花は根に鳥は故巣に

7.兄妹

 一夜が明け、笹谷家には久方ぶりの平穏が戻った。
 屋敷の一角は半壊していたが。
「……まぁ、娘の命が助かったことを考えれば少ない犠牲ですよ」
「そう言っていただけると、こちらも気が楽になります。個人の邸宅に出現する桜魔は少ないので、いつもならここまでの被害は出さないのですがね」
 壊れた部屋を呆然と見つめる笹谷家の当主に、交喙はそう言った。退魔師が一般人に畏れられている理由の一つには、こうして盛大な破壊行為で、林の半分を消し去っただの家を一軒潰しただの物騒な噂がまことしやかに囁かれているということもあるのだろう。
 そしてそれは、誇張ではない。とくに花鶏のような戦闘技術に特化した退魔師がいる場合には。
「それでも、娘が無事で、あなた方も無事で何よりです。交喙殿、娘もあなたのことを気に入っているようですし、このまま二人の婚約を、進めてしまっても構いませんかね? 私は今回のことで、ますますあなたを婿として我が家に迎え入れたくなりました」
 交喙が魅亜を庇う姿は、自室に避難しながらも遠目で彼らの様子を見守っていた屋敷の住人や使用人たちも見ていた。だからこその言葉。
 人の良い笑顔を向けてくる笹谷家の当主。その顔を真っ直ぐに見つめ、交喙は言った。
「いいえ。御当主。お願いがあります。私と魅亜様との婚約は、即刻解消してください」

 ◆◆◆◆◆

「あら、またこんなところにいたの? 吹き飛んだ茂みと鯉が全滅した池なんか見て、何が面白いのかしら」
「魅亜様……」
 交喙が笹谷家の当主と交渉を終えるまで庭で待っているようにと言いつけられた花鶏は、背後から近づく気配に振り返った。魅亜が先日のように嫌味を言いながらやってくる。
 昨夜のように取り乱した様子もなく、今日も綺麗な着物を着て、髪を凝った形に結い上げている。けれど何故か今日の彼女は、その愛らしい顔立ちを複雑そうに歪めていた。
「魅亜様、その……」
 昨夜桜魔を倒したあとそのまま昏倒してしまった花鶏は、その後交喙がどのように場を収めたのか知らない。いろいろ物が壊れて桜魔の血も残って屋敷の人たちも怯えて大変だったろうに、全てを兄に任せてそのまま眠ってしまった。
 だから少しでもあの後の状況を聞こうと魅亜に話しかけたのだが、それよりも早く、魅亜が言った。
「わたくし、あなたが嫌いよ」
 ざっくりと。相変わらずはっきりと魅亜は物を言う。
 花鶏も昨日までなら理不尽だと思っただろうが、今日は仕方ないとも言えた。何故なら彼女には昨日、桜魔と戦うところを全て見られていたのだから。
 昨夜の桜魔は人型ではなく、おぞましい異形だった。それが尚更まずかったのだろう。もしも相手が人型の桜魔であれば、魅亜はそれを殺す花鶏のことを残酷だと考えはしても、ここまで恐れはしなかったに違いない。
 明らかに化け物にしか見えない桜魔を、更なる力でねじ伏せる。だからこそ花鶏までもが、常人の目には化け物にしか見えないのだ。
 花鶏もそのくらいはわかっている。だから今は魅亜がどれほど酷いことを言ってきても、しかたないと思える。
 退魔師とはそういうものなのだ。
 けれど魅亜が次に口にしたのは、花鶏の予想とは違う言葉だった。
「わたくしはあなたが嫌いよ。だってあなたは、交喙様に愛されているのだもの」
「え?」
 愛されている? 私がお兄様に?
 思いもかけない言葉を聞いて、花鶏はその場で硬直した。
「あなたが倒れた時、交喙様はすぐにあなたに駆け寄った。あなたを抱きしめた交喙様の熱のこもったあの顔! 知らないなんて言わせないわ!」
 あの後、気絶した花鶏を抱いた交喙は魅亜に言ったのだ。
『あなたとの婚約を解消します』
『交喙様、何故ですの?!』
『あなたが何と言おうと、私はこれでも退魔師の端くれです。そして無力な我が身に引き比べ、退魔師として強大な力を持つ妹のことを、これでも尊敬している。その彼女を化け物と罵るあなたとは、退魔師として決して結婚できません』
 月明かりの下、黒髪の青年が銀髪の血にまみれた少女をかき抱く。
 その光景はいっそ幻想的なほどに美しかった。
「昔、この家には一本の桜の樹が生えていたわ。他の樹みたいにすらっとしていなくて、幹がでこぼことした醜い樹。わたくしはそれを無様だと馬鹿にして、わたくしの身体を狙う醜い桜魔のことをも馬鹿にしていたけれど……今なら、あれほど美しさに焦がれた桜魔の気持ちも、少しだけわかるような気がするわ」
「魅亜様」
 しみじみとした様子でそう口にした魅亜の姿こそ、美しいと花鶏は思う。我がままで高慢で、でもそれを許されるほどに美しい少女。自分に自信を持っていて、何事もはっきりとものを言う。
 花鶏とはまるで正反対だ。だから花鶏も、彼女に嫉妬した。
「交喙様はわたくしとの婚約を解消したわ。今頃父の手から天望家にも書簡が届けられている頃でしょう」
 魅亜の言葉に花鶏は目を瞠る。
「笹谷はもう桜魔にも、退魔師にも関わりたくはないわ。だから、さっさと帰りなさいよ」
 魅亜は交喙から手を引く。彼は決して、彼女のものにはならないから。
 そう告げて、魅亜は花鶏を庭園から追い払った。

 ◆◆◆◆◆

 戦闘中の花鶏は無意識に呪力で自分の防御力を高めているらしく、昨夜茂みに突っ込んだ打撲も、一夜明けてみれば大したことはないということがわかった。
 天望と笹谷の家は近い。兄妹は話を終えると、徒歩で家路を辿ることとなった。花鶏も無事なことだし、下手に駕籠を呼ぶよりも歩いて帰った方が早いためだ。
 肉体強化型の退魔師は動きやすいよう特徴的な服装をする者もいるが、二人は武器使用のため衣装は普通の着物だ。それに並んで歩いていても顔が似ていないので、兄妹と思われることすら少ない。
 常人には忌み嫌われる退魔師でも、道を歩くときにはそんなことわかりもせず、周囲の反応も穏やかだ。
 花鶏と交喙は最低限の荷物だけを手にゆっくりと歩いて帰る。
 季節は春。どこからかまた、桜の花びらが舞ってきた。
 幽霊退治の稼ぎ時が夏ならば、桜魔退治はそれこそ春以外にない。桜魔の力が強い土地では一年中桜が枯れぬよう魔が憑りつくというが、このように人が多く土の力が弱い首都では、桜魔は春の短い間にだけ現れる夢幻のような存在だ。
 その夢のような短い合間の桜魔狩りを勤しむためだけに、退魔師は存在する。人々に忌み嫌われ、敬遠されながら。
 天望の家はもともと霊能者の家系だった。桜魔という存在が出てきて、霊能力がそのまま桜魔にも通じたので流れで退魔師を名乗るようになった。だから古くから存在する名家と呼ばれる。
 そして花鶏は、天望の家が始まって以来最強の退魔師。
 けれどここにいる彼女は、あくまでも一人のか弱く可憐な少女だった。唯一、人と違うことがあるとすれば、それは実の兄に恋をしているということ。
 魅亜と交喙の婚約が解消されたことに関して交喙に話を聞きたいと思うけれど、どう言葉をかけていいかわからない。兄の女関係に口を出して、鬱陶しいと思われたくない。
 交喙に嫌われたら死んでしまう。
 冗談ではなく、本気で花鶏はそう思う。
 大事で大好きな、誰よりも素敵な自慢の兄だ。交喙よりも素敵な人も、好きになれるような人もいない。それは恐らく、花鶏が退魔師ではなく普通の人間で、もっとたくさんの年頃の少年や青年と付き合いがあったとしても、交喙が交喙である限りは変わらなかったと思う。
 交喙が魅亜に言ったということを思い出しながら、隣を歩く兄の横顔を見つめる。
 退魔師として、と彼は言った。呪力が弱く、一人では退魔師としては使い物にならないのではないかと言われている交喙が。
 彼はいつだって悲しいくらいに真っ直ぐだ。自分より呪力の強い花鶏に嫉妬しながらも、それでも花鶏が退魔師として生きる限りはその生き様を支えてくれる。何故なら彼自身が、どんなに力が弱くても、退魔師として生きようとしているから。
 いっそ呪力など封印して、只人として生きる方が楽だろうに、交喙はそうしない。僅かな力でも高める努力を惜しまず退魔師として日夜修行に励んでいる。
 彼は自分の弱さを受け入れ、その上で努力しているのだ。だからこそ花鶏に嫉妬しながらも、花鶏と行動を共にできる。
 その強靭な意志と真っ直ぐな立ち姿の生き様に、花鶏は兄妹であることも忘れて深く惹かれるしかないのだ。
「花鶏」
「はい、なんですかお兄様」
 道を歩きながら、川沿いの樹から降ってくるらしき桜の花びらを眺めて交喙が口を開いた。
「今年の桜ももう終わりだな」
「……ええ、そうですね」
 それは二人にとって、桜魔退治に追われる時期がようやく終わるということを意味していた。強い桜魔ほど四季に関係なく活動するが、そんな桜魔が存在し、人を襲うことは稀だ。例年、春を過ぎれば桜魔の被害は格段に少なくなる。
 花鶏は思う。
 あと何度、こうして交喙と共に退魔師として仕事をするのだろう。彼か自分か、どちらが今回のように婚約者を定められて結婚してしまえば、さすがに今のように兄妹二人の退魔師として活動することはできなくなるだろう。
 そうすれば、二人きりでいられるこの幸せな時間は終わってしまう。
 自分たちは所詮退魔師。桜魔を倒すという目的がなければ、傍にすらいられない。
 前を歩く交喙の何も持たない左手に、触れたい。けれど突然そんなことをして怒られやしないかと花鶏は躊躇う。
 その時、何かを察したように、交喙が花鶏の手をとり、包み込むようにするりと指を絡めてきた。
「お兄様……」
「花鶏。いつか、桜のない場所に二人で行こう」
 桜のない場所に。それがいつのことかはわからない。けれど桜のない場所とは、桜魔の存在しない場所。桜魔を倒すという目的のためにではなく、ただ二人だけで過ごそう、と。
 いつも花鶏に複雑な目を向け、嘲笑うような嫌味を向ける交喙が何を考えてそんなことを口にするのかわからない。彼が花鶏に向ける感情は花鶏の一方的な好きとは違い、もっと肉親の愛情も退魔師としての嫉妬も憎悪も全て絡んだ、複雑なものなのだろう。
 けれど花鶏はただ嬉しくて――。
「はい」
 兄の手と絡んだ指にそっと力を込めながら答えた。
「はい、お兄様。いつか、必ず。必ず、二人で」
 今年最後の桜が終わる。
 二人は自分たちの運命が、その後も長く桜魔という名のあやかしに翻弄されることを、まだ知りもしなかった。

 了.