劫火の螺旋 06

37.火焔

 彼は何故、自分がそのような状態になっているのか理解できなかった。
 刺された傷の痛みは感じていなかった。しかしそれは彼が感じていないだけで、傷は間違いなく彼の体にぱっくりと口を開けて赤黒い血をだらだらと零していた。
 ぼんやりとした思考の隅で、ゆっくりと黒髪の少年の記憶を思い出す。
 ――ああ、そうだ。裏切ったのだ、自分を。
 ファラエナは衝動のままに、部屋の燭台に火をつけた。カーテンから部屋にも火をつけ、松明代わりの燭台を振りまわして叫ぶ。
 何もかも燃えてしまえ! 何もかもすべて壊してしまえばいい! 
「お前のせいだぞ。お前が私を狂わせた! ラウルフィカ、こうなったら共に死ね!」

 ◆◆◆◆◆

 ザッハールに連絡されたラウルフィカの命により、ベラルーダ軍はプグナ王国を取り囲むように要所要所の砦を攻撃していた。
 広範囲にわたって攻めるために、一か所ごとの兵士の数は少ない。だがそれを補うように、ヴェティエル商会から仕入れた火薬がある。
「敵の兵器が強力すぎる! 王宮からの援軍はまだか?!」
「そ、それが」
 その頃王宮から火の手が上がったとプグナ軍には連絡が行っていた。王のいます宮殿の危機と、目前のベラルーダ軍、プグナ側がこの状況に動揺して足並みを乱すことは当然だった。
「今だ、攻めこめ!」
 ジュドー将軍の号令により、半月以上の長きに渡って敗退と嘲笑を余儀なくされていたベラルーダ軍がついに動き始めた。

 ◆◆◆◆◆

 プグナ王宮は混乱の最中にあった。
「おおお! もはや余は誰も信じぬ! 余に逆らう者は皆死ぬがいい!」
「ファラエナ陛下! どうか落ち着いてください! 一体何があったのですか?!」
 城内は乱心したファラエナ王の凶行により、人々が逃げ回っていた。城に点けられた火が燃え広がり、退路を断つ。逃げようとする使用人たちとそれを押しとどめる兵士との間で乱闘になり、幾人もの怪我人が出た。
「城から出るな! 陛下の御命令だ!」
「馬鹿野郎! この火事でんなこと言ってられっかよ!」
 宮殿に火を点けて回ったファラエナは短刀を持ち歩いていた。鎧を着込んだ兵士も無力な侍女も関係なく、見かけた人間に見境なく斬りかかる。
「燃えろ! 全て燃えてしまえ!」
「陛下、伝令が……! ベラルーダ軍が砦をいくつも落とし……陛下!」
 国境をはじめとする砦を守る兵士たちがそうであるように、王宮でもベラルーダ軍がこの砂漠地帯で、主に火薬を使った攻撃をしてきたことにより、軍部の人々は戸惑っていた。戦場のことはもちろん見過ごせないが、今は王宮がそれどころではない。
 ファラエナの耳にはまともな言葉はもはや届かず、彼は凶刃を振るい暴れ続けるだけの亡者と化していた。――実際に彼が死人であることを知っていたのは、ごく一部の人間だけだったが。
「きゃあ!」
 行く手を炎に阻まれた侍女たちが悲鳴をあげる。
「こんな……どこに逃げればいいというのよ!」
「向こうだ」
 その時、一人の少年が彼女たちに道を示した。
「庭を通って東の回廊から外に出るといい。植物は水分を含んでいるから、意外に燃え広がらないものなんだ」
「は……はい!」
 侍女たちは黒髪に青い瞳のその少年が誰かもわからぬまま、とにかくその言葉に従って城を出て避難した。
「さて、これでほとんどの者が避難したかな」
 ラウルフィカは周囲を見回して人の気配がないことを確認し、自らも避難するべく来た道を引き返してきた。
 人々が集まる城の正門外では、何が起こったかわからない人々が不安な顔で集まっていた。これ以上逃げる場所はないが、城が更に燃え広がればいつここも炎に包まれるかわからないと思っている。
 ラウルフィカは城の中にいた最後の一人として正面から堂々と出て来た。そして暮れかけた空を焦がす炎を背に口を開き声を張り上げる。
「プグナ国王ファラエナは乱心した。かの者にすでに王の資格なし」
 ラウルフィカはいつもの腰布と装飾品だけの格好だったが、それは炎が舞いあがるこの非現実的な惨事の光景と相まって、まるで天上の神が愚かな人間への断罪を告げに降りて来たかのようだった。肌に残る口付け痕の鬱血なども、人々と多少距離のあるこの場所からでは見えないのでなおさらだ。
 炎が作る暗く淡く赤い逆光の中でもわかるその美貌に、人々は我を忘れて飲まれた。舞い散る火の粉さえ、燃え盛る城を背に立つ人の背景を飾るよう。
 王宮は炎に包まれていく。冷静に考えれば一か所で上がった炎がこんなにも早く宮中全体を包むはずなどない。しかし乱心して周囲に火をつけ、民に刃を振るった王の姿を目にした兵士たち、使用人たちにとって、冷静などという言葉はもはや頭の片隅にも残っていなかった。
 ――炎が全てをその赤い舌で飲みこんでいく。
「プグナの民よ。生き延びたくば我に従え」
「あ……あなた様は」
 誰かが問うたが、ラウルフィカは答えずに、傍にいたアラーネアに声をかける。
「アラーネア妃殿下、この炎を消すことはできますか?」
「わたくし一人では無理です。ここには水が足りません。それにわたくしは火の魔術師。炎を燃やすことは得意でも、消すことは苦手なのです」
 ラウルフィカとアラーネアのこの会話は、あらかじめ打ち合わせていたものだった。ラウルフィカは彼女の能力を知った上で、彼女に火を消させる舞台を用意した。
 ザッハールによれば、アラーネアはベラルーダの宮廷魔術師である彼以上の実力を持つ魔術師だ。ならばその力の使い方次第で、王宮を燃やす炎を消すこともできるかもしれないと考えた。
「ならば、炎には炎で行きましょう」
「どうするのですか?」
「我が軍はこたびの戦に備えて大量の火薬を購入しました。それを使えば、爆発の勢いで逆に炎を消すことも可能でしょう」
「――なるほど」
 ラウルフィカの指示通りにザッハールが運んできた火薬、それを使い、アラーネアは見事王宮を包む劫火を消して見せた。
 火薬の爆発と息を合わせて放たれた魔術により、被害は最小限で済んだ。一瞬で目の前から消えた炎に、人々は悪い夢でも見ていたのではないかと疑った。
「おおっ!」
「そんな……」
 目の前で起きた魔術の神秘に、人々は度肝を抜かれた。これまでも魔術師という肩書だけで恐れられていたアラーネアに、畏怖の視線を向ける。
 しかし王宮の火を消したからといって、そこで問題は終わりではない。
 プグナの危機はまだ続いている。王宮の者たちが動けないこの状況で、いくつもの砦がベラルーダ軍に囲まれてぎりぎりの攻防を続けているのだ。
「さて、どうするのかな。プグナの重臣のお歴々」
 ファラエナ王の側近として控えていた大臣たちにラウルフィカは歩み寄った。ラウルフィカが宮廷に連れて来られたことも知っている彼らは、これらの惨事が恐らく全てラウルフィカの罠であったろうことも理解していた。
 しかし誰よりも真っ先にその罠へと落ちたのは、当のプグナ王である。それ故彼らもラウルフィカを非難すればこの問題に片がつくなどとは到底思っていなかった。
「まだ……終わってはおりませぬ。ベラルーダ王。あなたを人質に国の外のベラルーダ軍を止めれば」
「できるのか? この状況で。そしてそれをしたところでどうなるという? ベラルーダは私を切り捨ててそのまま混乱に乗じてこの国に攻めいればいいだけだ。プグナの方は、このままベラルーダを迎え撃てると思うのか?」
 諦め悪く降伏以外の道を模索した一人に、ラウルフィカはくすっと妖艶に微笑んで選択肢を突きつける。
「選ぶがいい、プグナの者たちよ。お前たちに残された道はただ二つ。私と共にこのままベラルーダに攻め込まれて滅ぶか。私の前に跪き、ベラルーダとプグナの和平を乞うかだ」
 残された道は二つ、そして選べるのは、どちらか一つだけ。
 重臣たちは顔を見合わせ、絶望的な呻きや諦めの溜息と共にその選択を口にした。
「……降伏します。ベラルーダ王陛下。どうか貴国の軍を引いてください」
「――よかろう」

 ベラルーダとプグナの長い争いの歴史が、遂に幕を閉じた。