荊の墓標 03

016

 ローゼンティア王家の墓地は、《風の故郷》といった。この国は違う。
「……エヴェルシードは?」
「《焔の最果て》」
 国ごとに墓所の名は決まっている。エヴェルシードは、炎の国か。
 カミラの遺体は兄であり国王でもあるはずのシェリダンには預けられなかった。血まみれの部屋で号泣する侍女の説明によれば、カミラの遺言であったという。どうしてもシェリダンにだけは触られたくないと、死んでも。
 遺体のない葬儀はしめやかに行われ、溢れるほどの薔薇を敷き詰めた柩が燃やされて灰を収めた骨壷が墓所へと辿り着く。カミラが殺したという父王の葬儀も合わせて行われたが、それはどこか鏡の中の映像めいて現実感が乏しかった。ロゼウスはこの国の先代王という人がどんな人間だったのか知らない。話で聞いただけだ。
 形ばかりの式が終わっても、喪服姿のシェリダンとロゼウスは、エヴェルシード王族の墓地を動かなかった。ローゼンティアと違って風の吹かない、ただ、ただ、静かなこの場所で。
 中身のない虚ろな墓碑を眺めながらシェリダンは俯いて佇んでいる。
 妹を死に追いやった、異腹とはいえ実の兄の心境は。
「俺たちが殺した」
 そしてそれはロゼウスも同罪なのだと。
「私、だ。お前だけならあれは喜びこそすれ、死を選ぶことなどしなかっただろう。あれがそこまで厭い憎んだのはただ私のみ」
 無表情。陶器の人形じみたその顔を、ロゼウスは知っていた。あの日の夜も、彼は同じ表情を浮かべながら妹姫を抱いた。たまに浮かべる笑みはどこかいびつに歪んでいて、今にも壊れそうな。
 ロゼウスと夜を過ごす時の嗜虐的な快楽に溺れる、傲慢で冷酷な男の顔とは違う。
「なあ、シェリダン」
 そしてロゼウスは気づいてしまった。
「あんたは、カミラが好きだったんだな」
 恋、とは呼べない、許されない想い。
 それでも、それを抱く本人にとっては、何より大切な。
 ロゼウスにも覚えのある感情だ。だからわかる。
 シェリダンはずっと、恐らくロゼウスが彼女を知るずっとずっと昔から、カミラが好きだったのだ。
「だとしたら、どうする?」
 あの日、彼は彼女の耳元で囁いた。
 ロゼウスはその言葉を覚えている。
 ――私の子を産め。
 蚊の鳴くような囁きで、シェリダンはカミラにそう望んだ。取引と言う名の願いは思考の余地もなく拒絶され、後にはただ無体を強いたという現実だけが残ったけれど。
 どれほどの想いで彼がこれを口にしたのか。
「私を蔑むか? 実の妹に邪恋を抱き、ただ傷つけ死にまで追いやった。愚かで邪悪だと罵るか?」
「……そんなことはしない。それに、あんたの行為に加担した俺も同罪だ」
 そして自分に好意を持ってくれている少女を裏切った、ロゼウスの方が罪は重いのかもしれない。カミラの心を砕いたのは、シェリダンの非道よりも、ロゼウスの裏切り。
 罪悪感。でもそれ以上に、ロゼウスはあの可哀想な少女を犯して喜んでいたのだから。焦がれる想いは彼と同じで、だからシェリダンを止められなかった。
 荊の道だと知りながら。
「俺はあんたの想いを知っていて、それでいてあんたを止めなかった」
「残酷だな、ロゼウス。私よりもよほど……・・」
 人は、裸足を傷だらけにしながら荊の海をわたろうとする。そして十分に傷ついて、後戻りのできない海の途中で思い知るのだ。
 また叶わない。
 絶対に届かない。
 永遠の、拒絶。
 カミラを犯して手に入れた悦楽は一瞬自分たちを幸せにしても、本当の意味で幸福にはしない。それは所詮仮初めの幸福に過ぎないのだ。
 そして後にはただ虚ろな胸の暗黒を広げていく。
「シェリダン……。シェリダン=ヴラド=エヴェルシード」
 ロゼウスは彼の隣ではなく、一歩後ろに下がって立ちその背中を眺めていた。ロゼウスより頭半分分背の高い喪服の後姿はいつものように凛としているのに、いつもより寂しげでどこか儚げだ。
 この男は仇、この男は敵、この男は憎むべき相手。ロゼウスは自らに言い聞かせる。
 ローゼンティアを侵略し、国土を奪い取った。復活できる可能性があったとはいえ、家族をことごとく殺して苦痛を味わわせた。ロゼウスを攫い、恥辱を与えて踏み躙った。
 けれど。
「あなたに聞きたいことがある。どうして俺を選んだ。数多いローゼンティアの王家の中から、どうして俺を妃にした」
 ロゼウスは十三人兄妹のほぼ真ん中にあたる。もっと美しい姉や妹、理知的で有能な兄や弟が多くいて、特に取り柄もない第四王子。
 何故、自分でなければならなかったのか。
 愛されていたわけではない、当然の如く。痛めつけて素直に泣く生娘でもあるまいし、相手をして楽しかっただろうと思われる場面は一つもない。彼が愛した妹姫とも似ていない。
「お前は、我が墓標」
 そしてロゼウスに背を向けて立つ少年王が零したのは不思議な言葉だった。
「私は、お前と共に生きたいわけではない。カミラにも、未来を共に過ごすことを心から望んだわけではなかった……私が求めたのは死出の道連れ」
 生きて熱を持つ肌と鼓動を打つ心臓、すらりと伸びた四肢と美しいかんばせ、青嵐が草を撫ぜるような清かな声と吐息を漏らす唇、燃え盛る朱金の瞳から不穏な単語を聞く。
 ああやはり。
「……あなたの、望みは」
 彼は自分と同じ瞳をしている。
「この世の絶望」
 我が身の破滅。
「認められるわけがないだろう、この自分も。この国も。私は私を成した父を認めてはいないのだから。蝮のように母の腹を食い破る代わりに心を食い破って生まれてきた私が、どうして明日を望める? 私は……」
 生まれてきてはいけなかったのに。
「……父上は、私を見ていたわけではない。私の中の母の面影を追い求めていた、だけだ」
 シェリダン=ヴラド=エヴェルシードを誰も必要とはしない。
 父を呪い、顔も知らぬ母を慕い、それ故にまた父を憎む。踏み躙られるたびに募る怒りと憎しみと殺意。
「母は父を呪っていた。私が生まれる前からずっと。父もこの国の王位も、この国も。全てを憎む女の腹から生まれた私の辿る道もやはり憎しみだけだ」
 全てが憎くて仕方がない。今では動機と感情のどちらが先立ったのかもわからぬほどに。
「そして全てを滅ぼすんだな」
 この国も、この国の王族も――自分自身さえも。全てを焼き尽くしやがては灰の墓所を作る。そのためだけに彼はある。
「だから私は、女を抱かない」
 唯一愛した妹姫が、最初で最後。
「私が欲したのは、子を成し、日々を紡ぎ、未来を望むための妻ではない。孤独に慣れ憎悪に親しみ、絶望を孕んで破滅を望む――だから、お前がいい」
 堕ちていく。どこまでも、どこまでも、どこまでも。この世の果て、憎悪の焔の最果てまで。
 ロゼウスは自分の目元が潤むのがわかった。止める間もなく涙は流れ、頬を伝って顎を濡らす。半分ほど滲みぼやけた視界の向こうに見える背中に手を伸ばし、腕を回して抱きしめた。
「あんたたち人間の方が、俺たちヴァンピルよりよっぽど吸血鬼みたいだ」
 間違いなく自分よりも暖かいはずの体を抱きしめながら、そんなことを言った。

 人は人を、貶め、傷つけ、苛んで喰らい合う。
 血を啜り肉を剥いで臓物を食みながら歓喜に歪むその表情はまるで魔物。
 ロゼウスたちとまるで変わらない。吸血の――

 シェリダンの背中越しにロゼウスは彼の眼差しの先にあるものを見ていた。
 それはロゼウスがこれまで望んでいたものと、寸分違わず同じものだったのだろう。
 毒に浸され狂った思考の産物、そして無我夢中で伸ばした指先が手繰り寄せるのは。
 
 蜜よりも甘い破滅。

 誰よりもそれを望んでいたのは自分だった。
 だから。

「俺はあんたを愛したりしない。一生、好きにはならない」
 それでも、同じ罪を分け合った共犯者だ。
「堕ちていこう、一緒に」
 どこまでも、どこまでも、どこまでも。

 ◆◆◆◆◆

 私は、死ぬはずだった。

 シェリダンの寝室から追い出されまろぶように自室に戻ってしばらくは、カミラは放心状態だった。どろどろに汚れた体を洗い流す気力もなく、ソファに身を投げ出してきしきしと痛む自分の体を抱きしめた。
 痛かった。どこもかしこも。
 ばらばらに砕けそうな心、も……。
「ロゼ様……ロゼウス様……」
 荒れてかさかさに乾いた唇から漏れる声は自分のものではないように掠れしゃがれていた。さんざんに喘がされ泣き叫んだ、結果。わかっているけれど切ない。自分の零す彼の名前さえ、罅割れていくようで。
 見たくもなかった光景が鮮やかに蘇る。目を逸らしたくなる幻影が浮かぶ。囁くのは悪魔じみた兄の声。彼女の体にはまだあの男の汚らわしい体液が残っている。
『お前の愛した男は、我が妻にして我が奴隷。これは私の言う事を何でも聞く玩具。その様を存分に眺めていればいい』
 一字一句違わず思い出してしまう自分が憎い。聴きたくない見たくない、感じたくない、何も。
 彼女に優しく触れたロゼウスの手はシェリダンによって引き剥がされ、カミラはよりにもよって、この世で最も憎んでいる男に犯された。処女を奪われた。けれどそれ以上に彼女が胸を痛めたのは。
 乱暴に髪を掴んで無理矢理ロゼウスの顔を自分の元へと近づけて奉仕させるシェリダン。それに、従うあの人の姿。伸ばされた舌、零れて頬を伝う白濁の……。
 新雪のような白い肌に、シェリダンの手で赤い痣が施されていく。カミラの目の前で、甚振られ快楽に溺れ、嬌声を上げるロゼウスの……。
「あ、あああ、あ……」
 思い返してまた涙が溢れる。自分が犯されたことより何より、カミラは、ロゼウスを弄ぶシェリダンが許せない。
 まさか相手がシェリダンだとは予想もしていなかったが、犯されることぐらい、覚悟していた。いつかは、と。エヴェルシードだって無敵の安閑の大国ではないのだから、戦に負ければ他国に蹂躙される。敗国の王族の立場などあってなきもので、何をされるかわからないのだから。王女としてそのくらいの覚悟はついていた。まったく予想外の形で来たから驚きはしたし、片親だけとはいえ実の兄妹で交わる日が来ようなど夢にも思わなかったけれど。
 それよりも、ロゼウスを抱くシェリダンの姿に怒りを覚えた。無理矢理足を開かせて貫く、無体な好意に吐き気がするほどの嫌悪を感じた。
 でも、だからと言って自分に何ができるのか。
 自分の無力さはこれで証明された。ロゼウスは十人からの刺客を相手に大立ち回りを苦もなくこなすのに、カミラはシェリダン一人にさえ敵わなかった。この腕の弱さ。どうして私は女として生まれたの? お母さま、お父さま、ごめんなさい。私が殺した父上。
 何もかもが嫌になる。唯一見出した救いすらシェリダンに奪われて。
「もう……私には何もない」
 だから毒を呷った。
 王族、特に女性の部屋には毒が常備されている。
 いざ危険に晒された時、屈辱を味わう前に死ねるようにと。その場所は代々の部屋の持ち主しか知らず、もしもあの時、シェリダンの部屋ではなくこの部屋であったなら、彼女は迷いなくそれを呷っただろう。
 今では何もかも手遅れだけれど。
 手遅れだと、そう思ったのに。
「な、ぜ……」
 焼け付くように熱い喉から大量の血を吐いたカミラは、自らの顎から胸にかけてを濡らしたその液体を凝視する。血の中心には濁った黒い染みがあって、それこそが今しがた含んだ毒だとわかる。
 なのに、何故死なない。
 それどころか、一度痛んだ喉ですらすぐに癒えようとでもしているように、だんだん痛みが消えて楽になってくる。
 問題があるとすればただ一つ。酷く、喉が渇くことだけ。血を吐いたから口を漱ぎたい、貼り付いた舌をはがしすっきりしたい、というのではない。何か飲み物で喉を潤したいという欲求。それも、求めるのは透き通ったお茶や水、甘い果実水ではなく。
 今しがた吐き出したような、生き物の血。これではまるで、吸血鬼にでもなったような――。
 そこまで考えてようやくカミラは気づく。
 ここのところばたばたしていて、つい先程まで大変な目にあって、半ば忘れかけていた事実。
 ほんの数日前、自分は一度死んだのだ。そして甦らせられたのだ。ロゼウスに。
 ヴァンピルの力でもって。
「ま、さか……」
 もしやこの身は、もはや人間ではないというの――?
 カミラは呆然とし、視線を落として胸元を染める血の染みを見る。相変わらず喉は渇いているけれど、致死量の毒を飲み干してなんともないこの身体。これが何よりの証ではないのか。
 ――古のヴァンピルの血よ、ロゼウス=ローゼンティアの言葉に従い、目を覚ませ。この者に、新たな命を――。
 血の味の口づけ。
 彼が自分に何をしたのかは、わからない。今もよくわかってはいない。
 彼女はただ現実を知るだけ。
「あ、は。あはははははははは」
 心の中で、何かがふれてしまったらしい。
 壊れたように嗤うカミラの声に気づいたのか、遠慮がちな声がして、部屋に一人の侍女が入ってきた。ちょうどよい、とカミラはその娘に声をかける。彼女のあられもなく乱れた姿と大量の血を見て息を飲んだその娘は、カミラの言う事を難なく受け入れて――。

 ◆◆◆◆◆

 そうして、カミラは今、城の外にいる。
 侍女を言いくるめて死んだことにし、シアンスレイト城を抜け出した。信頼できる数人の部下だけを使って王都の片隅まで案内させた。そこからはさらに部下を減らして、身の回りの警護は常に一人だけにする。
「いいのですか、殿下?」
 夜の中、カミラの先に立って道を歩く侍従は不安そうな顔を隠しもせず、何度も何度も繰り返し彼女に確かめた。
「いいのよ」
 そしてカミラは、何度も何度もそう答を返す。最後まで見送りに来たその侍従と別れるまでそれは続いた。
 考えてみなさい、カミラ=エヴェルシード。
 これはチャンスだと思わない?
 理由はどうであれ、自分はまだ生きている。不死の魔物であるヴァンピルほどとは言わないが、限りなくそれに近い体をもって。
 王城では安心できない。あのまま留まればシェリダンに何をされるかわからない。あの男の取引を飲むのは言語道断であり、父王殺しの容疑で処刑されるのも御免だ。
 だから今は逃げる。そして必ずまたこの城へと帰ってくる。その時はもっと強力な手駒を伴い、確実にシェリダンを打ち負かせるだけの実力を持って。
 込み上げる怒りは凝って憎悪となる。それはふつふつと簡単に滾っては冷める湯ではなく、なにものをも焼き尽くす死のマグマのような強い感情。殺意よりも強い存在否定。殺したくて殺さなければならなくて彼を殺す以外にもはや自分の道はない。苦痛を与える? 王位を奪う? そんなことは二の次だ。カミラはただシェリダンが憎くて仕方がない。一分でも一秒でも長くその存在をこの世界に許してはおけない。今この場から去るのは、より確実にその息の根を止める実力をつけるためだ。不死の魔物でさえ甦ることのない永劫の地獄に彼を突き落とすためだ。
「見ていなさい、シェリダン」
 あの男をもう兄とは呼ばない。
「いつか、必ず殺してあげる」
 あれは悪魔だ、人間の姿をした悪魔。
 そしてその悪魔の隣には、この世の何よりも美しい魔物が佇み寄り添っている。
 彼女はその血の色の瞳に焦がれ。
「愛していますわ、ロゼウス様」
 立ち止まり唇を動かす。吐息だけでそう告げると、枯れ果てたと思った涙がまた一滴頬を滑った。
 けれどそれはすぐに顎から滴り落ちて、頬は引きつり笑みを形づくる。
 愛していますわ。ロゼウス様。お慕いしています。心から。
「けれど誰よりも、あなたが憎い――」
 私を抱いたくせに、その余韻も消え去らぬ内にシェリダンのものとなったあなたが。
 そしてそれでも、愛している。だから。
「今度は絶対に離さない。シェリダンからあなたを奪ってみせる――」
 月のない夜にカミラは宣言する。饐えた匂いのする路地裏、惨めな身なりをしていても。
 這い上がる。このまま終ってなるものか。
 毒ぐらいでは死ねなかった。心臓を貫いたらさすがに死ぬのだろうか。けれどそれは、ここから這い上がりよじ登り血を流して辿り着いた先のこと。
 シェリダン。
 そしてロゼウス。
「あなたたちを、道連れに」
 殺しても殺しても甦る悪魔なら、死ぬまで何度も殺すまで。自分は無限の命を手に入れたのだから。その命を、一生彼らへの復讐に費やすのだと決めたのだから。
 彼女を踏みにじった、かつて兄と呼んでいた憎い男と、彼女を裏切った、この世で最も愛しい人へと。

「私は、堕ちていく――」

 だからあなたたちもここへと来て……。
 この暗い闇の底へと。

 《続く》