花は根に鳥は故巣に

2.退魔師の兄妹

 華やかな光の影にこそ、闇はできる。光が強ければ強いほど、その影たる闇もまた濃くなる。
 桜魔とは、そういう存在であった。
 緋色大陸ならばどの土地であってもお馴染みの桜の樹。その美しさに惹かれる人間の情念とこの世に漂う瘴気が結びついて魔として肉体を持ち顕現したあやかし、それが桜魔。
 桜の樹はこの大陸であればどこにでもある。そして、人が多く集まる場所には瘴気も溜まれば、人間の悪感情も増えやすくなる。負の連鎖がまた負を呼び、様々な魔を生み出してまた人の生活を脅かす。
 となれば、人間の側としては、そのように世に生まれ出でた桜魔らを退治する人種を希求した。
 桜魔を退治するには、ただの武芸の腕だけではなく、それ以上に桜魔と渡り合うべき特殊な才能が必要だ。呪力とも神力とも呼ばれるそれによって、人は桜魔と命がけの戦いの上で渡り合えるようになる。
 それら桜魔を退治する特殊な才能を持つ者を、人は総じて“退魔師”と呼んだ。

 ◆◆◆◆◆

 一般の民家の何倍も広い屋敷の部屋の一つで、花鶏(あとり)と交喙(いすか)は正面に坐す父と向かい合っていた。話の内容は今回の退魔依頼に関することだ。二人は天望(あもう)家の当主である父に、仕事の完了報告をしに来たのである。
「花鶏、交喙、戻ったか」
「はい、お父様。無事にこたびの依頼を果たすことが叶いました」
 父の問いに、花鶏は答える。
「交喙、お前はしっかりと花鶏を支えたか?」
「……はい」
 同じように問いを向けられた交喙は、無表情ながらも大人しく頷いた。
「お兄様は、私を完璧に助けてくださいました」
 目を向けられた花鶏が言葉を添え、父はようやく納得したように小さく頷いた。そして今日一日の締めの言葉を発する。
「よくやった。篠家の方からも報酬が支払われている。後で楓の方からお前たちに渡そう」
 昔から口数の少ない父からは、簡素なねぎらいと事務的な話が終わるとすぐに二人を部屋から出した。優しいが気が弱く父の言いなりである母は、廊下で二人の兄妹の姿を見つけると嬉しそうに微笑んで「今日は二人の好きなものを作るわね」といった。
 花鶏と交喙はそれに頷いて、ひとまずは自分たちの部屋に戻った。
「ふぅ……」
 自室に辿り着くなり溜息をついて座椅子にだらしなく背をもたせかけた兄に、花鶏は心配そうに声をかけた。
「お兄様、大丈夫ですか?」
「なんでもない。ちょっと疲れただけだ」
「でも、今回は囮なんて危険なことまでされましたし」
「ああでもしなきゃ、あいつをおびき出すことはできなかっただろう。それに、相手は若い男を橋の上から突き落とすのが好きな変態だぞ。お前に若い男の振りができるか? 花鶏」
「それは……」
「――ああ、そうだな。すまなかったな」
 交喙は皮肉に口の端を吊り上げて、妹を嘲笑った。
「お前は呪力が強すぎるせいで、そもそも“普通”の人間の振りすらできないんだったな。すまんすまん、忘れていたよ」
「お兄様……」
 交喙の嫌味に、花鶏は哀しげな顔をする。
 大好きな兄にそうして敵意を向けられたからではない。そんなことはいつものこと。
 ただ、交喙はそうやって彼女ばかりでなく、自分の心まで抉っている。それがわかるからこそ花鶏は辛い。
 花栄国首都累穏に存在する退魔師の名家、天望家。
 天望花鶏、天望交喙はその天望家の人間だ。兄の交喙に妹の花鶏。二人とも十代の青年と少女ながら現役の退魔師である。
 そして退魔師としての力は、兄である交喙よりも、妹の花鶏の方が上だった。
 退魔師の能力は後天的に鍛えることもできるが、多くはその生まれ持った才能で決まる。交喙と花鶏であれば、花鶏の方が体内に呪力を多く持って生まれた。そのために天望家としては兄より呪力で勝る花鶏を次期当主の座に据え、兄の交喙には妹の支えとなるよう命じた。
 当然、兄でありながら妹の下風に置かれた交喙は面白くない。
 一つ目の桜魔に見抜かれたように、そこにいるだけで退魔能力を持つと明らかな花鶏。だからこそ先程の嫌味につながるわけだが、それは同時に同じく退魔師であるはずの交喙は天敵である桜魔にとってすら普通の人間と見分けがつかない程度の呪力しかないということを示す。
 桜魔を嵌めた割符の罠にしても、考えたのは交喙だが作ったのはほとんど花鶏だ。桜魔は人に似た姿と知能を持つ者が多く、中には相当賢しげな手段に出る者もいるのでそのように幾つも退魔の手を考え出すことのできる交喙の存在も貴重なのだが、どんな素晴らしい術でも道具でも己の呪力でそれを実現できなければ意味がないというのが実力重視の退魔師の世界だ。
 だからこそ、天望家の兄妹は二人揃って行動する。花鶏の考えの足りない部分を、交喙が補うというように二人は相互に補完しあって生きている。だがこれは退魔師としては相当珍しい例である。
 そして二人のうちどちらがより退魔師として相応しいかと言われれば、それはやはり愚にもつかない力押ししかできずとも一人で桜魔と戦い抜くことのできる花鶏なのだ。
 その複雑な関係故に、花鶏はいつも兄の交喙に頭が上がらない。
「あの、お兄様、お茶でも淹れましょう――かっ?!」
 とにかく場の空気を変えたくて立ち上がろうとした花鶏は、足をもつれさせてその場で転びかけた。
「花鶏!」
 それまで気だるげな態度だった交喙は反射的に立ち上がって妹の身体を支えた。勢いを利用して体勢を変え、僅かにまろぶような格好で再び座椅子の中に戻る。
 僅かな埃が舞い、その影が障子に映る部屋の中、一瞬の沈黙が訪れる。腕の中に庇った妹の身を抱きしめながら、交喙は深く溜息をついた。
「お前は……戦いのときはあれほど機敏になれるというのに」
「すみませんすみません、すみませんお兄様、すみません……っ」
 花鶏は兄の腕の中で震えながら、何度も謝罪を繰り返した。それはもはや彼女のくせのようなものだ。
 花鶏はおっとりとした母に似て、どうにもとろい。一方の交喙はどちらかと言わずとも厳格な父に似て、その所作の全てがしっかりとしていて格式高い名家らしい気品に溢れている。
 兄と妹は、実の兄妹にしてはあまり似ていない。容姿だって黒髪に紫がかった青い目の交喙に対し、花鶏は銀髪に薄紅の瞳だ。
 退魔師としての才能は花鶏の方が上で、炊事洗濯など家庭的なことも彼女は得意だ。けれどそれ以外全て、学問も単純な武芸も対人関係も何もかも交喙の方が上だった。花鶏は怖がりで、あらゆることに怯えては二つ年上の兄である交喙の背に隠れるばかりだ。
 もしも花鶏が兄に頼らずとも生きていける性格であったなら、きっと二人の関係はもっと殺伐としていたに違いない。交喙が自分より優れていると評価される妹に反旗を翻して、天望家には血を血で洗うような跡目争いが繰り広げられたに違いない。
 けれど現実の花鶏は十六歳という年頃の少女になってもこの通りで、精神的にも身体的にもまったく兄離れできていなかった。交喙としても呪力に優れた妹への嫉妬はあるが、目を離すと庭の池にすら足を滑らせて落ちるような妹では、危なっかしくて何かと目を離せない。
「茶はいい。どうせもうすぐ夕飯だからな。それにお前だって呪力を使って体が消耗しているのだろう。今食器に触ったら、また先日のように急須を割るぞ」
「ごめんなさい、お兄様……」
 兄に窘められた花鶏はしゅんとして顔を伏せた。二人はいつもこのような日常を送っている。
「お兄様、私、やっぱり……」
「なんだ?」
「……いえ、なんでもありません」
「そうか。だったらもう話しかけるな。ちょうどいいから、俺はもうこのまま寝る」
「え? あ、あの」
 余程疲れていたのだろう。交喙は花鶏を抱き枕代わりに抱きしめたまま、そのまま座椅子で転寝を始めた。間近に迫った兄の顔に、花鶏は頬を赤らめる。
 どうせ彼女の力では、兄を寝台まで運ぶことはできない。せめて毛布をかけてやるべきなのだろうが、背中に回された青年の腕の力は強く、自力で脱出できそうもなかった。
 だから彼女にできることは、兄がこのまま体を冷やしたり目を覚ましたりすることのないよう、その胸に身をもたせかけたままじっとしていることだけだ。
 それは花鶏にとって、とても心地よい時間。幸せな時間だ。
(お兄様、私は、花鶏はやっぱり、お兄様のことが好きです)
 天望家の兄妹が、退魔師としての能力の格差にも関わらず仲違いをしない理由は、もう一つある。
 妹の花鶏は、自分より退魔師としての才能に劣る兄を、それでも深く愛しているからだ。