009
新王の結婚の式典は恙無く終了した。だがその場に王国の中枢を担う宰相の姿は、ない。
「一体どういうことなのよ!!」
カミラは自室に戻り、侍女が整えた爪を盛大に噛みながら今日の式典を思い出していた。これまでぐずついていた空が嘘のように晴れ渡り、白々しいくらいに盛大な挙式によって、兄シェリダンはローゼンティアの姫君を正式な王妃へと迎えた。
カミラはヴェールの下のロゼの様子に常に眼を走らせていたけれど、いつも薔薇園で会う彼女の様子とは思えないほど、その表情は硬く仕草はぎこちなかった。紅を塗ってもいないのに赤い唇は強く引き結ばれ、一切の感情を表に出すことを拒んでいた。
「バイロンはどうしたの!」
カミラは控えた兵に苛立ちをぶつけながら尋ねる。本来なら今日この日、宰相であるバイロンがシェリダンを罠へと嵌めるはずだった。その計画さえ行われれば、シェリダンは王位を追われこの結婚もなかったことになるはずだったのに。
「殿下、そのことなのですが」
そしてカミラは思いがけない話を耳にする。
「捕らえられた? あのバイロンが?」
その話は俄かには信じがたい。彼は彼女たちが生まれる前からこの王宮で重職についている、エヴェルシードの政治を知り尽くした権謀術数の猛者だ。それを即位してまだ二月程度にしかならないシェリダンが凌ぐなど。
「どうやら、宰相の近習が裏切ったようで」
「なんですって」
「我々の予測以上に、陛下は人員を抱きこんでいる御様子」
「……」
私兵の報告を聞いてカミラは考え込む。何故、あの兄にそれほどの計画が実行できたのか。宰相の近習に裏切らせた。彼は一体どれだけの人数を自らの陣営に抱きこんでいるのか。
「お前たち、もう一度調べて欲しいことがあるわ」
「は」
「諸侯の内部に潜り込み、その身の回りの者たちを調べなさい」
「は……貴族本人ではなく、召使を」
「そうよ。奴隷から侍女まで全員をよ」
指示を与えると、優秀な部下は足音も立てずに部屋を出て行った。カミラは椅子の背もたれに身体を預け、目を閉じて考える。
自分やバイロンが気をつけた限りでは、シェリダンが親交を結んでいる貴族はさほど多くない。けれど、それが貴族レベルではなく、その下の奴隷や使用人たちであったら?
あの兄は良い意味でも悪い意味でも相手の身分に拘らない人間だ。母親がしがない場末の酒場の娘だったということが関係あるのだと揶揄する者も多い。だが、貴族側がそうして揶揄する人物と言うのは、使いどころを間違えなければ別の世界においては大きな力を発揮する。
諸侯の忠誠がなくとも、国民レベルではどうか。シェリダンの即位を声高に批判する民などいようはずもない。身分さえ気にしなければ貴族の中でさえシェリダンを賢君だと誉めそやす輩までいる始末。一見不道徳な父王の幽閉も、シェリダンの母親であるヴァージニアの末路を考えれば当然だと頷く人間は多くいるし、無茶だと思えたローゼンティア侵略もさしたる苦労なしにやってのけた。それにはセワード将軍と言う軍部の最高権力者を抱きこんだということが大きな意味を持つのだが、シェリダンはそれをこなした。淡々と、と言ってもいいぐらい。
さらにシェリダンの私生活にも奴隷や平民上がりの者を多く重用している。あのシルヴァーニ人らしき金髪の双子がいい例だ。年若く見目麗しき、玩具奴隷を手足のように動かして彼は表沙汰にはできないことまでさせている。
そしてロゼ。ローゼンティアの王女を人質に娶ることで、これからはローゼンティア人まで意のままに動かせるということか。
カミラにはその理由がわからない。彼女のように色仕掛けと相手の権力欲を刺激することで貴族を誘惑するのなら話はわかる。だがシェリダンのように、相手を捕らえて離さない蜘蛛のような魔性は持っていない。何故彼に力添えをする者たちは、あんなにもシェリダンへと心酔するのか。
そしてとうとう、その魔の手は宰相にまで伸びた。反新王派筆頭であるバイロンを監禁し、同派の重臣を二名ばかり殺しても誰も逆らえない。これでバイロンがシェリダンの味方につけば、この国に彼に敵う者などいなくなる。
「カミラ殿下……」
強く噛みすぎた爪はへこんで形が歪になった。カミラは側仕えの侍女にやんわりと咎められて慌てて唇から指を離す。形の悪くなった親指に舌打ちしながら、改めて人を呼んだ。
「カミラ様」
「そちらはどうなっているの?」
「申し訳ございません。ですが、まだ……」
「できる限り急ぎなさい。宰相殿の拘留が解ける前に」
バイロンにシェリダンの陣営に加わられたらもはやカミラに勝ち目はなくなる。その前になんとしてでもカミラは鍵を握りたい。
「一刻も早く父上を探し出すのです」
先代エヴェルシード国王ジョナス。シェリダンが即位してまもなく幽閉された父王を見つけ出せば、形勢は僅かにでも変わるだろう。一般には父は病気の療養のために静かな場所で静養しているとあるが、本当はどこにいるのやら。貴族諸侯の間では、もちろんそんな下手な嘘は信じられていない。そしてその嘘を暴きシェリダンの非道を国内に見せ付けることさえできれば、世論は傾きシェリダンの情勢は危うくなるはず。
バイロンが使えなくなった今、カミラに残された道はこれしかない。今から新しい罠をしかけるには、今回バイロンを失った痛手が大きすぎる。監禁の間に心変わりした彼がカミラのしたことを全て白状すれば、彼女は問答無用で死刑台に送られるだろう。そして名実ともにエヴェルシードはシェリダンのものになる。
「そんなの駄目よ……許さないわ」
あの男の本性は周りの者たちが考えているよりずっと残虐で冷酷なのだ。ローゼンティアへの侵略がいい例ではないか。そのせいで、ロゼの故国は滅ぼされた。
「そんなこと、許されるはずがないでしょう……!」
冗談ではない。あんな狂人に全てを握らせておくわけにはいかない。ここはカミラの育った国。本来彼女が継ぐはずだった国。それに何より、カミラはただ単純にシェリダンが憎い。
父の愛を独り占めにしたあの兄が。
「だから」
彼女は彼女のために。そしてこの国のためにも。
兄を、この手で玉座から追い落とす。
◆◆◆◆◆
夢を見る。
悪夢を見る。
夜毎に、それは訪れる。
シェリダンは安らかな夜など知らない。身体は疲弊しきって泥のような眠りを欲しても、悪夢は必ず訪れる。それがただ脳の作り出した忌まわしい心象ならば構わない。起きればあんなものはただの夢だ幻覚だと切って捨てられる。だがどれだけ振り払っても繰り返し袖を引くように訪れる夢は、脳が作り出した幻影ではなく、自身の過去の記憶だった。
夢を見る。泣きたくなるような、夢を。
それを見ないためには、夢も見ない眠りにつくしかない。世間で言われるあらゆる方法を試してみたが、一番効果があったのは誰かと臥所を共にすることだった。否、より正確に言うのならば、誰かを組み敷き泣き叫ぶほど責め苛んで悦楽を貪ることだった。
それでも夢は彼を追ってくる。
消えない過去として、いつもこの心臓に巣食っている。
◆◆◆◆◆
ガチャリと鎖が耳障りな音を立て、シェリダンは眉を顰めた。また眉間にローラやエチエンヌを嘆かせる盛大な皺が寄っているだろう。部屋には悪臭が漂っている。
血液の錆びた鉄の匂いと、膿み爛れた皮膚の腐臭。シェリダンは部屋の奥へと歩み、壁際に繋がれたその男を見下ろす。項垂れてぴくりとも動かない壮年の男は、二ヶ月ほど前までこの国の王を名乗っていた。
「いいザマだな、ジョナス……父上」
首を戒める皮の輪に繋がった鎖を乱暴に引き寄せる。痩せ衰えた首はそれだけで皮膚が破れて新たな傷口が血を流す。壁際に繋がれ無数の鎖で戒められた男は苦しそうに喘ぐばかりで、もう声も出せないようだった。彼の手は太い釘で貫かれ石壁に縫い付けられていて、手当てをされない傷口は腐り虫が這いずっている。服はとうの昔に襤褸へと変わり、代わりの衣服はもちろん与えさせたりしていない。鞭打たれ変色した傷口を晒す布の残骸としか言いようのないものがなんとか彼の身体に纏わりついている。
だが、足りない。この程度の苦しみ。シェリダンの中に巣食うこの憎悪に比べたら。自分を夜毎おとなうあの悪夢に比べたら。七歳のときから即位する十七まで、十年の恨みに比べてはまだ、足りない。
父の口からは今にも絶えそうな息がひゅうひゅうと、気の抜けたような音を立てるばかりだった。濁った目はシェリダンを正しく映しているのかどうか、これだけ手荒にしても虚ろに病んだ双眸は怒りも憎しみも浮かべない。もはやそんなことを考える気力もないのか。
この二ヶ月で、あらかたの拷問はやりつくした。それ専用の器具を使うのではなく、釘で身体を壁に固定し、ひたすら鞭で打つという原始的な痛苦を与えた。ギロチンも悲しみの聖母も、貴様には使ってなどやらぬ。最も古典的な方法で長く長く長く、苦しめばいい。それでもこの十年の自分の恥辱には足りない。
「もっと苦しめ。私を憎め。そして何もできず苦痛から逃れる術もなく、緩慢で残酷な死に飲み込まれることを厭い恐怖しろ」
すでに死人のような表情を見せる実の父の姿に、シェリダンはようやく安穏とした心持になる。これで今日は安らかに眠れるだろう。
気が済んで、部屋を出ようとする間際、酷くしゃがれた声に呼ばれた。
「シェ……リ……・・ダ……」
彼はぎりりと唇を噛む。強く噛みすぎて歯が唇を食い破り錆びた鉄の味と共に血が流れる。
「うるさい! 貴様などがいまさら私を呼ぶな!」
荒々しく扉を閉めて秘密の拷問部屋を後にする。見張りの兵に簡単に指示を与えると、私室へと足を速めた。
少々乱暴に扉を開くと、中の者たちが振り返った。ロゼウスとローラの二人だ。ローラが手伝って、ロゼウスの衣装を脱がそうというところだったらしい。
「シェリダン?」
眩しい、純白の花嫁衣裳。
本日は婚礼の式典を行った。小首を傾げてシェリダンの名を呼ぶロゼウスに近付き、強く手首を掴んで寝台へと押し倒す。
「出て行け、ローラ」
「かしこまりました」
腕の下でもがく、まだ式典の婚礼装束のままのロゼウスを無理矢理押さえつけその唇を貪った。背後で扉の閉まる音がし、物分りの良い侍女は早々に出て行ったようだ。
始めは抵抗していたロゼウスが、何故か唇に触れた途端大人しくなった。差し入れた舌に素直に応じ、唾液を絡める淫猥な口づけを堪能して恍惚とした表情になる。しばらくして唇を離すと、互いの口から淫らな糸が伝わった。
それでもまだ、今度は自分からシェリダンの喉首を引き寄せたロゼウスが口の端を舌で舐めてくる。走るのは小さな痛み。先程食い破った唇の傷を抉るような舌の動きに顔を離すと、ようやくロゼウスが正気に帰る様子だ。
「あ……ごめん」
謝られた。ローゼンティア人は吸血の民だ。これは先日のカミラの薔薇事件の後から聞いた話だが、一定の期間血を吸わないでいるとヴァンピルはその精神と身体の調和を保てないという。甘い蜜よりも、生臭い鉄錆の血を好む一族。それがヴァンピル。彼らにとって吸血行為は、まるで麻薬のように理性を保ちつつ気分を高揚させる秘薬なのだという。
意図的ではないとはいえ、シェリダンが与えた一滴の血によってまだぼんやりととろけた視線を彷徨わせるロゼウスの頬に手を添え、シェリダンは語りかける。
「これでお前は名実共に私のものになったな。『ロゼ』」
婚礼の式典は恙無く終わり、シェリダンは晴れてこの少年を妃にすることに成功した。もっとも、リチャードやローラとエチエンヌ、腹心の者たち以外は彼がローゼンティアの王子ではなく、王女であると信じて疑っていない。誰も王妃となったこの美しき者が男だとは思っていない。
肌も髪も白いロゼウスに、純白の婚礼衣装は似合いすぎるほど似合っている。ヴェールだけを外した花嫁に、シェリダンはのしかかり荒々しく組み敷いた。そろそろ正気を取り戻したらしいロゼウスが、微かな抵抗をして悲鳴を上げる。だがいずれは歪んだ悦楽に流されて、シェリダンの求めに応じ始める。
誰が知っているのだろう。高潔で貞淑そうな真白の花嫁が、寝台の上でこんなにも乱れきった姿を晒すなど。
誰が考えつくのだろう。エヴェルシード王となった自分が、このシェリダンが、これまでに一度も女を抱いたことがないと。男しか抱いたことも抱かれたこともないのだと。
素肌をまさぐりところかまわず口づけ、敏感な箇所を刺激して後ろを解してやれば、ロゼウスは呆気なく彼を受け入れた。艶っぽく啼く少年を思いのままに貫いて、シェリダンはその中で果てる。荒い息。乱れた褥。互いの身体を汚す体液。
それらを整えることもせずに、突っ伏したロゼウスの背中に口づけてシェリダンも彼の隣に横になる。今日はもう、このまま寝てしまえばいい。
無防備な寝顔を晒す花嫁の、脱力しきった身体を引き寄せながら。
◆◆◆◆◆
夢を見る。
悪夢を見る。
泣きたくなるような夢が訪れる。
今の自分ではない。あれは子どもの頃。天蓋付きの豪奢な寝台も、今のシェリダンのものではなく。
『父上……』
先代王ジョナスがまだその玉座に座っていた頃。彼の寝室にシェリダンは押し込められた。七歳の時に初めて、父のその狂気を知った。
『やめて』
届かない声。
『いやだ』
聞いてもらえない願い。
『父様、やめて!』
啜り泣きがやがては悲鳴に変わり、それすら最後には諦めて啜り泣きに戻る。
シェリダンは父の手によって無理矢理足を開かされ、体中をまさぐられ、引き裂かれた肛門から血を流しながらも無理矢理彼のものを受け入れさせられた。信じられないほどの苦痛に抑えることのできない、獣じみた悲鳴が漏れる。涙と涎で顔中をぼろぼろにし、実父に犯されながらシェリダンは父の絶望を聞く。
『ヴァージニア』
それは彼が愛して止まない女性の名。シェリダンを産んで一年も経たない内に亡くなった、母の名前。
だけど彼はヴァージニアではない。女ですらない。
『俺は母上じゃない』
言っても聞き届けられず、その後も何度も寝室に連れ込まれては犯された。蹂躙された。彼は父に踏みにじられた。
ある時はただ後ろを貫かれ、またある時は彼のものを咥えさせられて奉仕するよう命じられ。時には背中を鞭打たれ暴力を振るわれた。抵抗が鬱陶しいと腕の骨を折られたことも、泣き声が耳障りだと窒息しそうにきつく猿轡をされたこともある。
だが彼は顔だけは決して傷つけない。気味が悪いくらい母に似た、この顔だけは。シェリダンの背中にはまだ長年鞭打たれた痣が残っているというのに。
シェリダンが王として即位するまで、その忌まわしい行為は続けられた。彼が即位してまず行ったことは、彼をこれまで踏みにじり続けてきた父への復讐だった。
『シェリダン!?』
――シェ……リ……ダ……
衛兵に囲まれた血相を変えた父が発した言葉と、昼間の牢獄で聞いた声が重なる。
うるさい。呼ぶな。お前などが私を呼ぶな。
今までずっと、母にそっくりな私を慰み者として扱い、一度も息子としての名など呼んだことのなかった貴様が、今更「シェリダン」の名を呼ぶな。
後継者としてエヴェルシード王に即位はしたが、シェリダンはジョナス王に息子として愛されたことはなかった。ただひたすら、亡くなった母の代わりに弄ぶ玩具扱いされていただけだった。
母妃が違うという理由でさして交流もなかったきょうだいだが、シェリダンは一度だけ父が異母妹であるカミラに接していたのを見たことがある。王妃であった母たちはすぐに亡くなっても、親子三人で顔を合わせたことはない家族だった。シェリダンはその光景をたまたま目撃しただけだ。
幼いカミラの頭に、父はどう扱っていいのかよくわからないというような、ぎこちなくも優しい仕草で手を置く。妹の頭を撫で、たくましい肩に抱き上げてあやす。十にも満たないカミラが、そうして父の肩で楽しげに笑う。
シェリダンには酷い振る舞いしかしない父が、カミラには優しくしている。彼と妹と、先にお互いを嫌ったのはどちらだと問われれば、それはやはり自分の方なのだろう。異母兄で王位継承者である彼を、元々カミラが嫌っていたのも事実ではあるが。
国民や貴族、兵の大半、誰もがシェリダンは父王に愛されていたのだと見る。だから母親の身分が低くても国を継がされたのだと思っているのだろう。だがそれは違う。シェリダンは父に愛されていたわけではない。
妬ましいのはいつも自分の方だ。カミラ。ただ一人の妹よ。本当に愛されていたのはお前の方だ。お前が私を妬むよりもずっと、私の方がお前を妬んでいるんだ。
どうしても悪夢は追ってくる。シェリダンは父の下で泣きながら喘ぐ。消したくても消せない過去が脳裏に貼り付いて剥がれない。このままではシェリダンは父に踏みにじられるだけの被害者だ。それは嫌だった。
だから、他者を踏みにじる。シェリダンは眠りなどいらない。眠れば悪夢が追ってくる。その代わりに他者を傷つけて傷つけて、心の安定を保とうとする。被害者になるくらいなら加害者でいい。私は全てを踏みにじり叩き壊す、そのためにここにいる。
明け方に目覚めれば、空はまだ薄暗かった。
隣ではまだロゼウスが眠っている。体中に痛々しい痣を散らしながら、その顔は何故か酷く穏やかだ。
そしてその痣をつけた自分は、きっと酷い顔をしている。