劫火の螺旋 06

36.殺害

「これは一体、どういうことだ」
 顔色を失っていたファラエナの声に静かに怒気が籠もる。
「アラーネア! 何故貴様がここにいる?!」
 彼の怒りはまず自分の妻へと向けられた。普通なら妻を誘惑した男の方に行きそうなものだが、ファラエナの場合は違った。咄嗟にラウルフィカの胸を押して体を離したものの、アラーネアは凍りついている。
「何故貴様がラウルフィカと! ええい、離れろ! 貴様のような女にこれは渡さん!」
 ファラエナの怒りは、ラウルフィカにアラーネアを奪われたというより、アラーネアにラウルフィカを奪われたという方向に向かっていた。プグナの王にとって妻はいつまで経っても彼の行く手を阻む競争相手であり、ベラルーダの若き王は彼の敵ではなかった。
 それほどまでにファラエナにとって妻への憎しみは強く、ラウルフィカのことは侮っていた。
 ファラエナが咄嗟に妻に手を上げようとしたところを、ラウルフィカは庇った。アラーネアを打つ代わりにラウルフィカの頬をかすったファラエナの手が、一筋の傷を作る。
「ラウルフィカ、お前……」
「この方は、傷付けさせません」
 これまで間違っても傷など作らぬよう彼自身が気をかけていた顔に傷を作り、平然とそんなことを言ってみせたラウルフィカの態度にファラエナは激昂した。
「お前……お前が、裏切るというのか! 余を!」
「へ、陛下!」
 アラーネアが悲鳴を上げる。ほとんど半裸のラウルフィカと違いしっかりと衣装を身に着けていたファラエナは、その懐から短刀を取り出したのだ。
「衛兵! 王妃を捕らえよ!」
「何を?!」
「こやつは敵国の王に通じた姦婦なり! そしてラウルフィカ、お前にも償ってもらうぞ! 言ったはずだ。余を裏切るようなことがあれば、手足を斬り落とし首輪をつけて飼うぞと」
「裏切った覚えはない」
 ラウルフィカは淡々と言った。
「裏切るも何も、最初からあなたの味方になった覚えがない」
「――もういい!」
「陛下! おやめください!」
 血走った目で短刀を向けるファラエナに、ラウルフィカは背筋に汗を伝わせながらも向かい合った。アラーネアを遠ざけさせ、一世一代の賭けに出る。
 護身術は一通り叩きこまれたが、これまで幸か不幸か使う機会はなかった。刃を向けて来た相手に素手で対峙するには――。
 瞬時に思い出した技をかけ、ファラエナ王の刃をかわす。そのまま短刀を持つ腕を捻ると、その刃をファラエナ自身の腹部に刺しこませた。
「――陛下!」
 アラーネアが悲鳴を上げる。
 短刀とはいえ急所を深く刺された王は、刃を抜いた数瞬後にはすでに事切れていた。中庭の下草に、腹部を傷付けたための赤黒い血が落ちる。
 王は中庭に護衛を連れてきていなかったため、衛兵が来るまでまだ少しの時間がある。その間にけりをつける必要があった。
「アラーネア様」
「ラウルフィカ様……」
「あなたは、私が許せませんか? ですが私は自分の信じることをし、ベラルーダの王としての行動を取ったまで」
 貴婦人を凶刃から守るのは男の役目、プグナ王を殺すのはベラルーダ王の役目。
「あなたにもしも――ほんの一欠片でもいい、私を愛してくださる気持ちがあるのなら」
「言わせないで下さい。ラウルフィカ様、この状況ではもう、わたくしには選ぶ道などありません」
 アラーネアが涙を零しながら、返り血に濡れるラウルフィカの腕の中へと飛び込む。
「お連れくださいませ、あなたの国へ。夫が目の前で殺されても何も感じないなんて、……それよりもあなたのことばかり案じているなんて、わたくしはプグナの王妃失格です」
 とうとうラウルフィカはアラーネアから望む言葉を引きだした。
「プグナはもう終わりだわ。でもどうか、この国を滅ぼすなら、どうかあなたの手で――」
「プグナを悪いようにはいたしません」
 血塗れの手でラウルフィカはプグナの王妃から、ベラルーダの王妃となることを決意した女性を抱きしめた。だが、そうしていられる時間はこの場では長くはない。
「ザッハール! 聞こえるか!」
 ラウルフィカは誰もいない虚空に呼びかけた。アラーネアが目を瞠る前で、銀髪の青年が唐突に何もない空間を割って現れる。
「はいはい、聞こえてますよ。建物の中でなければ多少は術の通りがいいようですね。これは未来の王妃様、御機嫌麗しゅう」
 血塗れの惨状で呑気な挨拶をする青年に、アラーネアは「魔術師」と呟いた。
「これは我が国の宮廷魔術師長ザッハールと申します。本人の申告によるとあなたより魔術の腕では劣るそうですが」
「酷い言い方ですね、陛下。こんな俺でも、先程死んだこのプグナ王に仮初めの命を与えることぐらいはできますよ」
「――なんですって?」
「最初からこうするつもりだったのです、アラーネア様。……私はベラルーダの王ですから」
 ラウルフィカの言葉に、アラーネアはどんどん顔色を失っていった。これから他でもないラウルフィカの手により作られる惨劇に、言葉も出ない。
「私を嫌いになりますか? あなたの国を破壊する男だ。今ならまだ間に合うかもしれませんよ」
「酷い……本当に酷い方ですわ……ラウルフィカ様」
 アラーネアは静かに涙を零すと、再びラウルフィカの血塗れの手を取った。
「わたくしがもう、あなたを見捨てることなどできないことを、あなたが何者でもあなたしか選べない、こんな時になってそれを告げるなんて」
 そう言いながらも、アラーネアがラウルフィカの手を離すことはない。それを確かめてから、ラウルフィカはザッハールに今後の指示を出した。
「この国を滅ぼせ」