劫火の螺旋 07

42.螺旋

 プグナとの争いは終わり、国王と元隣国の王妃との華燭の典も無事に終わった。その間に馴染みのある名前がいくつか死後の世界と呼ばれる永遠の夜の国に赴いたりもしたが、長年の懸案を片付けたベラルーダでは喜びの気配の方が強かった。
 皇帝スワドはラウルフィカの婚儀にかけつけてベラルーダ滞在を引きのばしていたが、そろそろ帝国に戻るという。この三カ月ほどの慌ただしさがようやく終わろうとしていた。
 最近体調を崩して籠もりがちになったというパルシャの代わりに正式にヴェティエル商会を継いだレネシャからラウルフィカに手紙が届けられたのは、そんな折だった。護衛のカシムと共に屋敷に招かれたラウルフィカは、まずはレネシャに祝辞を述べる。
 兼ねてよりラウルフィカと親交を持ち、王城の人々にも実力を示して商会の当主として文句を出せない実力を誇示していたレネシャは、ラウルフィカの保証によりすぐに商会主として働き出した。
「商売は順調のようだな。レネシャ」
「ええ。これも全て陛下のおかげです」
 食後のお茶を口にしながら、ラウルフィカはいつでも天真爛漫なレネシャとゆっくりと語り合う。遠国から取り寄せたという紅茶は、今までに味わったことのない風味がする。
 本当は今もまだラウルフィカはザッハールのことを引きずっていたが、それにばかりかまけてもいられなかった。ただでさえ今のベラルーダは大変だ。国に迎えたばかりの王妃に気を配り、ゾルタの助けを受けずに王として振る舞うことに力を注ぎ、最近は疲れが溜まりやすくなっていた。
 だから、自分の体から段々と力が抜けていくことに気づいても、それが何故かなど深く考えようとは思わなかった。
「すまない、レネシャ。なんだか……」
「ああ。ようやく薬が効いてきたようですね」
 あまりにもあっさりとレネシャが言うものだから、ラウルフィカは何かの聞き間違いかと思った。少女のように愛らしい少年は、天使のような笑顔でラウルフィカの背後に命じた。
「陛下を客間に運んでください。カシム様」
「かしこまりました」
 力の抜けた体を騎士の腕に抱きあげられても、ラウルフィカはまだ状況がよくわかっていなかった。背中と膝の裏に腕を回され、姫君を扱うかのようにカシムが自分を抱きあげてもされるがまま。レネシャが当然のようにカシムを使って彼を運ばせた不自然さにも気づけない。
 さすがにおかしいと思い始めたのは、レネシャの案内で通された客間に金髪の青年の姿を見つけてからだった。
「皇帝陛下? 何故ここに」
「やぁ、麗しの王陛下。もちろん、ヴェティエル氏が私をここへ招いてくれたからに決まっている」
 ろくに動かない体をカシムの手で壊れ物でも扱うかのように広い寝台の上に降ろされながら、ラウルフィカは不穏な空気を感じ取る。ヴェティエル商会の当主となったレネシャが、皇帝を招くのがおかしいとは言わない。しかしこれほど高貴な賓客を招いたならば、晩餐の席で顔を合わせるくらいはするはずだろう。ラウルフィカとスワドの立場が逆なら待たされることも考えられたが、普通身分の高い人間を待たせておいて他の相手と晩餐をする屋敷の当主などいない。スワドの格好は今来たという感じでもなく、すっかり寛いでいる。
「レネシャ……これはなんだ?」
 ラウルフィカは状況そのものについて尋ねたのだが、レネシャはもったいぶって、先程口にした「薬」の説明から始めた。ラウルフィカの質問の意図を読み違えたわけではなく、わかっていて焦らしているのだ。
「先程のお茶に仕込ませていただいたのは、手足の力を半分ほどに奪う薬ですよ。多少味に癖があっても、ああして香りの強いお茶に混ぜてしまえばまず気づかれません。それに痺れ薬とは違って、感覚がまったくなくなるわけではないんです。便利でしょう」
 何故そんな怪しげな薬を彼が自分に盛ったりするのか、ラウルフィカは考えたくもなかった。レネシャはにこにこといつもの笑顔のまま、ラウルフィカと同じ寝台に上がった。彼の上に馬乗りになって口付けてくる。
「ん……んん! や、やめろ! 放せ!」
「どうしてです? 薬を盛って相手を操るなんて、陛下だって一番最初に僕にしたことじゃないですか。おあいこでしょう」
 レネシャと出会ってすぐのことを持ち出されて、ラウルフィカは愕然とした。あの時のレネシャはラウルフィカの演技に騙されていた振りをしていたとでもいうのか? 背筋を冷たいものが伝う。
「あ……」
「薬を仕込んであんな演出をしてまで僕の心を捕らえようとした陛下の熱い愛情にレネシャは大変感激いたしました。それならばやはりこちらからの気持ちも受け取っていただかねばと思うのです。ああ、そうそう。陛下が以前より邪魔にしていた父上はもういませんから、安心してくださいね」
「いない?」
「ええ。だって陛下、父上が邪魔だったのでしょう? ですから少し早いですけれど、父上には隠居してもらうことにしました。今頃は別荘の地下牢で冷たくなっていることでしょう」
 ラウルフィカは息を飲んだ。パルシャが最近顔を見せる事すらないと思ったら、まさかそんなことになっているとは。段々と力をつけていくレネシャの仕事振りに何の不満もなかったために、気にかけてすらいなかった。
「殺し……たのか? 自分の父親を……」
「いやですねぇ。僕は単に地下牢に放り込んだだけで、手を下してはいませんよ」
 それで餓死するまで放置したにしろ、手下に手を下させたにしろ、レネシャが実の父親であるパルシャを殺したことには変わりない。
「レネシャ、お前……!」
 目の前でふんわりと微笑む少年が酷く恐ろしい生き物に感じられる。
「ああ、やっぱり薬にしといて良かったですねぇ。さすがに僕の力じゃまだ陛下にすら振り払われてしまいますし。でも、手錠なんて無粋なもので、この綺麗な肌に痕を残すのは嫌ですから」
「……っ、カシム! 助けろ! とっととこの屋敷から私を連れ出してくれ!」
 ほっそりとしたレネシャの指で頬を撫でられながら、ラウルフィカは自らの騎士として忠誠を誓ったはずの青年に助けを求めた。だがカシムは動こうとしない。
「できません、陛下」
「カシム?!」
「私はレネシャ殿の協力者です」
「え……」
 あまりのことに再びラウルフィカは呆然とした。好色なスワド帝が性質の悪い企みに乗るのはまだわかる。だがカシムは何故?
 騎士は切ない眼差しをラウルフィカに向けると、ラウルフィカの上半身を抱くようにして情熱的に口付けた。呼吸を奪われるほど激しいそれに、ラウルフィカは眩暈を覚える。
「陛下……ずっとこうしてあなたに触れたかった」
「……い、いやだっ、放せっ」
 思わずその胸を突き離そうとするが、ただでさえ腕力の差が歴然なのに今のラウルフィカは腕に力が入らない状態だ。たくましい騎士の体はびくともせず、今にも泣き出しそうなラウルフィカの顔を覗き込んだままだ。
「あなたは私を利用するばかりで必要とはしてくださらない。それでも騎士として見てくださるのなら、利用されているだけでも良かった。けれどあなたは、騎士としての私すら必要とはしない。誰も心の底では信用せず、肝心なことはいつも一人でやってしまう」
 幼い頃にゾルタたちの裏切りによって全てを失ったラウルフィカにとってそれは当たり前のことだった。今更そんなことを、人の言葉を疑うことのないカシムに責められるなどとは思わなかった。
「決して信頼してくれない主に仕えるくらいなら、無理にでもあなたを手に入れて憎まれたほうがいい!」
 カシムの吐き捨てる台詞にラウルフィカは声を失う。青年の向ける強い瞳が怖い。
「私の理由は別段言う必要はなさそうだな。見ての通り砂漠の麗人に興味があるだけだ。おっとレネシャ、これを忘れているぞ」
 ずっと部屋の隅の長椅子に寝そべっていた皇帝が腰をあげた。金属を切る工具を持ち出して、レネシャに渡す。何をするつもりなのかと、ラウルフィカはぎくりとした。
「動かないでくださいね。陛下」
 工具を受け取ったレネシャは相変わらず花のような笑顔を浮かべてラウルフィカに声をかける。ラウルフィカの腕をとると、そこにはまっていた金の腕輪を工具で切断した。溶接されていて外せないはずの腕輪は、無残なただの金属片となって敷布の上に落ちた。
「宰相閣下の趣味は知りませんけど、外せない腕輪なんて無粋です。陛下にはこれから色々美しい装いをしていただくんですから。それに道具がなければ調教できないなんて二流の手腕ですよ。本当に逆らえないようにするなら、身体に腕輪をつけるより、心に首輪をつけないと……ね」
 残酷な想像に思いを馳せてくすくすと楽しげに笑うレネシャは、これまで自分が見て来た少年と本当に同一人物なのか? ラウルフィカにはわからなかった。呆然としたままのラウルフィカの服をカシムの腕が剥ぎ、髪をスワドの指が梳く。
 終わったはずだった。復讐はもう果たしたはずだった。
「何故? って顔してますね陛下。逃げられるとでも思ったんですか? どんな理由があれど、一度闇に足を踏み入れた者が明るい世界に帰れるわけがないじゃないですか。陛下はもう十分僕たちを利用したんですから、今度は報いてくださいね」
「レ……レネシャ」
 自分は読み誤ったのだとラウルフィカはようやく気付く。ラウルフィカが王となっても周囲に翻弄されるだけでしかなかった時と同じ年齢であるレネシャが、父であるパルシャを躊躇なく殺すなんて考えていなかった。
 レネシャの実力も真の性格も、追い詰められたカシムの鬱屈がどこに向かうのかも、皇帝の気まぐれも、ラウルフィカは何一つ読み切れてなどいなかったのだ。
「逃げられませんよ、愛しいラウルフィカ。決して逃がしはしませんから」
 そう言って笑う天使のように可愛らしい少年の笑顔は、悪魔のような男たちよりも恐ろしかった。
「諦めるんだな。ベラルーダ王。この坊やは欲しい物は手段を選ばず手に入れる男だ。例えお前にまったく隙がなかったとしても、あらゆる方法でお前を手に入れたはずだ」
「ふふふ。お慕いしております、陛下。あなたの何もかもを手に入れなければ気がすまないくらいに」
 肌をまさぐるレネシャの指が、腕を掴んで拘束するカシムの腕が、にやにやとこの状況を見下ろしながら笑う皇帝の笑みが告げる。これが罪人の末路なのだと。
 ラウルフィカの逃げ場はなかった。どこにも。永遠に。繰り返される罪の螺旋。憎しみが晴れたはずの今でもこの身を焼くのは全てを燃やしつくす劫火。
 抗い、打ち勝ったはずの宿命に、今まさに捕まったことをラウルフィカは薄れゆく意識の中で感じていた。

 了.