荊の墓標 01

005

 あのシェリダンが、妃を連れて帰って来た、ですって?

 私室で報告を受けたとき、情けない話だがカミラはその場で固まった。ちょっと待って。何よ、何なのよそれは。長椅子の上で体勢を立て直しながら、報告係へと向き直る。
「で、その相手は誰なの?」
 カミラは部下に尋ねる。帰って来た答は。
「ローゼンティア王家の、生き残りの姫君!?」
 カミラは思わず頓狂な声を上げてしまった。信じられない! あの男、自らがその一族全員を屠った相手を強引に妻にしたというの? 生き残りと言うよりは、シェリダンがわざと残しておいたというわけだ。
 顔も知らないけれどその姫に同情する。心の底から。カミラが同じ立場になったら、間違いなく自分で舌を噛んで死んでいる。家族を愛しているかどうかは別として、王族としての矜持を奪った相手の妻になるくらいなら潔く死を選ぶ。
「一体どうしてそんなことに」
「どうやら、陛下はローゼンティア人の命を彼女の身柄と引き換えにしたらしいのです」
 ローゼンティア人、ヴァンピルは白髪に紅い目と尖った耳が特徴の、夜に活動する種族。エヴェルシード人はただの人間で、青や紺の髪に金や茶系、橙色の瞳を持つのが特徴だ。ちなみにシェリダンは夜空の如き藍色の髪に朱金の瞳で、カミラは、濃い紫の髪に金の瞳をしている。このように人種によって容姿の色彩は違うが、個人差も大きい。
 それはともかく、民を助けたくば自分に従えって? シェリダンらしいことだ。シェリダンらしい、えげつないやり方だ。
「シェリダンは間違いなく、その姫を正妃に迎えると宣言しているのね?」
「その通りでございます。宰相に対しても強引に押し切ったそうで。何しろ大層美しい姫君らしく、誰も反対の意を唱えられなかったとか」
 シェリダンやカミラ、そしてヴァージニア王妃の美貌に見慣れたこの城の者たちでさえ圧倒される美貌。一度見てみたいものだ。どんな姫なのか。
不死身の魔物と恐れられるヴァンピル……もしかしてその姫君を味方につけるというのも良いのではないか? ローゼンティアの返還と、シェリダンの暗殺を引き換えに、取引できないだろうかとカミラは画策する。
 どちらにしても、さして侵略する必要もない国を侵略してあっさり勝利しておきながら無理矢理攫ってきた姫君を妻に、それも正室である第一王妃に迎えるなんてシェリダンは愚かだ。そうしてしまえば、もっと他の強国とこれ以上縁戚関係を結ぶことができない。何しろ十三人も子どもがいたというローゼンティア王と違って、二人の父であるジョナス王にはカミラとシェリダンの二人の子どもしかいなかったのだ。しかもエヴェルシード王家は子宝に恵まれない血筋なのか、親戚中を当たっても子どもが少ない。現在未婚であるのは、それこそシェリダン以外ではカミラくらいのものだ。
 そこでふとカミラは考える。ということは、もしかしてシェリダン自身が他国との国交の足がかりに自分自身で妃を迎えることができないとなれば、人身御供として差し出されるのは自分ということではないだろうか? 冗談ではない。
 何とかしなければ。だがいい方法が思い浮かばない。
 カミラは部下に引き続き兄王の動向の調査と先王である父親の捜索を命じて、部屋から出た。少し外の風に当たりながらよくよく考えたかった。しかしこうなると、いずれはシェリダンに挨拶に行かなければならない。数日前にシアンスレイト王城に帰って来たときは、気分が悪いことを理由に上手く会わずに済んだのに。
 カミラと兄であるシェリダンの関係はいつだってこのようなものだ。お互いを避けてそれでいて敵視して。会えば皮肉の応酬となる。
 薔薇の香りに誘われるようにして、中庭へと足を向けた。品種改良された花々は四季の景色を絶え間なく彩っている。これは父の趣味だったのだが、カミラはあまり気に入らない。自然を歪めて自分の思い通りにして喜ぶなんて悪趣味だ。自らが命懸けで崖際の珍しい花を採取して持ち帰り枯れないよう世話するのではなく、お抱えの職人と科学者を協力させて人工的に作り出した造化の美は美しいがどこか薄っぺらい絵のようなもので。あの人は常に何事をも自分の支配下に置かなければ気がすまない人だった。
 だからシェリダンの母親であるヴァージニア王妃の拉致などもできたのだ。特に好きでも嫌いでもないけれど、父上は有能だけれど酷い人間だ。そしてそれはシェリダンも同じ。あの兄だって、父親を心の底から呪いながら、結局は父親と同じことをしている。
 男ってどうしてこんなにも馬鹿なのかしら。女はものじゃないのよ。他人は自分の玩具ではないの。カミラは心の中で父と兄に対し悪態をつく。はじめから全てを与えられていた人間には、カミラのように何も持たずに生まれた人間の血を流すような努力は理解できないのだろう。
 エヴェルシード王妹、カミラ=ウェスト=エヴェルシードは先王の正妃の子どもでありながら、何も持たずに生まれた。
 エヴェルシードは男子の王位継承が普通だ。さすがにシェリダンとカミラしかいないという今この状況で兄であるシェリダンが夭折でもしようものならばカミラを女王として立てるしかなくなるだろうが、それでもシェリダンがいるかぎり彼女が王になることはない。
 隣国であったローゼンティアは、長子、及び正妃の子どもが王位を継ぐのが普通らしい。最悪でも正妃の息子という条件を求めるから、正妃はそれこそ何が何でも男の子を産まなければならない。男でなくても、女児しか生まれなかった場合は正妃の長子が玉座を継ぐ。正妃の子どもが長子でも男子でもなかった場合、その娘と、他の王妃の王子とは決闘になり、買ったほうが玉座に座ると言う。つまりとことん正妃の血を優遇するというわけだ。ローゼンティアは世界唯一のヴァンピルの王国であり、妃も常に国内で募ってヴァンピルの血統を保っていると言うから、それも関係あるのかもしれない。
 だが、エヴェルシードの王位は男子継承が普通だ。男子の長子が王位を継ぐ。この場合妃の血筋は関係なく、男であることと長子であることが重要となる。つまり、第二夫人の息子でも、正妃に息子が生まれない限り王になれる。側室の長子の男児と正室の長子以外の男児ではさすがに正室の子が王位を継ぐが、側室の長子以外の男子と正室の女子では側室の長子以外の男子が玉座に着く。だからどうしても正妃の子に王位を継がせるには、継承者となる王子が生まれるまで王は他の女性とは関係を断つのが一番である。
 カミラとシェリダンは、ある意味一番最悪なパターンだった。
 シェリダンは第二王妃ヴァージニアの一人息子で長子。ヴァージニアはシェリダンを産んで数ヶ月も経たずに亡くなった。カミラは正妃の子どもだが、女で、しかもシェリダンの妹。男子継承、かつ長子継承が普通のエヴェルシードではどうあってもシェリダンが有利だ。
 男である。ただそれだけのことで。
 カミラは女に生まれただけで母に恨まれた。何故男ではなかったのかと。
 母は、あれでも父を愛していたのだろうか。第一王妃ミナハークも、ヴァージニアに負けず劣らずカミラとシェリダンが十になる前に病で早死にしたからもうわからない。カミラは母の顔など思い出せないし忘れてしまいたい。
 彼女の呪いは今もカミラを縛る。ヴァージニアに王の寵愛を奪われ、その息子に王位まで奪われた女の執念。カミラは、シェリダンはともかくヴァージニアは被害者だと思うのだが、母にとっては違ったらしい。
 カミラはどうあってもシェリダンから王位を奪いたい。自分はそのために生まれたのだから。女だけれど、長子ではないけれど、それでも玉座を手にしてみせる。
 そんなことを考えながら歩いていたら、中庭に辿り着いた。品種改良された艶やかで煌びやかな花たちが一斉頭をたれて出迎えるように見えるアーチ。それは父の趣味。奥に行くほど華美とはかけ離れた一角が広がり、カミラが目指すのはそこだった。
 けれど、薔薇園には先客がいた。
「誰?」
 カミラは思わずそう声を上げた。その人は、薔薇園の中心に建てられた四阿で顔を伏せて寝ているように見えた。しかし格好はそれなりに整っていて、貴族の子女かお姫様のように思える。影の中にいるから、髪の色はごくごく薄い色だとしかわからない。ということは、外国人なのか。エヴェルシード人は皆蒼系の濃い髪色をしているから。
 彼女の気配に気づいて、その人がゆっくりと顔を上げる。貴族の女性には珍しく肩までもない短い髪がさらりと流れて、濃い色の瞳が開いた。
 カミラは息を飲む。
 ふらふらとした様子で四阿から出てきたのは、とても美しい女性だった。いや、美しいなんてものじゃない。神が気まぐれに絵筆をとって描いたとしてもこのような美貌は生まれないだろうというほどの、完璧な美。
 新雪の如き白銀の髪、血のように深い紅の瞳。白皙の肌と尖った耳。
 ヴァンピル……ローゼンティア人。
 この人がシェリダンの〈妃〉になる女性なのだわ!
「痛っ」
 動揺のあまり後じさると、薔薇の茂みに手を触れてしまった。品種改良されていない種類はまだ薔薇本来の鋭い棘を持っていて、カミラは指先を深く傷つける。鋭い痛みが一瞬走り、見る見るうちに左手人差し指に血の玉が膨れ上がった。
 仕方がないからそれを地面に振り払おうと指を動かそうとした時だった。
「?!」
 ガシリと腕をつかまれ、彼女は動けなくなる。目の前には、カミラの身体を押さえ込むあの美しい女性がいた。カミラは理由もわからず、本能的な恐怖を覚える。彼女はカミラよりほんの僅かに背が高い。
 そしてその女性は、ゆっくりと慎重にカミラの腕を引っ張り、同時に自らの唇を開いた。
 艶めく深紅の唇が、カミラの傷ついた指先を飲み込む。
「――!?」
 何なの? この人。

 ◆◆◆◆◆

 話は数時間前に遡る。

 シェリダンに抱かれて目覚めた朝はとにかく腰が痛い。というか身体のあちこちが痛い。それはともかく、そろそろ本格的に女装生活に入らねばならないようだ。
「王妃様! 本日のお召し物はこちらです!」
 相変わらずうきうきと誰がどこからどう見ても上機嫌な侍女のローラが、一着のドレスと装身具を持って王の部屋に現れた。目の前で広げられたそれに、ロゼウスは眩暈を覚える。ちょうど寝台にいるので、このまま突っ伏してしまいたい気分だった。昨日の白いドレスも十分華やかなものに見えたのに、本日の衣装はまた一段と凄い。凄いという言葉はもともと恐ろしいという意味があったというが、その本来の意味間違いなく凄い衣装だった。
 肩を出すデザインのドレスは、淡い紅色をしていた。腰は緋色のコルセット状で、ふんだんに使われているレースとフリルもだいたいが緋色。靴は艶めいた漆黒の……なんと言うかわからないのだが、てかてかとした素材だ。妹が昔はいていたものに良く似ている。髪につける飾りも黒のレースに緋色のリボンと薔薇の造花を合わせた物で、確かに美しい。ちゃんとした女性の髪に正しく飾られるのならば。
 ロゼウスがローラの手によってそれらを着付けさせられている間に、シェリダンはさっさと身支度を整えさせていた。すっかり終った頃に、侍従のリチャードが仕事の予定を説明し始め、それを聞きながらロゼウスとシェリダンは小姓のエチエンヌが運んできた朝食をとる。そのメニューを見て、ついでに髪飾りの造花でロゼウスは大事なことを思い出した。
「シェリダン王」
「何だ、妃よ」
「欲しいものがある」
 紅茶を口に運んでいたシェリダンが意外そうな顔をした。エチエンヌが何か言いかけたのをリチャードが横から手を伸ばして封じ、ロゼウスはそちらをちらりと一瞥し、再びシェリダンに視線を戻した。
「俺たちヴァンピルは、言うまでもないがあんたたちとは違う」
「具体的に言え」
「薔薇の花が欲しい」
「薔薇?」
 シェリダンが訝りに眉を潜めた。当然だ。大の男が朝っぱらから突然何の脈絡もなく花が欲しいと言い出すなど。だが人間たちの国でどう思われているのかは知らないが、ヴァンピルは人間と同じ食事だけでは生活を維持できない。生命ではなく、生活を。
「……必要なんだ」
 重ねて頼めば、シェリダンがうろんな目でロゼウスを見る。そうして。
「理由は?」
 何故薔薇など欲しいと言い出すのか。
 ロゼウスは胸中で舌打ちしたい気分だ。できれば答えたくない問だ。
「何でもいいだろう。とにかく必要なんだ」
「言う気はないか」
「なんで俺が自分のことをなんでもかんでもあんたに話さなければならないんだ。俺は確かにあんたとの取引でこの国へとやってきた。だが全てをあんたに売り渡すつもりはない」
「ちょっと王妃様、陛下に対して口の聞き方がなってないんじゃない」
 エチエンヌが自分を睨んでくる。だがそんなことには構っていられない。シェリダンの人質となってはや一週間以上。その間、ロゼウスは全くアレを摂取していない。そろそろ限界が近付いている。
「……理由も説明できないものを渡せと言われても、困るな」
 シェリダンは薄く笑う。
「ではお前は私生活の言葉を持って何もかもを私に要求できる気でいるのか。お前が剣を貸せと言えば私はお前に剣を貸し、お前が私を害するのを喜んで受け入れろと言うのか?」
「な……」
「忘れるな。主人は私。お前の持つべきものは全て私のものだ。それもわからないような者に、わざわざ与えてやるような飴はない」
「鞭だけは遠慮なくくれるくせに!」
「当然だろう。もともとそういう契約なのだから」
 ロゼウスはぎりりと歯噛みする。まずい、このままではシェリダンはロゼウスの頼みを聞いて薔薇を集めてくれることはないようだ。
「どうなっても知らないぞ! 俺に薔薇を渡さないと言う事は、剣を差し出すよりよっぽど危険なことなんだからな!」
「ほう。それは楽しみだ」
 それ以上ロゼウスを相手にするのは時間の無駄とでもいうように、シェリダンは紅茶の最後の一口を流し込むと、優雅な動作で席を立った。エチエンヌとリチャードがつき従う。
「陛下、宰相との会議がすぐに」
「ああ、わかっている。すぐに行く」
「シェリダン!」
 さっさと部屋を出て行こうとする後姿にロゼウスは声をぶつけた。シェリダンはじれったいぐらいにゆっくり振り返るとロゼウスを見つめて口の端を三日月に歪め、こう告げた。
「それを得て、お前は私に何を差し出す? ロゼ」
「あんたな!」
「当然のことだろう。でなければ、今度は何をしてくれるのかな? 我が妃よ。それができないのならばもう黙れ。気が向いたら薔薇と言わずこの国中の花々をいずれはお前のために集めてやる」
「そういうことじゃない! 俺が言っているのは……!」
「薔薇を与えずにお前を野放しにしておくとどうなるか? か。いいだろう。どうにかなってもらおうじゃないか。その姿を私に見せろ。跪いて乞え。泣き喚いて頼み込め」
 もちろんそんなことができようはずもない。
「お前がどうなるか、楽しみに待っているぞ、ロゼウス」
 廊下の向こうへとシェリダンの姿が消える。

 ◆◆◆◆◆

 頭がぐらぐらする。歩みは千鳥足のようによろけていて、壁にもたれなければまっすぐに進むこともできない。
 侍女としてついて行くというローラの申し出を何とか断って、ロゼウスは城の中を散策していた。いや、実際は散策などという優雅なものではない。ロゼウスは薔薇を求めて城中を彷徨っていた。
 これは血を求めて彷徨う吸血鬼の習性。
 これ以上体力を消耗するのも辛いが、部屋で針仕事や内職をしながらロゼウスの世話をするローラを見ていると、いっそう落ち着かない。体中が飢餓を訴え、気づけば指先を彼女の方へと伸ばしている。
「どうしたのですか? ロゼ様」
 やわらかなその肌に気づけば触れていて、きょとんとした目を向けられた。手元の針を置いて、彼女はロゼウスへと向き直る。女装を手伝ったのは彼女だからロゼウスが男であるということをよもや忘れると言う事はないが、そう言った類の危険は彼女も感じていなかったらしい。当然だ。ロゼウスが今抱えているのはもっと切羽詰った感覚。
 金髪の美しい侍女の、ローゼンティア人ほどではないが白く透き通るような肌。触れた頬のやわらかな感触。細い指先。つぶらな緑の瞳。
 いいや。そんなことじゃない、自分が囚われているのは。言い直そう。若く美しい少女の噛み付きたくなるような首筋。引き裂きやすそうなやわらかな頬。切り取って咥えるのに丁度良さそうな華奢な指。抉り取って口の中で転がしたくなるような目玉。
 ロゼウスはどうしようもない飢えと渇きに襲われている。
 思ったよりも空腹は差し迫っていたようで、長くこの部屋にいれば彼は真っ先にローラの首筋へと噛み付くだろう。何とか彼女を誤魔化し説き伏せ言い置いて、ロゼウスはシェリダンの部屋を出、城の中央へと向かった。何処の城にも庭園はあるし、シアンスレイトのこれだけ立派な城の庭に薔薇の花がないということもあるまい。
 だが、庭園への道行きは思ったよりもきつかった。シェリダン王の花嫁がローゼンティア人のヴァンピルであるということがすでに城中に伝わっているらしく、通りがかりの使用人から驚きや訝りの視線こそ向けられても呼び止められることはなく、城の中を歩けた。だが行動範囲の広さに、体力が追いつかない。一歩歩くごとに深まる飢餓感が頭から爪先まで痺れさせ、視界を暗くしていく。やっと庭園に辿り着き薔薇の花を見つけたときには、もう息も絶え絶えと言った状況だった。
 なのにこの庭の薔薇は。
「食べられない……」
 ロゼウスは四阿にへたりこんで、絶望の呻きをもらす。先程傍らの茂みからちぎり取った花をよくよく眺めれば、ローゼンティアでは見たこともない種類だ。確かに薔薇ではあるがその色、香りともに珍しく、どこかで品種改良された種類なのかと思う。
 やっとここまで来れたのに。こんなことはあんまりだ。そう考えるが、刻一刻と滑り落ちる砂のように力が抜けていくのを感じると、もはやどうでも良くなってくるのも本当だ。このまま本性を晒し城中を地獄に陥れてもかまわないのかもしれない。ローゼンティアの民には可哀想なことをするかも知れないが、彼らだとていつまでも自分を抑えてはおけないだろう。いっそこのまま全てのヴァンピルが欲望に忠実になればいいのかもしれない。
 世界なんて壊れてしまえばいい。
 暗い感情に泥沼のように浸りながら瞳を閉じる。身体に力が入らない。ぐったりと四阿の台座に身を預ける。いよいよ意識が遠くなる。だが。
「誰?」
 鈴を転がすような声が聞こえた。
 ロゼウスはのろのろと顔を上げ、そちらへと視線を向ける。若い女性の声。
 視界に映った人を見て驚いた。
 なんて愛らしいのか。いかにも貴族らしく長い宵の濃紫の髪に、猫科の獣を思わせるような黄金の瞳。髪と対になるようにしたのか、纏うドレスは薄い紫、腰には濃い紫のリボンで宝石が留められている。両耳のピアスは小さな金色の雫だ。
 けれどそれよりも今は。
 やわらかそうな白い肌の、美しい若い娘。
 ああ、なんて。
 なんて美味しそうな。
「痛っ」
 ふらふらと夢見心地で四阿から出て、弱った身体を刺すような陽光に身を晒す。ロゼウスの姿に驚いたその娘は後退り、近くの薔薇の茂みに指を指して傷つけた。
「?!」
 ああ、もう駄目だ。甘い香りの誘惑に抗えずにロゼウスは彼女へと掴みかかる。驚く少女は抵抗もできず、彼はその細い指に無理矢理喰らいつく。
「――!?」
 少女は音を立てずに悲鳴をあげ、ロゼウスはその細い体にのしかかり指先から流れる血を舐めとった。舌の上に広がる鉄錆の香りに初めて安堵する。あらかた血を嘗め尽くし、もう何の味もしない指を離して、ようやくまともに息が継げるようになる。
 そして気づいた。自分がただいまとんでもないことをしたことに。相手は驚きすぎて口をぱくぱくと開いては閉じている。その格好を見れば、どう見ても侍女ではない。貴族らしき整った身なりの美しい娘。
 この女の子、誰?