41.愛憎
銀髪の魔術師は名残惜しげに唇を離した。
「陛下……ラウルフィカ様……もっと」
腕の中に抱き締めた少年にねだる。ラウルフィカは無言で彼の頬に手を滑らせて引き寄せ、呼吸を整えると再び口付けた。
夜明けが迫っていた。いまや五人の裏切り者たちの中で、ザッハールだけが変わらずにラウルフィカの傍にいる。
ラウルフィカが王妃を手に入れて結婚したとしても、ザッハールとの関係を切る約束はしていなかった。新妻を放るというわけでもないが、若い娘と違ってアラーネアにそれほど無理はさせられない。
ここ数日、空いた時間は何日か、ザッハールと共に過ごしていた。
夜は肌を重ねながら他愛のない話をし、夜明けになれば「ではまた後で」と簡単な約束をして別れる。復讐のための腹黒い計画を練る必要がなければ、二人の逢瀬はただの恋人同士のように熱くも穏やかだ。
夜明けになればザッハールは自室に戻るために服を身にまとい部屋を出る。ラウルフィカは大概、夜着を一枚だけ羽織ると気だるげに寝台の中から彼を見送る。
「そろそろ……頃合いだな」
しかしこの日のラウルフィカは違った。中をかきだしもせずにしっかりと着込んだ衣装の端を自分で破く。内股を伝う白濁が隠しきれずに床に落ち、まるで暴漢にでも襲われたような格好になった。
「陛下、一体何を――」
ぎょっとするザッハールが近寄るのに合わせ、ラウルフィカは彼の胸に飛び込むようにして抱きつく。
「陛下?」
ザッハールの目が見開かれる。しかしそれは、ラウルフィカが唐突に抱きついたからという理由ではない。
膝から力が抜け、魔術師は崩れ落ちた。彼は子どものように目を丸くして呆然としていた。
痛みよりも熱を感じた脇腹から生温い血が流れ続けている。思わず傷口にあてた手のひらを見れば、鮮血の色に染まっていた。
刃を抜いた際の返り血がラウルフィカの白い頬にまで散っている。
「お前が最初に言ったんだろう。自分の怪我の治療はできない、と」
それはザッハールにとってはあえて弱味を晒すことで示した忠誠の証だった。今、ラウルフィカはそれを利用して彼を傷付けた。衣装に隠し持っていた短刀で青年の脇腹を刺し貫いたのだ。
「は……はは」
視界がかすみがかるのを感じながらザッハールは力なく笑う。
「やっぱり……赦してはくれないんですね。ミレアスもナブラ卿も死んだんだから……当然かぁ」
寂しそうなその笑顔に、無表情のままのラウルフィカの視線が落ちる。
「でも……仕方ないな……離れりゃ良かったのに……俺が、傍にいたかったから……」
「私はお前を憎んでいた」
ラウルフィカは静かに口を開いた。
「私はあの時に死んでしまいたかったのに、お前が私をこの世界に引きとめた。お前が私の一番近くで私を支え続けた。汚濁に塗れてでも生きていろと、私を縛った」
他の男たちは、王を裏切り反逆した罪で復讐される。だがザッハールだけは違う。
「お前が、私を穢した」
恋情と呼ぶには少し不適切な、冷たい熱を帯びた瞳でラウルフィカが言う。
「その上、お前は永遠に、私のものにはならないんだ」
一度裏切った者は何度でも裏切る。だからラウルフィカにとって、ザッハールは信用するに足りえない。
どんなに心を許しても。どれ程心を捧げられても。
「は……そりゃ逆でしょ……陛下こそ……俺の物には……」
なってくれないくせに、と。死に逝く男が恨みがましく囁いた。
お互いに同じ恨み事を、違う言葉で囁いている。
どちらも相手が、自分のことを本当に愛してはいないのだと思っている。
「ラウルフィカ……」
掠れる吐息が呼んだ名前に、ラウルフィカは答えずに踵を返した。
「衛兵! 魔術師長の乱心だ!」
「陛下?! そのお姿は……」
乱れ、白濁を零し返り血を浴びた衣装もそのままに、ラウルフィカは自ら人を呼びに行った。
仰天する召使たちに慌ただしくなる宮殿。しかしラウルフィカが身支度もそこそこに兵士たちを連れてそこに戻ったとき、銀髪の魔術師の死体はなかった。
「な……何も見つかりません」
「探せ」
おかしなことに、城中の兵士や魔術師などを総動員しても、その後ザッハールの姿を見かけた者はいなかった。ラウルフィカは確かに刺したとはいえ、死体がなければ確かに死んだとも言い切れない。
兵士たちは国王を傷付けた者を探さねばどんな罰が下るかと必死で探したがその姿を見つけられない。その一方、城の魔術師たちは何事かを理解した様子なのが気になった。
「宮廷魔術師長――ザッハール殿は優れた魔術師でしたから、恐らく創造の魔術師の目にでも留まったのでしょう」
「創造の魔術師?」
それはかつて創造神の名を奪い数多の神々に反逆したという強大な力を持つ人間の魔術師。いまもどこかで生きていると言われる、伝説的・神話的な存在。
彼に拾われたならば生きているだろうと魔術師たちは言い、国王に暴行した犯人が生きていては困るのだと兵士たちは青くなる。
とはいえ、真実は杳として知れない。
「ザッハール……」
数々の謎を残しながら、ベラルーダの宮廷魔術師長を務めた銀髪の青年はその生死も定かではないままに、ラウルフィカの前から姿を消した。
◆◆◆◆◆
「ラウルフィカ様、あれはなんですの?」
新しく夫となった少年の部屋にある、中に何も入っていない一抱えもある硝子の箱を不思議に思い、アラーネアは尋ねた。
「ああ、あれですか。飾りたいものがあったのですが、あてが外れてしまったんです」
「まぁ、珍しい。あなたでもそんな失敗をすることがあるのですね。でも、残念でしたわね」
そう言うとアラーネアはほっとしたように笑った。プグナでは男たちを手玉にとり悪魔のような計算高さを見せたラウルフィカでも物事を読み間違えるのだという事実は、彼女を安心させたらしい。
「ええ、本当に……残念です」
口元に微苦笑を浮かべ、困った顔でラウルフィカは言った。
そう、あてが外れてしまったのだ。
月明かりの下で最も輝く宝石のような銀髪は、銀皿に乗せて硝子箱に飾ればとても美しいと思ったのに。
本当に残念だ、と。王に不敬を働いた者に科す刑は斬首。斬りおとした首に防腐処置を施すよう、引きつった顔の魔術師にせっかく約束を取り付けた甲斐もない。
中身のないその箱が置かれたチェストの引き出しには血塗れた階級章と封がされたままの手紙。たぶんこの引き出しを開けることは永遠にないだろう。
ラウルフィカだってわかっている。今は美しいともてはやされるこの容姿もいつかは衰える。他に取り柄といった取り柄のない自分のことを、その時には彼らだって見向きもしなくなるはずだ。だけどそこまで待つのが癪だった。必ず捨てられるとわかっているのなら、その時を待つより自分の方から捨ててしまいたかった。
そうすればもう彼らのことを思い出すこともないと思っていた。
これでようやく――自由だ。もう何者にも思い煩わされることはない。
「……陛下」
アラーネアに呼びかけられた。素早く笑顔を作って彼女の方を振り返るが、拒むように首を横に振られる。
「アラーネア様?」
「泣きたい時は、泣いてもよろしいのですわよ?」
「何、を……」
思いがけない言葉に、ラウルフィカの表情も、咄嗟の言い訳をしようとした舌も凍りついた。
「わたくしはあなたとはとても釣り合わないおばさんですから、若い娘のようにそんなに気を遣ってくださらなくても結構ですわ。それより……あまり無理をなさらないで」
「アラーネア様」
「わたくしはあなたが作り与えてくださった愛情だけでもう十分ですから、それよりもあなたの心に正直になって」
作り与えて――ラウルフィカが真に彼女に恋をしたわけではなく、プグナとの争いをベラルーダに良いように終わらせるために一番都合のよい人物だと、打算第一で彼女を誘惑したことに、アラーネアはとっくに気づいている。恋に浮かれる若い娘ならともかく、アラーネアのように冷静な婦人が、自分が十代の少年から見て若い娘に負けないほど魅力的だと都合のよい自惚れをするはずもない。
「アラーネア様……」
ラウルフィカは妻となったその女性をそっと抱きしめた。
彼女を打算で妻に迎えたのは本当だ。だが彼女に、恋でこそないが、好意を抱いていることもラウルフィカにとっては本当だった。
銀髪の魔術師の首ほどに欲し焦がれたことこそないが、傍にいて安らげる相手だと思っている。そのことに今ようやく気づき、ラウルフィカはこれからは妻となった彼女こそを誰よりも大事にしようと心に決めた。自分が二番目の夫に心から愛されていないと気づいてもラウルフィカに異を唱えることなく従ったいじらしい年上の女性は、例え打算にしろラウルフィカ自身が求めてこの国に来てもらった相手なのだから。
抱きしめられるのではなく腕の中の相手を抱きしめながら、ラウルフィカは妻の肩口に顔を埋め、静かに涙を流す。
ここまで来るためにあらゆる人々を傷つけて来た。復讐に利用するために、商人の息子も誠実な騎士も隣国の王も王妃も巻き込んで。自分に愛を求める貴族の感情は弄び、男女問わず誘惑し、他人を自分の都合のいいように動かしてきた。それ以外にも様々な人々の想いを裏切り傷つけ破滅させてきた。
これからは心を入れ替えよう。人を傷つけることもなく、周りの大切な人たちも傷つけさせることなく生きて行こう。困窮している者は救い、はびこる悪は王として裁こう。それが償いになるわけではないけれど、これからはもっとまともな人間になろう。
復讐は、もう終わったのだから。