荊の墓標 02

008

 どうして、いつも叶わない想いばかり。

 国に居た頃は、ドラクルに愛されたかった。そして自分をドラクルと間違えて殺そうとした第二王妃にも、できれば好かれたかった。ロゼウスの母は子どもたちに興味などまるでない存在だったから、母親の温もりが恋しかった。
 エヴェルシードに来た時、ロゼウスの胸の中には億の闇と、針の先ほどの希望があった。シェリダンの玩具扱いになる屈辱に耐えたのは、目的があったから。それ以外はこの国に用などない、そう思っていたのに。
「ロゼ様」
 何故、彼女はそんなにも美しく笑う。
 自分は今は女物の衣装を纏い、エヴェルシード王シェリダンの妃となるロゼ姫を名乗っている。そして濃い紫の髪に、猫のような金色の瞳をもつこの姫の名前はカミラ。シェリダンの妹であるこの少女は、ロゼウスを女だと信じて疑わないらしい。シェリダンより一つ年下の妹は、出会ったその日から何故かロゼウスに好意的だった。
 ロゼウスはシェリダンが執務にかかりきりで昼の間は自分を放置するのをいいことに、薔薇園を足しげく訪れてはカミラとの逢瀬に酔いしれていた。いや、逢瀬などという艶めいたものではない。カミラはロゼウスを女だと想っているのだから。王族にしては気さくで、ヴァンピルであるローゼンティア人のロゼウスともすぐに親しくなったカミラは、毎日毎日、薔薇の花を手折りながらどこか楽しそうに笑っている。ロゼウスは、と言うと、それを見ているのこそが楽しい。
 彼はカミラに惹かれていた。
 ふわふわとした春宵の花のような容貌に、苛烈な猫のような気性。数多い女兄弟を持つロゼウスにも、カミラのこの性格はとても新鮮なものに見えた。
カミラのしなやかな気性は、ロゼウスの心を酷く打つ。たおやかで、それでいて凛とした気性。若い娘特有のあどけなさと、女の色気、王族の気品。それらが絶妙に組み合わされてカミラ=ウェスト=エヴェルシードという人間を成す。彼女の眼差しはどこまでも真っ直ぐで、胸には剣を抱いている。
 しかし、そう感じるのは今ロゼウスが女装をして、彼女の義理姉となるロゼ姫として話をしているからなのだろうか。彼女がロゼウスを女だと思っているから。だからこそそんな顔をカミラは彼に見せるのだろうか。
 カミラはパッと見はわからないがそれでも良く見れば、シェリダンに似ているかもしれない。兄妹だけあって、顔のパーツは微妙に似ている。だがそれらを総合してできる人間は全くの別物だった。ロゼウスはシェリダンといると絶えず胸を鋼の針金で締め付けられているように感じるが、カミラといると柔らかい綿で頬を撫でられているような気分になる。
 ついつい毎日、薔薇園に足を運んでしまう。そこに波打つ長い紫の髪を見つけて、唇が綻ぶ。氷の城だと思っていたエヴェルシードで、彼女といる時間だけが陽だまりに足を踏み入れたようだった。
 彼女を騙しているのが辛い。
 彼女に想いを打ち明けられないのが辛い。
 だが、どうしようもない。シェリダンを裏切ればどんな制裁が待っているか知れない。
 そんな時に、カミラはとんでもないことを言い出した。
「ねぇ、ロゼ様。シェリダン……兄上のことなのですが」
「……陛下、の、ことですか」
 声が引きつるのは仕方がない。
「やはり、あなた様はあの兄に酷いことを……」
「それは」
 否定、できない。シェリダンが毎晩ロゼウスに強いるのは、間違いなく無体な仕打ち。そして彼がローゼンティアにしたことは、残酷極まりない行為だ。
「ねぇ、ロゼ様。あなたは、あの兄が憎くはないのですか?」
「俺は……」
 憎い。――憎い憎い憎い。
「死んでしまえばいいと、あなたの故郷を滅ぼした酷い男など滅べばいいとは思いませんか?」
 死ねばいい。シェリダンなど。死んでしまえばいい。決して許すことはない。心を許すことはない。叶うものならば今すぐにでも屠ってやりたい。
 心の奥底に無理矢理押し込めた醜い気持ちが、カミラの言葉によってゆっくりと表層近く浮かび上がる。だが次の言葉には、さすがに度肝を抜かれた。
「故郷を取り戻すために、あの男を殺してしまった方がよいとは思いませんか?」
「なっ……――」
 ロゼウスは真正面にある彼女の金色の瞳を見た。
 その瞳には、まぎれもなく自身の兄へと対する恨みと殺意が浮かんでいた。
 ぞくり、とさせられる。仄暗い女の憎悪の念。だがそれはロゼウスにも覚えのある感情。粘着質な恨み。彼女はまるで。
「……カミラ、今のお話は、聞かなかったことにする」
 カミラから目を逸らして、ロゼウスはそう言った。
「ロゼ様! どうしてですか! 私のことが信用できないとでも!」
 信用している。シェリダンなどよりよっぽど。だが今、その言葉に頷くわけには行かない。まだ、機は熟していない。もう少し、もう少しであれが……。
 ロゼウスは誰にも言えない秘密を胸に抱え、カミラの言葉を今はやんわりと振り払う。
「……今日はもう、このぐらいにしよう。カミラ。あなたは冷静になって」
「ロゼ様!」
「あなたは、あなたの兄上の恐ろしさを本当には知らないんだ」
 この言葉は本心だ。カミラはシェリダンの本当の恐ろしさを知らない。夜毎自分を苛むあの男の、魂に根付いた闇を彼女は知らない。
 迂闊に手を出せば必ず痛い目を見るのは自分だ。だからこそ、ロゼウスは待たなければならない。
 カミラと別れ、廊下を歩いた。ようやく三分の一ほどを把握できるようになったシアンスレイト城内の地図を信用すると、この先は行き止まりで人気がない。内緒話にはもってこいだ。
「エチエンヌ、ついて来ているんだろう?」
 ロゼウスはどうも相性のよくない、シェリダンの腹心の名を呼んだ。小姓に身をやつしながらその実裏方仕事はなんでもこなすというエチエンヌが、音もなく姿を見せた。この国では珍しい金髪の美少年なのに、彼はいとも容易く気配を消してみせる。ロゼウスが彼の尾行に気づいたのはつい昨日の話だ。確信を持ったのにいたっては先ほど。
 薔薇園でカミラとこの国の玉座に関わる物騒な話をしていた時、一瞬だが怒りのような気配を感じた。だからエチエンヌだと思ったのだ。ローラやリチャードは本当の意味ではロゼウスをなんとも思っていない。ロゼウスを憎んでいるのは彼だけだ。
「……よくわかりましたね」
「やっぱりお前か」
「って気づいてなかったんですか?」
「微妙なところだな。リチャードかローラかとも思ったんだが。昨日まではどこにいるのかすらもよくわからなかった」
「先ほどの話は本気ですか?」
「カミラとのことか。それを言うなら、俺が聞くのが先だ。お前たちはこのことを知っていたのか?」
「知っていましたよ」
「だったらどうして」
「仲直りしないのかって? そんな簡単にできたら苦労しませんよ。エヴェルシードの王権はあなた方ローゼンティアみたいにあっさり決まったものでもないんですから」
「俺たちだって……」
 ローゼンティアにだって、問題がないわけではなかった。兄妹の数が多くてドラクルの権力が絶対だったため、エヴェルシードよりは問題が少なく見えるだけで。
 現にロゼウスは第二王妃に、人違いで殺されかけたことがある。
 けれどそんなことを、今更ここで彼に言っても詮無いだけだ。
(兄上……)
 ロゼウスは心の中で、カミラという少女に惹かれてもいまだ自分の中では最愛の人の名を呼ぶ。
 ああ、兄上。いつになったら、俺はこの苦しみから解放されるのですか。

 ◆◆◆◆◆

 侮っていたことは認めよう。まさかこの私がこんな若僧にしてやられることはないと。
 だが、よもやここまでとは思っていなかった。まさか、この私が、エヴェルシードの重職について二十年近く経つ自分が、自らの半分も生きていない子どもに負けるなどと。
 玉座では少年が笑っている。腹を抱えて大笑しているというわけではない。小さな笑みだ。口の端をほんの少し持ち上げて、穏やかに目を細めた、清らでやわらかな微笑。彼を良く知らないものが見れば、あまりの美しさに見惚れて、ずっとそんな表情をしていてほしいと願うような、健気とも見える笑みだ。
だからこそ恐ろしい。
 彼の面差しはあまりにも彼女に似すぎている。
 親衛隊に強打された右のこめかみが絶えず苦痛を訴え、バイロンの視界の一部は緋に染められていた。地に這い蹲る虫けらのように、玉座へと続く紅い絨毯の上に両手をついて崩れかけた体を支え、顎だけを何とか上げて数段高いところにいる少年を見上げる彼の姿は、さぞや滑稽だろう。
「無様だな、バイロン」
 シェリダンはわざわざそれを口に出す。這い蹲ったバイロンを見下ろし、見下しながら相変わらずやわらかな笑みを浮かべている。
 彼の傍らには二つほど骸が転がっていた。先程までは普通に喋り、動き、談笑していたはずの彼ら。この国の重臣を手の一振りで殺させたシェリダン自身は顔色ひとつ変えない。
 バイロンは殴られてふらつく頭を持ち上げ、挑むように玉座を凝視していた。馬鹿な、即位したばかりの苛烈だが未熟な少年王と二十年近くこの国の内政に携わり知り尽くした自分と、挑むのは目の前の相手のはずだ。国王とはいえ、何もかも好きにできると思ったら大間違いだ。
 だが現実は、バイロンに加担した顕示欲だけは強い無能の重臣が二人殺され、その二人の骸から流れる血と自らのこめかみから流れた血でぬめる床にバイロンは両手をついている。
「お前に協力したものたちの大半は縄目を受けるか、私に寝返るかしたぞ。……さあ、お前はどうするんだ? 宰相殿よ」
 膝を組み頬杖ついてくつろいだ様子で玉座から尋ねるシェリダンの姿は、何もバイロンへの挑発を示すだけではない。これだけ惨憺たる状況の中にいてくつろぐ彼は、自身が危険に見舞われることなど絶対にないことを確信している。
 それは突然のできごとだった。
 恐らくいまだ捕まっていない協力者の中の、最たる重要人物はカミラ殿下。眼前に優雅に坐したエヴェルシード王シェリダンの異母妹。バイロンは彼女や諸侯と画策し、シェリダンを王位から引き摺り下ろす計画を立てていた。それは一見上手く行っているように見えた。今日までは。
 バイロンは自らの腹心である部下たちと計画の最後を詰めていた。館ではくつろぐことから内情を漏らしはしないかと盗聴器具がしかけられていることが多い。バイロンや王妹カミラ殿下は、だからこそわざわざシェリダン王の膝元であるこのシアンスレイト城で密談を重ねていたのだ。だが、自宅に盗聴器具を仕掛けるほど周到な少年王が、王城に……いや、この国中において手を抜く場所などなかったのだ。
 バイロンの行動は筒抜けだった。彼が最も信頼する部下さえも実態はシェリダンの手駒だった。
 まるで悪夢のようだった。時計の針が午後を告げると同時に、彼らは手のひらを返したように態度を改めた。
『さあ、宰相殿。陛下にご報告に行きましょう』
 優雅な茶器で茶の用意をした青年が顔色も変えずに自然な動作で懐から短刀を取り出してバイロンの首に突きつけた。彼は陶器のカップを取り落として部屋の絨毯にじわじわと茶色の染みが広がりだし、それを踏みつけるようにしてこの謁見室へと連行された。バイロンより先に玉座の目前へ引きずり出されていた重臣二人は、気休めにもならない自己保身のための言葉を無駄に連ねたところで、もう良いとばかりに手を振ったシェリダンの部下に首を斬られた。
 転がった生首の虚ろな眼球が私を見ている。ああ、そうか。もう私の番なのか。
「バイロン」
 通りよい声が自分の名を呼ぶ。嘲笑うように、憐れむように。その響は彼が覚えている彼女のものとよく似て、なのに微妙に違う。
「殺すなら殺せ」
 考えるより先に言葉が口をついて出る。
「王家の鬼子よ。エヴェルシードに災いをもたらす悪魔よ。さあ、お前の本能のままに我が首を刎ねるがいい! そうしたところで、お前の前に敷かれた奈落への道は決して消えはしない!」
 シェリダンは内政や軍事の才能こそあるかもしれないが、決して良き王にはならないだろう。バイロンにはそれがわかっていた。だからその首を狙った。才で多少劣る妹姫を王位につけ、それを支える方が有能でありながら残酷な君主を頂くよりよっぽど穏当な判断に思えた。
 だが周囲は違ったらしい。バイロンに剣を向ける元々彼の部下であり今はシェリダンの下僕となった者たちは、やけに冷めた目でバイロンを見ている。
「言いたいことはそれだけか? バイロン」
 そしてこの場の誰よりも冷たいその声が。
 バイロンはようやく立ち上がり、血を流しすぎて眩み始めた両目を玉座の方向に向けた。視界は半ば以上が闇に飲まれながら、僅かな部分でシェリダンを見つめていた。
 藍色の髪、朱金の瞳。赤い唇と細い顎。滑らかな頬。僅かに吊り気味の、気の強そうな視線。
 華麗な容貌のエヴェルシード王。シェリダンの顔立ちは父親である先王ジョナスより、母親であるヴァージニアに似ている。似ているからこそバイロンの眼は痛みを増すだけだと知りながらその姿を追いかけ、彼女と違うことに気づいて失望する。
 ああ、そうなのかもしれない。
 彼を殺そうとしたのは、本当は彼が彼女と離れていくことで、彼女の面影が消えていくことに耐えられなかったからなのかもしれない。彼が本性を明らかにするに連れて、彼女と似た部分が削られていくから。
 彼女の顔をしながら彼女には似ていない、それでいてバイロンの子どもでもない彼をこれ以上見ていたくなかったから。
 ひょっとしたら、バイロンはそんな身勝手で小さな理由で王の命を奪おうと思い立ったのかもしれなかった。いや、たぶんそうなのだろう。エヴェルシードの繁栄など二の次で。
 彼はヴァージニアを愛していた。
 今でも悔やんでいる。あの日、何故ジョナスを止めなかったのかと。力尽くでも命懸けでも止めるべきだったのだ、自分は。彼女とジョナス王がなんとしてでも顔を合わせないよう気を配るべきだった。まさか平民上がりのバイロンの顔馴染みであったヴァージニアを、視察に出ていたジョナス王が一目見た瞬間に気に入るとは。
 彼女が望まぬ子を身ごもり、世界の全てを呪いながら死んでいった時彼はようやく自分の愛に気づいた。何もかもが手遅れだった。
 幸せとは対極にある環境で、彼女の子どもは歪んだ愛憎に縛られて自らも歪な魂を育てていく。生前の彼女を知っているからこそ、バイロンはシェリダンを見ていて思った。ああ、彼は駄目だ、と。
 彼は決して賢王にはならない。この国を奈落へと連れて行くばかりだ。
 だから殺そうと思った。
 バイロンはただ笑う。眩暈に揺れる視界と、ガンガン耳鳴りが響くうるさい頭と、指先に痺れるような痛みと冷たさを感じながら哄笑する。これが滅亡への餞だ。
 もはや悔いはない。シェリダンを殺そうとしたのは、政権を奪い返したり、エヴェルシードの繁栄に尽くすためではないから、破れた計画に固執したりはしない。ただ虚無が残るばかりだ。その虚空に一人の女性の面影が浮かぶ。
 ヴァージニア。
 すまない。本当に。私が悪かった。あなたを救えなかった。
 いくら謝っても足りない。なのにジョナス王を憎めなかった。若いときから仕えていた王にも親愛を感じていた。だから余計に二人の間にできた子が厭わしかった。
 組んだ足を元に戻し、シェリダンが玉座から腰を上げる。低い階段を降り血塗れた絨毯を歩いて、バイロンへと近寄ってくる。
「お前は死なせはせぬ」
 彼はその美しいかんばせを酷薄に歪め。
「バイロン。貴様はヴァージニアの知己であったな。お前が指示したことの関係で、ジョナス王が街娘であったヴァージニアに目を付けた……後悔しているか?」
「している」
 即座に答えた。国政に携わる以上、後悔などは禁物だ。たとえ思っても口に出してはいけない。バイロンの一言で何十人もの生活が左右され、命が失われることもある。それを後悔しているなどと言ってしまえば、彼を信じた部下や国民はどうすればいいのか。
 だがこれだけは別だった。何度思い返してもバイロンは後悔しかできない。彼は彼を恨む。彼は過去の彼を憎む。もしもあの日、あの時に戻れたのなら、バイロンはなんとしてでも未来を捻じ曲げる。
 シェリダンが笑う。今までの暗い虚無に満ちて穏やかな微笑ではなく、頬が引きつるほど口の端を吊り上げた歪な笑顔。
「勘違いするな。私はこれでもお前にとても感謝しているのだ、宰相殿。お前が父上と母上を娶わせたおかげで、私はこの世に生まれることができたのだから」
 バイロンにはシェリダンの言っていることが全て逆に聞こえる。
 この少年は私を憎んでいる。彼があの二人を引き合わせたせいで、自分が生まれてきてしまったと。
 途方もない遠回りの後で、彼はようやくヴァージニアの息子の本心を知る。
「あなたは」
「貴様を死なせはせぬ、バイロン」
 安らかな死など与えはしない、と。私の犯した罪の分だけ生涯苦しみぬいて生きろと。
 ああ、そうか。あなたは。
 本当は玉座など。王位など。
 ふいに、額の髪を穏やかに掴まれて唇が柔らかなものでふさがれる。
 こんな妄執と過去への後悔に老いた四十男に接吻して何が楽しいものか。シェリダンはバイロンの唇に自らの唇をそっと触れ合わせた。ヴァージニアに似たその顔で。
 こんな残酷な口づけをされたのは、四十年生きていて初めてだ。こめかみから流れる血が口の端を伝っていて、彼のさらさらと乾いて熱い唇はバイロンの血の味がした。
 その感触もやがては離れ、痛みと虚無だけを分かち合うような吐息が零れ、今度こそ彼は広間の床に崩れ落ちる。バイロンたちの周りを緊張の面持ちで取り囲んでいた近衛兵に、シェリダンが軽く命じた。
「地下牢にでも一ヶ月ほど放り込んでおけ。それが済んだ暁には、我が下で存分に働いてもらおう」