5.襲来
この部屋には花鶏の結界が張られている。だから桜魔の正体も、術をかけられた障子に映し出された。
そして交喙は、納得した。今回の桜魔は魅亜の肉体を欲しがっているのだという。本性がこれだけ人と似つかぬ桜魔であれば、人間の美しい少女の身体を欲しがるのも無理はない。
人の情念から生まれる桜魔は、人に似た姿を欲しがる。そしてある程度力があれば彼らは瘴気でできた自分の姿を変えることができるのだ。つまり、人に近い姿をしていればしているほど、その桜魔は強いのだ。そういう意味では、人とは似ても似つかぬこの桜魔は最下級の雑魚だろう。
だが油断はならない。
人に似ても似つかぬ弱い桜魔は、その分狡猾だからだ。
「もし、お嬢様?」
交喙は襖を僅かに開けたまま、部屋の入り口から魅亜の身体を抱え込むようにして離れた。退魔師が中にいると桜魔に気取られるのはまずい。
外にいる桜魔は、相変わらず婆やの声真似をしていた。見知らぬ者の声では高慢な魅亜が決して自分から戸を開けぬと知って、新しい手段に出たのだろう。
桜魔が笹谷家に現れたのは、一週間ほど前からだったという。
なんでも魅亜が夜眠っていると、部屋の外から声をかけられたのだとか。その時は庭園側の障子戸に映った影は一人の女性のもので、屋敷に住む家族や使用人、その誰のものでもなかったという。
桜魔は障子の向こうから、魅亜に声をかけてきた。その時は眠さもあって夢現で、彼女は桜魔の言葉にろくに答えもしなかった。家人の誰かが何かの用があって夜中に部屋の前に来たのかと思っていた。けれど翌朝になって家の者たちに聞いても誰もそのことを知らない。
戦々恐々としながら翌日の夜を迎え、魅亜は先日と恐らく同じ時刻にまた昨夜の声の主がやってきたのを知った。そして今度は注意深くその声の言うことを聞くと、声はしきりに戸を開けてと訴えていた。
今はまだ桜が満開の春。桜魔の活動が活発になる季節、夜はまだ戸を開けはなして寝るには肌寒い。
魅亜が答えずにいると、障子の外でガリガリと何かを引っかくような音がした。魅亜は怖くなり、大声で家人を呼ばわった。それに気づいて誰かが駆け付ける気配がすると、障子の外の不審な気配は消えた。
魅亜は不審な存在について訴えたが、誰もその姿を見てはいない。物取りや魅亜に懸想した男の仕業も疑ったが、どれほど調べてもそのような痕跡も兆候もなかった。
桜魔の存在は知られてはいるが、誰もが出くわすようなものではない。
父親が知人に何かの折り、娘がこのような怪奇現象で悩まされていると打ち明けた時に、その知人の口から初めて桜魔という名前が浮かび、天望の家に退魔の依頼がもたらされた。
その話を聞いた時、退魔師として花鶏は言った。
「それ、障子を開けなくて正解です。閉じられた空間は力の弱い桜魔にとってはそれだけで一種の結界となります。東大陸や桜魔のみならず、家人に招かれねば家の中に入れないあやかしの話は多いのです」
それに今回の桜魔は、人目のあるところには決して出てこない。誰かが魅亜の部屋に駆けつける気配を見せただけで、姿を消してしまう。余程人目を避けているのだろう。
魅亜の部屋の四隅には、花鶏が作った札が張られて結界となっている。そして、この屋敷自体にも結界を張り、その一部にわざと結界を作っておいた。外と内の二重結界だ。
魅亜が部屋の中に桜魔を入れなければ、内側の結界で魅亜の身を守りながらも、外側の結界を閉じて桜魔を二つの結界の狭間に閉じ込め、屋敷の外へ逃げられる前にトドメを刺す。そういう作戦だ。
桜魔を誘い込むために、今夜は魅亜の部屋の襖に薄く隙間ができている。けれどそれは囮であり、部屋の中の結界自体はしっかりと機能している。
交喙の立案したこの作戦に唯一隙があるとすれば、結界の内側は封印されているため花鶏にも部屋の中の様子が伝わらないということだ。廊下の桜魔は花鶏の退魔師としての気配をさけてわざわざ縁側ではなく屋敷の中から声をかけてきたのだろうが、そのために桜魔と花鶏が交戦状態に入って花鶏が桜魔を倒すまでは、交喙も魅亜もこの部屋から出ることができない。
こうして桜魔と襖越しに接触しても、それを直接花鶏に伝える術がないのだ。交喙は魅亜を守りながら、部屋の中でただひたすら、花鶏が桜魔を倒すのを待つしかない。それが彼の能力の限界でもある。
「落ち着いて。声を出さないように。大丈夫。花鶏の作った結界は完璧です。我々が内側から戸を開かぬ限り、桜魔はこの中には入れません」
交喙は魅亜にそう説明し、少女の恐怖を和らげようとした。
「お嬢様? ――ちっ」
魅亜が婆やと呼んでいた声が、ふいにがらりと、低く陰湿な女の声へと変わる。
「退魔師を呼ぶなど、小賢しいことを……まぁいい、いずれ必ずあの体をもらう」
ずるり、と何かを引きずるような音と共に、桜魔の気配らしきものが離れていく。
交喙と魅亜は、同時に張りつめていた緊張の糸を解いた。深く溜息を吐きだし、知らず早くなっていた鼓動を抑え込む。
「こ、これでもう、大丈夫なのですわよね……?」
冗談半分に交喙を籠絡しようとした時とは違い、今の魅亜は本気で桜魔に怯えて交喙に縋りついていた。
「ええ。ここから出なければ」
交喙は頷いて、それまで抑え込んでいた魅亜の手を離す。
障子の外で誰かが駆けてくる気配がした。
「魅亜! お前無事なのか?!」
「お父様!」
慌てて駆けてくる足音と共に、魅亜の父親である笹谷当主の声がする。だが、その瞬間、交喙の背筋に冷たいものが走った。
「魅亜様! 開けては――」
まずいことに交喙よりも魅亜の方が障子戸に近かった。だから彼が止める間もなく開け放ってしまう。
そこに、血と肉にまみれた異形の般若がいた。
「ヒッ――いやぁああああああ!!」
「魅亜様!!」
人に似た姿の桜魔ならまだしも、それは人とは似ても似つかない。
赤黒い筋肉が剥き出しになり、そのところどころから無数の腕が生えている血と肉の塊だ。
恐ろしさのあまり悲鳴を上げて硬直する魅亜を、駆け付けた交喙は慌ててその場に押し倒した。桜魔の第一撃はそれで避ける。彼らの頭上を衝撃波が駆けて行った。
一撃目を外した桜魔が、二撃目の狙いを定める。しかし交喙は、腰を抜かした魅亜をすぐに抱き起すことができない。
「くっ!」
その時、庭園に面した扉から雨戸も襖もぶち破って何かが飛んできた。
「ぎゃあぁああああああ!!」
飛来した何かに直撃された桜魔が奇妙に甲高い悲鳴を上げる。ぐじゅぐじゅと潰れた肉に歪に反響して引き攣れるそれが、女の声なのだとわかるのが気色悪かった。
「あ、ああ」
「魅亜様、今のうちです」
立ち上がれない魅亜を交喙が抱き起こす間に、次に飛来した細長い紐が桜魔の体に絡みつく。庭から伸びたそれが、桜魔の身を引きずるようにして庭園へと引き寄せた。物を薙ぎ倒す大きな音がする。
部屋は襖も障子も雨戸も全壊、床は桜魔の血まみれという目を覆いたくなるような惨状だが、魅亜に怪我はない。
「魅亜様、こちらへ」
一応声はかけるものの自力で動けるような状態ではない魅亜を抱きかかえ、交喙は隣の部屋へと向かった。その中に、白い紙に墨で書かれた簡易式の結界がある。最後の一筆まで書き終えられ、あとはほんの少し仕上げをするだけでいいように仕込んだものだ。これならば交喙の少ない呪力でも発動できる。
魅亜を新たな結界の内側に入れ、最後の一筆を噛みきった自分の指から流れる血で書き入れた交喙は、その部屋に用意してあった弓を手に取る。
「交喙様!」
「そこにいればもう安全です。あとは――花鶏に任せてください」
交喙は自らも妹の援護をするために、庭園に向かう部屋の襖を開け放った。