荊の墓標 01

002

 この道はただ、いばらの這う、墓標へと繋がって。

 父を母を兄を姉を弟を妹を埋めた墓標に、今にも咲き綻びそうな鮮やかな野の花を、剣を持つ資格を失った手のひらを掻き傷だらけにして摘んだ花で作った花冠をかけたとき。
 自分はきっと死んだのだ。できるならば死んでしまいたかった。本当は今すぐにでも、家族のあとを追いたかった。
 魂はここにはない。けれど、肉体は生きて貪欲な呼吸と絶え間なく煩わしい脈動を繰り返す。どうして自分の肺はこんなになってまで空気を欲し、心臓は血液を送るのだろう。もう誰もいないのに、今自分のすぐ後ろにいる男の他には。家族を殺した憎い仇の他にはもう誰も何もいない。
 腰にはいていた剣は彼に奪われて、返り血で汚れた上着は剥ぎ取られ薄いシャツ一枚。≪風の故郷≫と呼ばれる王家の墓所で、生き残ったこの身を責めるかのようにこの年最初の冬の風が吹いている。
「その辺にしておけ、いいかげんにしないと病を得るぞ」
 例えるなら残酷な愉悦が形をとったような人間が、背後で囁いた。高くもなく低くもない、怒鳴ったわけでもないのに通りよい声は吹く風に負けじと届き、彼はゆっくりとその方向を振り返る。美しいが冷たい印象を与える青年とも少年ともつかない年齢の男が、こちらを見ながら薄く笑んでいた。自分が殺した相手の墓を見下すように。
 カッと頭に血が上った。思わず反抗的な言葉が口をついて出る。
「誰のせいだと思っている」
 次の瞬間、左頬に衝撃が来て、錆びた鉄の味が口内に染みた。
「貴様こそ誰にものを言っている? お前の立場などもうないに等しいのだ。その生殺与奪は全て私が握っている」
「だったら、殺せばいいだろう! 俺も父である国王や王太子であった兄たちと同じように!」
 そうしてくれた方がどれだけ楽だったか。しかし目の前の残酷な男は楽しそうに首を振る。
「それが望みか。だから言っているだろう。生殺与奪、と。私が許さなければ貴様には死すら許さん」
 こちらの肩に泥のついた長靴を履いた足をかけ、轟然と見下ろしながら彼は言う。
「さあ、さっさと行くぞ。いつまでも貴様の感傷に付き合ってやる気などない。妃は妃らしく、私の機嫌だけをとればいいのだ」
 そうして、無理矢理家族の墓所から引き離すようにして、彼は自分を鳥籠の中へと連れて行ったのだ。

 ◆◆◆◆◆

 彼が生まれ育った、今はこの世にない国の名はローゼンティアと言った。
 そして彼の名はロゼウス。ローゼンティア国王ブラムスの第七子にして、第四王子だ。今年で十七になる。
 ブラムス王の十三人の子どもの中でロゼウスは真ん中辺りに位置し、十三人中七人が王子、六人が王女であった。温厚で子煩悩だといわれたブラムス王の覚えはめでたかったから、ロゼウスはこの年齢までなに不自由なく王城で生活していた。
 寝ている者が多い昼間は国中が静まり返り、夜になってからがロゼウスたちローゼンティア国民、ローゼンティアのヴァンピルの活動時間帯本番だった。太陽の光はどうも眩しくていけない。月もない闇夜にこそ彼らの瞳は開く。そして闇の翼持つ王の治世と共に、ローゼンティアは今年で建国千五百年を迎えるはずだった。
 ローゼンティアはヴァンピル――吸血鬼の住まう国、だった。
 だから住民の体調は昼よりも夜に健やかであり、銀製のものを嫌った。吸血鬼とは言っても近隣諸国の人間を攫ってだれかれ構わず殺すなどということはもちろんなく、特別な薬によって吸血の衝動を抑えると、あとは昼夜が逆転しているだけでほとんど人間と変わらぬ暮らしを送っていた。
 平和で幸福なヴァンピルたちの楽園が、無粋な侵入者の手により破られ砕かれたのはつい三日ほど前。
 隣国である人間の国に襲われたのだ。
 その国――エヴェルシードの王権は一月ほど前に、先代王ジョナスから彼の息子へと継承されたばかりだった。ジョナス王の時代にはお互いに友好国として季節ごとに使節を送りあう仲であった二つの国が争うことになったのは、偏に彼の息子のせいだ。
 ジョナス王の第一子であるシェリダン王子が即位してエヴェルシード王となったとき、彼がまず行ったのは父親の幽閉と有力貴族の武力財力の削ぎ落としだった。いや、ただ削ぐというだけでは正しくない。彼は国内の貴族たちをありとあらゆる手段でもって、その兵力と資金を戦争につぎ込ませたのだ。
 ヴァンピル王国ローゼンティアとの戦争に。
 新しいエヴェルシード王の急激な国内改革と実父の幽閉という暴挙に底知れない畏怖と危機感を覚えたローゼンティア側は、幾度か若い国主に面会しその非道を改めさせようと尽くしたのだが、友好国であるはずのローゼンティアの意見をシェリダン王は聞き入れなかった。業を煮やしたローゼンティアは国王の全権特使として領民からも他の貴族からも信任の厚い公爵を送ったのだが、その公爵は見るも無残な姿となって帰って来た。
 どれほどの恐怖と苦痛に責め苛まれたのかカッと目を見開いた生首がローゼンティアに送りつけられ、ローゼンティアは慌てて国内の武装を整えようにも時すでに遅く、シェリダン王の手によって僅か一週間ほどでエヴェルシードに敗北を喫した。
 争いを好まない温厚なローゼンティアの民は、国民の人気が高かったブラムス王――ロゼウスの父がエヴェルシードの将軍に討ち取られたと知ったときに、戦意を失い降伏の道を選んだという。
 そしてヴァンピル王国ローゼンティアはこの世から消えた。
 エヴェルシードはローゼンティアの国土と国民を諸外国が口を挟む隙もないほどさっさと自分たちの領土にしてしまい、ローゼンティアはエヴェルシードの一部となり国民は老人から赤子まで例外なく奴隷にされてしまったというのがその理由の一つ目。そして……王位を継ぐ者が全て死に絶えたから、と言うのが二つ目の理由。けれどそれは表向きだ。

 ◆◆◆◆◆

「服を脱げ」
「何?」
「聞こえなかったか? 着ている物を脱げと言っている」
 シェリダンの言葉にしぶしぶと従い、ロゼウスは上着のボタンに手をかけた。血と泥で汚れた服を着替えさせられ、身体の隅々まで丹念に侍従たちの手で洗われて、ロゼウスは今敵国の主将、親兄弟の仇である少年の前に立っている。
 少年の名はシェリダン=ヴラド=エヴェルシード。憎んでも憎み足りない、エヴェルシードの国王。残虐非道な王と呼ばれていたからどれほど陰険な中年かと思っていたのに、初めて相対したとき顎が外れそうなほど驚いた。
 海底の底から闇を攫ってきたように濃い藍色の髪に、猫科の獣を思わせる朱金の瞳。細身だが鍛えられた四肢はしなやかでたくましく、その一挙手一動が人々の眼を捕らえて放さない優雅さだ。
 年齢はロゼウスとさほど変わらないように見える。まだ十代後半と言ったところで、高すぎず低すぎない通りのよい声をしていた。
 その声で、彼はロゼウスたち王族の拘束を命じ、ロゼウス以外全ての王族を殺した。
「……脱いだ」
「では、こちらに来い」
 寝台で瓶に直接口をつけて果実酒を煽っていたシェリダンが、全裸となったロゼウスを上から下まで眺め回し、にやりとしか形容する言葉のない歪な笑みを浮かべてそう言った。
 ロゼウスは言われたことに素直に従い、酒瓶を手放したシェリダンの膝に乗る。腹を這う男の手に鳥肌を立てたい気持ちでいっぱいになりながら。
「約束は守れ」
「約束?」
「俺があんたのものになるんだったら、ローゼンティアの民には手を出さないと」
 掠れ声だったが距離が近いおかげで、十分相手には聞こえていた。相変わらず笑みを浮かべたまま首筋に吸い付く相手の熱い吐息を感じながら、必死の思いでそれだけをただ考える。
 ローゼンティア王族の中で何故ただ一人、ロゼウスだけが残されたのか。何故、自分でなければならなかったのか。
 そんなことは知らないし、今更知っても詮無いことで虚しいだけだ。だがロゼウスだけを残して親兄弟親戚一同を皆殺しにしたあと、この男、シェリダンは言ったのだ。
 ロゼウスが彼の言うとおりにすれば、ローゼンティア国民を虐殺することはないと。
 敗国の行末などどこも同じようなもので、エヴェルシードに限らず戦勝国は負けた国の領土を好きに奪い、民は殺すか奴隷にするのが普通だった。昼日中に精力的に動けないローゼンティア人は奴隷としても役に立たないだろうと半ば虐殺で決まりかけていたところを、シェリダンの気まぐれが救った。
 代償は自分の自由。
 ローゼンティア第四王子ロゼウスはこの先一生をエヴェルシード王シェリダンに捧げる、と誓わされた。
『民を救いたいか? ローゼンティア王子ロゼウス殿』
 血塗られた広間。一族の死体の積み重なる部屋で下肢を濡らす血だまりを感じながらの対面。後手に縛られたロゼウスの背中を兵士が押さえこんでいた。武器は取り上げられ、薄地のシャツ一枚。
『救いたい』
 それでも迷いはなかった。
 目の前にいるのは、父母を、そして兄妹を殺した憎い仇。四肢をもがれても一矢報いたいのは当然で、けれど自分一人の憎しみとローゼンティア全国民の命を天秤にかけるわけにはいかなかった。
 自分は例え継承権から遠くても、もうこの国がこの世界から消えたとしても。
 ヴァンピル王国ローゼンティアは永遠に我が祖国なのだから。
『ならば私の言う事を聞け。私の望みのままにその身を差し出し、命を捧げよ。我が奴隷に、そして』
 憤りを押さえ込むために歯を食いしばり床ばかりを見つめていたロゼウスの髪を掴んで顔を上げさせ、苦痛に呻くロゼウスにその秀麗だが残酷な笑みを見せつけながら、シェリダンは言った。

『我が永遠の花嫁となれ――』

 ◆◆◆◆◆

 寝台の上に引きずり倒され、両肩を強く押さえ込まれる。苦痛に喘ぐ間もなくシャツを破られ、生白い胸板が露になった。
 ローゼンティア人の特徴は白い肌に白い髪、そして血のように紅い瞳。ロゼウスの瞳は特に色が濃いらしく、血のような、というより濁り溜まった血の色そのものだった。日に当たることが出来ないとは言わないが、陽光が苦手なヴァンピルの肌は白く、黄色かったり浅黒かったりする他国の人間たちの肌とは比べ物にならない。線の細いローゼンティア王族の中でもさらに女性的だと言われる顔立ち。鍛えても傍目には筋肉がついているように見えない四肢と、小柄と呼ばれた身長。
 屈強とは程遠い外見だが、剣の腕前にはそれなりに自信があった。けれどそれも結局は、シェリダンに、たかが人間の少年に敵わなかった。ローゼンティアが滅びた戦争の終わり、国内では最大にして唯一の砦である王城に兵は集まり、最終決戦が行われていた。王女たちや召使たちを逃がす暇もエヴェルシードの電光石火の猛攻の前には与えられず、城内でローゼンティア軍はエヴェルシード軍を王城で迎え撃ったのだ。先頭を切って剣を仕掛けてきた相手がまさか向こうの国主だとは思いもせずに、ロゼウスはシェリダン王と剣を合わせた。
 倒すことはできなかった。
 ロゼウスがシェリダンと刃を交えている間に、父王はエヴェルシードの将軍に討たれた。
 だが。
「悔しいだろう? ロゼウス王子」
 国が滅びて家族が殺され、自分だけが生き残り心も身体も疲れきって指一本すら動かせない。自分を貫く男のものを感じながら、吐き気と、胸の中に溜まる黒い靄のような嫌悪感を無理矢理押さえつけていた。
「な……にが……」
 黙ったままでいたら前を強く握られ、激痛が身体を走った。涙目になりながら、ようやく口を開く。
 悔しい? 今更何を。悔しいに決まっているだろう。何もかもが。国が滅びたことも家族を殺されたことも国民を人質にこの無礼で非道な男の『妃』になれなどと言われたことも。
 シェリダンは中に入ったものの圧迫感で息も絶え絶えなロゼウスの顔を捕らえ無理矢理自分の方へと向けさせると、耳元で囁いた。甘さのない情事に掠れた声が耳朶を叩く。
「セワード将軍がお前の父を殺すよりも早く、お前が私を殺していれば戦況は変わったかも知れぬのに……」
 心の中で、何かが切れる。最後の一線が硬質な音を立てて崩れ、ロゼウスは自分にのしかかる敵国の王を突き放そうと、その鍛えられた胸を両手で押す。だが、震える手には力が入らない。
 シェリダンは追い詰めた鼠をいたぶる猫のように残酷な笑みを浮かべ、ロゼウスに口づけた。その秀麗な唇が触れ、無理矢理口をこじ開け舌を噛むことすらできないようにさせ、呼吸を奪う。
 涙が溢れた。
「――放せ!! 放せ――っ!! お前など、お前など大嫌いだ――っ!!」
 クソ馬鹿外道畜生と、思いつく限りの悪口雑言を投げて抵抗する。暴言のレパートリーはそんなに多くない。こんなことなら育ちの割に自分と同じく口の悪かった二番目の兄に、もっと悪口を習っておくのだったと思う。そうしてすぐに、彼はもういないのだと気づいた。
 もういない。尊敬していた父母も誇らしかった兄も優しい姉も、可愛い妹も、生意気盛りの弟も、忠実な家臣も。
 もう誰もいない。
 この少年がみんな殺した。
「―――――っ!!」
 声にならない叫びと、功を奏さない抵抗を楽しむかのように封じて、シェリダンが腰を使う。乱暴な行為には快楽の欠片もなく、痛みと苦しみだけの行為にぼろぼろと涙を流しながら、亡くした人を想ってまた闇へと突き落とされる。
 後に残るのは、ただ虚無。

 ◆◆◆◆◆

 途中で気を失ったらしく気づけば朝だった。
 全身が鈍痛と倦怠感に侵され、起き上がれない。酷く喉が渇き、肌寒さを感じた。隣に、あの王の姿はない。
 明確に意識する間もなく、気づけば頬を涙が滑っている。
 ああ、これは極彩色の悪夢だ。
 なんて鮮やかで目に悪い、毒々しい闇の夢。逃げようとしても逃げられない。絶えず追いかけてくる魔の御使い。
 そうして目を覚まして。荒れた寝台の冷えたシーツの上で、軋むように痛む身体を自らの腕で抱えながら。
 悪夢よりも一層残酷な現実を知る。