007
たかだか数週間とは言え、国を開けていたことにはかわりない。通常とは比べ物にならぬほど早く終わった隣国への侵略を終えて、日常に戻るにはすなわち執務の時間をまた持たねばならぬということである。
「シェリダン様」
こちらの仕事があらかた片付いたのを上手く見計らって爽やかな香りの紅茶を用意した侍従のリチャードが、遠慮がちに声をかけてくる。今年で二十七歳、シェリダンよりも十歳ほど年長のその男はシェリダンの側近の一人、筆頭侍従だ。
「なんだ?」
シェリダンは休憩用の私室には移らず、執務室で採決を終えた書類を脇に片付けて紅茶のカップを傾け、リチャードの言葉の続きを待つ。
「妹君にお会いせずともよろしいのですか? カミラ様のお加減を側付きに確かめましたが、本日はお加減がよろしいようですよ」
何でも、宰相殿ともお会いする約束があるのだとか。
控えめながら重要な情報を確実に伝えるリチャードに、シェリダンは陶器の器を口から離しつつ笑みを作る。
「そうか。カミラとバイロンが、な。まあいい。奴らが何をしようとも好きにさせておけ。最後に笑うのは私だ」
エヴェルシード王シェリダン、それが今の自分の名。だが王であるところのシェリダンは、妹であるカミラとすこぶる仲が良くない。
シェリダンとカミラは複雑な事情によって敵対関係にある。シェリダンより一つ幼い妹姫は、虎視眈々と王位を狙っているらしい。エヴェルシードは長らく女王の優遇されたことがない国で、若干男尊女卑思想が残っていることから女が王位につくのは並大抵のことではない。過去に一度女王が誕生したこともあるが、すぐに玉座から引き摺り下ろされたはずだ。
しかしカミラにとってはそんなこと、たいしたことでもないのだろう。彼女が恨んでいるのはただシェリダンのみ。即位早々父親を幽閉し隣国への侵略を開始した、邪知暴虐の王シェリダン=ヴラドだけなのだから。シェリダンを害することに比べたら女王として立つ苦労など何ほどのこととも思っていないに違いない。
彼女が次は何を仕掛けてくるかと考えると、シェリダンは背筋に言いようのない悦楽が走るのを感じる。事故、毒、刺客、冤罪。年々過激になるその罠にさて次は何を目論んでいるものかと心待ちにすらしているのだ。
「しかし、人の本心とは難しいものだな。なあ、リチャード」
「はい、シェリダン様」
「カミラもバイロンも、私と言う人間を勘違いしているのだ。私にとって、玉座を得ることが何になるというのであろうな」
「……シェリダン様」
喉の奥で笑うと、リチャードが眉を顰めた。幼い頃からシェリダンに付き従っているというのに、この侍従はいまだこのような仕草に慣れない。いや、慣れないというよりも、好まないと言うべきか。
シェリダンは裁可を下した書類を手早く片付け、茶器をリチャードに仕舞わせながら彼に問いかける。
「なあ、リチャード。カミラは何を考えているのだと思う?」
「はい。恐れ多くも王妹殿下にあらせましては、宰相と共謀して陛下の王位の簒奪を目論んでいるものと思われます。シアンスレイト周辺の貴族たちと繋がりをもつカミラ様は、この遠征の間彼らに何事か手を回していた御様子。恐らくは」
「父上を探していたのだろうな。カミラのことだ。諸侯に手を回しつつ父上がこの城におられることぐらいはすでに突き止めているだろう? バイロンの方はどうだ」
「宰相殿は、王妹殿下よりも強かな御様子。諸侯に密書を送り、協力を仰ぎながら軍に取り入ろうとしているようです」
「愚かなことを。宝玉で飾り立てた椅子に座った政治家が、剣を振るい血を流して戦う兵士の心持などわかるものか。……奴らはこのまま泳がせるぞ」
「御意」
リチャードが頷くのを見て、シェリダンはふと窓の外へと視線を向けた。執務室の窓は中庭に向けて作られていて、その硝子を開くと馨しい香りが流れ込んでくる。
その中に甘い薔薇の香りを嗅ぎ取りながら、シェリダンは今朝方のロゼウスとのやりとりを思い出す。薔薇の花が欲しいといった、あの。
欲しいと言われれば言われるほど、シェリダンは与えてやりたくなくなる人間だ。それでもどうしてもというのならば、自分の足元に跪いて乞えばいい。
無償に与えられるものなど所詮この世にはないのだから。だからシェリダンは、恐怖による服従と絶対の屈服から生まれる愛しか信じない。
◆◆◆◆◆
「……なんだこれは」
さらに数刻、仕事をしてから寝室に戻ると、部屋中が薔薇に埋もれていた。
「あ、シェリダン様」
シェリダンの声に振り返ったローラが、大きな花瓶を両手で抱えながら振り返る。その花瓶の中にも幾輪もの薔薇が生けられていて、さながら部屋は薔薇の展覧会のようになっていた。主であるシェリダンの許可も得ず。
「ロゼウス!」
「……ああ、あんたか」
シェリダンは寝台に座り込んでじっと手の中の一輪の花を眺めている妃の姿を見つけた。名前を呼ぶが、ロゼウスはどこかぼんやりとしていて、彼が帰って来たことにも気づかなかった様子だ。シェリダンの前では怒りと憎しみと絶望以外には光を示さない血の色の瞳が、今は一途に手の中の白薔薇を見つめている。
「ローラ」
「ええと……なんかロゼ様へのお届けものだそうです」
「これに?」
王の妃となる者へ早速どこかの貴族のおべっかか? そう考えたシェリダンの予想は外れた。
「カミラ様から」
「……カミラが?」
今しがた聞いたことが俄かには信じられず、シェリダンは侍女へと尋ね返した。カミラ。この王城でカミラと言えばたった一人のことを指す。
「おい、ロゼ」
困惑するローラから離れ、シェリダンは寝台に近付いてロゼウスの手から薔薇を奪った。ぼんやりとしていた瞳に活力が戻り、怒りの眼差しで彼はシェリダンを睨み付ける。
「返せよ! いきなり何するんだ!?」
「お前、これはカミラからもらったものだそうだな」
部屋に溢れているのは、紅に橙色、桃色の薔薇。だがロゼウスが手にしているたった一輪だけは、この世の汚れの何をも知らないような純白の花だ。
「あ、ああ。そうだけど」
「お前が何故カミラから薔薇などもらう」
「今日、薔薇園で会った……あんたがくれないから自分で漁りに行ったんだよ。悪いか!」
朝のことを根に持っていたのか、ロゼウスは挑戦するような眼差しでそう言った。別に薔薇など一株だろうが二株だろうが持っていっても構わないが、どうも彼の様子を見ていると純粋に花が欲しい淑女のような気分から言っているのではないらしい。
しかしそれを追求するのは後回しだ。こちらから声をかけようと唇を開きかけたが、シェリダンが返した白薔薇に再び視線を落としたロゼウスが先に口を開く。
「なあ。シェリダン」
「……何だ」
「カミラ……カミラ=ウェストと名乗っていたんだけど、あの子結局どういう理由でこの城にいるんだ。どこか名家の娘らしいってことは見てわかったけど」
「カミラは私の妹だ」
「――え?」
シェリダンの言葉を理解するのに何秒か費やしたロゼウスが、ようやく顔を上げる。呆然と彼を仰ぎ、まじまじと見つめてくる紅い瞳には今までになかった色がある。
「あんたの妹!?」
「そうだ。カミラ=ウェスト=エヴェルシード。私の一つ年下の異母妹だ」
母親が違うからか、シェリダンとカミラはぱっと見ではさほど似ていない。だが、確かに同じジョナス王の子どもである。
「妹……そうか。そう……言われて、見れば」
「そんなことを言ったらローゼンティア人は皆白髪に赤眼だろうが」
なかなか本題に辿り着かない会話に苛立ち、シェリダンは一つ舌打ちしてから再び問いかけた。
「カミラに会ったんだな。ロゼウス、一体あやつと何を話した」
「何って……この城で品種改良されていない薔薇の種類を教えてもらっただけだけど?」
何故そんなことを聞かれるのかわからない、と言った様子でロゼウスは素直に答える。カミラの存在すら知らなかった彼は、もちろん彼女がシェリダンの命を常に狙っていることも知らないのだろう。
いつかはロゼウスに来ると思っていたが、まさかこんなに早いとは。
せめてあと数日は猶予があるものと思っていたのだが、この自分としたことがぬかったか。カミラはシェリダンとは違い、望まれれば相手がそれに溺れきるほど与えて懐柔する人間だ。
「カミラ=ウェスト=エヴェルシード……か」
そしてロゼウスのこの態度が、シェリダンをさらに苛立たせる。これまでぴりぴりと張り詰めた様子が、今日は柔らかくとろけている。一体カミラとの間に何があったのか。
「リチャード」
「はい。シェリダン様」
「エチエンヌを呼べ」
「かしこまりました」
これからはもう、野放しにしておくわけにはいかないだろう。
◆◆◆◆◆
シェリダンの正妃となる少女ならぬ少年は、次の日、その次の日も同じように薔薇園へと出かけた。王宮の中でならさほどの強敵に出会うこともなく、あの剣の腕前なら難に会うこともないだろうと考えたシェリダンの目論見が早くも崩れ去っている。まさかカミラと接触されるとは。
エチエンヌは前を歩くロゼウスに気づかれないよう彼を尾行する。相変わらず外見だけは人形のように美しい少年は、外見に反してなかなかの使い手だった。時折、訝りの眼差しで辺りを見回し何かを探す様子から見ると、尾行には半分気づきかけているようだが、それでも相手がエチエンヌで、何処にいるのかまではわからないのだろう。
このエチエンヌ=スピエルドルフを甘く見てもらっちゃ困る。今頃、寝室の方ではローラが何か新たに持ち込まれた不審物がないかと探していることだろう。
ローゼンティアの王子がカミラに会ったと口にした翌日から、エチエンヌはこの役目をシェリダンより言いつけられている。監視であり、護衛。ロゼウスとカミラの同行を逐一報告せよ、それがエチエンヌに与えられた使命だ。
二人はいつも王宮の中庭にある薔薇園で会っていた。会話の内容は特に気に留めることもない、つれづれの世間話などだった。どうやらカミラはロゼウスが女であることを疑いもしないようで、あくまでも女同士として話をしているのだろう。会話の行方が若い娘らしくドレスや宝飾品のことになると、ロゼウスは少し困っているように見える。
カミラはロゼウス……ロゼ王妃のことをロゼ様、と呼んでいた。対して、ロゼウスはカミラ、と随分親しげに王妹殿下に対して振舞っている。口調も特に女言葉というわけでもなく、平生のままなのだが、気づかれないでいるようだ。まあ、あの美しさなら仕方ないと傍観者であるエチエンヌも思う。外見だけは、美しいものが多いと言うヴァンピルの中でさえ目を引くような面差しだから。
だが彼の美しさは、どこか恐ろしい。
ロゼウスとカミラは四阿で向かい合って座り、エチエンヌは二人ともの表情が見えるよう、向かい合う彼らを横から眺めるような位置に潜んでいた。時折ロゼウスがこちらを気にするような素振りは見せるが、場所まではわからないようだ。カミラが話しかけると、笑顔で彼女の方へと顔を戻す。その顔はとても楽しそうだった。シェリダンの前では見せたことがないくらい。きっと彼は故国の王宮ではこんな顔をしていたのだろうと思わせるぐらい、自然な笑顔。
「ねぇ、ロゼ様。シェリダン……兄上のことなのですが」
ふいに、それまでの話の切れ間を狙ったように、カミラが声を上げる。エチエンヌは茂みの奥でその内容に耳を澄ます。
「……陛下、の、ことですか」
ロゼウスは人前ではシェリダンのことを陛下と呼んでいた。名前とはその本人の本質を現す名札のようなものだから、名前で呼ぶと言う事は、自分が相手に向ける感情までもさらすこと。ロゼウスは自分の故国を滅ぼし、家族を殺したシェリダンを恨んでいる。名前を呼んでしまえばそれがあからさまに表に出てしまうから、わざと陛下などと呼んでいるのだ。陛下。国内で最大の権力者。王である人。だがロゼウスにとってシェリダンは、エヴェルシード王であるよりも前に憎い「シェリダン」なのだろう。
カミラが眉を顰める。
「やはり、あなた様はあの兄に酷いことを……」
「それは」
俯いて唇を噛み締めるカミラに、否定することができないロゼウス。
「ねぇ、ロゼ様。あなたは、あの兄が憎くはないのですか?」
「俺は……」
「死んでしまえばいいと、あなたの故郷を滅ぼした酷い男など滅べばいいとは思いませんか?」
甘い囁きがロゼウスの耳朶をくすぐる。カミラにとっては声を潜めて同性に話しかけているつもりなのだろうが、実際男にとってあの声音は殺人的だ。カミラの愛らしさは、シェリダンの美しさとはまた別の意味で力を持っている。正妃の娘であるという事実も大きく、彼女に従う諸侯や文官も少なくはない。
薔薇の花の甘い香りに包まれた庭園で、呪詛に満ちた秘め事をカミラが口にする。
「故郷を取り戻すために、あの男を殺してしまった方がよいとは思いませんか?」
「なっ……―――」
ロゼウスが絶句する。ローゼンティア王家の不和と言う話は、エチエンヌは特に聞いたことがない。仲の良いきょうだいだったのか。妹が兄を殺すなど信じられないという顔をしている。なんて甘いのだろうと腹のそこでエチエンヌはロゼウスを嘲り笑う。
「……カミラ、今のお話は、聞かなかったことにする」
カミラから目を逸らして、ロゼウスはそう言った。
「ロゼ様! どうしてですか! 私のことが信用できないとでも!」
シェリダンを追い落とすため手を組まないかと持ちかけたらしい、カミラが大理石の机に手をついて、ロゼウスに詰め寄る。だが声は潜めていた。薔薇は先王ジョナスが最も忌み嫌った花だから、その名残でこの庭園に立ち寄る者は少ない。それでもどこで誰が聞いているかわからないから声を潜める。正しい判断だ。相手がエチエンヌでなければの話だが。
エチエンヌは視力も聴覚も常人以上に優れている。優れるようにシェリダンによって躾けられた。辛い奴隷生活から逃れようと磨き上げた技術が、その立場から救ってくれた彼の下でこそ役立っている。シェリダンはエチエンヌの大切な主人だ。彼の邪魔をする人間は誰であろうと許さない。それがこの国を支える宰相であろうとも、この後正妃と呼ばれることになるだろう隣国の王子でも、シェリダン自身の妹でさえ。
四阿の中で動きがあった。ロゼウスがカミラの手をやんわりと振り払い、外へと出る。薄曇の灰色の陽光が白い肌に降りかかる。
「……今日はもう、このぐらいにしよう。カミラ。あなたは冷静になって」
「ロゼ様!」
「あなたは、あなたの兄上の恐ろしさを本当には知らないんだ」
ロゼウスが苦渋を飲むかのような顔で言う。恐らく彼は家族を殺され故国を奪われた以上に、彼の本質を本能的にわかっているのだろう。そう、シェリダンは恐ろしい。
それは誰よりもエチエンヌがよく知っている。それなのに彼はシェリダンから離れられない。
ロゼウスがどう出るのか、彼らにはまだわからない。カミラに冷静になれと言う一方、ロゼウスは何か自分の中で考え込んでいるように見えた。何か、足りない一歩を埋めれば喉首に迫れるのに後一歩何か足りないと言うような、微妙な表情。
ロゼウスにはシェリダンを恨む理由がある。
だからこそ、エチエンヌは彼を警戒する。バイロンもカミラも、本当の意味でシェリダンの敵にはならないだろう。なるとしたら、この男だけだ。
ロゼウスが四阿を離れ、薔薇園から出て行った。一人残されたカミラは切なげに唇を噛み、四阿の椅子に頼りなげな風情で腰を下ろしたまま。
エチエンヌはまたひっそりと、ロゼウスの後を追う。彼は廊下を歩き出すが、その先は彼が戻るべきシェリダンの寝室に繋がっていはいない。今度はどこに行くのかと考えたところで、急に彼は立ち止まり声を上げた。廊下の突き当たりで行き止まりだった。
「エチエンヌ、ついて来ているんだろう?」
驚いた。
「……よくわかったね」
しきりに追跡者を気にしていた様子だから尾行していることぐらいは気づかれても仕方ないと思っていたが、まさか相手がエチエンヌであることまで見破られるとは、観念して姿を現すと、彼は小さく溜め息をついた。
「さっきの話は本気?」
「カミラとのことか。それを言うなら、俺が聞くのが先だ。お前たちはこのことを知っていたのか?」
このこと。シェリダンとカミラが敵対していることを。
「知ってるよ」
「だったらどうして」
「仲直りしないのかって? そんな簡単にできたら苦労しないね。エヴェルシードの王権はお前らローゼンティアみたいにあっさり決まったものでもないんだ」
「俺たちだって……」
エチエンヌの皮肉に、ロゼウスは何か言いかけた。だがばつが悪そうに口を閉じると、それきりエチエンヌを見ようともしない。
エチエンヌは彼の美しい容貌を眺めていると、酷く残酷な気持ちになる。敵国の王に国を滅ぼされ家族を殺され、無理矢理攫われた挙句に妃になれなどと無茶なことを言われ、男であるという権利さえ奪われた。この哀れな王子様を、もっともっと踏みにじってやりたくなる。
「で、本気なのか? ロゼ王妃様。お前はシェリダン様に味方する気があると?」
「さあ……どうだろうな。お前がいたから本音なんて話せなかったしな」
いなくても本音を話すことなどなかったろうに、わざとらしく。だからエチエンヌも、嫌味ったらしく言ってやる。
「あなたがどういう考えをお持ちであろうと、これだけはお忘れなく、王妃様」
ローゼンティア第四王子ロゼウス。お前は所詮どう足掻いても、シェリダンの所有物の一つに過ぎないのだということを。