荊の墓標 02

010

 昨夜のシェリダンはどこかおかしかった。
 回廊を歩きながらロゼウスは考える。昨日の婚礼の式典を終えて、これからは言い逃れできるはずもなくエヴェルシード王妃として過ごさねばならない。仕立て屋に幾つか作らせ、ローラが見立てて着せてくれたドレス姿で、シアンスレイト城を闊歩する。裾は長いが引きずるほどではなく、足が隠れるから大またで歩いてもそれほど違和感がない。そういう意味ではドレス姿は便利といえるだろうか、ただちょっと早足だと思われているだろうが。
 衣装の上から、昨晩の行為でシェリダンにつけられた痣が残る鎖骨の辺りをさすってみた。赤い痣のついた肌は、軽く触るだけなら痛みはない。そうして傷痕にそっと触れながら、ロゼウスはその時のシェリダンの顔を思い出す。
 どこか思いつめたような、余裕のない、憔悴の一歩手前のような。
 普段なら卑猥な言葉を並べ立てて言葉攻めに饒舌な彼が、昨日は不自然なくらい大人しかった。そういえば、その直前に彼はどこかへ出かけていたようだった。式典が終わったすぐ後で、ロゼウスは婚礼衣装も脱ぐ暇もないぐらいの時間だったが、シェリダンはどこへ出かけていたのだろうか。破られ、汚れた花嫁衣裳を見て今朝方ローラが嘆いていた。これじゃとうてい処分するしかないと。残しておいてどうするのかは知らないが。貴族とか王族と言った人々にはものを大切にする精神が足りないのだと何故かロゼウスが説教された。
 そのローラの説教も半ば無視して、いつも通りシェリダンは執務へと向かった。昨夜のことがあったとはいえ、その顔色が心持ち青ざめて、目元に軽い隈ができていたような気がする。もともとやわらかな肌色をしているエヴェルシード人の中でもあまり健康的な顔色とはいえない彼が、今日はいつにも増して不機嫌そうだった。
 だが、一体何があったのだろうか。考えられる原因としては、せいぜいロゼウスとの結婚ぐらいしか思い浮かばない。だって宰相との腹の探りあいは先日決着がついたはずだし、向こうから言い出した無茶とは言え、普通男を花嫁、それも王国の正妃として迎えるなどと言う人間はいない。実はその裏に壮大な策謀があって、嫌々婚礼まで漕ぎ付けたもののロゼウスのことが嫌いになった、とか。
 それだったらむしろ自分は嬉しい。諸手を挙げて万々歳なのだが。
 だがシェリダンはロゼウスに対してはとくに何も言ってこない。ただ王城内で飼われている動物のように過ごせ、と。放置もいいところだ。しかしそれはそれで楽でもある。シェリダンが一日の執務を終えて戻ってくる夕方までには、寝室へと戻っていればいいのだから。
 普通王城内には王妃専用の部屋が用意されるものだが、ロゼウスがこのシアンスレイト城に来て一月近く経った今も、彼の部屋は用意されないままだった。夜は必ずシェリダンの部屋で過ごすようにと命じられている。同じ部屋で起居するよう決められているので、こうして廊下を歩きながら使用人たちの口から漏れ聞こえる会話を拾う限りでは、エヴェルシード王陛下はさぞやローゼンティアから攫ってきた王女に執心なのだろうと、事実からはかけ離れた噂が広まっている。
 シェリダンがロゼウスに、実際は王女「ロゼ」ではなく、第四王子「ロゼウス」である彼に執心しているなんて事実はない。あの男は、拾った玩具をしばしの間楽しむ子どものように、ロゼウスを痛めつけて遊んでいるだけだ。
 最近ではそれも慣れた。元々故国では実の兄と人には言えないような歪んだ関係を持っていたロゼウスには、シェリダンのすることなど今更驚くほどのことでもない。このまま飽きてそっとしておいてくれれば、それに越したことはない。存在自体が面倒だと殺される可能性もあるが、その時はその時だ。最悪の事態を回避する手札は幾つでもある。
 でも、いまだに「シェリダン」という人物がわからないロゼウスには、ここで歩きながら考えていてもどうしようもない話でもある。
 十七歳で即位した少年王とはいえ、シェリダンはどこか普通の王族とは違う。第一、ロゼウスを正妃として女装させてまで強引に娶ったのは何故なのか。ローゼンティアには王女が六人もいたのに、人質をとるにしても何故わざわざ男であるロゼウスを選んだのか。それがそもそもわからない。
『第四王子よ、民を救いたければ、私のものとなれ』
 そう言われた、初めの時。ロゼウスはてっきり、同性との火遊びの楽しみ方を知っている彼が気まぐれを起こして、自分をひっそりと妾のように囲っていたぶるためにそんなことを言ったのだと思った。早い話が、人間の世界では珍しくもないという玩具奴隷だ。性奴隷と同義語である。
 けれど、いざエヴェルシードに連れてこられてみれば、彼の思惑はロゼウスが想像するよりももっと深いようだった。シェリダンは、ロゼウスを、女装させた王子を正妃にするなどと言い出した。それは一体何を意味するのだろうか。王族にしては珍しく、彼は十七歳にもなって婚約者の一人もいない。たいていは幼い頃にどこかの国の貴族や王族、国内の有力者と婚約を決められるから、それは非常に珍しい。第四王子であるロゼウスにも、一応は婚約者がいた。
 ローゼンティア人は基本的に同族としか結婚しないので、相手は国内の貴族だ。将来は有能な女公爵として名を馳せるだろうと言われていた五つほど年上の才媛だったが……事故ですでに亡くなっている。
 それ以来ロゼウスに婚約話が持ち込まれたことはない。王位継承から程遠い第四王子だったのでそれほど困ることもなかったが、そのロゼウスに比べたらシェリダンは違うはずだ。ただでさえ血族の異様に少ないエヴェルシード王家の、たった二人の異母兄妹。シェリダン、そして妹のカミラ。よっぽどのことがない限り王位はシェリダンの子どもへと渡される。正妃候補どころか妾だって何人いても構わないはずだ。それなのに彼が女を囲っているという噂は聞いたことがない。
 一応シェリダンの妻、それも正妃扱いとなるロゼウスに外の女の噂を聞かせないのも当然なのかもしれないが、念のため侍女のローラに確認したところ、彼は本当に誰も相手にしたことがないのだと言う。昨夜をはじめ今までのことから考えれば誰とも夜を共にしたことがないということだけは絶対にありえないので、どこかで誰かと関係を持ってはいるのだろうが……それでも「恋仲である女性」はただの一人もいないらしい。
 そして、興味深い言葉を聞いた。
『シェリダン陛下は、女性をお相手なさることは決してありませんよ』
 それは一体どういう意味なのだろう。
 ロゼウスは中庭の底辺へと辿り着いた。馨しい花々の香りを聞きながら、薔薇園の四阿へと向かう。
 ローラの言った事を本当に単純にストレートに考えれば、シェリダンは生粋の同性愛者であるということ。その手の道は奥が深いらしく、同性愛者の中には、異性を全く受け付けない者や、全然平気な者、時には同性も異性も気にしない両刀使いといろいろいるらしい。性的対象の特徴ごとに分類できる異常性愛嗜好者の道は複雑に入り組んでいる、のだと思う。
よくよく考えれば多分、ロゼウスの長兄であるドラクル兄上などは両刀、だったのだと思う。あの人はロゼウスのことも相手にしていたが、別に女性も抱いていたらしい。兄上いわく、貴族の嗜みの一つらしいが。
 シェリダンはどうなのだろう。普通にローラといきすぎなくらいじゃれあっているのだから、まさか女性を受け付けないということもないだろう。男でもいける口だというのは何よりもロゼウス自身が証明済みだ。だが、ロゼウスはあの男に抱かれながらいつも考えるのだ。
 彼は一体何を望んでいるのか。
 ただの変態嗜好の延長だけとは考えにくい。肌を合わせ熱を分け合いながら、何を貪ろうとしているのか。いつもいつも、満たされないような顔をして。
 今更になって、ロゼウスはシェリダンのことが気になり始める。上辺だけの夫。ロゼウスから搾取し続ける彼が、何故自分を抱きながらそんな眼をする。
 考え事をしていたら、いつの間にか薔薇園に辿り着いていた。先に訪れていたカミラが、こちらに気づいてぱっとかおを輝かせる。つられて、ロゼウスの口元も綻んだ。
「ロゼ様!」
 この少女と過ごせる時間があるのなら、人質暮らしもそれほど悪くはない。今はそう思ってしまうのだ。

 ◆◆◆◆◆

 ロゼ姫の姿が見えて、カミラは思わず四阿の椅子から腰を上げた。
「ロゼ様!」
 先日をもってカミラの義理の姉上となられた方は、今日も麗しい。彼女の呼ぶ声に気づいて、花が綻ぶように微笑んでくれる。
「カミラ」
 バイロンと共謀した企ては失敗し、あらゆる計画が頓挫している今、カミラの心の慰めはロゼとこうして過ごす時間だけ。薔薇の茂みにドレスの裾を取られないようゆっくりとこちらに歩み寄るその姿に見惚れながら、カミラはこっそりと溜め息をつく。
 昨日の婚礼の式典を持って、彼女は正式にエヴェルシードの王妃、つまりはシェリダン王の妃となった。シェリダンはカミラの兄。だからロゼは兄嫁にあたるのだが、どうもそんな感じがしない。
 いや、カミラがそう感じたくないだけなのだ。確かにロゼは女性にしては豪快でどこか男っぽいところのある人物だが、その仕草の優雅さ、立ち姿に溢れる気品と、王族としての振る舞いに慣れた余裕は確かに王家の姫君のもの。そして何よりこの美しさ。それでもカミラが彼女をシェリダンの妻だと認めたくないのは、カミラがシェリダンを嫌っているからだ。
 この美しく、どこか儚げな風情すら漂う人を、カミラは救うことができない。バイロンに何があったのかまではまだわかっていないけれど、とにかく彼の裏切りによって、婚礼の式典をぶち壊すという計画は始まる前に終ってしまった。
 にこやかに微笑んだロゼが椅子に腰を下ろす。ぎこちなくドレスの裾を治す仕草にも、そこはかとなく上品な感じがする。
 父王にあまり好かれていなかったカミラと違って、一族同士の仲が良好だと有名なローゼンティアで今まで蝶よ花よと育てられたであろうロゼは、それでも文句の一つもなくシェリダンの正妃として収まっている。異国の城で、衣食住こそ足りないものはないが、決して心安くはいられない仇の側で。
 あの男がいくら儚げな美少女だからと言って、他人に優しくするとは思えない。憎いシェリダン。恨めしい兄。城の者たちから聞いた噂では、シェリダンはローゼンティア国民の命を人質にロゼに妻になれと言い出したらしい。心優しい彼女は、その条件を飲んでシアンスレイト城にやってきたというのだ。
 ロゼはその美しさもさることながら、ヴァンピルという人間には理解しがたい異種族だということで常に城の者たちから注目されているし、その中にはシェリダンの行為を忌避して、彼女に同情する声も少なくはない。しかし、シェリダンが自分の懐刀であるシルヴァーニ人の侍女しか彼女に寄せ付けないせいで、誰もこの哀れな姫君に同情の意を示すことができないでいる。
 ロゼは、この城の中で、いや、エヴェルシードにおいて孤独だ。だからこそ、こんな自分とも親しくしてくれるのだ。
 それでも、先日のカミラの誘いを断ってシェリダンの恐ろしさを切々と訴えたことを思えば、彼女に王位簒奪の協力を要請することは難しい。
 カミラはロゼが好きだ。エヴェルシード王家は閉鎖的な家柄だし、国内の貴族はシェリダンの暴挙と幽閉された父上の間でどちらにつこうか人の顔色を窺う狸ばかり。いくら年齢が若くても例外はない。城内の使用人たちもその影響を受けてどこの間諜であるかわからない。そんな有象無象の輩と渡り合うためには、カミラ自身も相手の思惑を正確に読み取ってさらにその上を行くために権謀術数を学ばねばならなかった……。
 生きるために。
 もちろん友人などいない。信じられる人間もいない。カミラはこれまで一人で戦ってきた。だからこれからも一人で戦って行く。周りの人間は全て戦いを有利に進めるための手駒。あらゆる手段で自分の陣営を増やし、戦略を練り、誰にも脅かされない生活を得るための。
 でもいつも不安だった。穏やかな日々、そんなものが本当に得られるのかと。王であったのに位を退いた途端シェリダンに幽閉された父。王に即位したのにこうして自分に簒奪を目論まれているシェリダン。じゃあ、私はどうなるのかしら。シェリダンを殺して王位についても、きっと安らかな日々など訪れることはないのだろう。また国内は幾つかの派閥に分かれて水面下で不穏な緊張を続けることになる。
 誰も信じてはいけない。自分さえも。気を抜けばすぐに奪われるのだから、一瞬でも油断しては駄目。
 そう考えてずっと生きてきた。平民や奴隷は日々の糧を得るためにそれこそ辛い作業に身を入れて働いているのだと言う。王族で生活は完璧に保証されたカミラでも、こうして臆病とすら言えるほど周囲を警戒し、疑いながら生きて行く。カミラは父に愛されていない子どもだったから、安らげる場所などなかった。
 人は誰しも、何かと戦いながら生きて行かねばならないのだろう。そして戦う限り人は孤独なのだ。それでも、戦いを辞められない。
 あの日、この薔薇園でカミラに掴みかかってきたロゼの表情は、追い詰められて張り詰められていた。見えない敵に追い回されてでもいるように、不安と孤独と自嘲と憤怒がひしめいていたわ
 自分と、同じだと思った。
「カミラ?」
 黙りこんだ彼女を不思議に思った様子で、ロゼが少女の名を呼ぶ。カミラは慌てて、手ずから彼女のためにお茶を淹れながら答える。
「すみません。ちょっと考え事をしていて。あの……何のお話でしたっけ?」
 ロゼはカミラの言うことを信じていないようで、銀色の柳眉を顰めて彼女の瞳を覗き込む。柘榴石のように深く、暗い紅の瞳にカミラは自分の胸が高鳴るのを感じた。
 彼女と話していると、いつもこうだ。カミラは熱に浮かされたように、彼女の瞳に囚われてしまう。同性相手にこんな感情を覚えるなんて変だと理性は告げているのに、どうしても振り切れない。願わくは、ロゼがどうかこんな自分を不快に思わないでくれるように。
「カミラ……大丈夫?」
「え?」
「この頃のあなたはどこかおかしいような気がして。どことなく、焦燥しているような。それに……先日もあんなことを言い出して」
「あれは……気の迷いなどではありませんよ。私の本心です」
 カミラはどうあってもシェリダンを殺したい。あんな男、兄だなんて思わない。死んでしまえばそれが一番いいのだ。
「あなたが……シェリダンと不仲であるというお話は聞きました。けれど――」
 ロゼが言いよどむ。この前のように、カミラを諫めるつもりだろう。殺しても殺したりないほど憎い相手だろうにそうまでしてカミラに王位簒奪を諦めさせようというのは、どういうことだろう。
『あなたは、あなたの兄上の恐ろしさを本当には知らないんだ』
 カミラはシェリダンが彼女をどう扱っているのか、詳しくは知らない。彼女以外のローゼンティア王族を皆殺しにしたとは聞いたけれど、それがどんな状況であったかまではわからない。それでも、ロゼの口ぶりから彼女はそれほどまでにシェリダンの暴虐を知っているのだとはわかる。そして、そんな凶悪な男に牙を向こうとするカミラを、説得しようとするのは。
「ロゼ様……」
 あなたは、私のことを庇ってくださっているのですか?
 声には出せない。それでもやわらかな想いが届く。美しい王妃は目を伏せて、カミラはゆっくりと瞬く。
 愛おしさが込み上げる。
 自分はやっぱり、この人を救いたい。
「カミラ、俺は――」
 ロゼが紅唇を小さく開いて何か言いかけて、カミラはそれを聴き取ろうと耳を凝らした。けれどその言葉を聞こうとする寸前になって、ロゼの紅い瞳が剣呑に瞠られた。
「――伏せてっ」
 叫ぶと同時に彼女は立ち上がり、カミラの身体を巻き込んで素早く自分ごと地面に転がる。倒れた彼女たちの頭上を何かが駆け抜け、仰向けになったカミラはロゼの肩越しに幾つもの人影を見る。彼らは一様に顔を隠していたが、その体格から約十人全員が男性だと知れた。
 その中の一人、末端の兵士が使うような無骨な剣を持った男が、覆面越しにくぐもった声で言う。
「この国の安寧のために、死んでいただきましょう。王妹カミラ殿下」