した王妃は、彼女らしくもなく動揺していた。
「出会ったばかりで、そのような振る舞いは慎んでください。あなたは今、敵国に囚われて不安になっているのです。わたくしがたまたま甘い言葉をかけたからといって、気を許してはいけませんわ」
「……やはり、あなたはお優しいのですよ。妃殿下。本当に私のことを敵だと思っていたら、そんなことは言えません」
 ラウルフィカが腕を離して拘束を解くと、年上の貴婦人はほんの少しだけ名残惜しそうな表情をしながらも離れた。
 ラウルフィカは彼女と真っ直ぐに向かい合いながら尋ねた。
「また、ここで会うことができますか?」
「それは……」
 アラーネアは戸惑う様子を見せた後、結局何も答えずにドレスの裾を翻して駆け去ってしまった。
 しかしラウルフィカの方では、また確実に彼女が自分に会いにこの場所へ来るだろうと手ごたえを感じ、三日月の形に唇を歪めた。