4.闇の中の二人
広い家だ。天望の実家に負けないくらい。
笹谷家の屋敷中を歩きながら、交喙はそう考えていた。自分の実家である天望家は首都でも有数の名家であり、あれほど広い家は他に見たことがなかったが、認識を改めなければならないようだ。
婚約者の家であり、もしもこのまま話がうまくいけば交喙の家になるだろう場所。一人娘であり跡取り娘である魅亜と、花鶏がいる以上天望の跡取りにはなれない交喙を婚約させるとはそういうことだ。このまま魅亜と結婚すれば、交喙に待つのは笹谷家の婿養子という未来だ。
けれど交喙には、そのことに対する感慨が何も湧かなかった。
自分が婚約をしたという実感すらない。
兄である交喙に恋などする花鶏は大概壊れていると交喙は思うが、そういう交喙自身も壊れ具合では大差ないのだ。天望という家に繋がれ閉じ込められているのは交喙も花鶏も同じで、他の世界のことなど何一つ知らない。当然、交喙にとって花鶏以外の年頃の少女というのは未知の存在であった。
気が小さくて泣き虫で、けれど退魔師としての才能だけは一流だからいつも周囲から爪弾きにされて厄介事だけを持ち込まれて、それを適当にあしらうことすらできないから常に苦労して、そんな妹の面倒を見るのにいっぱいいっぱいで交喙自身も外界との交流を怠っていた。
その気になればいくらでも一般人との交流はできるだろうし、友人も恋人も作れるだろう。わかっている。だが交喙はそんな気にはなれない。
結局交喙も花鶏と同じ穴の貉。退魔師は呪力を持たぬ常人からは忌避される人種だ。退魔師だからという理由で天望を恐れる人々に、退魔師でありその中では劣等でしかない交喙は、あるいは花鶏以上に複雑な感情に苛まれ続けている。
いっそ自分は退魔師ではなくただの人間だと開き直って生きていければその方が楽なのかもしれないが、小さな矜持とほんの一握りの感情のせいで、それもできそうになかった。
「交喙様?」
いつの間にか対桜魔の策を考える思考からずれていった交喙を、可憐な少女の声が呼びとめた。
「魅亜様。何用ですか?」
この屋敷の主の娘であり、交喙の婚約者でもある少女がそこにいた。
「用がなければ、自分の婚約者とお話ししてはいけませんの?」
依頼主は無邪気な笑みを浮かべてそう言った。彼女は交喙を追ってきたのだろう。でなければいくら自宅とはいえ、普通のお嬢様は用もなく勝手口の傍に来たりはしない。
「今の私はあなたをお守りするための仕事中です。申し訳ありませんが、積もる話はこの仕事の後といたしましょう」
「あら。だってあの桜魔がやってくるのはいつも真夜中ですわよ。まだ時間は十分あるじゃありませんか」
「父からお聞きでしょうが、私は退魔師としては劣等種もいいところの実力しかないのです。万全を期すためには、これから夜にかけて妹と共に、じっくりと準備をする必要があるのです」
魅亜自身がどうというよりも、交喙は婚約だの結婚だのといった話そのものが苦手だった。早めに話を切り上げようと素っ気なく返すが、魅亜はそれをわかっていてあえて話を振ってくる。
「そんなことはないでしょう。交喙様は態度も堂々としていて、見るからに頼りがいがありそうですもの。それでも妹さんの方が優れていらっしゃるというのであれば、いっそ準備など全てあの方に任せてしまっては?」
「……魅亜様、お戯れもほどほどに」
「戯れなどではありませんわ。わたくし、交喙様のこと、本当に気に入りましたのよ」
ああそうかい。上から目線で気に入ってくださってどうもありがとうよ。
交喙は早くも魅亜との会話にうんざりしはじめたが、彼の腕を取って自らその腕に抱きつくよう身を絡めてくる魅亜には通じない。
「退魔師というからどんな方かと思いましたけど、交喙様、とっても素敵ですわ。二人で幸せな家庭を築きましょうね。うふふ」
「……」
二人で。
幸せな家庭。
そのどちらの言葉も、交喙にとっては馴染みがない。
そしてそれを欲しいとすら思ったことはなかった。
交喙にとっては例えばそこらの道行く人々が持つような、平和で平凡な家庭に自分が存在するなど、まるで想像もつかなかった。あれらの世界は自分とは関わりのない、どこか別の世界だ。
「わたくしと結婚すれば、もう妹さんの面倒も見なくてすみますわよ」
魅亜の言葉に、交喙はゆっくりと目を瞠った。
「妹が、なんです?」
「とぼけないでくださいまし。わたくし、わかっておりますわよ。交喙様があの妹さんに複雑な感情を抱いていること。堂々とした態度も慇懃な口調も上品な所作もすべてあなたの方が上なのに、余人には理解できない退魔師としての力などのせいであなたが家督を継げないなんて、不憫で仕方がありませんわ。でも、これからはもう大丈夫ですよ。わたくしの夫となれば、交喙様こそがこの笹谷家の主人なれるですもの」
魅亜はそれこそがまるで最良の未来だというように、ころころと笑って告げた。
けれど交喙の脳裏には、今ここで自分にしがみついている少女のことなどなかった。彼が思い返すのは、散る桜の花よりも儚げな、生まれた時から知っている一人の少女の姿だ。
――お兄様。
目を離せばすぐ転ぶくせに、彼の衣の裾を引くことさえ遠慮するような気弱な性格。いつも面倒をかけて、そのくせ退魔師としては自分よりも優秀と言われ。あの妹の存在に苛立たないと言えば嘘になる。けれど。
「……申し訳ありませんが、私はこれで」
「交喙様!」
とうとう交喙は魅亜を振り切り、花鶏が待っているはずの庭園へと戻った。
「お兄様!」
彼がやってきた途端ぱっと顔を輝かせた妹を、反射的に腕の中に抱きよせる。
「お、お兄様?」
交喙にしては珍しい行動に、花鶏は頬を赤く染めた。あたふたと腕の中で慌てる妹を抱きしめて、交喙は胸のうちに嵐のように吹き荒れる感情に必死で整理をつける。
退魔師として自分より優れた花鶏の存在に、苛立たないと言えば嘘になる。
けれど、交喙にとっては自分が彼女の隣にいて、彼女の隣には自分がいるという光景以外を思い浮かべることもできないのだ。
常に彼の傍らにいるべき存在は、少なくとも魅亜ではない。
きつく目を閉じて、自分のことながらままならない想いをねじ伏せようとする。
花鶏はそんな兄の様子に戸惑ったまま大人しく抱かれている。二人は気付かなかった。
庭園で抱き合う兄妹の様子を、屋敷の物陰から魅亜がじっと睨んでいたことに。
◆◆◆◆◆
そして、夜が来た。魅亜の身体を狙うという桜魔は毎日夜半にやってくるというので、花鶏と交喙は本日笹谷家に泊まり込みで魅亜の護衛をすることになっている。
「俺は対象の近くで護衛。お前は庭で侵入者の見張り。できるな? 花鶏」
「はい。お兄様もお気を付け下さいませ」
自分の呪力だけでは桜魔に傷を負わせることができない交喙は、あらかじめ花鶏が呪力を加えておいた刀を武器として持つ。彼は退魔師としての力には劣るが一般的な武芸は一通りこなす男だ。桜魔と一対一の斬り合いになった場合は、その刀のような道具があれば戦える。
対する花鶏は日常での動きがとろいように武術の心得などまったくなく、退魔師としての呪力で桜魔と戦う。大きすぎるその力は交喙が室内で刀を振るうよりも更に危険なので、屋敷の中を壊さないために最初から庭園で見張りながら出番まで待機することになった。
けれど、花鶏には心配事があった。交喙が魅亜の護衛を務めるということは、二人がこの夜中、接近するということでもある。
桜魔は人が多いと現れないと言われているので、護衛の数を屋敷の人間に頼んでまで増やすような真似はしなかった。そのため、交喙と魅亜が彼女の部屋で二人っきりになってしまうのだ。
それが花鶏としては面白くない。
「……本当に、お気をつけくださいましね?」
「わかっている」
念を押す交喙の様子に、花鶏は絶対わかっていない、と思うのだった。
花鶏は後ろ髪を引かれる思いで屋敷を出て庭園と降りる。
案の定彼女の女の勘は正しく、その夜、魅亜はやけに交喙に迫ってきた。
花鶏が庭園で見張り、交喙は魅亜のすぐ近くで侵入してきた桜魔を迎え撃つ役目。毎日と違う状況を作るわけにもいかないので、交喙が今いるのは魅亜の部屋の入り口のすぐ傍だった。
大きな屋敷の一階部分に魅亜の部屋があるのは幸いだった。縁側からすぐに出られる庭には花鶏がいる。
それでも桜魔が侵入しようと思えばいくらでも経路はある。しかし退魔師の名家天望の名にそれだけ期待を寄せているのか、それとも単に危機管理能力が足りないだけか、魅亜は交喙があくまでも彼女の護衛中だということにも頓着しなかった。
肌が透けるほどに薄い夜着を身に纏い、豊満な肢体を誇示するように、魅亜は布団を抜け出すと、交喙の身体にしなだれかかる。
「あなたは我らの護衛対象です。いざという時に倒れられても困りますから、今のうちに仮眠をとっていてください」
交喙は冷たく事務的にそう言うが、魅亜は彼の言うことなど聞かない。
「こんな事態に、眠れるはずありませんわ。交喙様、何か話してくださらない?」
「魅亜様。お戯れもほどほどに」
すり寄る少女に、交喙はなんだか以前も使ったような表現で少女の身体を突き放す。
「いいではありませんか。わたくしたちは婚約者同士ですもの。私に何かあった場合は、あなたが守って下さるのでしょう?」
子猫がじゃれるように無邪気に、それでいて娼婦のように淫靡に、魅亜は交喙の気を引こうと迫る。
「――魅亜様、これを言うのは後にしようと思っておりましたが」
交喙は目を細めて告げる。
「俺は、あなたとの婚約を解消したい。この仕事が終わったらすぐにでも、あなたのお父上にも天望の我が父にもそう伝えるつもりです」
「どうしてですの? わたくしのどこが気に入らないというのですか?」
美しい少女は実家の財も権力も全て持っていて、何より自分に自信を持っていた。婚約解消を望む交喙を、信じられないように見つめる。
彼女も必死なのだ。笹谷もそうだが、天望も名家だ。それも希少な退魔師の家柄。その長男を何としてでも籠絡してこいと父親から言い含められてでもいるのだろう。
そのような打算を理解し、否、理解するからこそ交喙はそれに乗ってやるわけにはいかない。
「俺は――」
彼が何かを言いかけたその時だった。
「!」
「交喙様?」
花鶏の張った結界に何かが触れた。あえて空けておいた侵入口から、するりと桜魔の気配が忍び寄る。
「お嬢様、起きておられますか?」
「あら、婆やの声だわ」
「魅亜様、違います」
魅亜の手によって部屋の中に引きこまれていた交喙だが、いくら彼の力が弱くてもそれくらいはわかった。
部屋の外から声をかけてくるものは、生きた人間ではない。
足音もなく廊下を渡り近づいてきたものの影が、襖の隙間から部屋の中の屏風に月明かりで映し出される。魅亜がヒッと短い悲鳴を呑み込んだ。
屏風に映った影は、まさしく人間のものではない異形だったからだ。