劫火の螺旋 07

第7章 運命の螺旋

39.予兆

「ラウルフィカ陛下」
 王の騎士は主君を見かけるなり、涙を浮かべそうなほど安堵した顔で跪いた。
「我が命をよく守ってくれたようだな。カシム」
「私が陛下の御言葉に逆らうことはありません」
 王が陣を抜け出すのを見逃した形となるカシムの立場は、一歩間違えば国王らしくないラウルフィカへの叱責の代わりに彼が吊るしあげをくらいかねない危険なものだった。日頃の行いというものは大切で、カシムだからこそ諸侯の将軍たちも言い分を聞いてくれたのである。
「陛下……」
「なんだ?」
「お願いがあるのです」
「忠実なる臣下であるお前の頼みならば聞こう。今回の褒章代わりだ。何でも希望を言うがいい」
 ラウルフィカの言葉に、カシムはほんの少しだけ躊躇う顔を見せた。しかし意を決したように、その言葉を口にする。
「御身を抱きしめさせてほしいのです」
 一瞬きょとんとしたラウルフィカは、カシムの言葉の意味が染み込んで我に帰るとくすくすと笑いだした。許す、と一言告げて、自分から騎士の腕の中に寄りそう。ラウルフィカの知るこの真面目な騎士に関しては、下心などあろうはずもない。そもそも男同士であるのだから、騎士が姫君を抱きしめるようには障害はない。
「陛下……よくご無事で」
「心配をするなと言ったはずだ。この通り、私に怪我はない」
 許可を得たカシムは腕の中のラウルフィカの華奢な体を強く抱きしめる。不敬と言われようとも構わず、肩口に顔を埋めた。
 プグナ王を誘惑したことなどをラウルフィカはカシムに話していないが、ラウルフィカの性格上いろいろと大変なことをあの国でしてきたのだろうということは、カシムにもわかっていた。ラウルフィカの体についた傷はザッハールが魔術で簡単に癒して綺麗にしてしまうが、だからといってラウルフィカがまったく傷つかなかったとは思わない。
「騎士として御身を守ることが叶わず、私がどれだけ自分の無力さを嘆いたか」
「だが、そのおかげで私はプグナ王に近づくことができた。軍の方もお前に私の意見を預けて任せることができたのだ。これはあくまでも命令だった。お前が自分を責める必要はない」
「気持ちの上では納得できないのでございます」
「そうか。だがそう落ち込んでもらっても困る。これからもお前には私の騎士として傍にいてもらわねばならないのだから」
「……はい」
 ラウルフィカの言葉に密かに舞いあがり、カシムはようやく主君の身をそっと離す。名残惜しげな彼にラウルフィカがなんだと問えば、咄嗟に思っていたことが口をついて出てしまった。
「陛下、その、良い香りがしますね」
 男に対する台詞ではないような気がするが、カシムが肩口に顔を埋めた際に艶やかな黒髪から漂ってきた匂いは本当に甘くて良い香りなのだ。思わず正直にそれを告げた騎士は台詞を間違えたと青くなったが、ラウルフィカは平然としていた。
「香り? ああ、アラーネア様の香水が移ったか」
 ラウルフィカの唇から平然と紡ぎだされた女の名前に、カシムは思いがけず鼓動を乱された。
「そうそう。今度から私の傍に彼女がいる場合、王妃殿下の警護も頼む。私の妻となったとはいえ元はプグナの王妃、ベラルーダで彼女のことに関して信用できる人間は少ないからな」
「……御意」
 何故主君の口から妻となった女性の名が出ることがこんなにも苦しいのか。その答を出すことを拒むカシムの返答は自然と沈んだものとなったが、ラウルフィカは気づいていなかった。

 ◆◆◆◆◆

「見事な手腕だったな。ラウルフィカ王、実に見事だった」
 詳細を伝えはしていないのにまるで見て来たかのようにラウルフィカの行動を褒めたのは南東帝国皇帝スワドだ。彼は今回のベラルーダ滞在に、心から満足したと言った。
「これでベラルーダはプグナをも取り込み、ますます巨大な国となった。友好国の発展に我が帝国も祝福を述べよう」
 もともとベラルーダを焚きつけてプグナに戦争を仕掛けさせた事実などなかったかのように、スワドはラウルフィカに告げる。ラウルフィカも礼を失しない程度に慇懃に返した。
「陛下のご期待に応えられて私も嬉しく思います」
「よく言う。全て計算通りのくせに」
 皇帝はラウルフィカとアラーネアの華燭の典まではベラルーダに残ると言った。戦の褒章とプグナとの和睦――という名の併呑――を穏便に済ますために、これからの両国の行く末についてはベラルーダ王の婚儀祝いという盛大な祭りを催して民衆に告げることとなる。プグナの元王妃がベラルーダ王の妃となることに関し、余計な口出しをする者はいなかった。ファラエナ王は民衆の感情を左右するほど優れたところのない、いわゆる普通の王だった。彼が死んだところで長い間の領土争いに決着がつくのであれば、プグナの民衆も歓迎した。
「なかなかえぐい手を使ったようだな」
「私は無力な若輩者ですので。卑怯にならねば生きていけないのです」
 プグナの王を嵌めてその玉座と妃を奪ったことは、ラウルフィカの胸に深く刻まれる。決して赦されないことをしたこともわかっている。
 ファラエナ王の乱心はもともと彼の感情を利用しただけであって、仮初めの命を与えて蘇らせたところで誰もがああなるとは限らないとザッハールなどは言うのだが――。それでも、ラウルフィカにとっては忘れてはならないことだと思った。その生き死にで多少の名目は作れても、民衆の感情までは動かせない「普通」の王だったファラエナ。その姿はラウルフィカ自身の鏡だ。もしも歯車が少し違えば、あれはラウルフィカ自身の姿だったろうから。
 いや、もうすでにそうなのかもしれない。
 自分よりも優れた王妃に嫉妬して本来誰よりも信頼できるはずの彼女を遠ざけ、偽りの甘い睦言を囁くラウルフィカに溺れたファラエナ王。彼の弱さは人間が誰しも持つ弱さだ。むしろラウルフィカの方こそそれを知っていたから、ファラエナ王のそうした感情を突くことに成功した。
 かの王の心を掴むことは簡単だった。アラーネアを嫌っていたのだから、彼女と正反対の行動をとればいいのだ。愚か者の対照として理知的な人物を演じるのは難しいが、その逆は容易い。
 ――お前のせいだぞ。お前が私を狂わせた! ラウルフィカ、こうなったら共に死ね!
 その言葉を、彼の想いを、深く胸に刻み込む。
 ラウルフィカはもう二、三言葉を交わして皇帝の前を辞した。入れ替わりに、見知った顔が賓客の部屋を訪れるのとすれ違う。
「レネシャ、お前がどうして?」
「皇帝陛下にお呼ばれしました。ヴェティエル商会の品揃えを気に入っていただけたようです」
「そうか。私の方も先日は助けられた。またよろしく頼むぞ」
「ええ、もちろん」
 いつも明るい少年は、今日もやたらと明るい笑顔で皇帝の待つ部屋へと足を向ける。
 ラウルフィカはスワドにレネシャを紹介した覚えはない。ラウルフィカ自身が懇意にしているのはレネシャとはいえ、ヴェティエル商会の代表者はいまだ彼の父のパルシャだ。
 一体、レネシャはいつ皇帝と出会ったのだろう。
 一瞬そう考えたが、ラウルフィカはすぐにその疑問に構わなくなった。彼が国にいない間、暇を持て余した皇帝が商人を宮廷に呼び付けた可能性はある。スワドの性格からすれば、同じ仕事ができるなら肉だるまのパルシャではなく美少年のレネシャを呼びよせてもおかしくはない。
 現在プグナとの戦の事後処理に追われてラウルフィカはまだまだ忙しい。ささやかな疑問はすぐにそれらに埋もれて消えていった。