僕の愛しい勇者様 01

8.スパイのお遊び

 とはいえティルことシュピーゲルのスパイ生活は実りのあるものではなかった。
「兄さん、おはよ~!」
「ああ。おはようライア」
 ちゅ、とソールが弟の額に口付けた音がして、ティルは思わず頭痛を堪えるように指を当てた。朝からこの兄弟のバカップルぶりを見せつけられるのは辛い。
「ああ、今日もやってるのね」
「飽きないよな。あいつらも」
 二人の幼馴染であるローズベリーとオルクスも、宿屋の階段を降りてくる。そしてティルに苦笑して見せた。
「ごめんなさいね。あいつら鬱陶しくて」
「あれで実力は確かだから、普段の馬鹿っぷりはどうにか耐えてくれ」
「は、はい」
 ティル少年の姿をしたシュピーゲルは、十三、四歳程度の子どもの見た目だ。それでも若干の魔法を使えることを理由に、彼はなんとか次の町に落ち着かず、勇者一行に着いていくことを納得させた。
 ソールとライアの兄弟に割って入る隙間がまったくないせいか、この一行は見た目が幼いティルに対しても過剰に心配したりあるいは邪険にしたりと構ってこないのでそういう意味では楽なスパイ生活だった。幼馴染組はティルよりもむしろ勇者とその弟の方が危なっかしくて見ていられないらしく、しょっちゅう彼らに声をかけている姿を見る。
「……通る」
「わぁ! あ、お、おはようございます。ウォルフさん」
 背後からぼそっとかけられた声にティルは飛び上がった。そこにいたのは全身黒尽くめの陰気な男、ウォルフだった。暗殺者だというこの男は無口というほどではないが必要以上の言葉は決して口にせず、何を考えているのかさっぱりわからない。
 しかもどうもティルのことを警戒しているようで、長く話をするのはティルにとっても避けたい相手だった。
「あ、おはようティル」
「おはようございます。勇者様」
「ソールでいいよ」
 ウォルフがさっさと食堂に行ってしまうと、これまで弟を構うのに忙しかった勇者がようやくティルの存在に気づいて声をかけてくる。
 彼は絶世の美形と言うほどではないがすっきりと整った顔立ちで、物腰は穏やかで人当たりも良い。日焼けした肌に笑顔を浮かべるその様子はまさしく“勇者”だ。……弟のことさえ、なければ。
 勇者ソールが自分を見失うのは、主に弟のライアに関することである。
 そのライアは現在、半眼でティルの方を睨んでいた。
 ライアとティルは共にやわらかな印象を与える美少年で年齢も近く、そのことが兄大好きっ子ライアの琴線に引っかかったらしい。基本的にソールは子どもに対しては他の相手より優しいので、ティルもそれとなく気にかけられて優しくされている。弟はそのことがとにかく気に食わないのだ。
「おはようございます。ライアさん」
「……おはよう、ティル」
 こちらから声をかければ、ライアの場合は一応挨拶程度は返してくれる。しかし憎々しげにこちらを睨む目はそのままだ。
 先に行った仲間たちと共に食堂へ向かう二人の背を見ながら、スパイ少年は考える。
 彼の目的は今後の戦いのために、勇者たちの情報を探ることだ。それにはただ彼らの日常を見張ればいいというものでもない。もっと深く彼らの弱点を探るために、何かこちらから手を出すのも一つやり方だ。
 今のところわかるのは、ソールの行動には常に弟のライアが深く関わっているということだ。
 それを元に、ティルは一つ、面白い悪戯を思いついた。

 ◆◆◆◆◆

「んきゃぁああああ!!」
 翌日、恙無く道程を過ぎて泊まった次の宿屋で朝を迎えた時のことだった。
「ライアちゃん?!」
「ライア!」
「ちょ、ライア! ローズ! どうした?!」
 同室で寝ていたローズベリーが悲鳴に跳び起き、隣の部屋からはソール、オルクス、更に隣からはウォルフとティルが駆けつける。
「に、兄さん~、ぼ、僕……」
 盛大な悲鳴を上げた張本人であるライアは頭から布団を被り、がくがくと震えていた。
「ライア、一体どうしたんだ」
 思わず弟の被っている布団をさすがの戦士の腕力で引っぺがした兄は、さらけ出されたそれを見て目を点にした。
「お……お前」
「ライア?!」
 オルクスとローズベリーも目を点にしている。珍しい事にウォルフまでもが動揺した様子を見せ、ソールにいたっては完全に固まっていた。
 自らの腕でまだ夜着のままの体を抱くライアの胸には――まろやかな曲線を描く乳房がついていた。
「いつからお前女の子になったんだよ!」
 彼を子どもの頃から、それこそ一緒に川遊びするなどして裸まで知っている幼馴染の格闘家が頭を抱える。ローズベリーも硬直し、ウォルフまでもが口の中で「馬鹿な」と小さく呟いていた。
「ど、どうしよう兄さん! 僕、僕……女の子になっちゃったよぉ!」
「何だって?」
 一行は呆然とした。だがいつまでも宿の一部屋で地蔵のように固まっているわけにもいかない。はっと我に帰ったローズベリーがすぐさまライアの身体を調べると、彼には呪いがかけられていることがわかった。
「性別逆転の呪い」
「って、誰が何のためにそんなことを?」
「そこまではわからないわよ。んー、でもこれなら、一日もあれば薬で治せると思うんだけど」
「ってことは、一日の辛抱?」
 それを聞いてようやくライアは安堵の表情を浮かべた。このまま一生男に戻れないのと、今日一日だけ我慢すればいいのでは雲泥の差だ。
「そうよ。でも……ライアちゃん今日は部屋の外に出ない方がいいわね」
「どうして? あ、他の人に見られたら困るから?」
「それもあるけど……」
 仲間たち一行は顔を見合わせた。
 今彼らの眼前にいるのは、長い銀髪に緑の瞳の絶世の美少女だった。もともと女顔の優男だったライアだが、女性化するとこんなに可愛らしくなるなんて反則だ。
「……なんでもいいから、今日はゆっくり体を休めるんだ。ライア」
「兄さん」
 弟がいつものくせで擦りよってしがみつくと、その兄は硬直した。今は体つきがいつもと違うので、そのやわらかな胸の感触に思考が停止したらしい。
「……で、どうするんだ?」
 ウォルフがローズベリーに聞いた。
「ソールに任せましょう。私が薬を作るまで、二人でこの部屋にいてもらえばいいわ」
「あの二人でか?」
「今のソールが、あの姿のライアを手放すと思う?」
「……」
 溜息と共に幼馴染の口から吐き出された言葉に、新参の暗殺者は沈黙した。
 ライアが男だと思っていればこそオルクスもウォルフも彼に近寄らせてもらえたのだ。それがいきなり女になったとすれば、この世で性別男の人間は、その兄以外間違っても近付かせてもらえないに違いない。
 げんなりとするオルクスに、まだ硬直しているソールと問題の渦中で涙目のライア。やれやれと言った顔つきで解呪薬のレシピを探すローズベリーに、何故か真剣な顔をしているウォルフ。
 彼らは自分たちの背後でその光景を見ていたティルがほくそ笑んでいることには気づかない。
「じゃ、私は薬を作って来るから、頼んだわよ。ソール」
 勇者たち一行は、今日一日この町で強制的に休暇を過ごすこととなった。