荊の墓標 03

014

 許さない、許さない、許さない、許せない!! 
 カミラは胸中でそう繰り返した。先程見た光景を思い出す。眠るように寝台に横たわったロゼウスの姿。冷たい頬。無機物のようにただ閉じられた瞼。あの麗しい深紅の瞳が隠れ。
 絶対に許さない。
 これまで抱き続けていた兄への殺意がついに堰を破る。カミラはどうあっても、シェリダンを殺す。殺さずにはいられない。
「ロゼウス様…………」
 私室に戻り、くつろぎたいからと人を遠ざけたカミラはその何よりも愛おしい名前を口に出し、いつかの口づけの感触を反芻する。血まみれのドレスは内密に処分させたけれど、カミラが彼によって甦らせられたのは変わらない。他人を生き返らせることができたくらいだもの、ロゼウスはきっと生き返る。 
 それでも、例え生き返ってもどうなるのか。彼を死の淵に貶めた元凶たるシェリダンは側にいる。生き返っても、ロゼウスはこのままでは幸せにはなれない。
 カミラはソファの上から、抱えていたクッションを部屋の隅に投げつける。柔らかな布の塊は気の抜けた音を立てて壁に当たってぽとりと床に落ちる。ああ、何をやっているのか、自分は。こんなことをしても何が解決するわけではない。この苛立ちが解消されるわけではない。
 何とか、しなければ。
 シェリダンに啖呵を切った手前、このまま何もせずに引き下がるなんてのはカミラの柄ではない。それに何よりも、ロゼウスが生き返ったときに、今度こそ自分があの方を解放して差し上げなければ。
 あの日、刺客に襲われた庭園で、カミラを甦らせたロゼウスは自分をローゼンティアの王子だと言った。彼は理由あって、国民の命を守るためにシェリダンに従っているらしい。ではそのシェリダンがいなくなれば、ロゼウスは解放される。
 薔薇の花咲く庭園で、カミラは彼を慕っていることを告げた。胸に満ちて込み上げるこの感情が言葉となってあふれ出し、彼女の口を動かした。
 けれどロゼウスは、ただ淡く、消えそうに儚く微笑んだだけだった……あれは嫌悪でも、カミラをかわすためのものでもなく、そう、強いて言うならば、叶わないと知っている祈りのような。
 彼も少しは彼女のことを気にかけてくれていると思うのは、自分のただの独りよがりで一方的な傲慢か。それでも、ロゼウスはカミラとたびたび会ってくれた。庭園の四阿で、彼女のたわいない話を聞いてくれた。例えカミラの想いとは種類を異にしていても、彼だって彼女を気にかけてくれていたはず。
 でも、あの時、カミラが自分の気持ちを告げたときにロゼウス顔に浮かんだ微笑は、はじまりではなく終わりの予感だった。
 女装して少女と偽り過ごしていたロゼウスの、カミラは真実を知ってしまった。その時にロゼウスの瞳に浮かんだ諦め。正体がばれてしまったから、もう会えないとでも言うような。彼は何を覚悟したのか。
 そもそも、シェリダンは何故ロゼウスに女装などさせていたのか。確かにロゼウスの美しさは人並みはずれているが、ヴァンピルは揃って容貌整った者が多く生まれる一族だと聞く。それに、ロゼウスがローゼンティアの王子だという事は、ローゼンティアの本当の王女とも兄妹だと言う事。一人ぐらいロゼウスに似た姉や妹などいなかったのだろうか。
 ……そのことに関しては、一つだけ心当たりのある噂がある。兄は……シェリダンは筋金入りの同性愛者だというのだ。いや、少なくとも同性を侍らせて遊ぶ趣味も持った人間であることははっきりしている。そうでなければいくら顔立ちが美しいからって、どうして同じ男性であるロゼウスに手を出すのか。その上、正妻にした。お飾りの妃ならいくらでも代わりはいる、どうとだってできるものを。
 我が兄ながら、呆れたものだ。半分とはいえあんな男とこの自分の血が繋がっているなんて信じられないし認めたくない。それはともかく、シェリダンは決して女性を愛さないと言う事だ。双子人形、とあだ名されるシルヴァーニ人金髪の姉弟を重用するのは、弟の方と関係があるからではないかと言われていたこともある。
 その推測を裏付ける証拠として、双子の姉の方を自分の侍従の妻に無理矢理させたということがあるらしい。気に入ったのなら自分で手付きにしてしまえばよかったのではないか、と。……とは言っても確かシェリダンがあの双子を拾ってきたのは五年前で、さすがに十二歳からその趣味はどうかとも思うが。
 とにかく、陰で噂するものは後を絶たない。あれは弟を小姓として雇い入れる口実に姉のほうを侍従の小姓としたのだと。エヴェルシードはいまだ古臭い奴隷制度が残る国だけれど、玩具奴隷は表向きには禁止されている。それでも裏で不正に人身売買に手を出す腐った貴族などがいるからこの国にもそう呼ばれる者がいるわけだが。
 そして、シェリダンの行動を異常だと裏付ける最たるものが、ロゼウスを正室へと迎えたことだ。今は誰にも嗅ぎ付けられてはいないことだろうけれど、このことを公表すればシェリダンは当然、失脚となるだろう。公表できれば、の話。恐らくそうする前にもみ消される。この国の最高権力者はシェリダン自身なのだから。
 それに、ロゼウスもそのことは望んでいないらしい。確かに王子が女装して隣国の王の妃になったなどと、大っぴらに話せることではない。しかも、ロゼウス自身はローゼンティア国民の命を握られていて何もすることができない。バイロンも牢に入れられて、ようやく出てきたけれど今までとは手のひらを返してシェリダンの陣営についた。では、シェリダンを追い落とすには神らにはどんな手が残っているというのだろう。
 誰か、シェリダンの進退に影響を及ぼせるほどの人物――。
「……父上」
 カミラは重要な人物を思い出した。いまだシェリダンに幽閉されたまま行方不明の父、先王ジョナス。彼はまだ見つかっていない。
「そうよ、父上への待遇を盾にすれば、シェリダンだって……」
 親殺しは大罪だ。それ自体はただの殺人と同じだが、少なくとも国民への影響は大きい。先王ジョナスは凡愚な王ではあったが、苛烈な気性を持つ王が多いエヴェルシードは比較的穏やかな人物として知られていた。第二王妃ヴァージニアのことを除けば、民から恨みを買うようなことはなかったはず。
 その王へシェリダンが虐待などを加えていることがあれば……少なくともあるのだろう。わかりやすく監禁するだけならともかく、幽閉してしかもその居場所を誰にも知られないようにしているのだから。それはつまり、ジョナス王に復権されるのが怖いというだけではなく、あの父を人前に出せない理由があるということ。いくら幽閉されているからと言って、先日のシェリダン王とロゼ王妃の婚礼、にも父の姿はなかった。
 父は今どうしているのだろう。カミラにはほとんど構ってくれなかった父親だが、それでも思慕の情はある。シェリダンほどではないが、カミラも幼い頃に母親を亡くして、親といえばずっと父だけだった。幼かった彼女の頭を不器用になでる父の温もりを思い出す。
 カミラは小さい頃、ただひたすらシェリダンが羨ましかった。彼女とは違い、四六時中父の側にいて、父に習い、父に愛されていたシェリダンが。この羨望と嫉妬が、殺意に変わったのはいつだったのだろう……。
 ――そうだ。
 シェリダンに母のことを馬鹿にされたときだ。お前はお前の母親が、どれだけ劣悪で愚鈍な女だと知っているのか、と。
 カミラの母、第一王妃のミナハークは確かに嫉妬深い女だった。シェリダンの母親である第二王妃で市井上がりのヴァージニアに対してはいつも冷たかったらしい。そもそもヴァージニア第二王妃はカミラが生まれる前に亡くなったのだから人伝えに話を聞いただけではあるが。
 だからと言って、人の母を侮辱していい理由にはならないだろう。
 あれから、カミラはシェリダンが嫌いになった。シェリダンからそれを言われた頃には、すでに母は亡くなっていたのだ。
 死んだ人を侮辱する発言に彼女は怒り、シェリダンに殴りかかって、大暴れしたのだった……思い出したくもない。その後、父にとても怒られた。
 エヴェルシードでは死者はとても大切にされるべきもの。それを思わないシェリダンは、一部の宗教家からは嫌われている。
 でもそんなことは今はいい。今から国内の反王権派に手を回すにしても時間がかかりすぎる。バイロンが登城してきて、さらにシェリダンの味方についたからには、もはや一刻の猶予もない。
 カミラは部屋の外へと出た。その辺にいた、手近な侍女を捕まえて話を聞く。
「ねぇ、最近兄上について何か変わったことはない?」
「陛下、ですか? ここ三日ほどお部屋に篭もりきりらしいですが……」
「それじゃなくて。それ以外で、ここ何ヶ月か、何か変わったことをしているとかないかしら?」
 カミラが話しかけてあからさまに嫌な顔をするのはローラとかいうあのシェリダンの手駒の双子の姉、金髪小娘だけだ。大抵エヴェルシード人は簡単な口実でたやすく口を割ってくれる。カミラはこう言った。
「父上のことが知りたいのよ。シェリダンが何をしたのか知らないかしら。今どうなさっているのか、本当に気になるわ」
 その侍女は困ったような顔をしながら、それでも躊躇いがちに告げた。ほらね、親に対する不孝は、この国では重罪。
「そういえば、シェリダン様が何度か先王陛下の部屋に足を運ばれているのを見たというものがいますけれど」
「父上の部屋に?」
 初耳だった。自分で幽閉しておいて、主のいない部屋に行くこともないだろう……でも、待って。そう、そういうことなのね。
「ありがとう。もういいわ」
 侍女を放して、カミラは父の部屋へと向かう。
 カミラは前々から、シェリダンが父を監禁するような場所があるとしたら、どこか自分の眼の届く範囲だろうと考えていた。いくら探しても見つからない場所。カミラの手下の者たちが用意には探せない場所。
 さらに、王族の私室には隠し部屋が付き物だ。シェリダンは王位を継いだのだから国王である父の部屋へ移動するのが普通なのに、今も王太子時代の部屋で起居している。あのシェリダンなら何をやってもおかしくはないと今までは深く考えていなかったけれど、それが理由あってのことなら。
 こんな簡単なことに気づかなかったなんて。
 カミラは、急ぎ足で父王の部屋へと向かった。

 ◆◆◆◆◆

 美しい人形のようなそれが、眠る様は蝋人形がただ横たわっているようだった。
 カミラの言うとおり、屍となったロゼウスの頬は冷たく、唇から呼気が漏れることはない。あの瞬間、苦痛に喘ぐこともなくそっと閉じられた瞼は、今は硬く瞑られている。
 シェリダンはただその寝台の隣に椅子を寄せて座り、それが目覚めるのをひたすらに待ち続けている。
 身体を清め、衣装を着せ替えた。寝台も整え、そこに横たえてもう三日になる。
 シェリダンが作った傷はとうに癒えている。ヴァンピルという存在は謎に満ちていて、どういう原理なのか心臓の止まった身体でも、死に至った傷さえ治ってしまった。
 それでも、ロゼウスは目を覚まさない。
 眠るように横たわり続けている。死体と言うにはあまりにも美しく、人と呼ぶにはあまりにも儚い面影。シェリダンたちエヴェルシードの民から見れば奇異な深紅の瞳は瞼の奥に隠されて見えない。
 あの瞳……深く、暗い血の色。人体の仕組みなど興味はない。けれど人の身体を流れる血というもの、あの色にだけは興味を引かれる。
 誰が言った言葉だったか、赤は生命の色だと。
 ロゼウスの瞳は、シェリダンの思い描いた生命そのもの。美しく醜い、冷たくて熱い、人の欲と希望を湛え、傷つきながらも折れない魂。
 けれどそれは今、滑らかな瞼の下に隠れている。隠したのは――自分自身だ。
 シェリダンにこれを願う資格はない。その瞳がもう一度見たいなど。その声がもう一度聴きたいなどと。そしてその肌を、もう一度抱きしめたいと。
 それでも傍らで待ち続ける。ローラを泣かせ、エチエンヌに罵られ、リチャードに宥められても心は変わらない。私室に閉じこもり食事すら満足に取らず、執務は一週間分ほど終えたが、その間にロゼウスが目覚めなかったらどうするのか。
 何も考え付かない。この時間が永遠に続くような気がする。
 そしてシェリダンは一生、この目覚めない荊姫の眠るかんばせを望みながら終るのか。
「……愚かだな、私は」
 ついに焼きが回ったか。今まで、何のためにここに来たのか。
 先程カミラが乗り込んできた。いつの間にかシェリダンが考えるよりもロゼウスと親しくなっていたらしい。カミラはロゼウスが男であることも、ローゼンティアの王子であることも知っていた。いつから、どのような仲なのか。問いかけたい相手はカミラではない。カミラの態度を見ればそちらの方はわかる。妹はロゼウスに、このローゼンティアの王子に恋をしていた。シェリダンと同じとは言わないが似ている妹は、常々他人を道具としか思っていない人間のはずだった。それがどうしてロゼウスを気に入るにいたったのか、知りたいとは思う。
 彼女は宣言した。この国もロゼウスも、必ず奪うと。そしてロゼウスは必ず目覚めると信じて疑わないようだった。
 リチャードとエチエンヌは外で仕事に励んでおり、ローラには使いを頼んでいる。今この部屋にはシェリダン自身と横たわるロゼウスの屍だけ。
 この一ヶ月、この部屋にはいつもロゼウスがいた。華奢な身体と女顔にやけに似合うドレス姿で、ローラと話し込んだり、手持ち無沙汰にエヴェルシードの書物を紐解きながら。シェリダンの顔を見ると、喜ぶでもなく、怒るでもなく振り返る。気安い相手と話すように、この城で長く彼を知っている誰よりも自然体で。
 その身体を抱くたびに言いようのない寒々しさも感じたけれど、共に眠る夜は悪夢を見ずに済んだ。シェリダンを避けて一言も口を利かないことだってできたはずなのに、他愛のない話を重ねた。
 けれど。
 ――俺はあんたのことを、愛してなんかいない。これからもずっと、愛したりしない。
 あの冷ややかな瞳。炎の色をした瞳が向ける氷の刃。そしてシェリダンは知る。
 また叶わない。絶対に届かない。見えない檻が自分を阻む。荊の棘が伸ばした指先を突き刺して遠ざける。
 それは永遠の拒絶。
「どうしてだ……っ」
 シェリダンは椅子を蹴倒した。立ち上がって拳を握り締め、唇を噛む。寝台の上に上がり、眠るロゼウスの身体をまたいでのしかかる。
 その顔を覗き込むようにして、両脇に手をつく。
「どうして、お前までもが私を拒む!?」
 いや、わかっているはずだ。自分と彼の立場を考えれば。シェリダンはロゼウスから故国を奪い、大半が蘇生したとはいえ家族を奪った。国民を人質に脅迫して陵辱した。拷問した。女装させて妃として振舞わせる恥辱を与えた。――殺した。
 なのに、こんなにもまだ、彼の瞳を見たいと願っている。
 自らで殺しておきながら、シェリダンはその事実を上手く受け入れられない。自分を愛さないとロゼウスが言った時、殺意が湧いたのは事実。だが、今は愛してくれとは言わないから、憎んでいてもいいから、ただ生きていて欲しいと願う。
 笑い話だ。なんて滑稽なんだ。彼は彼を嘲笑う。あの日ロゼウスがシェリダンを嗤ったように。
「……起きろ」
 お前の瞳が見たい。お前の声が聴きたい。お前の肌に触れたい。お前と言葉を交わしたい。
「起きろ、ロゼウス」
 お前の瞳にもう一度、私の姿を映して欲しい。その後はどうなっても構わないから。罵り蔑み唾を吐き、私を憎み呪えばいい。
「だから」
 目覚めろ、ロゼウス。
 肩の力を抜いて、顔を下げた。眠る屍の冷たい唇に触れる。
 性的な欲求も同性を攻める背徳感も相手をねじ伏せる嗜虐もなにもない、万感の想いだけがこもった口づけ。
 永遠とも思われるような一瞬が過ぎる。
 冷え切って体温が戻りきらない指先に頬を包まれた。シェリダンは両膝の力も抜き、ロゼウスの身体の上にのしかかる。
「…………何、泣いてるの、シェリダン」
「うるさい」
 甘い掠れ声で呟くロゼウスに指摘されて、シェリダンは初めて自らの頬を濡らすものに気づく。気づいてしまえば後から後から溢れるそれを止めることもできずに、声を押し殺してただ滲む視界が元に戻るまでシーツの上に目元を押し付けて待った。
 シェリダンの背に腕を回したロゼウスがそっと吐息して。
「……あんたが、俺を起こしたんだな」
 殺したのも私。
 まだ夢見心地と言った表情でロゼウスは恍惚と微笑む。
「あんたの身体あったかい」
 抱き合うというより、じゃれつくようにただ不器用に手足を絡めて相手の体温を感じあう。長い間血の通わなかったロゼウスの身体がシェリダンの熱を奪ってほんのりと温まっていく。
「このまま目覚めないかと思った」
 思わず口をついて出たシェリダンの本音を聴き取り、ロゼウスがシェリダンを抱きしめたまま小さく苦笑する。
「そうかもな。このまま……目覚めない方が幸せだったんだろうな」
 シェリダンの孤独など彼には関係ない。それはロゼウスのせいではない。ロゼウスを巻き込んだのはシェリダンのエゴであり、ロゼウスが悪いわけではない。彼の選択は当然のものであり、シェリダンへの裏切りなどに心を痛める筋合いはない。
 それでも。
「でも、あんたは呼んだだろう、俺を」
「――ああ」
「だから目を覚ましたんだ」
「……ああ」
 シェリダンはロゼウスの身体にしがみつく腕に、力を込める。再び顔を上げて、深紅の瞳を見つめた。そして二人同時にすっと目を閉じる。
 二度目に重ね合わせた唇は、ただ柔らかで暖かだった。

 ◆◆◆◆◆

 シェリダンに幽閉されているはずの父を探して、カミラは代々の国王が住まう部屋へと足を運んだ。使われている部屋でもないのに見張りがいるのはおかしい。扉の前に立ったカミラを、どこからか現れた二人の兵士が止める。シェリダンはこっそりと気づかれないようにこの部屋を警備するよう命じていたらしい。
 その兵士二人を適当な理由をでっち上げて遠ざけ、カミラ部屋の中に足を踏み入れる。見張りの兵がやけにあっさり引いたのは気になったけれど、細かいことにかかずらっている暇はない。
 一刻も早く、父上を解放してシェリダンの王位を奪わねば。彼女の頭にあるのはそれだけだった。とにかく譲位を決めたとはいえ、この国でシェリダンに意見できるような人間は父しかいない。反王権派の者たちはカミラをはじめ、どうも立場が弱いものばかりだ。密に頭目として期待されていたバイロンはシェリダンの側に寝返った、もう猶予はない。
 カミラは豪奢な部屋の中を見渡す。父の部屋。代々の国王の起居する部屋。衣装は侍従が持ち運んで来るし食事も別の部屋で取る、本当にただ寝るだけの部屋だけれど、王族の城は無駄に豪華だ。十六年間この城で育ったカミラでさえそう思うのだ。そんな余裕があるなら他のことに使えばいいのにとも。あまりに質素だと他の国や諸侯たちに示しがつかなくなるから、ある程度華美であることも必要だとはいえ、寝室をこれだけ飾り付けて何の意味があるのだろうか。
 それはともかく、カミラは部屋の中を探る。壁にかけられた絵画をひっくり返して裏を見たり、棚の上の染付けの壺を動かしてみたり。寝台の下を覗き込んだり。もちろん収穫はない。人を隠せそうなスペースは勿論、そのような隠し部屋に繋がるような扉も何も。
「ない……おかしいわ。ここでなかったらシェリダンはどこに父上を隠しているというの?」
 困り果てたカミラは寝台に腰掛け、思わず天井を仰ぐ。見張りに鼻薬を嗅がせたとはいえここは代々の王の部屋であるから、勝手に入り込んだことがシェリダンに知られたらどうなるかわかったものではない。カミラは細心の注意で持って部屋を捜索し、寝台に腰掛けるのにも気を遣った。弾力のある羽毛布団はよっぽどでなければ皺を残さない。そうして仰のいて天蓋の中心を眺めていた彼女は、あるものに気づいた。
「何……あれ」
 天蓋の隙間から不自然に垂れ下がった、微妙に色の違う布。カミラは寝台の上に乗り、高い位置にあるそれに手を伸ばして触れた。思い切り引くが、紐はびくともしない。覚悟を決めてありったけの力を込めると、光沢のある布はこちらの予想に反して千切れることもなく下へと今までの倍の長さで垂れ下がった。
 続いて、カチリとどこかで音がする。
「え?」
 幾つかの仕掛けが動き始めたらしく、部屋の中にあるものが勝手に動き出す。カミラが驚きながらそれを眺めていると、やがて全ての変化はそれまで何もないと思われていた壁へと収束する。
 音が消えてシンと静まりかえった部屋の中、カミラはこれまで何もなかった……そして今も傍目には何もないように見える壁へと注目する。思い切って中心に手をつくと、ぐにゃりと歪んだ。生成りの壁紙の裏は、空洞になっていた。先程確かめた時には確かに冷たい石の感触がしていたのに。
 しゃがみ込んで下から壁紙を持ち上げると、呆気なく動いて、それは隠し部屋への入り口を晒した。
「こんなところがあったなんて……」
 入り口は闇に閉ざされているようで、奥の方は何も見えない。カミラは恐る恐る、その闇へと足を踏み入れた。